◇颱風少年

第一話 少年現る

一、

 空を流れるよどんだ雲は足早に過ぎていく。
 その切れ間から、真っ青な空が覗く。だが、清々しさは全く無い。ジメッとした湿気を孕んだ嫌な空気。そいつが、これから来る嵐を予感させる。
 夏から秋に来る猛烈な嵐。それを「台風」と呼ぶようになって、どのくらい経つのだろうか。天気図に現れるそれは、まさに、生き物のように扱われる。
 秋の実りを全部、持って行くこともあるし、多大な災害をもたらすこともある。
 大型の台風なら、上陸しなくても、ある程度の雨風の影響を受ける。
 湿気を孕んだ風が、朝方辺りから執拗に吹き付けてくる。

「ちぇっ!今回は逸れやがったか。」
「期待してたのによう!」
 男子たちの声が教室に響く。
「あーあ、俺なんか、絶対警報が出て授業がなくなるって踏んでたから、昨日の晩、何もしなかったぜ!」
「こうなったら実力突破だ!」
 とかしましい。
 二学期が始まって間なしの高校の校舎。これから、全校一斉に、恒例の夏休み明けテストが行われるのだ。所謂「学力テスト」。夏休みにたくさん出されたプリントの山。それをコツコツやっておけば及第点は取れる。先生はそう言うが、なかなかどうして。
 風林館高校は中堅どころの私立高校だった。八割、いや九割方、大学又は専門学校へ進学を希望する生徒が占める。難関大学と呼ばれる国立や私学の大学へ進学する者はさすがに指で数えるほどしかいないが、それでも皆無ではない。
 私学らしい自由な校風であるが、それなり、二学期ともなると、三年生は部活を引退し、進路に向かって突き進む光景が目に映り始める。この試験でAO入試や指定校推薦枠の振り分け参考にもなされるらしいので、血眼になっている三年生たちが多い。
 二年生、一年生はまだ受験には火は灯らない。秋にある学園祭に向けて、準備余念なきシーズンに入るが、これも、受験予備軍として在る。夏休み明けの校内実力試験はそれなりに学習到達度を見る役割を果たし、数学、英語、国語。この三教科だけではあったが、目標点に到達していなかったら、各教科ごとにお呼び出し補習が付くというのだから、いい加減な準備で臨むわけにはいかない。
 それだけに、台風で来週に流れると踏んでいた生徒には、厳しい現実を突きつけられたに違いなかった。
 無駄だと思っていても、直前まで足掻く。これもまた、学生の本分。
 だが、教科書やノート、参考書を読み返す、学生服たちに混じって、一人だけ浮かぬ顔で机に突っ伏している少年が一人。

「乱馬よ、おまえ…。余裕だな。」
 彼の背後から、級友のひろしが声をかけた。
「もしかして、許婚に個人教師してもらって余裕こいてんのかな?」
 もう一人の級友、大介が、にやっと笑いながらこれに応じた。
「うっせえな!」
 ぶつっと乱馬は文句を垂れた。
「あ、ダメだめ、乱馬君って、今、あかねと喧嘩してんのよ。ねえ。」
 横から女子が口を挟んできた。
「喧嘩?また夫婦喧嘩ですかな?」
「原因は何だ?また、浮気してあかねがヤキモチをやいたとかか?」
 男子たちは乱馬を取り囲んで囃したてる。
「違う、何でも、お弁当を持ってく、持ってかないで大喧嘩になったってさ、あかねの姉さんの情報よ。」
 あかねの親友のゆかが脇から答えた。
「ひょええっ、おまえ、また手作り弁当、断ったのかよ。」
 ひろしが笑いながら問いかけた。
「あかねの手作りを断るなんてよ、罪な男だぜ。」
 にんまりと男どもが笑う。
「だから、ほっとけっつってんだ!」
 かしましい外野席に、つい、唾を飛ばした。
「良いか?おめえらに一言言っとく!「手作り弁当」っていかにも「美味しそうな響き」があるが、そこに「あかねの」って語が付くとなあ、食中毒菌も真っ青で殲滅ってえ、物凄い代物になるんでいっ!勇気がある奴は、一回口にしてみろっつーんだよっ!あかねの弁当は人間が食える代物じゃねえやっ!」
 彼がそう言い終わるか終わらぬかのうちに、背後から忍び寄る、黒い影。

「わるかったわね!「人間が食える代物」じゃなくって!」
 振り下ろされた、鉄槌。
「でえっ!」
 そのまま、ゴンと前のめりに、机に額を強く打ち付ける乱馬。
「フン!」
 鉄槌から手を離し、鼻息荒く立ち去る、あかね。頭の上で鉄槌が刺さったまま、微動だにしないで、突っ伏す乱馬。
 

「乱馬、おまえさあ…。一応、凄腕の武道家の卵なんだろ?」
「避けるとかできねーのか?」
「あかねの愛のパンチは、避けるに避けられねえってか?」
 横からひろしや大介が冷やかし気味に口を挟んでくる。

「う、うるせー!だから、ほっとけっつってんだーっ!」
 突っ伏したまま、乱馬の怒声が飛んだ。


 そんな、カップルの喧嘩など蚊帳の外で、実力試験は予定通りに行われた。
 各人、それぞれの思いで配られた問題用紙に目をくれる。そして、カリカリと鉛筆の音が軽快に鳴り響く。
 乱馬もあかねも、お互いの喧嘩の事など、おくびにも出さず、それぞれ机に向かって真剣に取り組んでいる。いや、あかねは真剣だったかもしれないが、乱馬はそうでもなかったようだ。元々、勉学などやる気はない。文武両道だと言うが、事、机上の学問にかけては、自慢では無いが「からっきし」だった。数学の公式も英語の構文も古文の文法も、全然。覚える気などない。その上、「焦って勉強する。」、「一夜漬けする。」、「山を張る。」などという「悪足掻き行為」とも縁遠い有様。勿論、鉛筆はすらすらと進まない。うっ、と唸ったまま、固まっている状態であった。
 いや、正直、あかねと冷戦状態にあったため、個人授業を受ける機会を逃してしまった影響が、如実に現れていたのだ。悪あがきしたくとも、出来なかった…それが真相だ。
 対するあかねは、すらすらと鉛筆を走らせていた。
 彼女はどちらかと言えば優等生の部類に入る。ちゃんと復習を欠かさず、際立って熱心に勉強する性質ではないにしろ、それなり無難に解答欄は埋められて行く。根が真面目なのだ。

 終礼のチャイムが鳴ったところで、試験は終了。

 それぞれ、今終わったところの、回答の話となる。
 皆の声を聴きながら、虚ろな表情を差し向ける乱馬。
(こりゃ、呼び出しは確実だな…。)
 別に、呼び出される事が恥だとは思わないが、七面倒臭い問題集を解かされるのはできるだけ勘弁して欲しかった。
 ふうっと溜息を漏らす。
「たく…。あかねの奴が、余計な事をしでかすからいけねーんだ!」
 と独り言。


 そうだ。それはつい、三日前の朝食前に遡る。






 いつものように、朝稽古を終えて道場から戻ってくると、台所で異変が。早雲となびきが目を白黒させながら、のれんの向こう側を覗き込んでいた。
「何やってんだよ…。朝っぱらから。」
 怪訝に思って尋ねると、無言のまま、指差す流し台。
 そこには、純白のフリフリエプロンをつけたあかねが、何か作っている光景が広がっていた。
 はああっと気合を入れ、一気にまな板に向かって、奇声を吐き出す。
「きえええっ!やったったったったったあっ!」
 到底、台所仕事をしている風ではなく、何か悪い物にでも憑かれたような動きだった。ドッドッドッドッと凡そ、軽快さとは言い難い力強い音が、まな板からもれ聞こえる。
「でやああっ!」
 今度はフライパンが唸る。
「やっちゃっちゃっちゃっちゃーっ!」
 菜ばしを持ちながら、フライパンと格闘。あかねにかかると、料理も格闘となってしまうのは何故だろう。

「げ…。あれってまさか…。」
 顔をしかめる乱馬に
「あかねがあんたのために料理をしているみたいねえ…。」
 となびきが追い討ちをかける。
「俺のため?…嘘だろ?」
「嘘じゃないわよ。ほら。あっちの調理台の上。」
 なびきに促された場所を見ると、確かに。弁当箱がドンと二つある。あかねの使っている物と、彼女の物にしては、量が多いでかい弁当箱が仲良くフタを開いて、中に詰められるのを、今か今かと待っている。
「準備は万端のようだよ…。勿論、食ってやってくれるよね?乱馬君…。」
 ひたっと早雲が顔を寄せてきた。
「あ、いや、まだ、俺のと決まった訳じゃねえし…。」
 と後ずさる。
「あら、乱馬君のだと思うわよ。今学期はあんたの分も一緒に手作りするんだって、張り切ってたわよ、あかねちゃん。」
 台所をあかねに占領されて、少し手持ち無沙汰なかすみが、非情な言葉を投げつけてくる。

「できたあっ!」
 バンッと弁当箱をテーブルの上に置いた。傍目に見て、決して、見栄えの良くないおかずが不器用に詰め込んである。何となく、弁当箱そのものから妖気が漂ってくるような、そんな感覚を乱馬は嗅ぎ取っていた。

 ふううっと大きな溜息と共に、汗を拭う。九月とはいえ、まだ、二学期に入ったばかり。真夏と言っても差し支えないくらいの蒸し暑さが漂う。

「あ、乱馬。おはよー。」
 あかねは振り向き様に、道場から上がって来た乱馬に目を留めた。
「お、おう…。」
 額に汗を、たらりと垂らしながら、乱馬は受け答える。明らかに動揺していた。
「あのね…今日はね、あたしがお弁当を…。」
 作ってあげたわよ、と彼女が言葉を継ぐ前に、
「要らねー!」
 と口を吐いて出た。
 その言葉に、あかねの顔はみるみる曇る。
「ちょっと、何よ、それ。」
「だから、弁当は要らねえっ!」
 と乱馬は抗った。
「要らねえじゃないわよ。今日から授業が始まるんだから、お弁当持ちでしょうが。」
 とあかねは畳み掛けてくる。
「お弁当持ちかもしれねえが、要らねー!じゃ、そういうことだから…。」
 乱馬は、くるっと後ろを向いて、その場から立ち去ろうとした。
「ちょっと、どういう意味よ。それっ!まるで、あたしの作った弁当は食べないっていうような態度…。」
「だから…。俺の分は気遣い無用だっつーてんだ。」
「一人分も二人分も手間は一緒だから作ってあげたんでしょう?」
「それが、余計だっつーのっ!おめえは、俺の昼ご飯の事なんか、気にしなくって良いんだからよ…。だから、要らねえ!」
 頑なに持って行くのを拒否する。
「ちょっと、それってどういうことよ。」
 あかねも頑固で一歩も引かない。
「どういうことも何も、言葉どおりだっつーのっ!おめえの作った飯は不味くて食えねえ!」
「なっ!何ですってえっ?」
 だんだんにあかねの顔が仁王様のように怒気を孕み始める。
 その後は、いつもの如く。ドッカン、あかねが切れてボコボコにされた。

「朝っぱらから仲良しさんねえ…。」
 テンポのずれたかすみの声だけが、天道家の台所に明るく響いていた。







 それから、三日が過ぎた。
 その間、土日を挟んだから、学校では醜態を曝け出さなかったが、遂に、級友たちの失笑を買う事態に。
 そればかりではない。
 あてにしていたテスト勉強。あかねの怒号は凄まじく、いつもの定期テストのように、ノートも借りられなかったし、情報の共有も引き出しも、勿論できなかった。その結果、いつもに増してボロボロの答案用紙。三教科お呼び出しは確実であった。
「はあ…。」
 それを思うだけでも、憂鬱度は百パーセントだった。

 憂鬱度の高かったのは、何も、乱馬ばかりではなかった。
 もう一人の渦中の人、あかねも、また、悶々とした気持ちで、ここ数日を過ごしている。
「ったく!乱馬のバカっ!」
 原因を作ったのは己の弁当だが、ヘタクソ、味音痴なのは自分でも自覚している。それを少しでも進歩させて治す努力をしようと、新学期早々張り切っていた腰骨を、ポキリと乱馬にやられた。しかも、一口も食べようとしなかったのだ。
「何よ…。せっかく頑張って作ってるのに…。」
 乙女心はズタボロだった。
 その腹いせに、今回のテストは全く乱馬の手伝いをしてやらなかった。
 毎度はあかねに擦り寄ってきて、山を張る手伝いだの、要チェックポイントのアドバイスだのをねだって来たが、さすがに、彼も、喧嘩の真っ最中に近寄って来ることは無かった。
 我が家には、もう一人、風林館高校生が居る。三年生の姉、なびきである。影でこそっと彼女から、実力テスト情報をつかもうとする乱馬を目撃したが、
『情報ならあるけど…。あたしから訊くなら、ほらっ!』
 と右手を差し出され、あえなく撃沈。この夏も修行三昧明け暮れた乱馬に、小遣いが残っている筈もない。
 内心、ざまあ見ろと嘲ったが、少しばかり心が痛かった。
 乱馬も頑固者なので、一度ヘソを曲げると己からは決して折れてこない。変なところ固執する性質なのだ。臨戦状態が続いている以上、咽喉元から手が出て、試験情報が欲しくとも、あかねに媚びを売ってくることはなかった。
 かといって、闇雲に勉強するわけでもなく、見たところ、予想通り玉砕したようであった。

 そんな状況だったから、後ろから三時間目、最終のテストを回収する時に、つい、口走ってしまった。
「白くて綺麗な解答用紙ねえ…。」
「んーだとっ?」
 案の定、カッと来た乱馬。誰のせいでそうなったと思ってるんだよという、暗黙の怒気を孕んでいた。
「あら、あたしは客観的に見たままを口走っただけですけど…。」
 とすまし顔で答えてやった。
「やるか?こらっ!」
 乱馬がギロッと睨んだ。
「何よ、文句あるの?」
 あかねも負けては居ない。

「ちょっと、あかね…。やめなさいって。」
「おい、乱馬も大人気ないぞ!」
 ワイのワイと、テストが終わった開放感に包まれた級友たちが、何事かと二人を囲み始める。

「こらっ!そこの二人っ!また、夫婦喧嘩の予行練習か?早く回収した解答用紙を持って来いっ!」
 教壇の先生が、思わず怒鳴った。
 が、その声も聞こえずに、睨み合ったままの二人。
「くぉーらっ!聴こえないのか?」
 ズカズカズカっと教壇を降りて乗り込むがかいの良い中年の数学教師。
「おまえら、二人、特別補習だっ!」
 その言葉にあかねがまず我に返った。
「えっ?」
 乱馬はともかく、補習授業とはあまり縁の無いあかね。キョトンと数学教師を見返す。
「だから、早乙女と天道。二人仲良く補習授業してやるって言ってるんだ。」
 教師はあかねと乱馬、それぞれから回収仕掛けの解答用紙をもぎ取った。
「そ、そんなあ…。」
 あかねが思わず声を荒げた。

「良かったじゃん、乱馬君。あかねと仲良く補習でさあ。」
「あかねが居れば勉強も身に入るんじゃないのか?」
 くすくすっと回りの嘲笑が聴こえる。
「なっ!何だとおっ?」
 真っ赤になった乱馬が、周りへ怒号をたきつけた。

「って事で、テストを返したら仲良く机を並べて補習してやる。ビシバシ数式問題をしごいてやるから、覚悟しとけよ。ご両人。わっはっは。」
 解答用紙をトントンと傍らの机で叩くと、教師は笑いながら、颯爽と立ち去って行った。



二、


「もう!何であたしまで特別補習を受けないといけないのよっ!点数は平均点を越えていたのに…。」
 思わず、苦言が漏れる。
「まあまあまあ…。丁度良いじゃない。喧嘩が長引いてるみたいだから、数学の補習を期に仲直りのきっかけを探ったら。」
 とゆかが慰め入った。
「仲直りなんか、したかないわよ!何であたしから折れなきゃならないの…。」
「あらそお?余計なお節介かしら?仲直りしたいって顔に書いてあるけどぉ。」
「いい機会なんじゃないの?じゃないと、また、シャンプーや小太刀が乱馬君にちょっかいかけるわよ。」
 ゆかとさゆりが笑いながら示唆する。
「別に、誰が乱馬にちょっかいかけようとも、あたしには関係ないわ!」
「本当?」
「本当にそう言い切れる?」
 不機嫌極まりないあかねに、ゆかとさゆりが、チクッと言葉を差し込む。
「……。」
 あかねは思わず黙ってしまった。
 元はと言えば、シャンプーや小太刀、右京に料理の腕をバカにされたことをきかっけに、料理修行を始めようと思い立ったのではなかったか。このままでは、乱馬といつまでたっても進展はしまい。形だけの許婚から、何事も変わってはいない。そろそろそれぞれ将来について真剣に考えなければならない時期に差し掛かっているのに。
 だからこそ、料理の腕を少しでも上げたい。そう思ったのは己ではなかったか。
「ホント、あかねってば、正直なんだから。」
 クスッとゆかが笑った。
「まあ、一つのチャンスなんだから、無駄にしないようにね…。」
「そーよ、案外、チャンスかもよ。」
「何のチャンスよ?」
「またまたまた、わかってるくせに。」
「劇的な進展を迎えるに決まってるじゃん!」

「だから、そんなこと望めないわよ…。あたしと乱馬じゃあ…。」
 はああっと友人たちの戯言を聞き流しながら、溜息を吐き出した。
「とにかく、頑張ってね。」
「バイバーイ、また明日。」
 などと、口々に手を振りながら、それぞれの家路の方向へと別れた。


 一人きりになると、再び、乱馬の事が、脳内にフィードバックしてくる。
 そう言う落ち込んだ気分のときに限って、また、神経に障ることが起こるのは何故だろうか。

 遥か前方に乱馬の影を発見してしまったのだ。

 一人だったらまだしも、彼の傍らには、シャンプーと小太刀が居た。声までは聞こえなかったが、察するに、デートでも狙っているのだろう。乱馬の袖を引っき合っているようだ。
 いつもの光景、そう流してしまえば良いのだが、喧嘩中の身の上としては、気にならないはずが無い。
 じっとその場所に佇み、様子を伺う。
 嫌な子だなあ、と自己批判なしがらも、乱馬の動向は気になってしまうのだった。
 シャンプーと小太刀が、互いに自己主張をしながら、乱馬を引っ張ろうと必死になっている。乱馬は二人の顔を見比べながら、苦笑いしている。
(もう、嫌ならはっきりと断っちゃえば良いのに…。)
 じれったい気持ちを抑えながら、あかねは観察を続けた。
 と、二人の隙を見て、乱馬はひょいっと身を翻した。
(あ…逃げた!)
 それは一瞬の出来事だった。シャンプーと小太刀がその後を追いかけ始める。見る見る、影が見えなくなってしまった。
「たく…。逃げてばかりなんだから…。どうして、いつもいつも、逃げる事しか思いつかないのかしらね!」
 もっとも、シャンプーも小太刀も、口で言い含めて、引き下がる相手ではない。が、逃げてばかりで果たして、良いのか。大いなる疑問を感じるのである。

(一生、ああやって、逃げてるだけのつもりなのかしら…。)
 ハアアッと溜息を吐く、と共に、だんだん腹立たしくなってきた。
(どうして、あんな奴の一挙手一投足に、私が反応しなくっちゃいけないのよっ!)
 とだ。

「ああん、もうっ!乱馬のバカッ!」

 浮かんだ想いを薙ぎ払うかのように、前にあった、小石をコツンと蹴った。

 が、脚力があるあかねの足だ。思いの他、そいつは、前に飛んでしまった。
 ヒュンッ!
 今日に限って勢い良く、飛んだ。

(しまった!)
 そう思った瞬間だった。
 ナイスショットでも言おうか、前から歩いてくる男の子の方へと、石は飛んだ。まるで自分の意思を持っているかのようにだ。

「危ない!避けてっ!」
 そう叫んだ瞬間だった。
 石は少年の傍へ真っ直ぐに飛んで、転がって落ちた。

「あっ!」
 そのまま、少年は固まってしまった。
 恐る恐る、あかねが顔を上げて彼の方を見返すと、じっとアスファルトの路面を、凝視しているのが見えた。
 ドキッとしながら、彼の足元を見る。
 と、べっとりと落下している物体を発見した。
 どうやら、あかねの蹴った石は、少年ではなく、持っていたソフトクリームに命中し、ボトッと地面に落下したようだった。
 まだ、買って間が無かったらしく、殆ど原型をとどめたまま、アスファルトにべっとりと張り付いているではないか。

 やってしまった…。

 あかねは焦った。
「ご、ごめんなさい!」
 思わず、駆け寄って、ソフトクリームの残骸を凝視する少年に、詫びを入れていた。





 そこから近い川原の公園。
 すぐ傍の駄菓子屋で、ソフトクリームを買った。そろそろ店じまいのシーズンになるだろうが、まだ、川べりに涼を求めにやってくる、カップルや子供連れのために、開かれている小さな露天は、幸い営業していた。
 台風が近づいているせいか、軒先の「氷アイス」というのれんが、風に吹かれて揺れていた。チリン、チリンと風鈴の音も、舞いながら鳴る。
「すまぬな、弁償させてしまって。」
 あかねからソフトクリームを受け取りながら、少年が礼を言った。
 どうも、日本人ではないらしく、見慣れぬ格好をしていた。 
 円錐の山型布帽子そかぶっている。決してピエロのように長くは無く、正三角形に近い低い円錐だ。天辺には美しい野球ボールくらいの玉が乗っかっているが曲がったりはしていないところをみると、丈夫な芯があるのかもしれない。色は鮮やかな青だ
 紺色のラメ入りのズボン。薄青のラメ入りのダボダボな上着は、一見して絹織物とわかる。背中部分には、美しい黒竜の刺繍が施されてある。靴は黒いブーツのような布製か革製。膝の辺りまである。見たこともない洋服だった。
 外見はともかく、少年の放す日本語は流暢であった。シャンプーやムースが使うほど、なまってはいない。もしかすると日本滞在が長い外国人なのかもしれない。そう思った。

「ううん、弁償だなんて…。あたしが悪いんだもの。」
 あかねは苦笑しながら、改めて詫びを言った。
 川縁のベンチに並んで腰掛けて、二人してソフトクリームを頬張る。
「いや、にしても、この氷菓子は美味じゃあ。」
 言葉遣いが高貴の子息のような感じであったが、屈託無く少年は、ソフトクリームを頬張った。
「落としてしまった時はがっくり来たぞよ。余の国ではこのような冷たい甘い菓子は滅多に口にできぬでなあ…。」
 と少年は笑う。
「そ、そうなの?」
 あかねはキョトンと少年を見返した。
「ああ。余のような王族でもなかなか滅多に食べられるものではない。」
 と少年は笑う。
「王族?」
 あかねはハッとして彼を見返した。確かに、ちょっと変わったいでたちではあったが、着ている物、身に付けている物は高級感が漂っている。金糸銀糸がふんだんに使われ、どことなくきらびやかな感じもした。
(もしかして、どこかの国から公式訪問でもしてきた王子様か何かなのかしらん…。この子。)
 そう思った。にしては、近習の姿は見当たらない。彼の傍には、ペットなのか、毛深い白い小型犬が控えていた。これも、高そうな毛並みで、良く手入れが行き届いた感じがする。いや、そればかりか、絹の服まで着せられていたんだ。
 大きな黒い瞳が印象的な犬であった。大人しく、少年の傍らに寝そべって、あかねを見上げている。
 少年の見た感じでは、年頃は十歳前後。日本の小学校中学年くらいの背格好であった。まだ、声変わりもしない声は、甲高く、背もあかねよりだいぶん低かった。
「さっき、余が買ったのは白だけの氷菓子であったが…。そなたが買ってくれたのは茶色い色が混じっておって、これまた、美味じゃ。」
 とニコニコ顔であかねを見返した。
「あはは…。バニラは売り切れていて、ミックスソフトしかなかったからね…。この茶色いのはチョコレート味なの。」
 と笑った。
「ほお…。チョコレートとな?」
 その名前も聞き覚えがないのか、少年は熱心に問い返していた。
「ええ…。茶色い塊のお菓子なんだけど…。」
「それも甘いのか?」
 と興味深々。
「ええ、甘いわよ。もともとのチョコはそんなに甘くないらしいけど、少なくとも日本で売られているのは甘いわ。」
 とあかねは答えた。
「一度、食してみたいのう…。」
 少年は目を輝かせた。
「ねえ、君、どこから来たの?」
 あかねは思い切って尋ねてみる。
「ソウリュウ国じゃ。」
「ソウリュウ?それってどこにあるの?」
「ここからずっと遠い空の果ての国じゃ。」
 少年は西の方向を指差しながら、すらっと言った。
「空の果て…アジア大陸のことかしらん。」
 あかねは小首を傾げる。

「まあ、余がどこから来たかなど、どうでも良い。」
 少年はあっさりと言った。
 地球には、まだまだ、謎多き未知の国や種族が存在しているらしい。
 その中の一つの国からやって来た。あかねはそう簡単に理解することにした。あまり深く考えていても、仕方がないと思ったのだ。
「で?そのソウリュウ国の王子様が、何で、こんな、日本の場末にいらっしゃるの?視察か何かかしらん?それに、日本語が上手ねえ…。」
 と尋ねる。こっちの方が、遥かに興味が湧いた。
「あ、いや…。国事に関わることではないぞよ。私的な用事じゃ。それに、余がこの国の言葉を流暢に話せるは、母上とお婆様のおかげじゃ。」
「お婆さん?お母さんのお母さんのこと?」
「ああ、余の母と、父方の祖母は、揃って日本人なのでな。幼少のみぎりより、その二人によって、日本語は叩き込まれるに至った。」
「へえ…。他民族の日本人の血が君に流れてるなんて…。王族っていうのは、血を大切にするのが普通じゃないの?」
 あかねは問い返す。
「余の祖父や父の妃たちは他民族の者が多いぞ。自国の民だけだと、血の交流が盛んになされない。優秀な子孫が残せぬ…だから、方々の国から妃を向かえておる。例えば、父の妃には英国人も居るし、アラブ人も居る。」
「へえ…。国際色豊かな一夫一妻制なのねえ…。で?家来の方とかは一緒じゃないの?」
「家来か?連れ歩いておったが…。どこへ消えよったか。頼りにならん!」
 ふううっと少年は溜息を吐いた。
「もしかして、はぐれちゃったとか?」
「まあな。方向音痴なので困ったものじゃ!」
 少し忌々しげに少年が吐き出した。
 どちらかというと、少年の方が迷子になってしまったのではないだろうか。あかねはそう考えた。
「それじゃあ、困ってたんでしょう?」
 あかねはソフトクリームを舐めながら言った。
「別に…。困ってなどおらぬ。」
 少年は涼しげに言った。
「そうかしら…。今頃、家来さんたち、大慌てであなたのこと探し回ってるんじゃあ…。」
「何、その気になれば、すぐにでも落ち合うことは出来よう。」
 少年はにっこりと微笑んだ。
 そして、あかねに言った。
「で、そなたに折り入って頼みがあるのだが…。」
「頼み?」
「ああ、さっき言っておった、その、「チョコレート」とかいう甘いお菓子、食べさせてはもらえぬだろうか?」
 と、もじっとしながら頼み込む。
「ええ、別にかまわないけど。」
 あかねは少年を見返した。
 と、少年の顔がパアアッと明るくなった。
「ま、まことか?」
 と目を輝かせてせっついて来る。
「良いけど…今はお金がないの。このソフトクリームを食べてしまって、所持金がなくなっちゃったからね。」
 その話しを聞いて、少年の顔が少し曇る。
「あ、でも大丈夫よ。家に帰ればまだ、お小遣いはたくさん残ってるし…。たまたま、持って来たお金が少なかっただけってことだから。それに、ウチに、多分、チョコレートの一枚や二枚、買い置きがあると思うから…。それでも良ければ、食べさせてあげるわ。さっき、ソフトクリームを落っことしちゃったお詫びにね。」
 とあかねは笑った。
「おおおっ!それは、素晴らしい!そちの邸宅でチョコレートを食す事ができるのか。」
 少年は大袈裟に喜んだ。
「邸宅ってほど、大きな家でもないんだけど…。ま、良いわ。うちはあまり、初対面の人に人見知りするような家じゃないし…。」
(それに、この子が迷子なんだったら、ウチで暫く様子を見れば、その、御付の方からのアプローチもありそうだしね…。)
 と、コクンと頷く。

「かたじけない!」
 凡そ、今の日本の子供が使いそうでない言葉を少年は使って礼を言った。もしかすると、祖母というのが、昔気質の人なのかもしれない。王族というのなら、華族出身とか、そんな血筋なのかもしれない。

「食べ終わったら、早速、行きましょうか。その前に、あなたのお名前教えてちょうだい。名前を知らなかったら、不都合でしょう?
 あたしは、天道あかね。あかねで良いわ。」
 あかねはにっこりと笑いかけた。
「あかね…か。なかなか良い名じゃあ。余はラージャ。」
「へえ…ラージャ君。勇ましい名前ね。」
 二人と犬一匹は、ゆっくりと天道家へ向けて歩き始めた。


 つづく


一之瀬的戯言
 全九話予定です。題名を「台風少年」から「颱風少年」へ改めました。読み方は同じ「たいふうしょうねん」です。
 現在ラスト九話を書いています…もうちょっとで終わる…。

 コミック同人誌用に作っていたプロットからの作文。
 結局、ネームを半分くらい大学ノートに切りかけたところで、膨大なコマ数と格闘せねばならないということに気付き、コミック化は諦めました。
 せっかくだから、元ネタのプロットに、小説用にいろいろ枝葉を付け加えて、ネット長編作品として作文することに…。
 で、放り投げたまま、六年が経ちました(爆ッ!
 今回、仕上げて公開することに…マジモードより、コミカルに描くことを決意して、仕切り直して書きました。

 で、少年の名前を散々悩んだ末、青嵐という中国風な名前から、ラージャという名前へ変更しました。いや、別に某紛争が原因という訳ではなく、作品の雰囲気がどっちかというとインド風な感じになってしまった上、後の設定にも生かしたいという考えで改名しました。
 


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