◇001 始まり


「ふうう、そろそろ港に着くな。」
 ガサゴソと船倉から一人の少年がにゅっと顔を出した。
 林立する荷箱の向こう側にある窓から差し込めてくる月明かり。
 磯の香がふっと顔をかすめる。
 エンジン音が高くなり始め、速度が落ち始める。
「ほれ、下船の準備をしろよ!」
 眼鏡をかけた中年オヤジが、少年へと言葉を継いだ。
 横に置かれたリュックサックを、よっこらせと背負った。
「わかっていると思うが…。」
 中年オヤジは少年へと瞳を巡らせた。
「ああ…無断乗船だからな…。」
 ぼそぼそっと少年も相槌を打つ。
「ほれ…見つからない間に行くぞ!」
 そう言って、船倉からはい出たところで、乗組員と瞳がかち合った。
「君たち…こんなところで何してるの?」
 当然のごとく話しかけられる。
 ここは貨物船だ。関係者以外が立ち入る訳がない。
 道着姿の二人は、どう見ても、関係者ではあるまい。

「あ…。いや、ちょっと…。」
 中年オヤジがそれに答えた。
「ちょっと…て何かな?」
 不審者を嘗め回す瞳が、二人を映し出す。
「これは何だね…。不法侵入だよね…。もしかして、密航者かな?」
「あはは…。そんな訳なかろう。」
 引きつり笑いを浮かべながら、中年オヤジがそれに答えた。
「いずれにしても、ちょっと、一緒に来てもらいましょうかな…。」
 そう言って、厳しい瞳を手向けられた。

 と、傍らにいた少年が、思いっきり声を張り上げた。
「ああああーっ!」
 そう言って、あさっての方向を指さす。
 人間、突拍子もない声を張り上げられ、指まで差されると、何事かとそちらへ視線が走るのも無理はない。軍事的訓練を受けていない者となると尚更だ。
 この船員も、ついつい、少年の張り上げた声と差された指先へと、意識が飛ぶ。

「そら、親父っ!今のうちだ、逃げろっ!」
 少年の声と共に、中年オヤジも猛スピードで駆けだす。

「あっ!こら、待ちなさいっ!」
 出し抜かれた船員が、慌てて静止にかかるが、後の祭りだ。
 待てと言われて、待てる訳がない。不法乗船ならなおさらだった。
 カンカンカンと階段を駆け上がり、甲板から海に向かって真っ逆さまに飛び込む。


 ざぶーん!

 自ら飛び込んだとはいえ、水はかなり冷たい。凍えるまではいかないが、全身、鳥肌が立った。
 が、この場合、悠長なことは言っていられない。
 逃げなければならない。
 飛び込んだ二人は、無我夢中で泳ぎ始める。

「不法侵入者はどこへ行った?」
「あっちかな…。」
「探せっ!どっかに隠れて居るはずだ。」
 上では非常招集された乗務員たちが、大声を張り上げているのが聞こえてきた。
「ほんとに侵入者が居たのか?」
「ああ、道着姿のおっさんと子供(ガキ)だったぞ。」
「いないぞ!」
「もっと探せ!」


 幸い、今は真夜中だ。それに、まさか、誰も、飛び込んで逃げたとは思ってもいまい。
 季節は春。夏場のような水泳に適した環境ではない。寒中水泳とまではいかないが、こんな気温の中、暗がりの海に飛び込む行為、それは、無謀を通り越して、ただの馬鹿だからだ。
 
「どうやら、成功したみてーだな…。」
 船を見上げながら、少年は甲高い声を出した。否、少年の姿ではなく、少女の姿に変化していた。
 一回り小柄になり、胸も豊満になる。着ている道着もだぶだぶだった。
「ぱふぉ…。」
 ざばああっとその脇に浮かび上がってくる、中年オヤジ。否、人間の姿ではなく、パンダに変化していた。着ていた道着はみるみる縮み、メガネは片方の耳にひっかかっている。
「ま、もともと、海には飛び込むつもりでいたんだ…。予定どおりってところだな…。」
 遠ざかる船影を見送りながら、少女は言葉を吐き出した。

「たく…。てめーが渡航料ををケチるからだぜ…。わかってんのか?親父…。そのうえ、こんな身体にしやがって!」
 ジロリと険しい瞳をパンダに差し向ける少女。
「ぱふぉ…。」
 パンダ親父が仕方あるまいと言いたげに、声を出す。
「まーいいや、とっとと、泳いで丘に上がろうぜ。」
 そういいながら、少女は海岸めがけて泳ぎ始める。
「ばふお。」
 パンダも少女の言に従った。

 彼らは、早乙女玄馬、乱馬親子。
 ちょうど、伝説の修行場、呪泉郷から帰国してきたところだった。
 海に飛び込んで変化したのも、かの地での修行に起因していた。
 父の玄馬は熊猫溺泉、息子の乱馬は娘溺泉へと溺れたゆえに、引き起こされる現象。
 呪泉郷で溺れてからも、かの地で修行を続け、やっとこ帰国の途に就いた。元々、元手が少ない貧乏道行。渡航にかかる費用をケチったため、中国大陸まで泳いで往復するという、現実離れした親子だった。
「これも、修行のうちぞ!」と強がってみたものの、変身体質をまだ、十分に体得し切れていなかった。無我夢中で泳いていたところを、たまたま通りかかった貨物船へと忍び込んだのである。
 貨物船には日本語で「かごめ丸」と書かれていたので、きっと日本へ上陸する、そう思っての行動だった。


「で…。日本に帰って来たみてーだが…。ここはどこだ?」
 やっと岸まで泳ぎ着き、浜辺へと上がる。
「ぱふぉ?」
 パンダは巨体を揺らせながら、さあ…と、首をかしげる。
「まあ…詮索は後だ。夜が明けちまう前に、濡れた体をなんとかしなきゃな…。」
 ぎゅうっと道着を絞りながら、乱馬が言った。 
 この野生児は、手慣れたもので、丘に上がると、そこいらから、流木だのゴミだのを集め始める。暗がりでも月があれば、案外、夜目が利くものだ。月明かりを頼りに、浜辺を動き回る。それに、街も近いのだろう。結構、街灯などの光源もあった。
「ほら、親父も手伝え!」
 獣の巨体へ、軽く肘鉄を食らわせる。のっそりと起き上がったパンダも、一緒になって木片などを集め回った。物の数分で、たき火をするくらいの獲物は集まった。
「たく…。最近の浜辺は清掃がなっちゃいねーな…。まあ、おかげで助かるんだけどよ…。」
 リュックから石を取り出すと、そいつをさっと落ちていた新聞紙で水をぬぐう。そして、カチッカチッと打合せて、そのまま点火した。
 最初は焦げ臭く、小さな煙。やがて、そいつは赤々と炎を上げて燃え始める。
「ほら…。点いたぜ。とっとと元の姿に戻ろうぜ…。」
 そういいながら、濡れたリュックからやかんを取り出す。
 シュワシュワとやかんが煮えたぎる前で火から下ろし、徐に、頭上からお湯を浴びせかける。
「親父も戻りな…。」
 パンダの背中にもじょろろっとお湯をたらし込む。
 トンと、砂浜へやかんを置いたところで、身体がムクムクッと伸び上がる。元の少年の姿に立ち戻った。
「あーあ…。いつまでこんな不自由な身体をもてあそばなきゃなんねーんだろーな…。」
 ほつっともれる溜息。
 乱馬は水を吸った道着を脱ぎ捨て、わっしわしと絞り始めた。厚物を絞るのは結構大変な作業だが、造作なくこなしていく。
 それから、リュックに手を突っ込むと、着替えを取り出す。泳いで渡ってきたので、ビニール袋で包むなど、ある程度の水除けはしてあるから、濡れそぼった道着よりは幾分かましだ。濡れっぱなしでは風邪をひきかねない。彼なりに判断した。
 中国大陸で買った、チャイナカンフー着。ズボンは光沢のある黒、そして、上は紅いチャイナ上着。軽くて伸縮性も良くて、何より、動きやすい。最近は道着より、好んで着るようになっていた。
 
「女々しいぞ、乱馬!貴様、女に変化するようになって、気持ちまで軟弱になったのではなかろーな!赤い服など着て…。しかも、おさげなど編みよってからに…。」
 パンダから人間に戻った玄馬は、着替えた息子へと声をかけた。
「違わあっ!この服は、動きやすいから着てるんだよ。それに、おさげの方が、ぼさぼさにならなくっていいんだよ!それより…。どーすんだ?これから…。」
 真っ赤になりながら、問いかける。
「まずは飯を食う!」
「たく…。てめーは呑気だな。」
 力んだ手から、一瞬力が抜けそうになった。
「腹が減って何もできんぞ。空腹は武道家の敵じゃ!」
「つーか、水浸しのリュックにまともな食いもんなんかあるのかよ。」
 息子を横目に、玄馬は、濡れたリュックを漁り始めた。
「あるぞ…ほれ…。さっきの貨物船から貰っておいたぞ。」
 トントンと並べる、缶詰が二つ。ツナ缶だ。
「てめー、いつの間にくすねてきやがったんだ?」
「人聞きの悪いことをぬかすな!落ちていたのをもらって来ただけじゃ。」
「どこに、こんなものが落っこちてたってんだよ…。」
「台所じゃ。」
「それって、盗んで来たのと同義じゃねーのか?こらっ!」
「落ちていたと言ったら落ちていたんじゃ!」
 ジト目で親父を見返す乱馬。その冷たい瞳を見返しながら、言い放った玄馬の一言。
「それとも何か?貴様は食わんのか?」
「でえええっ!食わねえって一言も言ってねーだろ!」
 わっしと玄馬から缶詰を一つ、かっさらった。
 おなかは極限まで空いている。背に腹は代えられない。
「がっはっは。貴様も同罪ぞ!」
「てか…やっぱりくすねて来たんじゃねーか…。」
 ぼそぼそっと吐き出す。
「いや、しつこいのー。落ちていたのを拾っただけじゃ。」
 カラカラと笑いながら、缶詰の金輪を引っ張った。パシュッと音がして、ツナの油漬けが姿を現した。
「そら、乾パンもあるぞ。」
 そう言って、大きめの缶を開ける。
「たく…。てめーという奴は…。」
「食わぬのか?」
「食うよ!腹減ってんだっ!」

 食べ物の出どころはさておき、乱馬はがつがつと食べ始めた。多少の後ろめたさはあれども、今更である。
 父が「落ちていた」と公言してはばからないのだ。嘘臭いが、そう思うことにした。

 こうして、腹を満たしたところで、玄馬がぽつんと言った。

「どうやら、ここは湘南あたりのようじゃのう…。」
「わかるのか?親父…。」
「ああ…。ほれ、夜が明けてきて、島影が見えよう。あれは間違いなく、江の島じゃ。」
 すっと前に写る島を指さした。
 確かに、見覚えのある島だ。
「ってことは…首都圏か。」
 空になった缶を横に置きながら乱馬が吐き捨てる。

「さてと…行くか。」
 パンパンと砂を払って、玄馬が立ち上がった。

「どこへ行くんだ?また、前の家に戻るのか?」
 乱馬は父へと問いかける。
「まさか…。あそこはとっくに引き上げて来たぞ。」
「あん?家財道具は?」
「とっくに借金返済に差し押さえられておろうぞ。」
「また…てめーは、借金作りやがったのかよ。」
 はああっと吐き出す溜息。
「此度(こたび)の中国修行の旅費に変わったわい!」
「な…聞いてねーぞ!それに、高校はどーすんだよ!入学式だって出てねーんだぞ、俺は。それとも何か?中卒で終わらせる気か?」
「いいや。かわいい息子にそんなことはせんぞ。」
「家なき親子に成り下がったんだろ?」
「そーではないぞ!まあ、いいから…黙ってついて来い。」
 玄馬は先に立って歩き始めた。
「ちょっと待て、親父っ!」
 慌ててリュックを背負うと、玄馬のあとへと従った。

 首都圏に戻って来たとはいえ、電車に乗るつもりはないらしい。あくまでも、「徒歩」という肉体移動手段を取る父。
 江ノ電、小田急、JRなど、いろいろな路線を横目で見ながら、黙々と北へ向かって歩き出す。

「おい、こら、ちゃんと説明しろよ!どこへ行くつもりだ?」
 せっつく乱馬に、玄馬は一言投げつけた。
「練馬じゃよ。」
「あん?練馬だあ?まさか、歩いて行くつもりか?」
「ま、途中まで歩いてから、適当に電車に乗ろうかのう…。」
 朝焼けの道路を、黙々と北上する。春とはいえ、少し、湿っぽい日だった。
 疲れ切った身体ゆえにそう感じるのかと思ったが、そうでもなさそうだった。
 世間は休日のようで、言うほど、人は歩いていない。制服の学生もとんと見かけなかった。
 道着姿とチャイナ服のちぐはぐ親子を、すれ違う人は少しうがった瞳で見返して行く。

「練馬ねえ…。今度の新居はそこへ構えるのか?」
 乱馬は、父へと尋ねた。
 幾度となく、宿替えを繰り返して来たので、前の居所にも未練はない。
「そーじゃなあ…。多分。」
「多分…って何なんだよ!」
 速足になる父親の後をついて行きながら、乱馬は問い質した。
「先方には中国からハガキを出しておいたからのう…。」
「あん?」
 父の言っていることに、ピンと来ない。
「多分、大丈夫じゃろう…。」
「何なんだ?その曖昧さは…。」
 尋ねる乱馬も、父の返答に、すっかり困惑していた。

 とにかく、この度は、修行に出る前から、少し父の様子がいつもと違っていた。
 
『乱馬よ、これから、本気の修行に出るぞ。』
 中学を卒業するや否や、そう言って、家を出た。
『本気って、今までの修行は本気じゃなかったのか?』
 そう食ってかかった乱馬に
『初めての海外雄飛じゃ。』
 と言って玄馬は笑った。
 眉唾物の海外雄飛。どこへ行くのかと思いきや、九州の端っこへ着くや否や、海を泳いで渡ると言い出した。
 逆らっても仕方がないので、おとなしく、従って一緒に泳いで行けば、着いたのはまさかの中国大陸。
 大陸の丘に上がっても、玄馬は歩みを止めなかった。黄河をぐんぐんと上に上り、砂漠を渡り、山地を歩き、挙句の果てに連れてこられた「伝説の修行場、呪泉郷」。
『ここで、おまえに奥義を授けてやる!』
 そんなことを言い始め、着いた途端に泉に落ちた。
 その後は散々な目にあった。訳の分からない女種族の娘っ子に追い回されるは、竜のひげを食べて髪の毛がぐんぐん伸びるわ…運も一緒に呪いの泉に落っことして来てしまったのではないかと思えるほど、滑稽な目に合った。

(文句を言ったところで、どーなるってもんじゃーねーけど…。俺…この親父に、振り回されてるよなあ…。)
 前を歩く父親の背中を眺めながら、そんな事を思った。
(子供は親を選べねーもんなあ…。)
 別にだからといって、己が不幸だとは思わなかったが、さすがに娘溺泉へ溺れたことは、この少年を極限状態まで追い詰めたのも、紛(まぎ)れのない事実だ。変身体質になって、極限にならない者など、無に等しかろう。
 だが、数日のうちに、その極限状態を、己の範疇へ取り込んでしまっていた。人間、極限に置かれると、大事も小事に変化してしまうのかもしれない。否、あまりにスチャラカ過ぎて、「もういいや状態」へと居直ってしまったのである。
 
(親父のパンダ化よりはマシかな…。)
 最近は、そう思えて来た。
 パンダになってパフォパフォやっている父も、極限状態である筈なのに、案外、冷静なのには、正直面食らった。
「そんなに深刻になってみたところで、仕方あるまい?」
 そう言いながら、カンラカンラと笑っている父。このスチャラカさは天下一だと、あきれを通り越して、羨望すら感じていた。

 どこまで、歩いたろうか。
「そろそろ、電車に乗るかのう…。このままじゃ、日が暮れるわい。」
 玄馬がそんなことを言い始める。
 飛び乗ったのは、たぶん、西武。駅名は「上石神井」とか言ったかと思う。

「で…そろそろ教えてくれてもいいよな…。これから、どこへ行くんだ?」
 改札を出ると、乱馬は玄馬へと言葉を巡らせた。

 だんだんに、雲行が怪しくなり始めた。
 さっきまで良く晴れていたのに、急に薄墨色に染まった空。

「許婚の家じゃ。」
 そう、一言投げつけて来た父。
「許婚?何だそりゃ…。」
 聞きつけない言葉に、きびすを返す。
「西洋風に言えば、フィアンセじゃ。」
 さらりと言って退ける玄馬に、目をぱちくりさせながら、
「まさか、てめー…焼きが回って、再婚する気か?」
 と言い放ってしまった。
「再婚?何の話じゃ?」
「だって、今、許婚の家に行くって、言ったじゃねーか。」
「わしの許婚ではないわい。」
 そう投げつけられた言葉。
「あん?じゃあ、誰の許婚なんだ?」
「おまえのじゃよ。」
「あんだとー?」
「だから、おまえの許婚の家じゃよ。」

「ちょっと待て、聞いてねーぞ!んな話!」

「この期に及んで、拒否る権利は貴様にはないぞ、乱馬っ!」

「この期もどの期も、知るかー、許婚なんか!」
 高揚した乱馬は、玄馬に向かって、飛び膝蹴りを仕掛けた。
 この親子の間では、いつ、どんなタイミングで格闘を仕掛けても良い…そんな、不文律が出来上がっていた。父親だろうが、息子だろうが、武道家は冷徹に徹せなければならない…という、早乙女流お得意の理屈からの決めごとだった。

「何をっ、小生意気なっ!父親が決めた許婚ぞ!逆らうことまかりならんっ!引きずってでも連れて行くぞ!」
「んなむちゃくちゃな話になんかに、従えるかーっ!クソ親父ーっ!」

 そう乱馬が、激しく言った途端だった。
 ゴロゴロっという雷鳴と共に、突然の雨がザーザーと降り始めた。
 タイミングの良すぎる、通り雨。

 その水に当たって、みるみる変化する父子の身体。
 乱馬は娘に、玄馬はパンダに。
 身体が変化しても、一向に収まる気配はない、親子の争い。
「てめーはいつもいつも、そーなんだっ!」
 バシャバシャと跳ね上がる雨水。
「今回の中国修行のことだって…勝手に決めて、このざまじゃねーか!」

「ぐおっ!」
 ひるむことなく、パンダも乱馬へと突っかかっていく。捕まえて是が非でも、連れて行く。そんな気迫に溢れている。

「てめーいいかげんにしろよなーっ!」
 乱馬の仕掛けた蹴りが、真正面に入り、なぎ倒されるパンダ。
 だが、パンダ親父も、簡単に引き下がる訳ではなかった。
 少女とパンダの激闘に、集まり始めた野次馬。
 激闘の末、パンダを路面に沈めて、油断したのが敗因だった。
「俺はもう一度、中国へ行くぜ!てめーは一生、そーしてろよっ!」
 そう言葉を投げて、歩き出した途端だった。
 敵に後ろを見せた乱馬に、振り下ろされた鉄拳…否、交通標識。



 畜生…やられた…。

 

 遠のく意識で、そう思ったのだった。








 ……。


「どーしたの?急に黙り込んで。」

 傍らで声が響いた。

「あ…ううん。別に…。」
 ふっと浮き上がる、意識。
 ハッとしてあたりを見回すと、天道家の縁側。
 秋の陽だまりが、ほこほこと身体を温めていた。
 つい、こくりこくりとやってしまったようだ。

「もう…大丈夫?また、居眠りしてたんでしょ。」
 そう言いながら、目の前で、丸い瞳が笑った。

「夢…か…。」
 まだ、醒めたばかりの夢へと思いを馳せる。

「どんな夢だったの?」
 傍らに洗濯物がぎっしり詰まった籠を置きながら、あかねが覗き込んできた。
「昔の夢だよ…。」
「昔って?」
「そーだな…。ここに来る少し前、俺がやられた夢。」
「誰かに負けた夢なの?」
 きょとんとした瞳で見返された。

「……。まー、結果的には、そーゆーことになるんだろーな…。」
 そう言いながら、ふっと空を見上げた。




 そうだ。あの時、親父に無理やり連れてこられたから…俺は今…ここに居る…。
 あれから、十年…。変わらずにずっと…。



 あの後、出会った、跳ねっ返りの勝気な少女は、己に極上の笑顔を差し向けてくれる存在になっていた。許婚だったのは、もう通り過ぎし、過去の話でもある。


「結果往来…か。」
 ぽつんと投げた言葉。

「何が?」
 不可思議な瞳を手向けるあかねに、そっと手を伸ばす。

「こういうことだ…。」


 そっと触れる、甘い唇。




「わっはっは…。なかなか大胆になったのー!」
 玄馬の声が庭先から聞こえてきた。
「仲良きことは美しきかな…。大いに結構…。」
 嵐のように通り過ぎる、父親たちの言葉。
 乱馬の横で、あかね一人が、顔を真っ赤に熟れさせて、立ち尽くしていた。



 始まりを少しだけ思い出した、秋の昼下がり。






2015年11月18日筆




 一応、この話はアニメの方に寄っています。アニメは春、原作は夏…。それから、乱馬の着ていたチャイナ服もアニメは赤チャイナ、原作は黒チャイナでしたし、殴られた道路標識も違います。
 「上石神井」としたのも、おそらく、らんまの舞台、天道家は「大泉学園」から「石神井公園」その界隈と言われていることに、少しだけ配慮しました。今秋あのあたりを歩いてみて、なるほど…と一人、納得したので。南から北上したので、西武池袋線ではなく、新宿線を使ったのではあるまいかという妄想です。
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