かすみおねえちゃんが言うように、傘持ってくれば良かったなあ…。
恨めしそうに空を見上げて、溜息を吐く。
どんよりと垂れ下がった雲からバラバラと大粒の雨の雫が道路を瞬く間に湿らせてゆく。帰りつけると思って急いで足を運んだが、商店街を抜ける辺りでとうとう降ってきてしまった。
降り出したばかりだが、通り雨か、夕立のようにザアザアと音をたてて地面に落ちる雨。鞄を持ってそのまま駆けて帰るには少し激しすぎる雨脚。
「ついてないわっ!」
あかねはぼっそりと吐き出した。
少し緩やかになるまで、暫くここで待っているしか術はないだろう。
「あーあ…。乱馬が帰ってくるかもしれないのに…。」
ふっと掠めるのは乱馬の横顔。
現在、冬山修業と称して山ごもり中であった。時々思い出したように父親と修業へ行ってしまう。彼が留守をして一週間。
まだ帰ってくる気配がない。
乱馬の居ない天道家は火が消えたように静かで平穏だった。広い家ががらんどうになる。そんな寂しさがある。
先に一昨日、父親の玄馬だけ帰って来た。乱馬に何かあったのかと思わず心配聞けば、もう少し鈍った身体を鍛えてから帰るとまだ山小屋に残っているのだとニヤニヤしながら言われてしまった。大方、このスチャラカな父親とは別に修業して集中したいのだろう。春先にはあちこちで武道大会がある。それに向けて気合を入れているのだろう。
「早く帰って来ないかなあ…。」
彼が居なくなると妙に心がざわつきだす。姉のかすみもつい夕食を作りすぎてしまうようで、二日も同じメニューが食卓に並んでしまうこともしばしばあった。
乱馬と玄馬の馬車馬のような食欲は否が応でも食費を跳ね上げる要因になっているが、居なければ食卓そのものが虚しく映る。
「寂しくない?」
にやにやと笑いかけてくる直ぐ上の姉。
「せいせいしてるわよ!」
と捨て台詞を吐くが、内心は違う。そう、姉の言うとおり寂しいのだ。それがどんな感情であるのか、本当ははっきりと文字にはできないのだが、彼の居ない空間は何か物足りない。
そこに居るべき人が居ない空間がこんなに空虚に映るとは。もしこのまま彼が居なくなってしまえば自分はどうなるのだろう…。
余計なことをつらつらと考えてしまうのも、また、恋するものの贅沢な物思い。
「あかねちゃん。」
急に呼び止められてはっとする。
振り返ると見慣れた笑顔があかねを見下ろしていた。
「東風先生…。」
あかねの目は大きく見開かれる。
「困ってるみたいだね…。入れてあげようか…。」
東風はいつものようににっこりとあかねに笑いかけた。
彼の持つ傘は少し大きめの蛇の目。二人肩を並べてもびしょびしょには濡れないだろう。
「でも…。」
ちょっとはにかんでみる。
「遠慮なんて、あかねちゃんらしくないよ。ほら。」
差し出される青い傘。
「じゃあ、遠慮なく…。」
あかねはにっこりと笑って東風の差しかける雨傘の中へ身をさし入れた。
ぱらぱらと雨音が耳元で弾けた。
「暖かいね…。今日は。」
東風は笑いながら話かける。
「ええ…。まだ二月なのに、今日は…。」
「四月頃の気温と同じだって言ってたなあ。「三寒四温」ってよく言ったものだと思うよ。一雨ごとに春へと誘われるんだろうか…。」
東風はあかねの肩に水が掛からないように気を遣いながら歩いてゆく。俄かに出来た水溜りを跳ねながら車が通り過ぎる。
街行く人は二人を柔らかげに振り返る。
(ひょっとしてあたしたち、他の人にはどう映ってるのかな…。)
視線を流しながらあかねはふっと東風を見上げた。
小乃東風。
この若き接骨院の手腕治療師は、どんな患者にも平等に優しい。年寄りから子供まで慣れ親しまれる名医だ。その上格闘もセンスがあって腕っ節が立つ。
「乱馬くんは?元気?」
東風はいきなり彼の名前を口にした。
「あ、いえ…。今修業へ行ってます。」
戸惑いながら答える。
「そっか…。それであかねちゃん、最近一人で登下校してるのか…。」
「え?先生?」
「あ、気にしないでね。いつも僕の診療所から君たちが懸命に駆けていくのが見えるんだよ。だいたい毎日決まった時間に通るだろ?あのフェンスの上。」
東風はグリーン色の金網フェンスをちらっと見上げた。そう、いつも乱馬はこの上にひょいっと上って、タタタッと駆けている。
「彼が居ないと喧嘩相手がなくて寂しいだろ?あかねちゃん。」
あかねの心はズキンと鳴った。
(そっか…。あたし、東風先生が好きだったんだ…。)
少し思い出した切ない感情。
そう、幼いときからこの人に憧れていた。
初恋の人だった。淡くて儚い甘い夢の名残。
好きで好きで溜まらなくて、叶わない恋だと知っていた。東風の目には姉のかすみしか映っていないことも。それでも必死で見詰めていた。傍に居たくて、少し背伸びして。
もう、随分昔に忘れてしまった感情だ。
いつ忘れた?あれだけこの人を恋焦がれた感情は、何処へ行ってしまったのか。
あいつが来てからだ。
そう、乱馬が来て、己の世界は変わった。
乱馬。
口の悪いでくの坊。水を被ると女に変身する不思議な体質を背負ってしまった変な奴。男嫌いのせいで、半分女を引き摺る彼を許婚として押し付けられて始まった不思議な関係。
横柄で自信家で、どこがいいのか女の子たちにもてて…。最低な奴だと思っていた。なのにどんどん存在は大きくなった。今では居ないと寂しいのだ。
人間はなんて勝手な生きものだ。この人を恋焦がれた純粋な己は、何処へ消えていったのだろう。
傍らの東風を見上げてあかねはそんな思いに囚われた。
急に東風の足が止まった。
「あら、東風先生。あかねちゃん、わざわざ送っていただいたの?傘持っていかなかったから迎えに来たんだけれど…。」
前から来たのは姉のかすみだった。
「か、かすみさんっ!」
今まで普通だった東風が豹変する。
眼鏡が光り、声も上擦る。
(あちゃー。)
あかねは苦笑する。
東風は何故かかすみが視界へ入ると、別モードへと人格が変化する。どうやらかすみの前では変に上がってしまうらしい。温厚な若先生が一転して「変な若先生」に成り下がるのである。
でも、かすみは別にそれを疑うでもなく、嫌がるでもなく。いや、案外大きな好意を持っているのかもしれない。
かすみと東風が顔をつき合わせると、何とも度し難い二人の世界が広がり始めるのである。常人には理解できない不思議な世界であった。
「これはこれは、かすみさん。あかねちゃんが送られてきました。」
「あらまあ、わざわざありがとうございました。」
「そうそう、これは新しい、人体のツボ読本です。どうぞ…。」
東風は右手に持っていた冊子をかすみに差し出すと、傘を持ったまま踊り始めた。
こうなったら収拾はつかないだろう。
あかねは苦笑すると
「お姉ちゃん、傘貸して。あたし、先に帰るね…。」
そう継げて、かすみから傘を受け取ると、足早にその場を立ち去った。
少し無責任かと思ったが、あれで、かすみは東風と上手く歯車を噛み合せていけるのである。後はあの二人に任せておけばよい。きっと、降りしきる雨の中、幸せそうにはしゃぐ東風と、それを笑いながら見守るかすみが、肩を並べて歩いて来るに違いない。
邪魔者はとくと退散すべし、と勝手に決め込んだのである。
雨は止むことなく降り続いていた。
(乱馬が修業している山は雪なのかな、それとも雨なのかな…。)
ふと見上げる空。低い雲が垂れ込めていて、春嵐を思わせる。天気予報では、雨が上がるとまた寒の戻りがあるという。三寒四温でゆっくりと春に向かうのだろう。
家へ帰ると、まだ乱馬は帰宅した気配が無かった。玄関には先に帰ったなびきの靴と、父親と玄馬の雪駄(せった)が置いてあるだけだった。
「ただいまあっ!」
あかねは少しがっかりして、靴を脱いだ。
(今日も帰って来ないかな…。)
無性に寂しくなった。
あかねは鞄を部屋の隅へ置くと、道着に着替えた。日課になっている稽古をこなすためだ。黒帯を締め、身を引き締める。
白いソックスを脱いで裸足になる。ひんやりとした板の間がまだ春の遠さを知らしめる。
よく見ると、己の足の裏は白く粉を吹いたように分厚くなっていた。武道家の足だ。決して可愛いとは言えないが、修練された足の裏だった。爪もきっちりと切りそろえておかなければ、無用な怪我をすることもある。幼い頃は、床の冷たさに柔らかな肌が耐えかねてしもやけもたくさん作った。
雨はまだ天から真っ直ぐに落ちてくる。ザアザアと樋から雨水が落ちてくる。
あかねは道場脇の雨の掛からない軒下へブロックを積み上げた。こういうはっきりしないもやもやとした気分のときは、ブロックを叩き割るのが一番だと思った。
空手、柔道、合気道、剣道と、凡そ古来の武道には殆ど通じた独特な流派「無差別格闘流」。あかねはその後継者の一端だ。ブロックだって素手で割れる。
「やあっ!!」
一枚から順に砕いてゆく。
バラバラと地面へと屑が落ちてゆく。
無心に割った後、気配を感じて脇を見た。かすみが楽しそうに裏口から帰って来た。
道場は裏口に近いので、そこからの出入りは手に取るように分かる。かすみは横目から見ても上機嫌であった。
(東風先生との時間は楽しかったのかな…。)
あかねは姉の姿を見送ると、はあっとひとつ息を吐き出した。
羨ましいと思った。
東風は己が始めに憧れた父親以外の男性だった。その記憶は曲げられないものの、本当に、あれほど恋焦がれた気持ちは綺麗さっぱりと己から消え去っていた。一体全体何処へ消えてしまったというのか。
(あたし・・乱馬のこともこうやって忘れてしまうことがあるんだろうか。)
ふと過ぎった余計な考え。
東風を見ても、昔のような時めきがなくなったのは、乱馬という許婚が己の中で大きな存在になったからに違いない。月日を乱馬と重ねると共に、何時の間にか東風が己の視界から綺麗に消えてしまったのだ。
(このまま彼が修業に行ったまま帰らなかったら…あたし、乱馬のことも忘れてしまうんだろうか…。)
武道の稽古に余計な思案は禁物だ。にも関わらずぼんやりと考えを巡らせる。
「嫌だっ!!」
あかねは首をぶんぶんっと横に振った。
それからブロックを見下ろした。
「やあっ!!」
ガシャンッ!
ブロックはあかねの思いを打ち砕くように割れた。
ぐじゃぐじゃになった欠片が飛び散る。
はあっと溜息がまた漏れる。思うように綺麗に割れなかったからだ。砕くつもりではなかったのに。真っ二つに割るつもりだったのに。一瞬の気の迷いが、右拳に伝わったようだ。右手がキンと痺れた。怪我をした訳ではないが、上手く力が加減できなかったようだ。
「まだまだだな…。何迷ってやがる…。」
後ろで声がした。えっと思って振り返ると懐かしい瞳が腕を組んで笑っていた。
「気合が入ってねえぞ。んなんじゃ怪我すっぞっ!!」
「乱馬…?」
あかねの顔が一瞬緩んだ。
「見てろっ!ブロックはこう割るんだ。」
そう吐き出すと数段積み上げてあった、隣のブロックへ流し目する。
何重にも積み上げられたブロックの積み木。
それをカッと見詰める。鷹のような鋭い瞳。獲物を捕えたような灰色の輝き。見えない気合が立ち上がる彼の背中。
「はあっ!!」
腹から声を絞り出し、一気に振り下ろす右腕。
スパアンッ!!
砕けるのではなく、真っ二つに割れてゆくブロック。
見事だった。
(また、腕を上げた…。乱馬。)
あかねはじっと彼を見上げた。道着姿の彼は修業に出る前よりも逞しく見えた。そのままじっと佇んで見上げた。
「たく…。いつまでたっても進歩しねえ奴だな…。おめえは。」
乱馬は笑ってあかねを見下ろす。
あかねはそれに答えられずにただ、じっと、降りてくる柔らかな眼差しに魅入られた。
(忘れるなんて出来ない…。乱馬が帰ってこなかったら…あたしは…。)
「どうした?」
あかねが黙ってしまったのを訝しげに眺める。
「別に…。なんでもない…。」
そう答える強がりな言葉。
「来いよ…。ちょっとだけ稽古つけてやらあっ!」
そのまま道場へと入ってゆく。彼に付いて自分の道場に入った。
道場の中はじめっと湿っぽかった。雨の匂いが鼻を突く。
中央に進み出て向かい合うと、軽く一礼する。これから始める取っ組み合いに入るための儀式。
この瞬間、対峙する二人は武道家に変わる。
「でやあーっ!!」
直線的に突っ込んだ。
「おっと。」
乱馬はあかねの猛進をひらりかわす。憎いほど身が軽い。勿論かわされることは承知の上。あかねは足を踏ん張り、乱馬が身を翻した方へ再び突撃する。
またかわされる。
それの繰り返し。
あかねは肩で息をしながらも、直線的な攻撃を止めなかった。まるで何かに憑かれているように、同じ攻撃を反復させた。
いつもと違う彼女の気の流れを微妙に感じ取った乱馬は、不思議に思いながらも、あかねを避け続けた。かわしてもかわしても突き進んでくる少女。やがて息が荒くなり肩が揺れ始める。
それでも少女は攻撃をやめなかった。
何度目かの攻撃のとき、乱馬は正面から彼女を受け止めた。
「おめえ、さっきから何意地になってんだよ…。」
「そんなこと、知らないわよっ!!」
押さえ込んだ胸の中で聞こえる叫び。
はっとした。
(泣いてる…。)
一瞬の戸惑い。あかねはすかさず隙を突いた。
「でやあっ!!」
力が一瞬抜けた乱馬の襟ぐりを引っつかんで背負い投げようと身を引いた。涙とは裏腹な激しさ。
だが、簡単に持っていかれる乱馬ではない。ぐっと堪えて逆に力を篭めてあかねを引っ張った。
ドンッ!
乱馬の背中で鈍い音がした。何時の間にか激しいぶつかり合いは、道場の端っこの壁面に二人を近づけていた。乱馬は道場の壁を背にくっつけると、そのままあかねを引き寄せるように抱き留めた。
「馬鹿…。」
乱馬が吐き出した言葉。
闘気は最早、綺麗さっぱり拭われていた。
二人の上の時が止まる。
思いも動きも全部止まった。
一瞬の中に見える永遠。
「そんな迷った気なんかぶつけて来るな…。」
あかねの中へ累積された迷いが全て乱馬に吸収されてゆくような気がした。吸収されたあと、注がれる極上の優しさ。迷いの後へ満たされる深い愛情。
あたし…。忘れない。どんなに離れていても、乱馬を想っていられる…。大切な人だから…。
乱馬の広い腕の中で、全ての感情がたおやかに流れ出す。もう迷いは無かった。
「ただいま…。」
乱馬がそっと耳元で囁いた。
「おかえり…。」
これから幾多も繰り返されるだろう言葉。乱馬が帰り着く場所がここなら、乱馬を迎える場所もここだ。二人の想いが宿る場所。
二人は互いの中に宿る純粋な思いを確かめ合うように、そこで暫く時を重ねた。
降り注ぐ春の雨は、ぽつぽつと音をたてながら二人を包んだ。
降りしきる雨の中にひっそりと匂う春の気配。
寒の戻りはあるかもしれないが、春はそこまでやってきている。
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