「はいっ!これ。」
今朝方家を出てすぐあかねに渡されたもの。それは小さな紙切れ。
何だろうと見ようとしたら、遮られた。
「後でこっそり見てね、じゃ、先行くわよ。」
と。
あかねは浮き足立つように駆けて行く。
「おいっ!こら、置いてくなっ!」
俺も慌てて駆け出す。ポケットに貰った紙は突っ込んだ。
チリン、チリン、チリチリ…
いきなり自転車の呼び鈴。
「乱馬ぁー、おはよーさんね。」
朝から何だよと俺は振り返る。と、そこへうっちゃん。
「こらシャンプー、抜け駆けは卑怯やで。」
何だ?二人とも。
俺の目の前で火花を散し出す。
そおっと二人を捨て置いて、先を急ごうとしたら、今度は黒薔薇が舞い出す。
「乱馬さまっ!ごきげんよう…。」
見るとこの寒空にレオタードの小太刀。
「私が一番先に声かけたねっ!」
「乱ちゃんはうちの許婚やから、うちが先や。」
「いいえっ!あたくしですわ。」
「よお…。乱馬、相変らずもてもてだな…。ま、がんばんなっ!」
傍らを駆け抜けるクラスメイト。
そうだ、こうしちゃいられねえ。急がなきゃ遅刻だ。
一目散に駆け抜けた。
後ろで三人が何か怒鳴ってたけど、相手になんかしてられねえ。
懸命に駆けてなんとか始業時間には間に合ったものの、朝っぱらから息が上がる。
ガタンと下駄箱を開けると、どさっと何かが零れ落ちる。
「あん?」
金や銀、赤い包装紙やリボンで飾られた小箱がいくつか上履きと一緒に下に落ちる。
「おまえ、もてるなあ…。運動神経抜群だから下級生からも目をつけられてんだな…。」
大介が笑ってた。
「何だよ…。」
俺は何がなんだか分からずに首を傾げた。
「あーあ、ホントにこいつときたら・・。これだんもんな。たく…。神様は不公平だよな。」
ひろしがにょっと覗き込んできた。
「言い寄る女の子には興味なしか…。ま、当然だな。あかねがいるんだから。」
「んだんだ…。一人ぐらいまわせよな。」
二人してにやにやしてやがる。
「だから、何なんだよ。」
俺はむっとして聞き返した。
「ひょっとして、おまえ今日が何の日かチェックしてなかったってか?」
ひろしが笑う。
「あん?」
「あーあ、平和な奴だな。」
「で、何の日だ?」
「バレンタインだよ。」
思い出した。
そうだ、確かに今日は二月十四日。
それでシャンプーやうっちゃん、小太刀がさっき…。
「本命がいる奴は余所見なんかする必要ないもんな。」
「あかねから貰ったか?」
「貰ってねえよっ!!」
俺は怒ったように言った。
そこへ本鈴が鳴り響く。
「いっけね、授業始まっちまうっ!!」
慌てて駆け込む教室の中。
その日は一日落ち着かなかった。
何故か知らないが、見たこともねえような女の子たちが休み時間、入れ替わり立ち代り俺のところへもじもじとチョコレートを持ってきやがる。
きっとこれはあれだな。この前の校内球技大会。俺、サッカーとバスケと両方に借り出されて、目立ちまくったから。自分で言うのもなんだが、運動神経だけはどんな奴よりも自信があったから、ぶっちぎりでぶっ飛ばした。
後でなびきが、写真で稼がせて貰ったってニコニコ上機嫌だったもんな。
「あんたの人気、赤丸上昇中よ。あかねがテンション高いでしょ?最近。」
と笑ってた。
そういえば、あかねの奴、あれ以来ちょっと不機嫌かもしれねえ。何かと俺につっかかって喧嘩売ってきやがったっけ。まあ、そんなことは今に始まったこっちゃねえから、全然気にしていなかったわけで。
女の子、それも下級生が多かったんだが、彼女たちが来るたびに、あかねの背中が震えてるような、そんな嫌な気を感じていたのも確かだ。別に俺は悪いことしている訳じゃねえけど、渡されるチョコを突っ返すこともできずに、もぞもぞしていた。
なんだかんだって、気がついたら両手に持ちきれねえほどチョコレートの小箱が積み上がっていた。
終礼の時間。
「たく…。いいよな。もてる奴は。」
隣の席のひろしが溜息を吐きながら言う。
「で、あかねは?」
大介が脇をつんつんと突付いた。
「だから、貰ってねえって…。」
そうなのだ。
何故かあかねは何もリアクションしてこないんだ。
気になる。大いに気になる。
「ふうん…。まだ貰ってねえのか。俺貰ったぜ…。」
「な、なにいっ?」
思わず大声上げちまった。
当たり前だ。あかねが俺以外の奴にチョコレートだと?
「俺も貰ったぜ…。」
ひろしに続いて大介までもにやにやと笑いやがった。
一人ならずも二人だと?
俺が大きな目を見開くと、二人ともケラケラと笑い出しやがった。
「貰ったって言ったって、義理チョコだよ。何人かの親しい男子にはみんなこうやってくれるもんだろ?」
「第一、本命にはもっといいのくれるもんだろ…。たく、何心配してやがるんだ。」
手に出して来たのは小さなチョコレート包み。
「なんだ、そっか…。」
ちょっとホッとした。
ん?いや待てよ…。あいつ、去年は…。ちっちゃなチョコレート一個ちょこんと俺にくれただけだぞ。あれって何だ?本命には手厚いのくれるんだったら…。
あかねのことになると、俺は頭がグルグルになるらしい。
それより何より、何のリアクションもねえのが気に掛かる。俺が女子どもにもてて、いっぱいチョコレートを貰ったのが気にくわねえんだろうか…。
余計なことばかりが巡り出すのだ。
帰りの会が終わって、下校時間。
あかねは相変らず、知らんぷり。先にたったと帰っていきやがった。
何だか肩透かし食らわされたみたいだ。
俺は、仕方なく、一人きりで校門を出た。
と…。
忘れてた。まだバレンタインデーは続いているんだっけ。
前を見たら、物凄い形相で待ち構えている女の子たちが三人。
そう、シャンプーにうっちゃんに小太刀。
「受け取ってもらうね…。」
「食べてもらうで…。」
「差し上げますわ…。」
何を勘違いしているのか、みんな戦闘モードに入ってやがる。
いっせいのせいで飛び掛ってきた。
「うわーっ!!」
俺は大慌てで駆け出す。
だってそうだ。こいつらのチョコレートなんて、迷惑至極なのだ。只でさえ、多分、気分を害しているあかねに、これ以上、油を注いだら。チョコレート貰えなくなるじゃねえか。
兎に角逃げた。
街中を逃げて逃げて逃げまくった。あいつら、いつもよりもしつこかったこと。それぞれ必死なのは分かるけど、追いかける身の上にもなってみろよ…。
どうにかこうにか逃げ切って、天道家に帰り着いた頃は四時を回っていた。半時間以上走っていたことになる。チョコレートをどっかと玄関に置いた。そして、汗を拭こうとハンカチをポッケから出そうと手を突っ込んだ。と、それが出てきた。そう、今朝方あかねが渡した紙切れが一枚。
情けねえが、一日中慌ただしかったんで、きっちり記憶の外へと放り出されていた。
がさがさと紙を開けてみた。
何か書いてある。
見ると地図だ。
『午後四時半頃、この店で待ってるからね。あかね』
あかねの筆跡。
勿論俺は大慌てでその地図を頼りに、街を巡り始めた。
幸いそんなに遠くなかったので、少し遅刻したくらいで辿り着けただろうと思う。
店の名前は「フィガロ」。
ちょっと洒落た感じのケーキ屋だ。
ちょっと入るのが躊躇われたが、あかねが待ってると思えば、勇気を振り絞れた。
こんな時は女に変身しちまうのが多分、楽なのだろうが、敢えてそまま男で居た。
店内はチロル風な渋めの木の雰囲気。いかにもそれらしい女の子たちが好みそうな店だった。ケーキのショウウィンドウの横には女の子たちがたむろっていて、皆それぞれ手にチョコレートを持って買っている。
彼氏にでもあげるんだろうな、とぼんやりと考えながら更に奥へ進んだ。
店の奥は茶房になっていて、どうやらケーキを出してくれるようだった。大きなドアを開けて更に足を進める。ちょっとドキドキした。だって、今の俺は「男」だから。
あんまりこういうところへ男一人じゃ入らないもんだから。何故か物凄く緊張していた。
俺の心に同調するように、カランとドアベルが鳴った。
あかねが居なかったらどうしようなんてことも含めて、頭でいろいろ巡っていた訳だ。が、それが取り越し苦労だということが直ぐにわかった。
あかねが居たからだ。
あかねはちょっと奥まったところに一人ポツンと座ってた。
俺を見つけるとはにかむようににこっと笑いやがった。
(可愛い…。)
思わずドキドキしながら言葉を継ぐ。
「よっ!!」
その時の俺はきっと茹蛸のように真っ赤になっていたと思う。良いあんばいに、店内の照明がちょっと暗くて、気取られはしなかったとは思うのだが。
「待たせた…かな。」
俺はうつむき加減にちらっと彼女を見ながら言った。
「うん…。ちょっとだけね。」
「そっか…。座っていいよな?」
一応確認する。
「いいよ。」
あかねはまたにっこりした。
差し向かいに座って俺は思い切りもじもじしていたと思う。
ウエイトレスさんが氷水の入ったグラスとメニューを持ってきた。なんだか甘そうな横文字の御菓子の名前が並んでる。
「ミルクティーとザッハトルテ、お願いします。でいいよね?乱馬。」
あかねが問い掛けてきた。良くわからないが彼女に任せることにして「おお。」と相槌を打っていた。
「で…。何だ?こんなところに呼び出して…。」
ウエイトレスさんが遠ざかった後であかねに小声で聞いてみる。
「ん…。あのね、今日はバレンタインでしょ?」
きたきた。
「まさか、手作りじゃねえだろうな…。」
ついいつもの調子で口が滑った。
「バカッ!そんなんじゃないわよっ!」
あかねが小声で睨みつけやがった。うっ!不味かったかな…。
「だから、あたし自分じゃ作れないし…。乱馬今年はたくさん女の子たちにチョコレート貰うだろうと思って…。それで、チョコの代わりにお茶に誘ったのよ…。」
もじもじしながら俺に言った。
途端に俺は有頂天。
だってそうだろ?
「ここ、ザッハトルテっていうウィーンのチョコレートケーキが美味しいんだ…。前に一度あかりちゃんと来たことがあって…。乱馬、本当は甘党でしょ?」
ああ、そうだ。俺は甘党なんだ。チョコレートパフェとかあんまんとか大好きだ。だから、時々、女に変身してあかねに付き合ってもらうんだけど…。
「迷惑だった?」
ちらっと見上げるその瞳。悩殺寸前。
「め、迷惑だなんて…。その…。ありがとよ…。」
ドキドキして、これ以上どう言葉を紡ぎ出せばよいか正直俺には分からなかった。
頃合を見計らうように、ケーキと紅茶が運ばれてきた。紅茶だって本格的だ。ちゃんとハリオーで入れてある。勿論、リーフティーだ。砂時計がコトンと置かれて
「下までさがりましたら、こちらを下げて注いで召し上がってください。」
ってウエイトレスさんに言われた。ケーキも良いチョコレート色。こってりとコーティングされている。
フォークを取って一口。
何て上品な甘さ。ちょっと洋酒が効いてるのかな。アプリッコットジャムの風合いもした。
「美味いっ!!」
思わず囁いてた。
あかねの顔もぱあっと明るくなって。
「良かった…。気に入ってくれて。あ、勿論、今日はあたしのおごりだからね。」
「バレンタインだから?」
俺はちょっと悪戯っぽく尋ねてみた。
こくんと躊躇いがちに揺れるあかね。
着ている服がチョコレート色でコーディネートされてて、とってもこの店の雰囲気に似合ってる。タータンチェックのスカートとベージュのブラウスとふわっとしたセーター。あかねらしい清楚な感じが俺好み。きっとさっさと学校から帰ってきて選んだろうな…。ここに合わせて。
こうやって女の子が自分のためにちょっと普段よりお洒落してくれるなんて。男って単純だからそれだけで嬉しくなるものだ。勿論俺だって。
予め用意してくれるチョコレートだって捨てがたいけど、こういうバレンタインっていうのも粋だ。
女の子たちにいいように振り回された一日の疲れが紅茶の香りと共に取れてゆく。傍にあかねが居るから、余計かな。
あかねもちょっと余裕が出てきたのだろうか。
あからさまなヤキモチは少しだけ穏やかになったような気がする。どんな女の子たちに追いかけられても、俺はおまえだけだって分かってくれてるのかもしれない。
言葉をそれ以上継げなくて黙り込む二人。
でも、これでいい。暫くはこうしてゆったりと二人だけの贅沢な空間を味わっていたい。
そんな俺たちが、本当に一つの魂になるのは、まだ当分、先のことなのだろうけれど。
窓の外は木枯らし。
ときめきは仄かに薫るミルクティーとザッハトルテの甘さの中に。
完
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