蒼い秋

「乱馬っ!乱馬ったらあっ!」

 少女の明るい声が響く。
 透き通る声は校舎内を駆け抜ける。しかし返事はない。
「ねえ、乱馬見なかった?」
 傍らの同級生の男子たちに聞いてみた。
「さあ…。昼前には一緒に居たけど。」
「ふいっと消えたよなあ…。」
「その辺でサッカーボールでも蹴ってんじゃねえか?」
 期待できる返答は返ってこなかった。
 
 平和な九月の昼休み。
 昼食が終わってほっと一息吐く瞬間だ。午後の授業は嬉しいことに休講。先生の私用とやらで国語の授業が自習になった。自習とはいえ、その辺りは元気良い高校生。まだ六時間目が残っているので帰宅は出来ないが、他のクラスの迷惑にならない限りは結構自由に時間を使える。
 宿題をするもの、本を読みに図書館へ篭るもの、真面目に自習するもの…。果ては購買部で休憩するもの。グラウンドの隅っこでサッカーに興じるもの、お喋りに花を咲かせるもの。様々だ。
 おまけに今日はあの変態校長も視察とやらで外へ出ていて留守だ。平和そのものの昼の風景だった。

「もう…。ちょっとだけ相手して貰おうと思ったのにな…。」 
 あかねはこそっと言葉を吐いた。
 彼女は必然性があって、今、武道の稽古相手を探していた。
 学園内の男子をなぎ倒すくらい腕っ節が立つあかね。普通の男の子では太刀打ちできない。だが、ひとり、許婚の乱馬だけは違っていた。
 彼はあかねよりも強かった。腕も精神も。
 この前から家でも学校でも、乱馬に稽古相手を打診しようと言葉を継ごうとするのだが、彼はさらっと逃げていた。
 今日こそはとっ捕まえてでも稽古相手してもらおうと、昼休みからずっと探し回っていたのである。
「逃げちゃったかな…。もう。こういうことにだけは鼻が利くんだから…。」
 あかねは二人分の道着を片手に、溜息を吐いた。
 校舎内を探してみたが、結局乱馬は見つからなかった。

 渡り廊下から、ふっとあかねはグラウンドを見渡した。
 遥か先には体育倉庫の横に並立する木々の緑が目に入った。
「ひょっとして…。」
 いつだったか、乱馬はあの木立の中で昼寝していたことがあった。たまたまソフトボールを飛ばしたあかねがボールを拾いにそこへ入って、寝転んでいる彼を見かけたことがある。
 昼休み、友人たちとサッカーやキャッチボールに興じていないときは、時々そこで昼寝しているのだろう。彼の服に乾いた土がついていることがあったからだ。
 そこは校舎の外れで、体育倉庫がぽつんと立てられていた。その裏手は滅多に人が来ない。後ろには銀杏の木が二つ、仲良さそうに、両手を広げて空へと伸びている。
 雄木と雌木の二本の高木だった。もう少し季節が移ろうと、金色の葉を揺らめかし、下一面に「銀なん」を落としてゆく。流石に銀なんの匂いは物凄いのでその間だけはこの下で惰眠は貪れないだろうが…。
 桜とは違って、あまり害になる毛虫も寄らないこの木下は、芝草が少し生えているくらいで、風も適度に通り抜けるし、何より高校の喧騒から離れて静かだった。

 あかねは「駄目もと」と思って、目に入った木立の方へと歩みを進めた。

…居た。…

 想像通り、乱馬はそこで空を仰ぎながら寝そべっていた。
 
 
 さわさわと風が鳴って、上の梢が葉を揺らめかした。まだ、紅葉には間がある銀杏は、緑の元気な葉をゆさゆさと称えていた。心地良い風と木漏れ日と。乱馬は静かに頭の後ろで掌を組んで、横たわっていた。
 邪魔するのが悪いようなそんな気がして、あかねは少し離れたところから乱馬を覗き見た。
 乱馬の表情は穏やかで、午後の惰眠を楽しんでいるように目を閉じていた。ゆっくりと動く胸。寝息が聞こえてくるようなそんな錯覚さえ覚える。
 あかねはゆっくりと音を立てないように乱馬の枕もとに来た。

…邪魔しちゃ、悪いかな…

 あかねは躊躇しながら傍の銀杏の幹に手を添えた。
 彼女の鼓動が伝わったのか、風も無いのに銀杏はゆさゆさと微かな音を立ててざわめいた。

…やっぱ、悪いね…。このまま立ち去ろう。

 そう思って引き返そうとしたっときだった。
 くいっと手を引っ張られた。

「え?」

 気がついたら乱馬の悪戯っぽい目がすぐ前にあった。

「たく…せっかく人が気持ちよく惰眠を貪ってるっていうのに…。無粋な奴だな…。」
 口は悪いが声は笑っていた。
「ごめんね…。邪魔しちゃって。すぐ行くわ。」
 声は心なしか上ずり、心臓は波打っていた。
「駄目…。行かせねえっ!」
 また強く引っ張ったので、あかねはその場へへたり込んでしまった。
「ちょっと乱馬っ!」
 あかねが甲高い声を響かせたとき、手を握ったまま乱馬はふと空を見上げて言った。
「空…。高くなったな。見ろよ。真っ青だぜ。」
 言われるままに仰ぎ見ると、白い雲がぽっかりと青空に浮いていた。
「秋か…。」
 乱馬はふっと溜息を吐いた。
 足元では、コオロギがころころと声をたてて恋を歌っていた。
「たまには何にも考えず、こうやって季節の移ろいを眺めるのもいいもんだぜ…。」
 真意がわからずに、あかねは不思議そうに乱馬の瞳を覗き込んだ。彼の瞳に移りこむ自分を見た。
「どうしたの?熱でも出た?」
 あかねはふっと言葉を食んだ。
「たく…かわいくねえ奴だなあ…。俺だってたまには哲学者や詩人になるんだよ…。ごくたまにだけどな。」
 季節の変わり目には不思議な魔力があるのだろうか。
 乱馬の言い様が可笑しかったのであかねはついくすっと笑ってしまった。
「何だよ…。その、笑いは。失礼な奴だなあ…。」
 乱馬はそう言いながら自分も笑った。
「ねえ。乱馬。哲学したり詩を暗唱するのもいいけれど、どうしてあたしの稽古の相手してくれないの?」
 真顔になってあかねが言うと
「また、そのことか…。面倒なんだよな…。試合なんて…。」
「仕方ないじゃない。格闘家の宿命でしょ?それに、見知らぬツワモノが集まるってお父さんたち言ってたじゃない。わくわくしないの?乱馬は…。」
「わくわくしねえ訳じゃねえけど…。」
「らしくないわね…。」
「そっかな…。」
 視線をあかねから外して乱馬は静かに空を見上げた。
「秋か…。季節の変わり目はいけねえや…。俺らしくねえか…。そっか…。かもしんねえな…。」
 己の言葉を噛み砕きながら乱馬は呟くように囁いた。
「ちえっ!いいよ…。帰ったら稽古に付き合ってやらあ・・。」
 目をあかねに転じて言い放った。
「ホント?」
 あかねの目がぱっと輝いた。
「ああ。男に二言はねえよ。でも、その代わりに、次の授業が始まるまで…。」
 ごそっと乱馬の頭が動いてきた。
「乱馬?」
 あかねは真っ赤になって言い放つ。
「ちょっとだけこうさせてくれよな…。おめえの膝の上、気持ち良いから…。」
 そう言うなり目を閉じた。
 あかねの膝の上に乱馬の頭がちょこんと乗っていた。膝枕。
「ちょっと乱馬っ!乱馬ったらっ!」
 囁いてみたが返事はない。その代わり、聞こえてくる微かな寝息。本当に眠ってしまったのかふりだけなのか定かではなかったが、乱馬は気持ちよさそうに身を寄せる。
「もう、いつだって勝手なんだから…。」
 あかねはふっとほころびの溜息を洩らした。それからそっと枝垂れかかる乱馬のおさげを指先で撫でた。



 頭上の銀杏の木がさわさわなった。乱馬とあかねを見下ろして、二本の銀杏は仲良く枝先を合わせながら揺れていた。
 まどろみの午後。
 二人だけの平和な時間(とき)。





文章 一之瀬けいこ
2001年9月


実はこの話に続く膨大なプロットの山がありまして、
「天高く」「黄葉のわかれ道」「浪花紀行」と続いて行くのですが…。
みかん箱へ収納します。
なかなか進まず、いつ完結することやら。
このシリーズ十八歳の二人の青春の光と影がテーマです。
短期間では収拾つきそうもないのでコツコツ頑張ります。


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