暑い午後
朝から何本かあかねの稽古の付き合いをした。
新しい型を試したいからと請われたからだ。暑いし、かったるいから本当はパスしたかったが、「夕ご飯のおかず一品」と引換えにしぶしぶ承諾した。
同じ無差別格闘流の流派を汲むとはいえ、雄々しい天道流の後継者、あかね。それを更に野太くしたような実践流派の早乙女流。組み手の基本は兄弟流儀だから殆んど同じだ。
初めてこの道場で彼女と組んだときも、その類似点に驚いたほどだ。親父以外に同じ流儀は知らなかったから。あの時は新鮮な驚きがあった。俺が彼女に惹かれ始めたのも、そのことと関係があったかもしれない。
あかねの動きはとても女とは思えねえほど粗い。力任せに打ち込んでくる。攻撃力は目を見張るものがある。その技は破壊力に満ち溢れている。うかうかしていると足元を掬われる。それにあいつは感情を剥き出しに突っかかってくる。
勝気。そんな言葉が当てはまる。気性の激しさをそのまま拳にぶち込んでくる。
「だーっっ!」「でやーッ!」
普段のあかねとは全く違う形相の武道家、天道あかねが目の前に立ちはだかる。
その激しい気合を寸で避けてゆく。あかねの癖も拳も俺には手に取るように見える。
「どうしたっ!もっと積極的に打って来いっ!」
いつの間にか戦いに引き入られる。あかねの激しさに俺は翻弄され始める。
「来いっ!あかねっ!」
道場の上ではいつも真剣勝負。あかねの激しさに揺さぶりを掛けられながら俺は武道家、早乙女乱馬へと転身を遂げ始める。互いの瞳は相手を大きく映し出す。
「やーっ!」
あかねは跳んだ。高い。
俺は下で斜に構える。そして腕を前に組んで防御する。
肉体と肉体が弾け跳ぶ。
バシンと鈍い音がして二人で床に雪崩れ込む。
受身を取った俺達は床の上に転がる。
「ふう…。相変わらず、蹴りの攻撃だけは一品だな。」
俺は身体を起こしながら、あかねを顧みる。武道家から一人の男に戻る瞬間だ。
だが、あかねに返事が無い。
「おいっ!どうした?受身に失敗でもしたか?らしくねえ…。」
あかねは床にうつ伏せて肩で息をしている。
なかなか起き上がらない彼女に業を煮やして、俺はあかねを覗きこんだ。
あかねは薄らぼんやりと目を開いた。
「ごめん…。ちょっとくらっときたの…。」
「大丈夫か?」
「うん…。」
はあはあと荒い息が聞こえてくる。肩は激しく動く。
あかねの身体を抱き起こした。
「おい…。すごく熱いぞ…。おまえ…。」
「そう?」
ふうふうと息が聞こえる。
「たく…。おまえずっと動きっぱなしで熱中症にやられかけてるな…。待ってろ。」
俺は道場の脇に置いてあったペットボトルを取った。いつも修行をする時はこれにスポーツドリンクかお茶を入れて持ち歩いている。さっきも少し飲んだ。
「ほら…。これ。飲めよ。」
差し出すペットボトル。
「いいの?」
「良いも何も…。脱水症状の一歩手前だぞ…。それは。」
困ったもんだというように眉間に皺を寄せながら俺はあかねの傍らに腰を落ち着けた。
あかねの額から汗が滲み出る。それをタオルで抑えながら俺はペットボトルの蓋を開けた。
「全部飲んじまってもいいからな。とにかく、水っ気取って、暫く座ってろ。いいな…。」
俺はそう言うと、あかねの口にペットボトルを含ませた。虚ろな瞳であかねはそれを受け取るとごくごくと咽喉へと水分を補給しはじめた。
太陽の影はないとはいえ、真夏の真昼の道場の中は蒸し風呂状態だ。風は殆んど止まっている分、窓を開け放っていても空気の動きはない。底に沈みこむような重苦しさがある。汗は流れて乾く事も無く、じっとりと道着に張りつく。
こんな中で動き回るのだ。適当に水分を補給してやらないと身体がまいっちまう。
あかねは美味しそうに水分を補給している。
「美味しい…。」
あかねはようやく人心地がついたのか、ほっとそんな言葉を吐き出した。唇から水が滴り落ちる。それを軽く手で拭いながらあかねは笑って見せた。
「これからはちゃんと水っけのあるもの用意してから稽古に望めよ…。おめえは熱中症とか脱水症とかいったことに無頓着なんだから…。基本だぜ。」
俺はやれやれというようにあかねをちらっと一瞥した。
「うん…。そうだね…。乱馬、さっき、これを美味しそうに飲んでたっけ…。」
「ああ…。適度に補給しながらじゃねえと、俺だってくたばっちまうからな。」
「ゴメンネ…。横取りしちゃって。」
「そんなこと、気にすんなよ…。あとで台所でまた入れればすむ話だろ?美味かったか?」
「うん…。」
あかねの笑みに思わず唸る心臓。
「あんたたち…仲がいいわね…。相変わらず…。」
後ろで声がした。
なびきだ。
「俺たちはただ、修行してただけだからなっ!」
思わぬ伏兵に俺はちょっと嫌な顔をして見せた。何もやましい事はしてないぞと胸を張る。
「そお?だって、そのペットボトルって乱馬君の修行専用のでしょ?それを飲んだんだから…ね、あかね。」
「たく…。何なんだよ。なびき…。」
ふと目を上げるとあかねがカチコチと固まっていた。
「あん?どうした?」
怪訝に振り向くと、
「これって…お姉ちゃんが言おうとしてるとおり、やっぱり…だよね…。」
「はん?」
「だから、さっき、乱馬これ飲んだって言ってたよね…。」
「ああ・・。もともと俺んだからな。このボトル。」
「……。」
あかねは赤面して黙り込んでしまった。
「どうした?」
「だから…。鈍いなあ…。それって…じゃん。」
「はあ?よく聞こえねえけど…。」
俺はあかねに耳をくっつけた。
「間接キッス…。」
あかねの口が微かにそう象(かたど)った。
「!!」
そうだ…。これって立派な間接キッス…。
頭に血がふつふつと上り始めるのを感じた。かあっと発熱した。そのまま身体が凝固した。
「ま、なさぬ仲じゃないから良いんじゃない…。ごちそうさま…。」
なびきはそれだけ言うと、さっと首を引っ込めて何処かへ行ってしまった。
後には固まり続ける俺とあかねと…。
暑い午後は溶けてゆく。