乱馬と喧嘩した。
いつものことだからもうすっかり慣れっこになっている私たち。
「素直じゃねえっ!」
わかってるわよ、そんなこと。
「可愛くねえっ!」
そう言われる度に頑なになる心。
折角腕を通した浴衣がなんとなく枝垂れて見える。
「ばかバカ馬鹿ばかっ!」
小石を蹴りながら闊歩する。
…楽しみにしてたのに…。二人で肩を並べて歩けると思っていたのに…。
「乱馬のバカーッ!!」
鳥居を入るとあかねはそう叫びながら思い切り石を蹴った。
「痛いっ!!」
前方で男の人の声がした。
「あ…。ごめんなさい。」
どうやら私の蹴った石が当ったらしい。
思わず詫びを入れる。
「君が蹴ったの?この小石…。」
振り返ったのは二十歳くらいの男の人。綺麗な浴衣を着ている。
「は、はい…。」
彼の足元をみてはっとした。小石が当って腫れている。
「ごめんなさいっ!」
あかねは直立不動で謝った。
「いいよ…。大丈夫…。」
その人は微笑んでくれた。怒鳴られたらどうしようって思って身構えたあかねの力が抜けた。
「お祭り行くの?」
と若者は話し掛けてきた。
「はい…。」
「一人で?誰か連れが居るの?」
俯き加減であかねは答えた。
「ええ・・あの…。その…今は一人です。」
乱馬と喧嘩して先に出てきたあかねは、曖昧にしか答えられない。それもまた仕方のないところだろう。
「そう。それなら丁度いいや。一年に一度のよき日に一人でウロウロするのも寂しいって思ってたんだ。ちょっとだけでいいから付き合ってよ。」
彼はにこっと笑った。
小石の件もあって、後ろめたかったあかねはこくんとうな垂れた。それに、当てにしていた片割れは来るかどうかわかったものではない。ならば、一人より誰かと楽しんだ方がいいかもしれない。そう思ったのも事実だ。
「じゃあ、少しの間だけ、お願いするね…。」
そう言って若者は軽く微えんだ。
ドキッとした。じっと見ると綺麗な人だった。流し目でさらさらした髪の毛で、何処となく上品で上方風のお醤油顔。透けるように白い肌。筋骨隆々の乱馬とは全然違うタイプだった。
神社の境内はそこそこ賑わっている。屋台に火が入りはじめ、夕暮れに栄えて見えた。祭り太鼓の音が鳴り響く。
「はいっ!」
彼は赤い焼きりんごをあかねに差し出した。かじってみると飴の甘さとりんごのサクサクがあかねの口に広がった。
「美味しい。」
「そう、良かった…。」
それを訊いて若者はにっこり微笑んだ。
夕暮れが迫るとともに人が増えてきた。
「はぐれないでね…。」
そう言って優しく若者はあかねに囁いた。
「はい…。」
なんだか不思議な気持ちがした。会ったばかりなのに。ふわっとした柔らかい優しさを持っている人だった。別にナンパな訳じゃない。下心もありそうじゃない。
手は繋がっていなかったが、気を許してしまいそうな不思議な人だった。
「まだ名前を訊いてなかったね。良かったら教えてよ…。」
彼の問い掛けに
「あかね。」
と小さく答えた。
「そう…。あかねちゃんか…。あの夕焼けの色と同じだね…。」
彼は笑った。
沈む太陽の最後の輝きが鎮守の森へと消えるで赤く燃え上がる。
ふと目を転じると乱馬がいた。
右京とシャンプーに囲まれて歩いているのが目に入った。
あかねはそっちに目が行った。相変わらず優柔不断な笑顔を浮かべて乱馬が歩いている。
嫉妬よりも寂しさがこみ上げる。
「バカ…。」
思わずあかねはそう吐き出していた。
「どうしたの?」
傍らの彼があかねに問い掛けた。
「いいえ…。なんでもないです」
目を反らして慌ててあかねが囁いた。
「ねえ、あっちへ行きましょうよ…。」
あかねは彼の手を引いて、乱馬たちとは反対の方へと誘った。半ばヤケクソに…。
「望みのままに…。」
にっこり微笑んであかねの横の彼は笑った。
神社の階段を上り、神殿の奥へと足を踏み入れる。
夕日は沈んで当りは夕闇が迫り来る。残照ももうすぐ跡形なく闇に飲まれるだろう。祭りの賑わいは蒸し暑さを増す。汗がべとっとしていてなかなか乾かない。含んだ湿気が多いのだろうか。
それでもあかねは楽しもうと自分に葉っぱをかけた。
…乱馬のことなんか思い出したくもないっ!!
ただの意地っ張りだということは自分が一番良く知っていた。
あかねの気持ちを知ってか知らずか、知り合ったばかりの彼は飄々とリードしてくれる。女の子の扱い方に慣れているのだろうか。時々横顔を見上げて覗き込む。
「ちょっと待ってて…。」
人ごみに若者が消えた。そして帰って来ると
「はい…。あかね。」
と白い長いものを差し出した。それは神社の御札。
「御札?」
あかねが問い返すとにっこり笑った。
「この神社はね、大物主という名前の神様が祀られているんだよ。」
「へえ…。」
子供の頃から慣れ親しんだ氏神さまであるが、祭神などはよく知らなかった。
「どんな神様なの?」
「良く知らない…。」
あかねの問いにふふっと若者が笑った。
「記紀神話では倭迹々日百襲姫(やまとととひももそひめ)に会いに来たという蛇神として描かれているみたいだけどね…。」
「やまとととひももそひめ?なんだか早口言葉やってるみたい…。」
あかねは笑った。
「そう?昔話で訊いた事ないかな?毎夜娘のところへ忍んで尋ねてくる綺麗な男の人は誰か確かめようと、その両親がやってくる男の人の着物の端に糸をくくりつけたってお話。」
「うーん。お母さんに昔聞いたかも…。確かその人って針の穴を通って帰ってゆくんでしょ?」
「そう。蛇に姿を変えるって…。」
「へえ…。蛇かあ…。そう言えば、父さんが言ってたわ。この神社は巳(みい)さんもお祭りしてあるって…。」
「そうだね…。巳さんかな…。ほら、御札、あかねが持ってて…。」
そう言って若者が差し出した御札。何の変哲もない白い御札。
その先は二人で夜店の屋台を巡った。
傍から見れば恋人に見えたかも知れない。
乱馬と喧嘩したことも怒っていたことも全部忘れられるようなそんな気がした。
鎮守の森の風が鳴った。
「ねえ…。あかねは何処か別の世界へ行ってみたいって思わない?」
唐突に若者があかねに訊いてきた。
「え?」
「例えばもっと自由になれる世界へ行ってみたいって思った事ない?」
「自由な世界…?」
風がまた鳴る。
あかねの短い髪をふわりと掬い上げる。
「僕と一緒に来ない?」
若者はあかねの流れる髪にそっと手を触れる。その瞳に思わず我を失いかけるあかねだった。痺れるような感触。
…それもいいかもしれない…。
口がそう象ろうとした時、あかねの視界にふと入った乱馬の瞳。
こちらをじっと見つめる優しい潤いの光。
…乱馬…。
あかねはふっと微笑んだ。そして首を横に振った。
「ううん、行かない。あたし…。今のこの世界も気に入っているの。」
そう答えた。
「どうして?悲しいことや嫌なこと全部忘れられるよ?」
彼はあかねの前に立ちはだかりながら黒い瞳を覗かせる。
「悲しいことや嫌なことだってそりゃああるわ…。腹の立つ事だって…だけど…。」
あかねは真っ直ぐに若者を見詰めた。
「だけど、あたしは…ここに生きているの。それにここには乱馬が居る。あたしは乱馬がいるこの世界が一番好きなのよ…。」
そう答えたと同時にあかねの周りの世界が白んだ。
カアーッと光を増して目の前が歪んで弾けた。
『その想い、いつまでも大切に…。強い意志があれば、きっと幸せはそなたに微笑む。だから…。
今日はありがとう…。楽しかったよ。あかね…。』
若者の声が耳のすぐ傍で聞こえた。
はっと我に返ったとき、乱馬の腕の中に居た。
「おいっ!しっかりしろよ…。あかね、あかねっ!」
「え?ここは?あれ?あたし…。」
「バカヤロウっ!寝ぼけてんじゃねえよ…。」
自分の状況を把握するまでには少し時間がかかった。
見回すと人だかりの山。
「たく…。だから一人で勝手に行くなって言ったんだよ。けつまずいて転びやがって。将棋倒しにでもなってたらどうするつもりだったんだよ…。」
乱馬がブツクサ文句を垂れる。
「あたし…。一人じゃないわよ…。あれ?」
見回したがさっきまで一緒にいた若者の姿形はない。
…夢?
「ホンマにしゃんとせなあかんで、あかねちゃん。乱ちゃんもお守り大変やなあ…。」
右京の顔が覗く。
「きっとお疲れになってらっしゃったんですわ。人ごみに当てられて転んだときに軽い脳貧血でも起こしたんですね…。これだけ暑いですし…。」
小夏も覗いていた。
そこは屋台の影。「お好み焼き右京」の文字が目に入った。こおばしい香が漂ってくる。
「俺が追いついたからいいようなものの…。」
乱馬はまだ文句が言い足りないと言うような顔をした。
「追いついた?乱馬が?」
「あのなあ…。先に行っちまったおまえの後を追ってきてやたんだろうが…。」
「あたし、一人だった?」
「あん?」
乱馬は訳がわからないというようにあかねを見た。
「大丈夫か?暑くて脳までやられたとか…。それとも何か?短い間に他の男に媚でも売ってやがったのか?」
まくしたててくる熱い言葉の蹄鉄。
反論を試みようとして、あかねは自分が何かを握り締めているのを見た。
「これは…。」
白いお札だった。
「あらあかねさん、もう本殿へ御参りなさってきたの?それここの御札ですわよ。」
…御札。白い御札…。さっき貰った御札…。
あかねはそれを軽く握り締めた。
…夢じゃなかったのかもしれない…。
辺りを見回すと、すぐ上の梢が風で鳴った。思わすくらい夜空を見上げると、そこに誰かいたような気配がした。
「どうかしたか?」
乱馬が不思議そうにあかねを見た。
「ううん…。なんでもない。」
確かに誰かが居た。そう思ったが、説明の仕様が無く、それ以上何も言わずにあかねはお札を袂に収めた。
「ほらほら、忙しいんやから。小夏っ!はようソース塗らんかいっ!!」
傍らで右京の檄が飛ぶ。忙しそうに立ち回る。
「サンキュー、うっちゃん。助かったぜ…。」
「お互いさまや。あかねちゃん、あんまり乱ちゃんに世話かけるんやないで…。ほなな…。」
コテでお好み焼きを器用に裏返しながら右京が言い放つ。
「行くぞ!」
そう促すと乱馬が立ち上がった。
「うん…。」
あかねは明るく言った。
「人、増えてきたな…。」
そう言って乱馬はあかねを振り返った。
そして、そっと肩に手を置く。
その手は迷いに迷いぬいてあかねに添えられた。明らかにはにかんでいる。
「また、はぐれて倒れられたら大変だからな…。」
ぽそっと言い訳みたいに継いでくる言葉。顔が真っ赤だ。
「ねえ。乱馬…」
「ん?」
「ずっと傍に居てね…。」
返事の代わりにちょっとだけ自分の方へ引き寄せてくれる逞しい腕。
不器用だけど、わかってる、本当はとても優しくて頼もしい。
目の前にある現実。乱馬が其処に居る世界。
全てがいとおしいと思った。
あかねは満足感を覚えていた。乱馬と歩く参道。その上に広がる真夏の夜空。遠くに響く祭囃子。
他愛のない会話を楽しむ二人の上で、鎮守の森の木々が鳴った。その梢から見下ろしながら楽しそうに微笑む若者が一人。
喧嘩の後の星空。
いつものことだけどやっぱり仲直りは嬉しい。
「素直になれよ…!」
彼の腕はそう囁く。
「本当は可愛いいんだから…。」
絡まっていた心は少しずつほどける。そしてまた強く結び合う。
それが二人の絆。
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