ふうーっ!!
大きくて深い辛苦の溜息。肩から力が抜け落ちるのを感じた。傍らをママチャリがごとごとと通り過ぎる。空わたる雲は夕焼け色に染まっていた。
川面から吹き抜けてくる風は、寒い季節の来訪を告げる。冷たい風に頬を撫でられてあかねは思わず身をすくめた。制服だけの体には今日の気温は低いのかもしれない。
師走に入ったのだ。コートもぼちぼち必要だろうか。
「乱馬の馬鹿…。」
思わず口を吐くいつもの言葉。 とぼとぼ歩くアスファルト。所々塗装が剥げてでこぼこする道肌。
今日も彼と喧嘩した。散々悪態を吐いて、大声で怒鳴り散らして一人辿る下校道。
「何よっ!人の気も知らないで…。」
あかねはぶつくさと一人ごちる。
「頭にきちゃうっ!!」
そうは言ってみたものの、本当は自分の可愛げの無さに苦渋をしていた。
「ホントに馬鹿なんだから…。」
己へとも乱馬へ取れる言の葉。勢い良く吐き出してからあかねはフェンスに目をやった。
冬至が近い夕暮れは釣瓶落し。さっきまで広がっていた青い空は、赤い色に染まり出す。
物悲しきは初冬の夕暮れ。
緑色のフェンス越しの夕陽は残り火を燃やしているかのように大きく真っ赤に熟れていた。今日は風が強いせいか、関東平野の遥か彼方に連なる青垣が薄っすらと見える。
「きれい…。」
あかねは見惚れた。
夕焼け雲など眺めるのは幾許ぶりだろう。
遊び疲れた子供らが家路を急ぐ。
あかねはこのまま真っ直ぐ帰るのが惜しくなった。
ぱっと目を輝かせると、鞄を道端に置いた。そして勢いをつけると、ふいっとフェンスに上った。勿論いつもこの上を走りながら登下校している彼女の許婚のようにはいかなかった。が、それでも細いフェンスの上に腰掛けられた。
足を投げ出し、フェンスに手を付く、
行き交う人々はフェンスの上にちょこんと座ったあかねを不思議そうに見ながら無言で通り過ぎる。
座ったフェンスは10センチも満たない太さ。太腿の下がぎゅっと食い込んでくる。それでもあかねは下りようとは思わなかった。暫くここでこうしていたかった。
(そうだ…立ち上がってみようかな…。)
悪戯心が芽生える。
今でこそ上らなくなったが、小さい頃は良く家の塀に登って怒られたものだ。
ふと傍を見やればいいあんばいに電柱。フェンスにくっ付くように傍からにゅっと突き出すコンクリートの大木。
子供の頃からお転婆で鳴らした身体。武道を嗜む彼女はバランス感覚も良い。
そろっと手を伸ばし、電柱を支えにしてゆっくりと立ち上がった。
「わあ…。」
目に映る世界が変わった。
いつもの目線と違う町並み。暮れ行く夕陽。
(子供の頃は良く塀の上によじ登ってかすみお姉ちゃんに怒られたっけ…。)
ふと浮かぶ幼少の頃の記憶。自宅の塀へ門の脇からひょいっと上がっては空へと手をかざした。そうやっていると母のいる天へと駆け上がれるような錯覚をおぼえたものだ。悲しいことや悔しいことがある度によじ登った塀の上。
「乱馬はいつもこんな目線で世界を見てるのね…。ちょっと羨ましいな…。」
彼はいつもフェンスの上を器用に駆け抜ける。無意識に思ってしまう許婚のこと。
それに気がついて思考を停止した。そして、不甲斐ない自分を笑った。
喧嘩していることも忘れて、彼のことを考えている自分がここにいる。
「ああっ!これじゃあまるっきり「ほの字」じゃないの…。あたしって馬鹿みたい…。」
夕焼け雲へ渡ってゆく烏がカアと笑った。
(ダメっ!落ちるっ!!)
そう思って身構えた時、後ろから支えられた。大きな手。逞しい腕。そして広い胸。
「なーにやってんだよっ!おめえはっ!!」
振り返ると優しい瞳。目がしょうがねえなあと笑っている。乱馬だった。
「別に良いじゃない。あたしが何やってても…。あんたには関係ないでしょ?」
この期に及んでも口を滑る悪態雑言。
「関係ねえことねーよ…。」
うそぶいて見せる乱馬。駄々っ子をあやすように軽く言う。その言葉に益々意固地になる。
「いいから離してよっ!」
身体を捩ってみた。
「いやーだねっ!」
大きく振りかぶって首を横に笑う。
「離してっ!」
「ダメ…。手を離したらおめえ、落っこちるもん。」
暴れるなというように食い込むらんまの右腕。
「嫌だっ!降りるっ!!」
そう言ったとき、乱馬の左手が右頬に滑った。
一瞬動きが止まった。吹いていた風も止まった。
柔らかい吐息がすぐ傍で流れる。
「たく…。言い出したら聞かねんだから…。おめえは…。」
触れた唇を離した後で、勝ち誇ったように微笑む乱馬。あかねの顔は火が出るのではないかと思うように真っ赤に熟れていた。
「卑怯者…。」
やっと吐いた言葉がそれ。
「ほらよ…。」
乱馬のもう片方の空いた手から差し出された白い紙袋。取ってみると微妙に温かかった。
がさっと口を開いて見る。湯気が遥かに立ち昇る。
「肉まんとあんまん…。」
そう言ってにっと笑った。
がさがさと音を立てて紙の中身を漁ってみた。温かくて柔らかな白い饅頭。
乱馬は左手をあかねの肩越しに紙袋へ伸ばすとその白い塊を一つ手に取った。
「何よ…これ…。」
「だからぁ…。肉まんとあんまん。」
愉快そうに乱馬が笑ってる。そして美味しそうに頬張る。肉汁の匂いがした。
「ほれっ!おめえのもあるから…。」
そう言いながら乱馬は食べかけの肉まんをあかねの口へと咥えさせた。
「ん…。」
急なリアクションに咽喉を詰まらせそうになったあかねは、差し出された肉まんを無意識にかじっていた。生温かいふわっとした生地と広がる肉汁の味。ほっとした温かさが身体を駆け抜けてゆく。幸せ…。
「やっぱ…。幸せは食い物からだな…。」
傍で嬉しそうに乱馬が笑った。心を読んだのだろうか。
「何よ…。もう…。」
口でもごもごやりながらあかねは肩越しに乱馬を振り返った。満面に笑みを浮かべて。
それから、フェンスの上に腰掛けて肩を並べて楽しそうに肉まんとあんまんを頬張るカップルが居た。
通り過ぎる人たちは皆不思議そうに彼らを見上げてゆく。
遥か向こうの夕陽は、茜色に染まりながら、都会の空を名残惜しそうに落ちていった。
初冬の夕暮れ…。花より団子…。
いや、夕陽より肉まんとあんまん。
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