風の通り道

 登れば登るほど冷たくなる外気。それに反し体温は上がっていく。踏みしめる靴底で落ち葉が乾いた音を立てる。すでに葉の落ちた木々も少なくない。
「秋色のじゅうたんね。」
 乙女らしい感傷的なことを言う少女の額には、うっすらと汗が光っている。柔らかな秋の木漏れ日がその汗をきらめかせる。健やかな美しさを持つその少女は、まぶしそうに木々を眺め、きらきらと揺れる色づいた葉を見つめた。
 11月の山は、秋と冬が混在する。麓はまだ秋の紅葉が木々を彩る。しかし、山頂に近づくに従い葉は落ち裸木となり、大気も冬の凍てつくそれに近くなる。登るに従い移る季節を楽しみながら、少女は、少年の待つ山頂を目指した。

「なんであたしがあんたの忘れ物届けなくちゃならないのよ。」
「いいだろ。東京まで戻ったら時間かかるしさ。」
「ゆっくりしようと思ってたのに。」
「そう言うなって。来たらいいもん見せてやるからよ。」

 夕べの電話を思い出し、少女はくすりと笑う。電話の向こうの少年は今、まだかまだかと待っていることだろう。

「もう、乱馬ってば忘れっぽいんだから。」

 背負った荷物の中には、頼まれた着替えと格闘雑誌3冊。面白い稽古法がついていたからと乱馬は出発前に楽しそうに彼女に話した。今度の山ごもりでこれを試してみようかな、とか。こっちがいいかな、とか。
「お、あかね。おまえこれ試してみろよ。ウエストが細くなるかもしんねーぜ。」
 口の悪い乱馬の口調にもいつしか慣れた。彼があかねの手荒い反撃に慣れたように。同じ雑誌を見て同じ話題を楽しむ。彼らが同じ格闘の道を志す若者である所以だ。同じ価値観を有し、同じ稽古に勤しみ、同じ流儀を継ぐ。無差別格闘流と言う名で結びつけられた許婚。偶然なれど必然の縁だった。

「いいもの見せてくれるって言ってたけど……何なのかな?」

 すんなりと細い2本の脚はリズミカルに山道を登っていた。時折林の奥で音がする。ちらっと視線を向ければきょとんとしている動物たち。人があまり来ない山奥だから珍しがっているのだろうか。あかねの唇に暖かい笑みが浮かんだ。動物たちは来る冬支度に一番忙しい時なのだ。邪魔しないよう、驚かせないようあかねは何気ない振りを装い歩く。山頂まではまだしばらくかかりそうだ。ひざを越える高さの低木が歩くたびに彼女の足をかする。森の中に続くその山道は、けもの道と呼ぶほどに細く、わずかに痕跡をとどめるだけで長く山頂へと続いていた。けきょけきょと、鳥の鳴く声が遠く聞こえる。風が梢をざわめかせる音が響く。山の懐深くその息吹を肌身に感じ、あかねは立ち止まった。自分が体を動かすたび立てていた音が止む。ざああ、と、風が谷を渡る音があたりに木霊する。その一波が彼女の歩く山道に差し掛かり、ざわざわと木々が揺れた。右手から、揺れ、そして左手へと抜けていく。風の通り抜けたその瞬間をあかねは目で追う。都会では見られない自然の息吹。

 風の通ったあとに、少し遅れて木の葉が落ちてきた。はらりと舞う。ひとつ、またひとつ。木漏れ日の中できらきらと漂う。色づいた葉が秋の陽に舞う様は、あたかも手品師がくるくると身を変えるがごとく光を弾いて赤に、黄色に、無数に舞い踊る。奥の梢をまた違う風が揺らした。そこにひとしきり落ち葉が舞う。今度は向こうで、きらめきながら葉が落ちていく。木々に包まれた空間の中は、透明な光が穏やかに差し込み、落ち葉が彩る。森の中で奏でられる秋の雅楽に、あかねは心を奪われじっと見入った。

急に、彼女の頭上から、大量の落ち葉が降り注ぐ。

「きゃっ。」

 がさがさと葉を掻き分け、あかねは頭上を見た。枝の上に、いたずらっぽく笑う顔がある。

「乱馬っ!」

 腕いっぱいの落ち葉の塊をあかねの上に雨と降らし、その全身を葉っぱまみれにした少年は、軽く身を躍らせ少女の傍へと降り立った。

「待たせやがって。」
「だからって子どもみたいなことしなくていいでしょ!」
「口あけてばかみてえな顔してたからだよ。」

 落ち葉だらけにされてぷうとむくれる桜色のほっぺたを、乱馬は笑って指先でつつく。木漏れ日が二人分のシルエットを縁取り、光がきらきらとはねる。

「持ってきたか?」
「ちゃんとあるわよ。」

 肩から荷を下ろし中を明けようとしたあかねの手から、乱馬はひょいと荷物を奪い肩に担ぐ。

「おまえただでさえ鈍くせえんだから、おれが持ってやるよ。」
「鈍くさいは余計よっ!」

 笑いながら交わす会話はざっくばらんでそっけない。二人の間になんら距離がない証拠でもある。風がざわっと2人の頭上を渡った。ぱらぱらと落ち葉が舞い落ちる。木漏れ日の中に黄金色をして輝く。

「ねえ……いいもの見せてくれるって、これのこと?」

 飽きず眺めながらあかねは落ち葉の舞う行方を目で追う。落ち葉からあかねの横顔に目を移し、乱馬はこんなもんじゃねえよと言いた気に笑いながら首を振った。

「もっといいものさ。」

 ふいにあかねの身体が宙に浮いた。どさりと乱馬の肩に落ちる。不安定なバランスを保とうとして慌ててその頭にしがみつく。乱馬がぐっと身を沈めた。

「しっかりつかまってろよ。」

 身体が木の上に舞い上がる。枝を蹴り、乱馬はあかねを肩に担いだままさらに山奥へと向かう。流れる景色。大気がさらに冷たさを増す。先ほど、まだ秋の匂いを漂わせていた森は、冬のそれへと確実に移行していく。乱馬の身体が止まった。あかねの視界に地面が近づく。とん、と軽い衝撃が身体に伝わった。

 山頂まであと数歩という吹き溜まりに2人はいた。肌を刺すほどに大気は冷たさを増している。わずかに秋の色合いを残し、凍てつく冬のたたずまいを見せる山。先ほどのあでやかな秋の装いとは打って変わった風景に、ここに何があるのかと、あかねが乱馬を見上げた時だった。

一陣の風が二人をかすめていく。瞬く間に彼女の着ていたセーターが毛羽立ち、その先に氷の粒が小さなビーズ玉のように飾りをつける。驚いてあかねは乱馬を見た。その髪にも、白い氷のかけらがきらめいて光を弾く。視線をめぐらした。音を立てて冬の風が谷間を渡って行く。一瞬にして木々は氷の衣をまとう。その風が通った場所が、白く色づく。淡い水墨画の中を、銀色の刷毛がすっと撫でたように。その銀色の道に舞い散る秋の木の葉。

 目に見える風の道。

「この時期しか見れねえんだ。」

 呼びかけた乱馬の声が聞こえていないのか、あかねは無心に風のひらめきに見入っていた。その艶やかな髪を同じ銀色の刷毛がさっと撫でる。瞬く間に彼女の髪を彩る光の粒。きらめき乱反射する。風が渡るたびに銀色に染めあがる世界。彩られる少女。ただ、その不思議な美しい光景に無心に見入っている。白い世界に映える白い顔。あどけない横顔の中の光を弾く大きな瞳。そして、冷たい風に撫でられた、ほんのりと赤刺した甘やかな頬。小さな唇が、感歎の声をあげる。銀色の世界で、蜜蝋で造られたかと思うほどに甘やかな少女の指先が、風を追いひらひらと舞う。

 見せたいと思った。見たいと思った。この不思議な光景を初めて見た時からずっと。
あかねと2人で、見たいと思った。
だから無理に用事を作った。わざと忘れ物をした。

 もう一度呼びかけようとして、乱馬は言葉を飲む。


 この世にただひとつの、愛しい絵画がそこにあった。しかしモデルはじっとしておらず、風と光と戯れる。誰をも魅了する輝く笑顔で。光の粒に飾られながら。刻一刻と変わるその絵画に、彼はただじっと見とれた。頬が赤いのは、冷たい外気のせいだろうか。風が彼のおさげを吹き流す。火照った肌をひやっと撫でる。

「きれいー……」
 銀の鈴を振るような声が、山の中に吸い込まれていく。小さな身体が、銀色の風の中を舞う。


 少し潤んだ瞳の中に、永遠の少女の姿をとどめた。




HALFMOON
文章 半官半民
イラスト 一之瀬けいこ
2001年11月



風景描写にこだわってみたかったんすが、こだわりすぎやした。
くどくてしつこくて表面的っす。
あかねも乱馬もなかなかうまく動いてくれなかったっす。
(BY 半官半民)


わがまま言って書き下ろしてもらいました。
情感的な文章が心地良い・・・風景が広がります。
奥行きの深い作品です・・・
イメージが追いつかなくてこちらこそ申し訳ないような・・
(BY 一之瀬けいこ)


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