星合ひ


 通り過ぎる雨。
 暖かい季節になったとはいえ、濡れそぼつとそれなりに体温は下がってくる。

「はあ…。やっぱり無謀だったかなあ。」
 漏れるは溜息ばかり。
 どうも自分は頭に血が上ると、前後見境なく突っ走ってしまうことが多い。それも、乱馬という許婚が絡むと際限なくだ。
 頭ではわかっていた。もっと理性的に行動しなければならないことも、思慮を欠いてはいけないことも。

 だが…。
 乱馬が絡むと感情的になってしまうのである。それも多大にだ。
 彼はそれを「かわいくねえっ!」と、たった一言で片付けてしまう。
 それを言われると、もっと直情的になってしまい、片意地だけで行動を開始してしまう。

 今回もそうであった。


一、

 風林館高校の特別授業。
 今の社会情勢に合わせて、ボランティアや将来仕事に就くためのレクチャー的な体験授業が催される。
 いろいろなコースを自分に合わせて選択するのだ。あかねの通う風林館では丁度二年生の待つ休み前に、この授業は割り当てられていた。
 各テーマごと、いくつかのコースが選定されていて、一つ実習先を選ぶ。三日間の短時間コースであったが、あかねは「幼稚園コース」を選んだ。
 老人福祉や医療関係も興味はあったが、友人たちとの兼ね合いもあり、このコースを選んだ。元々、子供とお年寄りには好かれる性質。不器用さは持ち前の明るさと笑顔で乗り切るタイプ。
 まだ梅雨がはっきりと明けやらぬ、この湿った季節。
 たまたま実習へ行った幼稚園では「七夕祭り」の準備におおわらわであった。
 毎年、七夕近くの土曜日に、夕涼みを兼ねての祭りが執り行われるという。

「今年の飾りは小さいね。」
 子供の他愛のないこの一言から始まった騒動。
 
 園庭の目立つところに、毎年、大きな笹の木があしらわれ、そこへたわわに園児たちがたどたどしく書いた短冊やお飾りが吊るされるのだが、今年の笹は小さく、見た目にも「貧弱」だったらしい。

「仕方がありませんよ。毎年、笹を頂いていた方が土地を手放されて、もう笹山がなくなってしまったんですからね。」
 人の良さそうな園長先生が子供たちを見回しながら言った。
 なるほど、今の都会では、なかなか立派な笹は手に入らないだろう。昔は少し歩けばこの辺りにも笹の自生する竹やぶはたくさんあったらしいが、都市開発の波に飲まれて、竹林自体がなくなっている。

「つまらないなあ…。」
「俺、もっと大きな笹がいいな。」

 子供の心はとかく正直でストレートだ。歯に衣着せないで、自分の感情を率直に口に表す。
 確かに、ここに据えられている笹は貧弱で、お世辞にも立派とは言えない。それだけならまだしも、百人ほど居る園児たちの短冊を全部かけるには小さ過ぎた。
「困ったわね。」
 先生たちも困惑気味だ。
「せんせい、「ささ」さあ、もっと大きくならないかなあ?」
「そうだよ。なっちゃんだって、かざり、たのしみにしてるのに。」
 なっちゃんとは、思わぬ事故で先月から入院している少女だった。下半身が思うように動かなくなり、現在治療中。夏休みに大きな病院で手術をすることになっているのだ。その前に、外泊許可を貰って、明後日のお祭りに参加することになっている。
「なっちゃんの「たんざく」こんなにでっかいんだぜ。」
 洋平がたどたどしい手で書かれた画用紙大の短冊を振って見せた。
「なっちゃんだけじゃないよ。あたちたちが書いたなっちゃんのための「たんざく」もこんなにあるのに。」
「こんなに小さかったら飾りつけだってできないよ。」
 口々に先生やあかねたちに実習生に訴えかけてくる。

「ねえ、あたしたちで何とかならないかしら。」
 ふっと言葉を継いだあかね。子供たちの真摯な目に、元来の人のよさがむくっと顔をもたげてきたのだろう。
「また、おまえは顔突っ込もうってんじゃねーだろうな。」
 先に牽制する声が投げかけられた。乱馬だ。
 彼は大方の男子たちがそうだったように、特に実習場所に希望がなく、たらたらしていたら、この幼稚園実習組へ決められていたという「興味なし軍団」の一人。彼はトラブルメーカーなので、それを危惧した担任のひなちゃん先生辺りが、あかねと同じコースに選定したというのが本当のところだろう。ここを実習地に選んだのは二十名ほど。
「笹を切ってくるにしても、ここら辺には竹林はないし…。」
「どっか、自生してる場所知らない?」
 口々に高校生たちが首を傾げる。
「あってもなあ、立派な笹があるかどうかはわからないしなあ…。」

「ねえ、おねがい。ささがほしい。」
 子供たちの視線が一斉にこちらを見詰める。

「山へ入れば何とかなるかもよ。ねえ、乱馬。」
「んなもんなんねーよ。それよか、さっさと飾りつけちまえよ。」
 とにべもない。それどころか
「やっぱ、飾りはあかねじゃ無理だな。おめえのそのセンスのない飾り…。きょう日の幼稚園児よりも不器用だぜ。」
 と悪態を吐いて来る。
「ばかあっ!」
 思わず手と口が一緒に出るあかね。バッチンと乱馬の頬にカウンターパンチが入った。
「いってえーっ!かわいくねえーっ!!」
 睨み合いが始まったところで、別のクラスを見ていた久遠寺右京がひょこっと顔を出した。
「乱ちゃ〜ん。こっち手伝ってえな。女で一つでは運べないもんがあるんやで。」
「お、おう…。かわいくねー女なんか相手にしないでとっととうっちゃんでも手伝うか。」
 どこまでもガキっぽいのはあかねよりも己だと気がついている節もない。
「あたしだって、あんたの手なんか借りませんよーだっ!」
 とあかんべして見せる。
 乱馬は右京と連れ立ってあっちへ行ってしまった。

 残されたあかね。勿論、機嫌が良かろう筈はない。
 別に実習に於いて公私混同するつもりはないが、右京は実習中、やたらべたべたと乱馬にまとわり付いてくる。それなりに愛想も良い右京。子供たちの人気もあった上、乱馬を自分の「彼や。」などと平気で公言したものだから、先生たちも気を遣うことしきり。乱馬はいつもの優柔不断ぶりを尽く発揮して、クラスメイトの手前、あかねに無愛想を決め込んでいる。
「右京おねえちゃん、「カレシ」とあついなあ。」
「なかよしさんだね。」
 子供たちはいたって無邪気だ。
 その中で一人浮かぬ顔をしている洋平であった。小さな笹を見上げて溜息など吐いている。
 先生たちにきいたことだが、この洋平という少年、なっちゃんと赤ちゃんの頃からの幼なじみで、今回の事故に一番心を痛めているという。小さな恋とまではいかないのだろうが、なっちゃんのために折角の笹飾りを立派にしたいという想いがそれなりに強いのだろう。一年に一度しか逢瀬を楽しめない牽牛のように、怪我をした幼馴染みが気になるのだろうか。
 
「いいわ。お姉ちゃんが何とかしてあげるわ。」
 
 あかねはそう公言してしまった。

「あかね、いいの?」
「安請け合いしちゃって。」
 ゆかとさゆりが心配げに覗き込む。
「大丈夫よ。当てならあるわ。大きな笹を切って持って帰るだけだから、何とかなるわよ。ね、洋平君。」
 あかねはにこっと不安げな瞳に笑って見せた。
「本当?お姉ちゃん。なっちゃんのために大きなささ、もってきてくれるの?」
「ええ、明日までにはね。だから、お飾り、たくさん作っておいてね。」
 あかねは洋平の頭を撫で上げた。
「ま、あかねにはいざとなったら、乱馬くんが居るから。」
 右京を手伝って別のところで働いている乱馬を見流しながらゆかが吐いた。

「いいえ、乱馬の手は、これっぽっちも借りません!」
 ゆかの声が聞こえたのだろう。あかねがむっとして答えた。
「あかね、意地張っちゃって。」
「意地なんか張ってないわ。あんないい加減な奴の手伝いなんて要らないっ!」
 右京と笑い転げる乱馬には興味はありませんという態度であかねは手を動かし続ける。
 意地っ張りもここまで来たら特大級かもしれない。


 その後、早めに自宅へ帰ったあかねは、縁側でお茶を飲んで一服ついていたいた玄馬に一言だけ聴いてみた。
「ねえ、おじさま、どこか大きな笹が自生している竹やぶ、ないかしら…。」と。
「竹やぶねえ。小さなものならいくつかあるが、大きなものとなったら、そうさなあ、ワシが良く行く修行ポイント辺りまで行かないとなかなか手に入らないかのう。」
「ふうん…。このこの辺りにはないか。やっぱり。」
 あかねは視線を玄馬に流した。
「ねえ、…おじさまが良く行く修行ポイントって…。笹がたくさんあります?」
 とさり気なく訊いてみた。
「ああ、出来るだけ笹薮のあるところへ行くようにしておるからのう。パンダになると飢えはしのげるでな。たとえば、笹明神谷とかなあ。」
「それって何処です?」
「電車で小一時間行った方じゃよ。あそこなら立派な笹が自生しておるしな。食べ放題じゃ。わっはっは。」
 特に気に留めることなく、玄馬はすらっとあかねに話した。

「笹明神谷…。」
 さっと記憶の片隅に留めると、あかねは地図を広げた。
「なるほど…。ここなら今から行けば夜までには戻って来られるわね。」

 それから大急ぎで準備すると、約束を実行するべく、竹やぶを求めて家を出た。



二、

 山の空気は澱(よど)んでいた。
 青空はすっきりせず、梅雨独特の灰色の雲が天上を被っている。湿気も多いようで、緑がやたら濃く見える。
 このところ続いた雨の影響で、ぬかるむ足場。それを我慢しながら歩いている。
 日中だというのに人影はない。こんな梅雨のじめじめした日に、山歩きをすること自体が珍しいだろう。だが、そんなことはお構い無しにあかねは足を進めた。
 持っている地図には笹明神谷にマークが入れてある。そんなに煩雑な道ではなく、このぬかるみ道をあと数百メートルも行けば着けるだろう。良牙ではあるまいし、一本道に迷うことはまずない。
「楽勝よね。日暮れまでには戻れるわ。」
 あかねの足取りも軽い。
 久々に森林浴している。空気はむしっとしてはいたが、緑は心地が良い。
 だが、慢心は油断を生む。そして油断はさらに、予測も出来ない自体を引き起こすことが常だ。
 雨でぬかるんだ道。そこに落とし穴が待っていた。
 途中、大きな木が傾斜に向かって斃れこんでいた。きっと落雷の直撃にでもあったのだろう。先っぽが黒く焦げている。根が弱り始めた古木には、雷の直撃は致命傷となる。ただでさえ弱って、カラカラの木肌に落ちる雷。きっとその衝撃に耐えられず、自生していた斜面から転がり落ちてきたのだろう。
 ごっそりと斜面がえぐられているのが見えた。
 それに気を取られたのがいけなかった。
 ただでさえ滑りやすい湿った道。
「え?」
 バランスをふっと失った。
「きゃあっ!」
 ずずずっと滑り落ちる反対側の斜面。
 ガザガザ、バサバサと草の音が耳元をかすめる。
 天上を地面と木々の木立が交互に見えた。
 ドスンと鈍い音がして、やっと地面に着地。草いきれの香りがして、足に鈍痛が走った。
 嫌な予感。
 足場を確認し、重い腰を上げて立とうと踏ん張る。
「痛っ!」
 激痛が右足に走った。そのままがさっとへたり込む。どうやら滑り落ちる際に捻ったようだ。体重が上手くコントロールできない。
 あかねは頭を冷静にして、自分が落ちて来た先を見上げた。さっきの斃れかけた古木が数メートル先に見える。だが、斜面はきつく、おまけに草が枝垂れかかっている。これを這い上がるのは、足が平気でも大変そうだ。
「下の方は…。」
 目を転じれども、期待通りの平らなところとは言いがたい。
 
 そうこうしているうちに、空は暗くなり始めた。
「どうしよう…。」
 途方に暮れるあかねの上を、ポツポツと無常の雨が降り始めた。




「あかね、帰って来ないわねえ。」
 かすみがふっと声を漏らした。
「そうね。今日は特別実習だって言ってたけど。…乱馬君は帰ってるんでしょ?」
 なびきが手伝いの手を止めて振り返った。
 さっきから道場の方で乱馬の元気な声が響いている。だが、声は乱馬のものだけで、あかねの声はない。
 おまけに、変わりやすい梅雨空からは、雨が滴り始めた。むっと香る雨の匂い。

「もう、暗くなってきたわね。」
 かすみはお玉を味噌汁鍋に入れると、雨が降りこんで来た窓を閉める。
「かすみ、そろそろ夕ご飯かね?」
 早雲がひょいっとのれんを上げて台所を覗いた。
「ええ…。でも、まだあかねちゃんが帰ってこなくって。」

「あん?ワシは昼過ぎにあかね君に会ったぞ。」
 玄馬が後ろから声を出した。
「え?あの子、帰ってたの?」
 意外そうにかすみが声を上げた。
「ああ、確かに昼寝する前に、あかねくんと縁側で二言三言言葉を交わしたと思ったんじゃが…。」
「じゃあ、学校から帰って、どっか出かけたんじゃないの?」
 なびきがやれやれと言いたげに言葉を継いだ。
「そうね…。お友達のところへでも行ったかしら。」

 だが、待てどくらせどあかねは帰宅しない。勿論、家の中をくまなく探したが、気配はなかった。

「あかねの奴、まだ帰らねーんだって?」
 道場で人汗流した乱馬が、声を掛けた。
「ええ…。もう暗くなったというのに。まだなのよ。乱馬君、心当たり無いかしら。」
 さすがに不安になってきたのだろう。かすみがおろおろ調子で声を掛けた。
「あいつ、実習先からはいの一番で飛び出したからなあ。」
 タオルで汗をしばきながら乱馬が答えた。
「おまえ、あかね君は許婚だろう?一人で帰らせたのか?」
 玄馬が声を掛けた。
「んなもん、知らねーよ。気がついたら、もう居なかったんだぜ。俺だって始終あいつの番をしてる訳じゃねーんだ!」
 と乱馬は吐き棄てる。
「おまえ、心当たりはないのか?あかねくんと喧嘩したとか。」
「んなもん、しょっちゅうだからわからねーよ!」
 
 さすがに夕食の時間を回っても、帰る気配の無いあかねに、天道家の人々はいらいらし始めた。遅くなるなら電話の一本でもかけてきそうなあかねなのに、今日に限って音沙汰一つない。
「ちょっとその辺りを一回りして、見てこようか?」
 父親の早雲が口火を切った。
「あたしも、心当たり、電話かけてみるわ。」
 なびきも重い腰を上げる。
「たく、あかねの奴。」
 口元は乱暴だが、乱馬も心配になってきているらしい。さっきから落ち着かない。

 暫くして、なびきが声を掛けた。
「何軒か心当たり、電話してみたんだけど…。ねえ、乱馬君、本当にあかねのこと知らないの?」
 ときた。
「知らねー。」
 ぶっきらぼうに答えが返される。
「クラスメイトのところへ聴いてみたら、笹を探しに行くって言ってたそうじゃないの。」
 なびきはちろりと乱馬を横流しに見た。
「あ…。」
 乱馬は短く言葉を切った。そういえば、実習先の幼稚園で、笹がどうのこうのというやりとりがあったっけと思い出したのである。
「笹?」
 玄馬が小首を傾げた。
「どうした?親父。」
 乱馬はその動作を見逃さなかった。
「うーむ。」
 腕を組みながら玄馬は首を横へと倒す。
「親父…。」
「早乙女君、何か心当たりでも?」
 早雲が横から早雲を見やった。
「そう言えば、どこか大きな笹が自生している竹やぶ、ないかしら…。とあかね君に訊かれたような気もするなあ…。」
 ぽつんと答えた。
「それよ!きっと。」
 なびきが色めき立った。
「で、何て答えたんだね?早乙女君は。」
 早雲もぐぐっと身を乗り出した。
「笹明神谷のことを切り出したなあ。」
「笹明神谷だって?いつも、俺たちが行く修行スポットの一つじゃねーか。」
 乱馬は父親を見返した。
「ああ。あそこは山自体が竹林に囲まれておるでな。笹と言えばあそこが浮かんだんじゃよ。」
 玄馬は首を垂れた。
「そこへ行ったのね。きっと。」
 なびきが横から突っ込んだ。
「帰って来ないとなると…。」
「何かあったと思った方がいいな。」
 玄馬と早雲が顔を見合わせる。
「たく、世話がかかるぜ。」
 乱馬はそう言うと、くるりと背を向けた。
「こら、乱馬。何処へ行く。」
 玄馬が咎めると
「俺、そこへ行ってみるよ。笹明神谷なら、俺の庭先みてえなところだしな。」
「おお、行ってくれるかね。」
 早雲がホッとした表情を浮かべた。
 何だかんだと言っても、あかねのことは大いに気にかかる。それが乱馬だった。

「これ持って行くといいわ。もしかしたら圏外かもしれないけれど、何かあったら連絡くらい入れられるでしょ。」
 なびきが携帯電話を差し出した。この天道家でこの便利な文明の利器を使っているのは今のところ、なびきと出稽古中の乱馬の母のどかだけである。
「ありがてえ。借りるぜ。」
 乱馬がそれを手に取ると
もし、あかねが帰ってきたら、その携帯に連絡を入れるからね。あ、使用料はちゃんといただくから。」
 となびきらしい言葉を付け加えることを忘れなかった。
「ちゃっかりしてるぜ、たく…。」
 乱馬は苦笑しながら携帯をポケットに入れた。
 簡単に荷物を作ると、乱馬は天道家を出た。



(たく…。あのバカ…。)

 道すがら、そう呟いていた。

 きっと、あかねは園児のために笹を求めに行ったに違いない。

(何で、一言、俺に言わなかったんだよ。)

 雨のかかる車窓を眺めながら、視線を移す。
 彼女は一度、こうだと決めたら、危ない橋もどんどん渡ってしまう。そんな向こう見ずなところがあった。
 あの笹の話はあの場で終わったと思い込んでいた自分の失敗でもあったかもしれない。どっちにしても、心がざわつく。
(雨に濡れてなきゃいいけどな…。)



三、

 辺りは何も見えない闇の中。灯り一つ無い山の中。
 夕方から振り出した雨は止んだ。
 だが、濡れそぼつ身体はすっかり冷え切っていた。
 自業自得とはいえ、動けない自分が情けなくなる。
 明るくなったら動こうとあかねは思った。だが、朝まで体力が持つかどうか。
 すぐに帰るつもりだったので、軽装で、何一つ持って来ていない。喉はさっきの雨で少しは渇きを癒せたが、空腹は別だ。
(山に自生してる木の実もこの季節じゃあないし。この足じゃあ動くのも危険だし…。)
 漏れるのは溜息ばかり。
 肝はさすがに据わっていたので、恐怖はないものの、心細さはつのり始める。
(あーあ、お姉ちゃんたち、心配してるだろうなあ。)
 岩を背に腰を下ろし、力なく夜空を見上げる。
 フクロウの鳴き声と時々渡る風に笹が揺れる以外は静まり返った山の中。
(約束どころの話じゃないわね。)
 もうすぐ来る七夕祭り。
 一年に一度きりしか逢瀬を許されない空の男星と女星が出会える日。
 作り話だとわかってはいたが、二人のその心情が少しわかるような気がした。
 幸い、雨の後、空の回復だけは早かったようで、ちらちらと星が見え始めていた。灯火一つない心細さの中に、燈る星明り。
 大丈夫だからしっかりなさい。
 星たちがきらめきの中に、そう呼びかけてくれているように思えた。いや、そう思わないと、ここに居られないだろう。
 山の中の地面だ。感触もさながら、蟲の気配も気持ちが悪かった。辺りが暗くてよく見えないことだけが、この場合救いなのかもしれない。変な生き物に当たらないことだけを祈りながら、朝まで待つ。それしかないだろう。
 勿論、朝になったからとて、動けるかどうかわからないし、どうなるというものでも無いのかもしれないが。ただ、今は息を潜めて朝を待つ。それだけだ。
 真冬ではないので、山冷えに凍えることもないだろう。だが、濡れた体から体温は奪われているようで、何となくひんやりとする。
(眠っておくしかないかな…。)
 ぼんやりと見上げる星空。


 その頃、乱馬は山に入っていた。
 地図はなくとも、この山は子供の頃から慣れ親しんだスポットの一つ。だいたいの足取りで方向はわかる。
 手元には懐中電灯の光。
 地面を照らし、あかねの形跡を辿りながら、暗い山道を行く。
 それは彼の獣的勘とでもいうのだろうか。
 彼には確信があった。この山の中に彼女が居ると。
 ぬかるんだ道にはあかねくらいの足跡があった。それも、ここを通ってからそう時間は経過していない。
 残された小さな足がかりだけを頼りに、道を行く。
 と、古木が倒れている辺りに出た。
「雷でも落ちたか。」
 あかねと同じようなことを思う。ふと目を落として、はっとした。
 茂みが大きくざっくりと折れているのが目に入ったからだ。
 そこに至る、足跡。滑り落ちたように、道の縁で途切れている。
「ここか。」
 乱馬は目を閉じると、地面へと腰をかがめた。そして、五感を研ぎ澄ます。
 渡ってくる湿った風。最近、感じられるようになった「気」をまさぐってみた。微かに伝わる気を求めて、目を閉じ集中させる。
「あかね…。」
 心で呼びかける。
 それから彼は意を決したように、枝垂れかかった茂みへと足を踏み入れた。細心の注意を払いながら、下へと降り始める。ここで怪我でもしたら、何をしに来たかわからない。
 確かに辿れるあかねの気配。この下に彼女は居る。
 ゆっくりと体重を移動させながら、谷へと降りて行く。そう、高くはない斜面だから、気をつければ大丈夫だろう。そう判断した。ただ、地面は夕方の雨でぬかるんでいる。
 小枝で服が破けるのも気にせず、ただひたすらに下に降りて行く。


 どのくらいうとうとしたろうか。あかねはいつの間にか、眠りの中にまどろんでいた。
 ふっと気配を感じて驚いて目を開けた。

「やっぱり、居たか。」

 懐かしい声。
 幻でも見ているのかと、顔を上げた。
「怪我してるのか。」
 彼は一言だけ言い放つと、あかねの目の前に屈みこんだ。そして、懐中電灯をともしながら丁寧に足を触り始める。
「落ちて受身を取ろうとして軽くひねったんだな。」
 と言葉を吐いた。
 返事も出来ずにただ、黙り込むあかね。
「しょうがねーやつだな。」
 突然の彼の登場に、気はすっかり動転していた。本当に夢ではないのか、確信するまでに時間を要した。
「ほら、身体冷えてるんだろ?」
 乱馬は背負っていたリュックからタオルを取り出し、あかねにかぶせた。ふわっとしたタオルの感触が柔らかくあかねを包む。
 
 シンとした山の中。暗くてよく見えなかったが、乱馬がふっと口元をほころばせたように思えた。
「ま、ここを動かなかったことだけは褒めといてやるよ。山の中でトラぶったときは、明るくなるまで待つ。大切なことだからな。」
 そう言うと、横へ腰を据えた。
「俺たちも明るくなるまで待とうぜ。二重遭難なんて洒落にならねーからな。」
 何故だろう。ふっとなずんだ心。さっきまであんなに心細かったのが嘘のようだ。
「しっかり身体拭いとけよ。それから、ほれ。かすみさんが温かいお茶入れてくれたから。」
 とステンレスの水筒を差し出す。
 こくんと揺れる頭。
 乱馬も自分も言葉数は少ない。
 濡れそぼった体に染み入るような温かいお茶。乾いた喉だけではなく、冷え切った心も潤してゆく。
 乱馬はそれ以上、何も言葉を継がなかった。
 責めるでなく、慰めるでなく。ただ、傍に座っている。じっと空を見上げながら。
 星たちが、微笑むように見守っている。
「もういっぱい飲むか?」
 またこくんと揺れる頭。
 乱馬は丁寧にポットからお茶を注いでくれた。それからあかねに差し向ける。
 
 不慣れな優しさがあかねには堪らなかった。こういう場合は、いつものように、思いっ切り罵倒された方が楽だった。
 何をどう彼に言えば良いのかさえ、わからない。
 温かいお茶が胸の中を通り過ぎ、胃袋へと入ってゆく。
 ただ、彼はそれを暗闇の中からじっと見守っている。

「どうして…。」
 沈黙の重さに耐え切れず、やっと出た言葉はそれ一言だった。
 それ以上何も言えなかった。
 詰まりこんでしまったのだ。
 喉に流し込むと共に、流れてくる涙。
 嗚咽に言葉を一緒に飲みこむあかねがそこに居た。温かいお茶も、少ししょっぱい味がした。
 乱馬ははっとしてあかねを覗き込んだ。
 あかねの涙には弱いのだ。こうやって泣かれてしまうと、どうしたら良いかわからなくなる。
 でも、一つだけ確かなことがあった。あかねを見つけ出せて良かったという安堵感。
 いつも傍に、誰よりも近い場所に居たいという本当の気持ち。嘘偽りの無い心。
 引き離された天空の男星も女星も、きっとこの気持ちには変わりはないだろう。
 
 躊躇していた彼の手が、ゆっくりとあかねの肩へと回された。彼もまた無言だった。
『愛しさに理由なんてねえよ。』
 置いた手は、あかねにそう囁いていた。

 遥かなる空を渡る天の川。星たちが一斉に美しく煌いた。
 惹かれあう二人の逢瀬を祝うが如く。


 夜が明けると、乱馬はあかねを負ぶさって斜面を登り、帰路に就いた。勿論、特大の笹を一本。始発の電車とはいえ、かなり迷惑な代物だったに違いない。
 そのまま、幼稚園へと直行して、笹を届けた。
 洋平君が目を輝かせて喜んだことは言うまでも無く。
 笹には園児たちの、様々な短冊や飾りが掲げられた。

『彦星と織姫がずっと一緒に居られますように。あかね』
 そう書かれた短冊も静かに風に揺れていた。

 
 


 星合ひ・・・七夕の異名、古語

 最近、濃厚な作品ばかりを次々に書き連ねたので、基本を思い出して・・・。
 「浜木綿」と似ています・・・意識したから。

 原点に立ち返ってみようと思ったとき、ふと浮かんだのが浜木綿のプロット。
 あれから三年。どのくらい、己に同じ流れを使って書き遂せるか・・・というのがこの作品を書いた意図でした。


(c)Copyright 2000-2011 Ichinose Keiko All rights reserved.
全ての画像、文献の無断転出転載は禁止いたします。