◆恋文

一、

「ねえねえ、知ってる?優美子先生がさあ、今年度限りで退職されるんだって。」
「えー?何で何で?」
「やっぱり、結婚するっていう噂本当だったの?」
 学年末試験が終わってしばらくした或る日のこと、二十代後半の女性教師の話で女生徒たちは花が咲いていた。あかねも自然とその輪の中へと吸い込まれていた。
「結婚かあ。優美子先生って美人だから、きっとウエディングドレスが似合うわよ。」
「でも、何で教師を辞めちゃうのかな?惜しいじゃない。結婚してからも続けられる職業じゃない。もったいない。」
「何でも旦那さまになる人の海外赴任にくっついていくんだって。」
「良く知ってるわね。そんなことまで。」
 噂とはかくも恐ろしいもので、流れ始めるといろいろなことが背びれ、尾ひれにくっついてくるものである。
「へえ…。結婚しちゃうんだ。優美子先生。」
 あかねも思わず溜息を吐いた。
「何言ってんの。あかねだってフィアンセが居るじゃない。」
 級友がぽつんと言った。
「そうよ。乱馬くんっていう将来の亭主がいるんだから。あー。いいな。いいな。」
 話題が逸(そ)れた。
「高校出たら結婚するんでしょ?当然…。」
「最近、どう見たってあんたたち仲いいもんね。どこまで二人の仲は進展してるの?」
「白状しなさい。」
 逸れた話題はなかなか軌道修正できないものだ。級友たちの好奇の目に、耐えかねたあかねは、大きく吐きだした。
「だから…。許婚っていっても、親が勝手に決めたことだし、乱馬とはみんなが思っているような関係じゃないのっ!!」
「そんなにムキにならなくても。あー、フィアンセかあ。憧れるなあ。」

 フィアンセという言葉の響きの中に煌めきともいえる憧れを持つ乙女心。感受性の強い年頃の少女たちにとって、結婚退職するという教師も、許婚が傍にいるあかねも同じように映るらしい。
(たく、皆、勝手な想像ばかりするんだから…。)
 あかねが溜息を吐いたとき、チャイムが鳴って次の授業が始まった。

 噂の主、優美子先生の授業だった。
 手には学年末の試験答案用紙。学生にとっては嫌な時間である。
「今回のテスト。難しかったかな?点数が悪すぎるわよ。そこで…。」
 一通り返し終えたざわつく教室を見渡して、先生は続けた。
「規定点数に達していなかった十数名には特別な課題を出します。」
 えーっ。殺生な…。
 という感嘆の声を色ともせずに、先生は続けた。
「これから名前を呼ばれたものは、前に来て、この封筒の中に入っている各人各様の課題について、三日後に提出するように。出来なかったら、わかってると思うけど、学年がダブる可能性もあるから、覚悟しなさいよ。」
 と笑った。
 ぶうたれる生徒たちを尻目に、
「各人それぞれ課題は変えてあるからね。何が当るかは開けてからのお楽しみ…言っとくけどこれは赤点救済措置よ。ありがたく思いなさい。」
 と取り付く島も無かったのである。

 当然のこと、あかねの許婚、早乙女乱馬もその課題を食らってしまったうちの一人だった。
 乱馬だけではなく、仲良しのひろしと大介も同じように課題を食らっていた。渡された茶封筒を手に、それぞれぶうたれていた。
「ひろしは何だった?俺は、和歌を二首、作って来いだって。ちゃんと古典的言葉使いで書いてくるようにだとさ。」
「俺のは、げ…。読書感想文だってよ。なんだっていいから最近読んだ作品で書いてこいだって。う。感想文が書ける本なんて、全然読んでねえぞ…。」
 ひろしと大介はそれぞれの課題を言い合って嗜めあった。
「乱馬は?何だった?」
「ま、てめえらと似たようなところだ…。」
「似たようなって?どんな課題なんだ?」
「て、手紙を書いてこいってさ…。」
 少し上ずった声で返答した。
「手紙かあ。それもダルそうな課題だな。」
 全くそのとおりだ。
(あの先生、何考えてやがんだ?)
 乱馬は課題の入った茶封筒を握り締めた。
「いーじゃん。乱馬にはあかねがいるんだしさあ。同じ屋根の下に住んでるし、手伝ってくれるだろ?俺なんか誰にも相談できないから、一人で考えねえとな…。
 ひろしが乱馬を覗き込みながら言った。
「ば…馬鹿っ!自分ひとりでやるよ。こ、こんなもん、あいつに手伝わせられっかっ!!」
 乱馬は顔中を真っ赤にして言い放った。
「何ムキになってんだよ…おまえ…。」
「おーおー。あかねのことあいつ呼ばわりか?いいよな…。」
 乱馬はそのまま俯いて黙ってしまった。


二、

「ねえ、乱馬くん、どうしちゃったの?夕食が終わったら、途端に部屋へ上がっちゃうなんて。」
 なびきがあかねに問い掛けた。
「し、知らないわよ。乱馬のことなんて…。あいつ、国語のテストが規定に達してなくて、課題を貰っててみたいだから、それにかかってるんじゃないの。」
 あかねは怒ったような口調で姉に答えた。もちろん、あかねは課題など貰ってこなかった。
「ふーん。優美子先生の課題を食らったのか…。で?あんたは?」
「何よ。」
 覗きこんできた姉に不審の目を向けながらあかねは茶碗を重ねた。
「手伝わなくていいの?」
「それがね…。」
 あかねは皿を重ねて呟くように言った。
「あいつ、手伝えって言ってこないのよ。いつもなら、あかね頼むって拝み倒すくせに。」
「あらら。珍しいわね。乱馬くんが一人で宿題を片付けようとするなんて。」
 なびきは茶碗を抱えると、台所へと運んでいった。
 いつもなら、いの一番に「頼むから、手伝ってくれっ!」と懇願する乱馬が無しのつぶてだ。どんな課題を貰ったのか、うんともすんとも言ってこない。あかねには理不尽であった。訊こうとしても、憤然とした表情をしていて、言葉をかけられる雰囲気ではない。
「よっぽど、一人でしか出来ない課題を貰っちゃったのね。」
 あかねはふきんでテーブルを拭きながら、ひとりごちた。

 自室へ篭りこんだ乱馬は茶封筒を握り締めながら深い溜息を吐いていた。
「たく…性懲りも無くこんな課題考えやがって…。俺に何の恨みがあるんだよ…。ちくしょう。」
 白紙の便箋を机に広げて乱馬はじっと考え込んでいた。
 いつもなら、困っていても何かと力になってくれるあかねが同じ屋根の下にいる。が、今回の課題だけは彼女に手伝ってもらう訳にはいかなかった。彼の手にした封筒の中にはとんでもない課題が収められていた。
 彼が食らった課題は手紙文。しかも、単なる手紙文ではなかった。
『好きな人を想定して、彼女への想いを込めた恋文を創作すること。枚数は自由。但し、相手に伝わる形、手紙の形式で便箋に清書して提出のこと。』
 確かにこんな課題が黒々と万年筆で書き付けられていた。そう、手紙文は恋文だったのである。
 間違ってもあかねに手伝わせるわけにはいかなかった。
 彼にとってあかねは特別な存在である。許婚同志。親が決めたこととはいえ、いつしか彼女への想いが見事に芽生えて育ちつつあった。
 彼にとって今回の課題の恋文の対照になる「好きな人」イコール「あかね」なのである。
 いくらなんでも、あかねに作らせるわけにいかないではないか。男の面子が丸つぶれ、いや、第一、照れくさい。
「何だって俺が、こんなもの書かなきゃいけねぇんだよっ!!」
 浮かんでこない文面に、イライラして頭を掻きむしる。
「あー。何なんだよ…。」
 夜に羽ばたけない作家が机上に向って、浮かばぬ構成に悩みつつ沈んでゆく。そんな形容がぴったりの乱馬であった。

「ねえ、何考え込んでるの?乱馬くん。」
 固まったまま頭を抱えている乱馬に、夜食を持っていったかすみが心配げに尋ねた。
「あ…。かすみさん。」
 血走った目をかすみに向けながら愛想笑を試みる。が、顔が引きつっているのが自分でもわかる。
「宿題に苦しんでいるみたいね。作文なの?」
「え、ええ。手紙のなんですが。上手い文章が思いつかなくって。」
 夜食を置きながらかすみはおっとりと話し掛けた。
「手紙ね。何にしても、出す相手を思いやりながら、素直に書くのが一番じゃないかしら。文章なんて、素直な気持ちにさえなれば、湯水のように浮かんでくるものよ。」
 かすみはにっこりと微笑むと、空のお盆を持って部屋から出て行った。

「素直な気持ち…か…。」

 乱馬はかすみが投げていった言葉を反復してみた。
 飾り気の無い自分の言葉で書く恋文。出来そうでできない難関であった。
 結局その日は全く物にならなかった。


三、.

 考えれば考えるほど、何がなんだかわからなくなる…。
 一晩中、机に向っていた乱馬は寝不足の身体を引きずって、登校していた。いつのも数倍も憤然として不機嫌な彼に、あかねは囀(さえず)るように話し掛けた。
「特別課題、仕上がった?」
「うっせえやっ!」
 乱馬はあかねを振り返りもせず、言い放った。
「手伝ってあげようか?」
 あかねはくすっと笑って乱馬を覗き込んだ。
「いいっ!俺一人でやるっ!!」
 乱馬は怒ったように言葉を投げつけた。当然だ。恋文の作文に手伝ってくれなどと、当事者のあかねに言える筈がない。
「無理しちゃって。夕べだって殆ど眠ってないんでしょ?」
 あかねは丸いきらきらした目を輝かせながら乱馬を覗き込んだ。
「だから…。俺のことはほっといてくれっって言ってんだよっ!ばかっ!!」
 彼女への愛の言葉を文章で表現できずに苦労している乱馬は、その苛立ちから、いつもよりきつい語調であかねに言い返していた。
 あかねはかちんときたのだろう。
「いいわよ…。もう、知らないっ!!」
 彼女もまた旋毛を曲げてしまった。

 その日一日、二人の間は物凄く気まずく、わだかまっていた。

 夜。
 乱馬は再び机に向った。
 提出期限は明日。この前の試験は点数がガタガタだったので、形だけでも書き上げて提出しないとやばい…。
 あかねとは、というと、今朝ぶち当たって以来、会話はおろか、目だって合わせない状態が続いていた。只でさえ作文できない上に、この状況だ。素直な文章など浮かんでくる筈も無い。
「あー、畜生っ!!!」
 こんな心境で美しい恋文など描けるはずもなく…。頭の中は行き詰まる。ぐるぐる考えが巡るだけ。
 ムシャクシャする気持ちをなだめようと、道場へと自然に足が向いた。その辺りは武道家としての血が成せる技だったかもしれない。
 素足のままで道場の真ん中に立ってみた。
 春とはいえ、真夜中の道場だ。足元からしんしんと冷えてくる。
 乱馬は大きく息を吸っては吐き出して、静かに瞑想してみる。
「そうか…俺は…ここであいつと初めて対峙したんだっけ…。」
 冷たい空気に頬が触れ、乱馬は初めて天道家を訪れたときのことを思い出していた。
 女性の身体に変化したまま親父に天道家に担ぎ込まれて、そのまま彼女と見合わせた。女と思い込んでいた彼女に誘われるように導かれた道場。
 まだ、腰まで伸びた長い髪を靡かせながら挑んできたあかね。勝気で、お転婆で、強がりで、それでいてどことなく頼りなげで…。只の乱暴者だと思った彼女をいつしか自分は引き返せぬほど愛していた。
 拳を軽く握り締め、乱馬は足を大きく蹴った。身体はしなやかに舞い上がり、蹴りや拳が白い息とともに空を舞う。
「だーっ!やーっ!!」
 いつしか動きは激しさを増し、しんとした空間を激しく揺さぶっていた。
 乱馬は己を忘れて、憑かれたように身体を動かし続けた。どのくらい時間が過ぎたのだろうか。
 ダンッと両足で着地して乱れた息を吐き出したとき、月明かりが蒼白く己の影を照らし出した。
『乱馬のばかっ!』
 空耳のようにあかねの声が耳元で響いた。
 何度自分は、この罵声を彼女から浴びせ掛けられてきたことだろう…。
 息を吐いて、目を浮かせると、道場の隅っこに白いタオルがたたまれて置いてあるのが目に入った。何気に置かれた湯のみと決して上手いとは言いがたい形の崩れたおにぎりと。
「あかねの奴…。」
 多分、道場を覗きに来た彼女がそっと置いていったのだろう。
 乱馬は全身から笑みが湧いてくるのを感じていた。
 今にも崩れそうな不器用なおにぎりを一つ手にとってみる。恐る恐る口に含むとしょっぱさが広がった。
(たく…相変わらず酷い味だな…。)
 くすっと乱馬は笑った。
(でも、俺は…不器用なあいつが好きなんだ…。)
 乱馬はタオルで汗を拭うとすっくと立ち上がった。
(今なら、書けるかもしれねえ…。)
 そう思うと迅速だった。乱馬はそのまま自室へ返ると、心に抱えたあかねへの想いの丈を一気に綴りにかかった。
 舌を噛みそうな不器用な言葉の羅列。でも、全て真実だった。
 書いては消し、書いては消しの作業の中、やっと形になって出来上がったとき、朝日が静かに窓を照らし始めていた。


四、

 それから数日後。
 今年度最後の授業の日がやってきた。
 乱馬とあかねは日直日誌を職員室へ受け取りに二人で廊下を渡っていた。
 急がなければ就業のベルが鳴ってしまう。いつもギリギリに登校して来る二人は、鞄を持ったまま、廊下を駆けていた。
「あ、あぶねえっ!」
 一瞬の不注意で、あかねは職員室の前で出てきた人影とぶつかってしまった。
 乱馬は倒れ際に思わずあかねの身体を支えて、倒れるのを防いだ。さすがの運動神経と言って良かった。
「たく…気をつけろよ…。」
「あ、大丈夫だった?」
 彼があかねを嗜めるのと優美子先生の声がしたのは殆ど同時であった。
 優美子先生はあかねが落として鞄を彼女の手に差し戻した。
「あ、ありがとうございます。」
 軽く礼をしたあかねは、先生の手に光る物を見て取った。
「あ…。先生、それ…。」
 思わずあかねが声を掛けると、先生は笑って答えた。
「そ…。」
「じゃあ、先生やっぱり…。」
「今年度限りであなた達とはお別れね。」
 少し寂しげに笑った。
「お、おめでとうございます。」
 あかねはぺこんと頭を下げた。
 乱馬は何のことやら飲み込めずにきょとんとあかねの傍に立っていた。
「ほら、あんたも言いなさいよっ!」
 突っ立っているままの乱馬にあかねはこそっと耳打ちした。
「へ?」
「だから、ほら、先生の左手の薬指。」
「あん?」
「もう、鈍いわね…。エンゲージリングっ!優美子先生、今度結婚されるのよ…。」
 その様子を優美子先生は微笑みながら切り出した。
「私でも貰ってくれるという物好きがいるのよ、早乙女くん。」
「あ、お、おめでとうございます。」
 やっと事態が飲み込めた乱馬は祝辞を述べた。
「職員室に用があるんでしょ?急がないと予鈴が鳴るわよ。」
 優美子先生は笑いながらあかねを促した。
「あ…。いけない、日直日誌。私取って来るわ。」
 そう言ってあかねは職員室へと入っていった。
 その後姿を見送る乱馬に、優美子先生は、笑いながら話し掛けた。
「そうそう。例の課題、なかなか良く書けてたわよ、早乙女くん。でも…」
 乱馬は驚いたように先生を見た。
「でも、私は創作しなさいって書いていて、実際に好きな人へ書きなさいなんて、何処にも書いてなかったんだけどね…。」
 そう言うと、先生は愉快そうに笑った。
 乱馬ははとして、言葉を飲み込んだ。額からは汗が微かに噴出してくる。
(し、しまった…。)
 乱馬はあの課題に、あかねへの名指しの想いをぶちまけていた。
 見る見る彼の頬は赤らんで、身体が固まってゆく。
 あかねが日誌を抱えて出てくる頃には、かちこちに叩くと割れそうなくらいになっていた。
「乱馬?ねえ、乱馬ったら、どうしちゃったの?」
 あかねは固まった乱馬を目の当たりにして、言葉をかけた。
「結婚だけが女の幸せじゃないと思うけど…いつも想ってくれる人が傍にいるってことは素敵なことね、天道さん。」
 優美子先生はあかねにこそっと耳打ちした。
「はい?」
 先生の放った言葉の真意が汲みとれずにあかねは目を見張った。と、その時、予鈴が鳴った。
「さてと、最後の授業ね…。」
 優美子先生は、呟いて前を見ると、少しだけ上に伸び上がった。
 予鈴と共に乱馬は雪解けてあかねに向って言い放つ。
「ほれ、教室へ急ぐぞ。」
「どうしたのよ?顔が真っ赤よ。乱馬…。」
「うるせえー…。」
 動揺がまだ尾を引いていたが、乱馬は元気良くあかねに言い放った。
「早く来いっ!さっさと来ねえと、置いてくぞっ!」
 乱馬はそう言いながら、早足で教室に向って歩き始めた。
「ちょっと待ってよ。…変な乱馬…。」
 その後をあかねは慌てて追いかけた。
 二人の向こう側には、薄水色に広がる浅い春の空。








一之瀬的戯言
ここで置きます。本当は途中です…果てしなく。
暴露しておきますと、実はこの後、未来で恋文が発見され…というネタなんですが、肝心な「恋文」本文が未だ脳内に描ききれません!
題名もいいのが浮かばなくって、何てストレートな…
乱馬ってどんなふうな文章を恋文に書くんだろう…と想像だけは膨らむのですが、いざ、文章にしようとすると、手が止まります。

誰か、ラブレターの部分作ってくれないかなあ…とぼやいていたところ、その後いろいろご意見をメールなどでいただきました。
本人としては、これをそのまま未来編に続けたいんですが…埋没しております…。
これが作文できないと、未来編は繋がらないということで、諦めてここで留め置きます。

優美子先生…実はモデルがおりまして…友人です。河●塾で古典を担当していた学生時代の悪友。現役時代はかなりの人気講師だったようです。現在は、海外で知り合った旦那さん(日本人)と暮らしておられます。

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