◇水平線


 真夏の太陽が翳り始めた夕暮れ、あかねは一人ポツンと海岸に佇んでいた。
 夕陽は水平線にかかり始め、遊泳客たちも、そぞろに帰り支度に勤(いそ)しみ出す。
 天道家の面々は、広げていた大きな敷物を抱えて、それぞれ浜から一夜の宿へと立ち去り始めた。
 あかねは夕陽をぼんやり眺めながら思わせぶりに溜息を一つ吐き出した。
 考えることはただ一つ…どうして私は泳げないのだろうか…
 スポーツ万能の彼女も水泳だけは苦手なのである。人一倍勝気な性分の彼女だが、どうしたものか水にだけは馴染めないのであった。
 水が特別怖いという訳ではない。なのに、子供の頃から何度となく練習を繰り返しても、浮くことすらままならず、浮き輪なしでは海の中へ入ることすら心許(こころもと)なかった。
 今日も、海の中で朝から頑張ってはみたものの、家族の嘲笑を浴びただけで虚しく一日が暮れなずもうとしていた。
 あかねが一人浮かない顔をして、なかなか浜から上がろうとしないのを、乱馬は少し離れた浜茶屋の蔀の中から眺めていた。

…たく、なに物思いに耽っているんだか…柄でもねえ…

 そんな独り言をぶつぶつ唱えていたが、本当のところは、浮かぬ顔の許婚のことが気になって仕様がないのだ。吐いて出る彼女への悪態と思いやる心根は全く違うといった複雑な彼だった。
 他の天道家の住人達は、あかねのことなど気にも止まらないのだろう。ビーチパラソルやシートを片すと、さっさと宿へと引き上げて行った。

  あまり、彼女が浜辺から動こうとしないので、痺れを切らした乱馬は飲みかけの烏龍茶をテーブルに置くと、あかねの方へと歩み寄った。太陽の温もりがまだ浜砂から伝わってきて、足は生暖かかった。
「何ぼんやり考え込んで入るんだよ。みんな帰っちまったぜ…。」
 わざとブスッとした表情で話し掛ける。
「え…?ああ、乱馬…。」
 あかねは乱馬の方へ一瞬、意識が働かなかったらしく、素っ頓狂な答えを返した。そして、また溜息を一つ。
「似合わねえなあ…その色気のねえ溜息。」
 からかうような口調であかねを挑発してみた。
「そう…。」
 いつもなら食って掛ってくる筈の彼女が今日はヤケにしおらしい。
「どうした?なんか変なもんでも食ったか?」
 反応が鈍いあかねが気になって、乱馬は後ろに手を組んだまま、あかねの顔を覗き込んだ。
「別に…そんなんじゃ、ないわよ。」
 ちょっとムッとした表情になってあかねが返答する。
…今年も泳ぎが習得できそうにない自分に黄昏ていたなんて、口の悪い乱馬には言えないわね。
 とあかねは思った。
 言えば言ったで、何を今更…とバカ受けに笑われるに決まっている。
 そんなことを思うとまた溜息が出そうになった。

「おまえ、ホントに不器用だもんな…今日だって殆ど溺れ掛けてたし…。いくら教えてやってもその通りに出来ねえし…。」
「……。」
「ま、おめえの不器用は今に始まったこっちゃあねえし…そう、悩んで落ち込むなって。」
 沈み行く夕陽を見詰めながら、乱馬はさらりと言ってのけた。
 自分の考えていたことは乱馬に、見事に見透かされている。
 あかねは彼の横顔を眺めながら、
「悪かったわね…不器用で…。」
と小声で反論する。
「そう、卑屈になるなよ…。不器用なくらいの方が俺は…。」
 乱馬は語尾を飲み込んだ。ホンネが口を吐きそうになったのを寸でで止めた。
 一呼吸置いてから乱馬は違うことをあかねに話し掛けた。
「俺だって、悩みがねえワケじゃあねえんだぜ。…こうやって海へ繰り出すといつも思うことがある。」
「いつも思うことって…?」
 夕陽に染まる乱馬の顔をあかねは不思議そうに覗き込んだ。
「この海原を男のままで泳げたら気持ちいいだろうなあってさ。」
 乱馬は夕陽を目で追いかけながらそう言った。
 そうだ。乱馬は呪いの泉のせいで、水に浸かると女の子に変身を遂げてしまう。女の子でないと泳げない。
「おめえはどう思っているか知らねえけど、いちいち変身しちまうっていう体質もホントは情けねえんだぜ。」
乱馬はまんじりともしないで、燃え始めた夕陽を見詰めながら言った。
「究極の夢…乱馬も持ってるんだ。」
 あかねはポツンと言った。
「究極の夢?」
 乱馬が訊き返す。
「そう、究極の夢よ。私は自分の力で泳げるようになりたい…。乱馬は変身しないで泳げるようになりたい…。これがね…。」
「そうだな…究極の夢…か。」
「二人で泳ぎながら海の中お散歩できたらいいね…。」
 あかねが笑いながら話し掛けてきた。
「夢が叶えば、二人で亀でも助けて竜宮城へでも行くかなあ…。」

 乱馬とあかねはお互いの顔を見詰め合って、クスッと笑った。
 落ち込んでいた気持ちがすーっと引いてゆくのをあかねは心全体で感じていた。
「また、明日から頑張ってみるわ。」
 あかねは顔を上げて言った。
「そうだな…。俺が完全な男に戻るまでに、少しでも泳げるように…な…。」
 夕陽は空を深紅に染めながら、水平線の向こう側へと消えていった。
「さあ、帰るか…みんな待ってるぜ。」
 乱馬はポンッとあかねの肩に手を置いた。
 あかねは少しだけ乱馬に方へと身を寄せた。
 あかねの柔らかい髪が鍛えぬかれた乱馬の鎖骨に少し触れた。あかねの右肩へ置かれた乱馬の右手はそのまま固まってしまった。

 少しだけこのままで…

 潮風が不器用な二人の傍をそっと吹き抜ける。
 波の音がゆっくりと耳にこだまする。
 水平線の上には静かに輝き始めた一番星。








一之瀬的戯言
 昨年の夏休み、絵画の宿題をやっていた娘の傍らで描いていたイラストが元になった短編です。
 テーマはずばり「究極の夢」…
本当は某ページの夏休み企画に参加してみたくて組んでいたプロットの一つだったのですが…見事挫折しました。信じられないかもしれませんが、当時(1999年8月)の私は、まだ他のらんまサイトをこっそりと覗いていただけのとっても隠避なネット生活をしておりました。
 掲示板へも飛び込む勇気がなかったんですね…。
 こんなページを作ってしまうなんて思いも寄らなかったのです。人生何が起こるやら(笑

 みなさまの中で、らんまネットへ直接飛び込む勇気がない覗いているだけの方も結構いらっしゃるのでは?
 参加すると、それなりに世界観が開けてきますよ…ネットの注意事項さえ守っていれば、楽しくやれますから、いろいろ覗いてお散歩して、これって決めて参加されるのもいいかと思います。
 もちろん、私みたいな者が管理している暴走ページでも…どうぞ、お気軽に…。

ところで、この作品のプロットと一緒に組んでいた短編が一作あります。(2000年7月22日完成品)
それが「浜木綿」です。
もう一つの海辺の風景です。


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