◇白いカーネーション


「出かけるぞ…。あかね。」
 乱馬はあかねに声を掛けた。
「うん…。いいわよ。」
 あかねは笑いながら夫に従った。手には白いカーネーションが携えられている。
「ゆっくり歩くぞ…。辛くなったら遠慮なく言えよ…。」
 あかねのお腹には二人分の命が宿っており、そろそろ臨月。歩くのも大儀そうに見えた。
「大丈夫よ。少しは歩いて運動しないと、お産も重くなるって産婆さんが言ってたわ…。」
「その元気がありゃ、大丈夫だな。」
 乱馬は笑いながら妻を見る。その目は優しく揺らめいている。
 いつからだろう。その日は二人でこうやって肩を並べて出かけるようになっていた。そう、母の日には…。


 高校二年生になった頃の話だ。
 五月の第二土曜日。
 長袖では汗ばむような陽気になった。まだ日差しには攻撃的な熱度はないが、だんだんと夏に近づいている、嫌でもそう思うような昼下がり。
 乱馬はあかねと肩を並べて商店街を歩いていた。といっても、デートなどという酔狂なものではない。何故なら彼は「女」の形(なり)をしていたからだ。
 男のときとは違い、あかねより小柄。だが、肉付きの良い豊満な身体をしている。女乱馬のプロポーションの良さは格闘で鍛え抜かれた男の筋肉が、そのまま福与かな瑞々しい肌に変質を遂げたものなのかもしれない。水という変身の媒体は、逞しい身体を可愛らしく変化を促す。
 隣を歩く彼の許婚、天道あかね。彼女もまた、格闘技で鍛えた均整の取れた身体つきをしており、学園のアイドル的な美少女であった。
 自然、二人並ぶ姿は、道を行き交う男連中の興味を惹く。
 そんな野郎たちの視線をかわしながら、乱馬は溜息を吐く。

「あーあ…。なんで昼の日中から、女の格好して歩かなきゃならねえんだよ…。」
 乱馬は凡そその可愛らしい風体から似つかわしくない言葉を投げ捨てる。歩く姿も外股である。
 素が元気の良い少年であるから仕方はあるまいが、もう少し身の程をわきまえて欲しいとあかねはさっきから苦笑していた。すれ違う人の目は、自然、彼女、乱馬の方へと好奇の目を向けている。それがひしひしと伝わってくるのだ。
「仕方ないじゃない…。男の形で婦女子の買い物なんかできないって変身したのは、あんたなんだから…。」
 そう言って窘める。
「それに…。この買い物、あんたのでしょ?」
 それを言われると乱馬は黙って従うしかない。
「なんで五月に母の日なんてあるんだろう…。」
 乱馬は青空を見上げながら溜息を吐いた。
「年に一度の母親孝行の日なんだから。文句言わないのっ!」
 あかねはまだぶつくさ言いたらなそうな乱馬をなだめた。
「オフクロに何を贈ればいいんだろうな…。」
 あかねとショウウィンドウを眺めながら乱馬は呟く。
「そうね…予算だってそんなにあるわけじゃないだろうし…。」
「まあな…。居候の身の上の俺には金はねえし…。」
「それも、なびきお姉ちゃんの商売の配当金あるんでしょ?」
 あかねがくくくっと笑いながら言った。
 乱馬はそれを聞いて少しムスッとした。そうだ。万年格闘少年の彼にはバイトなどとは無縁の高校生活。ただあるのは「水とお湯で自由に変身できる特異体質」。商売上手なあかねのひとつ上の姉にいつも良いようにあしらわれている。
『いつも儲けさせて貰ってるから…。』そう言いながらなびきは珍しく分け前の報酬をくれた。あの金銭感覚が鋭いなびきのことだ。乱馬に渡した金の数倍も儲けがあったのだろう。
「何でもいいじゃない。おばさま喜ぶわよ。可愛い「息子」の贈り物だもの。」
 あかねはわざと「息子」という件(くだり)を強調した。
 うるせえやという目を向けた乱馬にあかねはすかさず続けた。
「何か実用的なものがいいかもね…。普通は、ハンカチとかスカーフとかエプロンなんかを贈るみたいだけど…。」
「あかねだったら何を贈る?」
 乱馬はぽそっと質問を投げた。
「そうね。おばさま和装のことが多いから、そう、和風の小物とかどうかしら?」
「和装のものねえ…。なるほど…。」
 乱馬は納得していた。
「あ、ほら、あそこに和風のクラフトの店があるから覗いて見ましょうよ。」
 あかねはちゃっちゃと乱馬を促すと、店の奥へと入っていく。
「あ、お、おい。待てよ…。」
 
 実際のところ彼女を連れてきたのは正解だったと乱馬は思った。
 野郎一人では、どうしたものかと思考の迷路に入り込んでしまって困り果てていただろう。
 いくら腕っ節やきっぷしがいい勝気のあかねでも、やはり元は十代の女の子。初めて選ぶ母の日のプレゼントとみつくろって貰うには最適の相手に違いない。
 そう、乱馬にとっては生まれて初めての母の日の贈り物だった。
 去年までは母親の存在すら知らなかった。父親の玄馬からは何も聞かされていなかったし、気にも留めていなかった。それが、天道家に身を寄せるようになってから、ひょんなことで再会を果たした。そして、今では一緒に仲良く天道家に居候している。
(こうやって考えるとなんか不思議だよな…。)
 あれでもない、これでもないと乱馬より選ぶのが熱心なあかねの横顔を眺めながらふっと笑顔が零れる。
 あかねの助言で、乱馬は和風の布で作られたちょっと品のいい小物入れを買った。巾着風で使い易そうな大きさ。あかねに言わせれば「ちょっとしたお化粧入れなんかに携帯に便利な大きさ」なのだそうだ。
 これからのシーズンに似合いそうな藍色の小物入れだった。
 
 買い物を終えて店を出ると、見慣れた女性とぱったり出会った。
「かすみお姉ちゃんっ!」
 あかねが呼び止めると振り向いた。
「あら、二人揃ってお出かけ?」
 にこにこ笑いながら、この天道家の長姉は二人を見比べた。
 かすみの手元には赤やピンク、オレンジ色のカーネーションとかすみ草の花束が揺れていた。
「お姉ちゃんもお買い物?」
 あかねが声をかけると
「ええ。明日は母の日だから。お母さんの仏壇にお供えしてあげたくて…。そうそう、あまり遅くならないように帰ってくるのよ。」
 そう言うとかすみは微笑を残しながら雑踏へと溶け込んでいった。
 乱馬は傍で、かすみの言葉にはっとした。
(そうだ…あかねの母さんは…。)
 買ったばかりの真新しい包装紙を乱馬はそっと胸に当てた。
 あかねの母はもうこの世にはいない。彼女が幼いうちに病気で他界した。
(忘れてたぜ…。)
 急に乱馬は自分がなにか悪いことでもしたような気分になっていた。自分のことで精一杯で、あかねのことを気遣うのを忘れていた。
 あかねはそんな乱馬の視線を気にせずに、かすみを見送った後、少し考えこんでいた。そして、乱馬を見て
「ちょっと待ってて…。」
 そう言うと、傍にあった花屋へ入っていった。
 
 店から出てくると、彼女は赤いカーネーションの小さな花束を一つ携えていた。
 そして、店の外に待たせていた乱馬にそっとそれを託す。
「え?」
 訳がわからずに乱馬が問い返すと、
「これ、おばさまに。」
 と言ってはにかんだ。
「あたしね…母の日ってなんだか嫌いだったの。」
 あかねはきょとんとする乱馬を尻目に話し始めた。
「だって、みんなは赤いカーネーション贈るでしょ?でも、私は白いカーネーション。ううん。赤いカーネーションを送る母はもういないもの…。」
「白いカーネーション?母の日って赤いカーネーションだろ?普通…。」
 乱馬は思わず訊き返す。
「乱馬、母の日の由来って知ってる?」
「いいや…。知らねえ…。」
「今から百年くらいまえにね、アメリカで始まった風習なんですって。教会で日曜学校で教えていたお母さんを偲んで、その命日に娘さんがお墓に白いカーネーションを捧げたのが起源だって…。」
「ふうん…。」
「それがキリスト教会に広まって、そこから世界中に。アメリカじゃあ五月の第二日曜日が母の日って議会で定められてるんですって。メアリーが言ってたわ。」
 メアリー。この春から風林館高校の2年に編入してきた半年間の交換留学生だ。面倒見がいいあかねは何かと彼女の世話を焼いていた。
「日本でもね、数十年前は生きている母には赤いカーネーションを、死んでしまった母を偲ぶには白いカーネーションを捧げて感謝したんだそうよ…。ここから赤いカーネーションには「母の愛情」、白いカーネーションには「私の愛情は生きている」っていう花言葉ができたんですって。」
「へえ…。初耳だな…。」
 乱馬は少し沈みがちになったあかねの寂しげな表情を見ながら言った。
「俺も、ガキの頃は嫌だったなあ…。母の日って。」
 えっという表情であかねが見上げた。
「だって、今でこそオフクロと親子の名乗りをあげられたけど…。ほら、天道家に来る前まではオフクロの存在そのものを知らずに育ってきたわけだろ?」
 そう、乱馬は幼き日に修行の妨げになるといって、母親と離別して暮らしてきた。
「子供心に、なんで俺だけ母親がいないんだろうなんて穿ったことを考えたりもしたさ…。親父はあの調子だろ?俺が尋ねても『修行の身の上に母親は要らぬ!』とか、訳のわかんねーこと抜かしやがるし…。格闘一直線のバカ親父に愛想つかして逃げたんだろうって勝手に思ってたからなあ…。」
 乱馬は帰り道を行きながらとうとうとあかねに語りかけていた。
「そっか…乱馬もなんとなく嫌だったんだ。母の日。」
「ああ…。今でも離れてた期間が長かったから、オフクロには戸惑うことが多いんだけどな…。」
 乱馬はそう言って笑った。
「お母さんに会えて良かった?」
 あかねの問いかけに
「良かった。俺にはオフクロなんていねえってずっと思ってたからな。生死もわかんなかったし…。ごめん。こんな話して、母ちゃんのこと思い出させちまったかな…。」
「ううん…。いいのよ。」
 あかねは気にしていない素振りであっさり答えた。
「ありがとう…。あかね。赤いカネーション。オフクロ喜ぶよ…。」
 乱馬はにこっと笑ってあかねを見返した。
「私も、母の日にカーネーションを買ったの久しぶりだもの…。」
 乱馬はくすぐったいような幸せな気分に浸っていた。自分が現在、女の形をしていることを忘れそうなくらいの気持ち。
「なあ…。」
 言の葉を継ごうとあかねを振り返った。
「なあに?」
「いや…。いい。なんでもねえ…。」
 次の言葉を飲み込んだ時、お邪魔虫が入った。
 
「そこへ行くのはおさげの女と天道あかねではないか。」
 嫌な相手だった。
「げっ!九能だ…。行くぜっ!あかねっ!」
 乱馬はあかねの手を引いて駆け出した。
 あかねの手は柔らかい。そんなことを感じながらひた走る。



 次の日、乱馬は朝ご飯が終わると、あかねに耳打ちした。
「ちょっと付き合え。」
 家族達の手前、まだ素直に自分自身を強調できない不器用な彼だった。
「なあに?」
 あかねが不思議そうに問い返すと、
「いいから…。出かけるぞ…。支度して来い。」
 珍しく主導権を握る乱馬がそこに居た。昨日帰り道でふと思いついたことを実行に移そうとあかねを誘ったのだ。
「変な乱馬…。」
 と言いながらも、別にとりたててしなければならない休日の用事もなかったので、あかねは乱馬の後を付いて行った。今日は昨日と違ってちゃんと男の形をしている。
 デートでもするのかと思えば、そうでもないらしい。普段と変わらないチャイナ服を着込んでいた。
 門を出ると、風に揺れる緑が眩しいくらい輝いて見えた。空も突き抜けるように青い。
 乱馬は黙って前を行く。
「何処へ行くの?」
 あかねが問い掛けても黙っている。黙々と歩みを進める。男のままだからその歩みもかなり速い。
 商店街に入ると、乱馬は花屋の前で足を止めた。そして、さっと中へ入って行った。
「もう、何なのよ…。」
 あかねは花屋の前で乱馬をじっと待った。
「待たせたな…。」
 そう言って出てきた乱馬は真っ白い花の花束を抱えていた。良く見ると白いカーネーション。
「じゃあ、行くぜ…。」
 そう言うと、またさっさと歩き出す。
「ちょっと乱馬。何処へ行くのよ…。」 
 乱馬の行動が理解できないでいるあかねは困惑を極める。だが、黙って付いて来いと言わんばかりの気迫に押されて、逆らうことはできなかった。
 緑の多い街外れに来た。
「ちょっと…。乱馬…。あなた…。」
 流石にあかねは途中で彼が連れて行こうとしている場所がなんとなくわかった。見覚えのある風景。時々一人で辿る道。
 乱馬はそれでも黙って先を行く。
 一際大きな門を潜って、乱馬は石畳の階段を上がり始める。さわさわと大きな木立が二人を出迎えた。階段を上り詰めたとき、梢で鳥が一声鳴いた。
 目前には古びた立派な寺の建物が聳(そび)える。その境内を横切って、墓所と書かれた方向へと乱馬はずんずん進んでゆく。そして「天道家之墓」と刻まれた石碑のところでようやく立ち止まった。
 乱馬があかねを連れてきたところ。それは紛れもないあかねの母が眠る場所であった。
「ほら、ぼんやりしてねえで、水汲んで来いよ。俺は水には触りたくねえんだから…。」
 乱馬は無愛想に言った。今日は男のままでいたかったから、水場には近寄りたくなかった。
「うん。」
 あかねは戸惑いながらも桶を携えて水を汲みに境内へと戻った。
 水を携えて帰ってみると、乱馬が生えかけた草を熱心にむしっている。それから枯れた花を取って、さっき買ってきた白いカーネーションを墓の前にそっと置いた。
 マッチを擦って懐に持っていた線香と蝋燭に火を点す。
 黙って作業をこなしていた乱馬は、そこでやっとあかねに話し掛けた。
「今日は母の日だろ?だから…。」
 そう言って照れ臭そうに微笑みかけた。
 それ以上乱馬は何も言わなかった。いや、言わなくてもあかねには伝わっているだろう。慈愛に満ちた彼の穏やかな瞳は全てを物語る。
 線香の煙を受けながら、静かに佇んで手を合わせるあかね。
(お母さん…。私。元気にしています。お父さんもお姉ちゃんたちもみんな元気です。傍にいるのは許婚の乱馬です。喧嘩ばっかりする相手だけど、私の…私の大切な男性(ひと)なの。お母さん。安心して。この人ならきっと私のことをずっと大切にしてくれる。不器用で乱暴でちょっと変わった体質を持っている彼だけど…。だから、ずっと見守ってて。)
 自然に涙が零れ落ちた。悲しみの涙ではなく、乱馬の思いやりへの謝礼の涙だった。あかねの肩が震えた。
 乱馬はそれを慈しむように後ろからそっと見守る。そして、自分も佇んでそっと手を合わせた。

「ねえ…。どうしてここへ連れてきてくれたの?」
 あかねは山門を出ながら乱馬に尋ねた。
「母の日だろ?あかねにだって母ちゃんはいた訳だし…。勿論、俺のオフクロに孝行することも大切だけど、おまえの母さんにも…。その…。少しは孝行したいじゃねえか…。だって…。」
「だって?」
「あー。もういいよ。んなことはどうだって。」
 乱馬は顔を真っ赤にして叫ぶように言い切った。
「どうでも良くないっ!」
「うるせえっ!これ以上俺に言わせるなっ!バカっ!」
 そう言い切ると乱馬はあかねの手を取った。 
『おまえの母さんは、俺にだって母さんになる人なんだから…。』
 繋いだ手の心の声で、あかねに向って呟いた。





 その年から毎年、母の日になると、天道家の墓所には白いカーネーションが供えられるようになった。
 乱馬が修行の雄飛に旅立っていた頃は、あかね一人で来たこともあったが、それ以外はいつも二人で供えてきた。
 何度も休憩しながら上ってきた階段。乱馬に支えられて歩く石畳。身重の身体には少し辛かったがそれでもあかねの足取りは軽かった。
「お母さん…。今年も来たよ。乱馬と一緒に…。乱馬と二人で白いカーネーションを供えるのは今年が最後だけどね…。」
 あかねはそう言うと、見事な白いカーネーションを墓石の上にそっと置いた。
 あかねの輝くような笑顔の傍には乱馬の優しい眼差し。二人を見下ろす五月の空は青く美しくどこまでも続いている。
 彼女が母となる日はもうすぐそこに。








一之瀬的戯言
母の日に描きたかった情景。
時間がなかったのできっちり推敲ができなかったのですが…。
引用した母の日の由来話は本当です。
アメリカのウェストヴァージニア州のアンナさんという方が母の墓前に白いカーネーションを供えたのが起源だそうです。数年後に大統領が共感して五月の第二日曜日を母の日に定めたのが明治時代の終わりか大正時代にキリスト教会経由で日本へ入ったきたそうです。(そう習った覚えがあります…中学時代の聖書の時間か何かに。)
で、メアリーさんは、そのうち書く小説の伏線でしたが、まだ書いてません。書く気も失せてます。

尚、この小説では女乱馬をらんまではなく乱馬と表記しました。

私が子供の頃は「カーネーション募金」みたいなのがありました。学校で赤いカーネーションの造花を買うんです。今は見かけないなあ…(笑
その時にも確か「白いカーネーション」があったように記憶しています。うろ覚えなんですが…。
通っていた教会であったのかなあ…うう…忘れた!
白いカーネーションは母親のいない子の贈り物…という観念が差別を生むとかで、今は母が存命であろうがなかろうが、赤いカーネーションを捧げるのが主流になっていますね。