◆長い夜の向こう側
一、
またあの時の夢を見た。
呪泉洞であかねを抱きしめながら必死で呼び覚まそうとする夢を…。
幾度呼びかけても目を開かず、息を通わせなくなった冷たい彼女の亡骸を抱く己の姿。泣きながら抱きしめる横で流れ落ちる呪泉の水。その音が遠く響き渡る。
…あかね…。
苦しい息の下から彼女の名前を呼び、目が覚めた。
…夢か…
そんな夢を見た後は、決まって身体中は汗に塗(まみ)れている。下に敷かれているシーツもぐっしょりと濡らしてしまうほどに。魘(うな)されてもいるのだろう。息も荒い。咽喉も干上がるほどに渇ききっている。
「乱馬ぁっ!早く起きなさいよ。もうっ、今日も朝稽古さぼったの?おじさまカンカンよ。」
ドア越しにあかねの声がして、飛び切りの笑顔で俺を起こしに部屋へ乗り込んでくる。
「うるせえ…。」
流した汗を拭いながら、俺は何事もなかったように答える。
…彼女は今を生きている…
引き戻された現実が、己の部屋に在ることを知り、俺はほっと胸を撫で下ろす。
そして、朝ご飯もそぞろに学校へと駆け出す。
そんな時の俺は、きっと不機嫌極まりない顔つきをしているのだろう。
「何、ぷんぷんしてるのよ…。」
駆けながら見下ろすフェンスの下であかねが覗き込む。
「何でもねえよ…。」
もごもごさせながら一層不機嫌を爆発させる。
呪泉洞から帰って来てもう随分も経つ。結婚式騒動に巻き込まれたこともあった。あかねのウェディングドレス姿に翻弄されてしまった俺だったが、結局祝言は未遂に終わった。あかねはともかく当時俺はまだ一八歳になっていないから、祝言を挙げたところで結婚は法律的に無効に違いない。
披露宴がぶち壊れて、本当のところ、内心ではホッとしている。あかねも多分、そうだったろう。
高校生の分際で、あいつの人生を一緒に背負うにはまだまだ役不足だから…。もっと修行もしなくちゃならないし…。
家族達もあれ以来、せっつくこともなく、俺達は相変わらず、つかず離れずの関係が続いている。そんな日常に不満はある訳ではない。
ただ、思い出したように、この頃、毎晩のようにあの時の悪夢が俺を苛みにやってくる。あの時の夢に、俺は夜毎のように冷汗を流す。そんな夢ばかり見るものだから、最近は身体を休めた気がしない。
あかねに対しても特別優しくできるわけもなく、無粋な関係はずっと続いている。
三年生になって、またクラスメイト。
家でも学校でも四六時中彼女と居ることは多い。あかねに感ずかれるのも癪なので俺は不機嫌を持て余す。熟睡できずに通う学校だから、授業中は睡魔の中。春の陽気がぽかぽかと背中に暖かい。授業中の惰眠には夢は現れないから、俺は前へつんのめって安心して惰眠を貪る。時々、先生が怒声を上げてきて、廊下へ直行ということもあるが…。授業を妨害しているわけじゃあないんだから、大目に見て欲しいと思うこともある。
「ねえ、早乙女くん。あかねと何かあったの?」
あかねの近しい友人のゆかがグランドの隅の木の下でひろしたちと日向ぼっこしていた俺にこそっと話してきやがった。
「あん?」
ゆかの言葉の真意が良く飲みこめず俺はきびすを返す。
「だって…。あかねもなんだか眠そうだもの…。悩み事でもあるのかなあ…と思って。」
「そっか?別にあいつには悩み事なんて何もねえと思うけど…。」
俺は無愛想に答える。あかねのこととなるとまだ素直になれない。餓鬼みたいな己。
「なあんだ。てっきり、ぼちぼち、一緒の床に寝てるって思ってたんだけどな。」
ひろしがにやっと笑いながら俺に言う。
「な…馬鹿なこと言うんじゃあねえっ!」
親父とおふくろとは別の部屋になったが、俺は一人で慎ましく寝ているんだ。
「あかねや乱馬がいつも授業中に舟漕いでるのは、そういうことじゃねえのか?え?…。」
大介まで茶化しやがった。
「ち、ちがわいっ!」
真っ赤になって反論する俺。
ないない…。絶対ないっ!
「別に喧嘩してるってわけでもないわよね…。」
ゆかが不思議そうに覗き込む。
「でも、最近のあかねって綺麗になったわよね…。そう思わない?」
さゆりがにこにこしながら会話に加わる。
「そうね…。ちょっと大人っぽくなったかもね…。」
「あかねが綺麗になってくのは、乱馬くんのなす業かもね…。」
「俺は、なぁんにもしてねえぞ…。第一、あんな色気のねえ女と…。」
俺はむっとして反論を試みる。
「あたしが言いたいのは精神的な業よ。メンタリティーな部分でよ…。」
ゆかが屈託なく笑った。
「恋すると乙女は美しくなるっていうもんなあ…。ちぇっ!アホらし…。」
大介が舌を打った。
…そんなもんだろうか…。あかねの奴、綺麗になったかな…。
俺はさゆりの言葉に人知れず心の中で反応していた。
俺達の日常では、そんな変化など気付かぬくらいに平穏で、進歩も後退もなかったからだ。
「あ、あぶないっ!」
「いてーっ!!」
考え事を頭に巡らせていたら、あかねが間違ってこっちに向って飛ばしたソフトボールが俺の肘をを直撃した。
二、
「もう…。あんたがぼんやりしてるいるからよ…。」
隣であかねが笑っている。
「うっせえ…。わざわざこっちへ投げてきやがって。コントロールがねえのか…。おまえは…。」
俺はひりひりする肘をさすりながらぶうたれた。
あかねの放ったボールは左の肘にまともにぶつかったのだ。冷やしていたが、まだなんとなく腫れている。
「武道家なら、飛んでくるボールくらい避けられてもいいでしょうに…。まだ修行が足りないのよ…。」
自分の悪さは棚に上げてあかねが話し掛けてくる。
「俺だって考え事して避けられねえことだってあらあ…。」
「何考えてたのよ?」
あかねに訊かれて返答に困った。そりゃあそうだ。おめえのこと考えてたなんて口が避けても言えねえ。
「おめえには関係ねえよ…。」
俺はぽそっと吐き捨てる。
念のため、下校途中に東風先生の接骨院へ立ち寄った。俺がこの町へやってきた頃からずっと世話になっている名医だ。あかねは責任を感じているのか、頼みもしないのにずっと後を着いて来た。
「ただの打ち身だね。骨に異常はないから、すぐに治るよ…。」
東風先生は眼鏡の向こうにある目を細めながら診察してくれた。先生がそう言うんだったら心配ないだろう。
「青痣も、ま、そのうち引くだろうよ…。」
「ほらみろ…。たいしたことねえじゃねーか。」
俺は傍らのあかねに言ってのける。
「何よ…。私に責任があるから連れて来てあげたんじゃないの…。」
「たく…。連れて来てあげた呼ばわりすんじゃねえよ。誰のせいでこうなったってんだよ…。」
「あんたがぼんやりしてるからよ…。」
またしても始まる他愛ない口喧嘩。
「まあまあ…。二人とも…。そうだ、あかねちゃん。さっき近所のお婆さんに美味しいお饅頭をいただいたんだ。一緒にお茶していかない?」
「おっ!ラッキー。」
「もう…。少しは遠慮しなさいよ…。」
「いいよ。たくさん貰ったから。悪いけどあかねちゃん、お茶入れて来てくれる?」
「はあいっ!」
東風先生の柔らかい笑顔に、あかねも飛び切りの笑顔を返して、奥へと消えた。
…ちぇっ。なんでい、あかねの奴、東風先生には愛想がいいじゃねえか。そんな笑顔、俺にだって滅多に向けねえ癖に…。
天邪鬼な俺はぼそっと心で呟いて見る。
目の前にいる東風先生はあかねの、そう、多分、初恋の人だ。俺がここへやってきた頃、彼女は東風先生への想いを募らせていて、長い髪を腰辺りまで靡かせていた。
あれから二年近くの月日が流れた。
彼女は、良牙との決闘でその髪をばっさりと切られて以来、ずっとショートヘアーのままだ。いつの間にか東風先生へ、切ない顔を差し向けることもなくなっていた。
彼女の視界から東風先生が消えてどのくらい経つのだろう。
だが…。輝くような笑顔を、さっき、確かに東風先生に向けていた。
他の男に笑顔を向けるなんて、ましてや初恋の人へ差し向けるなんて…。ヤキモチだとわかっていたが、内心俺はむっときていた。
…俺はおまえの許婚なんだぞ…。彼女の後姿にそんな主張をしてみたくなる。
「あかねちゃん…。最近、綺麗になってきたね。」
「え…?」
いきなり東風先生が俺に言葉を投げかけた。
「もう一八だものね…。年月を重ねるとともに少女から大人の女性へと彼女も脱皮し始めているんだな…。」
…なんだよ、その笑顔は…。そんな顔であかねのこと言って欲しくねえよ…東風先生。
俺はそんな心の声を噛み殺していた。
「あかねちゃん…きっと飛び切りの美人になるよ…。かすみさんと同じくらい。」
東風先生が笑った。
「ちぇっ…。先生の比較対照はかすみさんかよ…。」
俺は言葉をつき返した。東風先生はあかねの姉、かすみさんにゾッコンなのだ。あかねが東風先生を諦めたのは、それを良く知っていたから。きっと、東風先生はあかねが想いを寄せていたことに気が付いてないんだろうな。
そんなことお構いなしに東風先生は俺に言葉を継ぐ。
「あかねちゃん、かすみさんとはまたタイプの違った美人になるだろうけどね…。もしかしたら彼女を美しく変えていってるのは、乱馬くんかもしれないけど…。」
「はあ?」
「女性はね、不思議な生き物で、傍に居る男性によって、内面からの輝きが違って来るんだよ。」
「それって、思う男好みの女性に変貌を遂げていくっていう意味なのか?先生。」
つい、ポロッと言葉が漏れた。
「うーん、ちょっと違うかな…。上手く言葉じゃあ説明できないけど…。あかねちゃんの場合は物凄くいい恋愛をしてるんだね。それが伝わって来るんだよ。乱馬くん。」
先生はにこにこしながら俺にそう言った。
俺は黙って先生を見上げた。
「お茶、入ったわよ。」
あかねが嬉しそうにお盆を携えて帰ってきた。
「ありがとう、あかねちゃん。」
俺はあかねと東風先生を交互に盗み見ながら、黙ってお茶をすすった。
あかねはお構いなしに、東風先生と他愛のない会話を弾ませている。それを傍で聴きながら、俺はじっと彼女の横顔を観察した。
確かに、さゆりや東風先生が言うとおり、少し大人びてきているかもしれない。強がって怒りっぽかった彼女は、最近少しずつだが穏やかになってきた…と思う。
『飛び切りの美人になるよ…。』東風先生がさっき言った言葉もまんざら嘘ではないだろう。
…そんなにいい恋愛してるのかな…。俺は決してあいつにとっていいパートナーじゃあねえけど…
そうだ。素直になれない俺は、事あるごとにあいつに突っかかる。おまけに、俺の思うとよらないところで、シャンプーや小太刀、うっちゃんたちに言いよられる。優しい言葉一つかけてやることもしない。
ファーストキスはなんとかすませてはいるものの、滅多やたらに「好きだ。」の一言は言えない。おまけに、お節介の家族たちは、いまや遅しと俺達を見張っているようなところで、愛なんて語れるわけねえじゃねーか。
俺の想いもあかねの想いも、空回りしている…。そんな関係を続けていた。別に、それが嫌なわけじゃないから、そのままの関係を暫くは続けるんだろう。
曖昧模糊な気持ちを引きずったまま、俺達は家路に就く。
春の夕焼けは霞んでいる。
すっかり桜は散り初めて、黄緑色の葉っぱが木を飾り始めた。
一番星を眺めながら、俺は黙って道を歩く。彼女も黙ってそれに従う。
三、
その晩、また、夢を見た。
呪泉洞の苦しい夢を…。いつもより、リアルに、長く続くその夢に、俺は身も心もボロボロになりそうなくらい、魘されていたようだ。
はっと目が覚めると、まだ辺りは暗かった。
シーツまで濡れる汗と乱れる吐息。暗く澱む空気の中に自分の荒い息と置時計の音が耳をつく。ゆっくりと秒針を刻む置時計の音が、すぐ後ろで迫ってくる。心臓は鼓動を打ち、ちぢに想いは乱れてゆく。
手を差し伸べて、時計を取れば、まだ三時前。夜が明けるまでには暇がある。
瞼の裏には、まだ、さっき見た悪夢が生々しく己に差し迫ってくる。腕には冷たくなる彼女を抱きしめた感覚が残っているかのような錯覚を覚えた。
自己の潜在意識の中に、最愛の彼女を守りきれない日がくるのではないかという恐怖が鮮烈に波打っているのだろうか…。そう、俺は、あの呪泉洞での闘いの中で、あいつを失うことの怖さを知ったのだ。
あのまま彼女が目を覚まさなければ、或いは俺は…。
思考はそこで止まった。
…うだうだ考えてても仕方ねえや…
だが、そのまま目を瞑る気にもなれなかった。睡魔はどこか遠くへ行ってしまったし、何より、また眠って同じ夢を反芻するのが耐えられなかった。身体も神経も逆立っていて、蒲団に横たわるのも億劫だった。
眠ることを放棄することにして、俺は立ち上がった。そして、道着を取り出すと、さっさと着替え始めた。
こんな、気持ちの時は、道場で気を鎮めるのが一番だ。
俺は、黒帯をギュッと締めて、ゆっくりと廊下を渡って離れにある道場へと足を向けた。
夜のしじまの中に、道場はひっそりと静まり返っていた。
素足からは、床の冷たさが伝わる。
蛍光灯を付けるのも躊躇われて、俺は、月明かりの中で気合を入れた。
黙々と身体を動かし始める。床を蹴る音と、身体が空を切る音、そして衣擦れの音が静まり返った道場にこだまする。
ここへ入るときに感じていた肌寒さも、少しの運動で何処かへ飛んでいた。何かに憑かれたように俺は身体を動かす。
動かないと不安だった。あの幻影に再び捉えられてしまうのではないかという一抹の不安。
いつしか汗が迸る。
と、突然、後ろで気配がした。
振り返ると、二つの眼が俺をじっと見据えていた。
あかねだ。
目を凝らしてみると、彼女も道着を着込んでいた。
「どうしたんだよ…。こんな夜中に。眠れねえのか?」
流れ落ちる汗を拭いながら俺はあかねに問い掛けた。
「ん…。あたしも混ぜて…。」
あかねはそう言うと、いきなり仕掛けてきた。
ダンッ!
彼女が床を蹴る音がした。
白い道着は暗がりに浮き上がって飛んでくる。
俺は夢中で彼女の道着を掴んだ。
大きく揺れて、身体と身体がぶつかり合う。
いつもより、彼女が大きく見えた。俺が突き放そうとしても、彼女は必死で食らいついてくる。
彼女もまた、武道家。格闘少女。この道場に生まれて、稽古に励み、男勝りな勝気さを小さな身体に内秘めている。
お互いに、真剣にやらなければ、怪我をしてしまう。暗がりの中ではいつもと様子が違っていて、思うように手加減をすることもできない。俺は次第に彼女の気迫に追い込まれてゆく。
…こいつ、こんなに強かったっけ?…
多分、彼女も真剣だったのだろう。
何度目かにぶつかったとき、思わず俺の身体がきしんだ。昼間彼女にぶち当てられた右ひじがズキンと痛んだのだ。
痛さに攻撃の手が緩んだ。その瞬間を逃さないようにあかねが突進してきた。
「だあーっ!!」
だがしかし、俺の本能が、はからずしも彼女をのし上げていた。
ダスンっ!!
鈍い音がして、二人は同時に床に叩きつけられる。
…しまった…。
と思ったときは後の祭りだった。軽い脳震盪が俺を襲って、一瞬目の前の世界が歪んだ。それも瞬時で立ち直り、俺は慌てた。
「あ、あかねっ!大丈夫か?ごめん。思わず本気で投げ飛ばしちまったっ!」
暗がりを探りながら俺はあかねへと進んだ。俺がこのダメージだ。誤って投げ飛ばしただけでなく、受け止める暇もなかった。
目の前で横たわったままピクリとも動かない彼女を俺は必死で抱き起こした。
「おい・・あかね?あかねっ!!しっかりしろ…。バカっ!」
いつもの口の悪さでののしりながらも、抱きとめる。
あかねはそのまま動く気配がない。俺は血の気が引いてゆくのがわかった。
「あかねっ!どっか打ったのか?あかねっ!」
ますますパニック状態に陥ってゆく俺は、必死で彼女を揺り動かす。額の汗が頬を伝ってあかねの顔に落ちたとき、彼女はくすっと笑って息を吹き返した。
「大丈夫…。ちょっとからかっただけよ。」
あかねはそう言ったのを聞くが早いか、俺はあかねをきつく抱きしめていた。
「バカ野郎っ!」
その先は言葉にならなかった。
「ら、乱馬?」
腕の中であかねは呟くように俺の名を呼んだ。俺の頬から伝うのが汗ではなく涙だということを彼女は悟ったのだろう。
「ごめんね…。乱馬。」
悪戯の度が過ぎたことをあかねは静かに胸の中で詫びる。それを聞くと、ますます腕に力を入れた。
「そんなんじゃないんだ…。そんなんじゃ…。」
震える声でそう囁きかけた。
四、
耳元で雷が鳴った。蒸し暑い春の夜は、季節外れの雷雲を呼んだのだろう。
道場の古びた板の引き戸や明り取り窓から、雷光が蒼白く瞬き始める。そして、その光に誘われるように降り出した雨。
ばらばらと道場の瓦に当る音がする。大粒の水滴が空から叩き付けてくるのだろう。
その時、俺は、目の前に呪泉洞を見たような気がした。いや、正確にはあの時の記憶が呼び覚まされた。
雷雨の激しき春の饗宴に、引き戻される呪泉洞(過去)の記憶。
目を開こうとしないあかねを抱いて、自分の秘めてきた想いを吐露していたあの時。素直になれずに彼女に対して言えなかった一言。多分、出会ったときから不朽の言葉。
あの修羅の慟哭の中で、俺は己自身の真実を知った。
その傍を、呪泉の水が滝となって鳳凰の嘴から流れ落ちていた。
「あかね…。」
俺は夢とも現実ともつかぬ帳の中で、彼女の名前を呼んでいた。
「乱馬…。」
抱いた彼女が躊躇いながら小さく。
今抱きしめているあかねは温かかった。道着の肌蹴た胸に、彼女の温かい吐息が漏れてくるのを感じる。
目を閉じると、彼女へと心が流れ込んでゆく。
俺はただ、怖かっただけだ。自分の大切な許婚を守れない瞬間がくることを…。いつか来る「別れ」。人は皆、一人で生まれて、死んで土に返ってゆく。人だけではない。生きとし生けるものの宿命。
「俺より先に逝くなよ…。」
「え…?」
「だから…。俺より先に死ぬんじゃねえって…。」
ぐっと飲み込んで俺はあかねを強く胸へと抱きこんだ。
「バカね…。そんなこと…。」
「怖かった。おまえが消えてしまいそうで…。このところずっと呪泉洞の夢を繰り返し見て魘され続けてたから…。」
「乱馬…。あたしも何だか怖かった。私もこの頃呪泉洞の夢を繰り返してた…。さっきも思い出したように夢にみて…。居たたまれなくなって道場に来たら、あなたがいた…。だから。」
「そっか…。おまえも、不眠症だったのか…。」
その時俺は悟った。あかねも眠そうにしていると言ったゆかの言葉を思い出したからだ。
それを思い出すと何故か笑いがこみ上げて来た。あかねを胸に抱いたまま、くすくす笑い始めた。
「何よ・・乱馬のバカ…。」
俺が笑うのを聴いて、あかねは少しヘソを曲げたようだった。
とどのつまり、二人とも同じ恐怖から同じような夢で春の夜を魘されていたわけだ。それに、思うことは同じ。一汗流して忘れようと。俺達は生粋の武道家同志だって訳だ。可笑しいというより嬉しかった。
笑いながら俺は、更に愛しくなった彼女を、今度は柔らかく胸に抱き沈めた。
いつの間にか、思考も見る夢も似てきたのだろうか…。そう思うと抱きしめずには居られなかった。
…新たな強敵がきたら、また二人で闘えばいい。俺もあかねも独りじゃねえ…。二人で一人前でもいいじゃねえか…。
いつか降り頻っていた雨が止んだ。
稲光も遠ざかり、また、静けさが戻る。
「なあ、朝日、拝んでみねえか…。」
俺はあかねに囁いた。
「朝日?」
「ああ…。もう空も白み始めただろ?明日は休みだし。」
「ん…そうね。」
胸の中であかねは微笑んだ。
「じゃあ、決まり。」
そう言うと、軽く彼女の額にキスをした。そして俺はあかねをふわりと抱き上げた。そして外へ出て、そのまま道場の屋根へと上り詰める。瓦はさっき降った雨に少し湿っぽく濡れていたが、この程度なら女にならない。俺は上の道着を脱いで下に敷いた。
さっきの雷鳴が嘘のように、雲が途切れ始める。そして、東の空は太陽を迎えるために白み始める。
神秘の空。澱んでいる都会の空気も、朝日が昇る前には一端、浄化されるのだろう。
「寒くねえか?」
「ん…。乱馬こそ、道着脱いじゃって大丈夫?ランニングだけじゃあ…。」
「平気だよ。おめえとは鍛え方が違わあ…。」
「強がり…。」
「へん。何とでも言えっ!」
いつもの軽口が流れ出す。
「ホントに大丈夫なの?風邪引いたって知らないから。」
「そんなに心配なら、少し温もりを分けてもらうかな…。」
悪戯っぽく笑って、俺はあかねの肩にそっと手を置いた。それから自分のほうへ彼女の身体を傾けさせた。俺の左半身からあかねの温もりが心地良く伝わってくる。
「乱馬、ほら…。」
あかねの目が輝いた。
「朝日か・・。」
その時、白んだ空の果てから、太陽の光が漏れ始めた。
「綺麗…。」
俺はそっと彼女の方を盗み見た。朝日に照り返る彼女の横顔が、何よりも冒し難く、神聖で美しく輝いて見えた。
「ああ…。綺麗だ…。」
俺は独り言のようにあかねに言うと、太陽へと目を移した。
きっと、もう、悪い夢に心を砕くことはなくなるだろう。俺の傍にはこうして屈託なく笑うあかねが生きている。二人で新しい朝を迎えることができた。
季節は巡り、時も前へと流れる。後戻りはできない。日は昇り、また日は沈む。そして、再び輝きを放ちながら上り始める。長い夜の向こうには、新しい朝が待っている。それと同じように人生にはたくさんの出会いがあれば、同じ数だけの別れもる。始めがあり、終わりがあるのだ。それは自然の条理。
時が果てて、いつかあかねと別れる日が来ても、想いだけは変わらない。あかねは俺の最愛の女性(ひと)、俺の太陽なのだから…。
「新しい一日が始まったのね…。」
「今日も宜しく…。許婚のあかねさん。」
俺は少しおどけて耳元で呟いた。
「こちらこそ…。許婚の乱馬くん。」
あかねも笑いながらそれに答えた。
おまえと出会えて良かった。
完
一之瀬的戯言
私は一体何を文章として描きたかったのか…
本当は「乱馬はいつあかねに惹かれ出して、あかねはどうだったんだろう…。」がテーマだった筈なのに。作文しているうちに、最初の趣旨からかけ離れてしまった作品です。はっきり言って「駄文」です。
で、これは高校三年、十八歳の二人を描いてます。ゆっくりとスローペースで二人の関係が進んでいる、そんな感じを受け取っていただければ…。
甘いのは大人になった結婚後の二人の世界で描きます…。高校生の二人は、滅多やたらに素直になってベタベタはしないのじゃ…というのが私の乱あ観の一つであります。
(c)Copyright 2000-2005 Ichinose Keiko All
rights reserved.
全ての画像、文献の無断転出転載は禁止いたします。