◆恋の淵


「あーかったるいっ!」
 乱馬はそう言って、小冊子から目を反らした。
「もう飽きちゃったの?」
 あかねが丸い目を更にまあるく輝かせて傍らに身を投げ出した乱馬を見た。
「なんで、こんなの覚えなきゃならねえんだよ…。」
 恨めしそうに天井を見ながら乱馬はぶつくさと物言いを始める。
「平安朝の歌だぁ?百人一首だあ?そんなの、迷惑以外の何物でもねえじゃんか。」
「もう、冬休みに入る前からずっと覚えるように古典の時間に言われてたでしょ?文句言ったって始まらないんだから、つべこべ言わずに覚えちゃいなさいよ。」
「さっさと覚えろっつたって、百もあるんだぜ…。それも舌を噛みそうなのばっかじゃん…。」
「おきさすつとぬね。」
「何だよ?それ…。」
「あら、知らないの?下の句が一パターンしかない札のことよ。」
 あかねはしたり顔で答えた。
「全部覚えなくても、いくつかパターンがあるんだから、少しを完璧に覚えればいじゃない。それとも乱馬って記憶力がないのかしら?」
「うっせえ…。覚えりゃいいんだろ。」
 乱馬はまた小冊子を取ってあかねに付き合ってもらいながら、一つ一つ歌を反芻してゆく。
 
「有明の つれなく見えし 別れより…」
    「暁ばかり 憂き物はなし…てか」
「正解、じゃあ、嘆きつつ 独り寝る夜の 明くる間は…」
   「いかに久しき ものとかは知る…かな」
「瀬を早み 岩にせかるる 滝川の…」
   「われても末に あはむとぞ思ふ…」
「ご名答。調子いいじゃない。」 
 
「ねえ、和歌の世界って情熱的だと思わない?」
 あかねがポッそりと言った。
「あん?」
 乱馬は何だと云わんばかりにあかねを見返した。
「だって、こんな短い言の葉の中に、いろんな想いが詰まってるじゃない。悲しい恋の歌や搾り出すような魂の響やら…。だから、悠久の時を越えて、愛唱され続けてるのよ…。」
「へっ!何が悠久の時を越えてだよ…。俺は、今、覚えるのに必死なんだからな…。」
「もう…浪漫の欠片もないのね。乱馬は。」
 あかねはふっと息を吐き出して続けた。
「こう、恋する激情が心に染み渡ってこない?」
 熱でもあるのかといわんばかりに乱馬はあかねを小ばかにしたように見据えた。
「何うわ言、言ってんでいっ!さっさと付き合えよ…時間が勿体ねえだろが…。陸奥のしのぶもぢずり 誰ゆえに…」
「乱れ初めにし 我ならなくに…。」
「そうそう…えっと。」
 止まったところでまたあかねが空を見上げた。
「忍ぶ恋かあ…。」
「おい…またおめえは…。付き合ってくれる気があるのかよ…。」
 途中で言の葉を継ぐのをやめてしまったあかねを振り返って、乱馬は苦渋の表情を手向けた。
「ただ覚えりゃいいって訳でもないじゃないの…。今の歌なんて、忍ぶ恋に心が乱れて仕方ないって苦しんだ真情を朗々と歌い上げたものじゃないの…。あんたのせいで私はこんなに苦しんででますよって…。和歌は一つ一つ味あわないと、ただの無味乾燥な言葉の羅列になっちゃうわよ。」
「あほらし…。そんなの考えたって女々しいだけじゃねえか…。」
「乱馬は恋に乱れ苦しんだことってないもんね…。」
「ったりめえだ…。おめえはあるのかよ…。」
「まあね。」
 あかねはそう言って言葉を止めた。
「お、おい…。」
「なあに?」
「その…。」
 乱馬は急に黙ってしまった。忍ぶ恋の経験があるとでも言いたげに言葉を継ごうとしないあかねが気になったのだ。
「終わった恋だってあるもの…。私にも、ひとつくらい。」
 ふっと溜息とともに漏れる言葉。
 見詰める視線を感じたあかねは
「あ、何も今の話じゃないからね。ずっと前の話だからね。ご、誤解しないでよ。あんたのこと言ってるわけじゃないんだから…。」
 乱馬はそれを聞いて内心ほっとした。終わった恋…たぶん、東風先生のことをなぞっているのだろう。
「へっ!おめえにそんな恋が出来る訳ねえだろ…忍ぶ恋なんて柄じゃあねえからな。」
「何よそれ…。」
「柄じゃねえったら柄じゃねえの…。」
「悪かったわね…。」
 あかねがむくれると乱馬は冊子を掬い上げて
「俺の場合はさしずめ、筑波嶺の 峰より落つる 男女川 ってとこか…。」
 乱馬はぽつんと言った。
 あかねはまた、歌合せの続きを始めたと思い込んで、下の句を脳裏に探した。
「ええっとこの続き…何だっけ?」
 あかねは思い出せなくて詰まった。
「恋ぞつもりて 淵となりぬる…だ。意味は?」
「筑波の山の峰から流れ落ちるみなの川の水のように、私の恋心も出会った頃、そうはじめは少しずつ流れていたのに、今ではすっかり淵のように深くなってしまいました…。」
「そういうこと、この歌に喩えるとな…。」
 乱馬は意味深にあかねを見詰め返した。この歌になぞらえて、自分の気持ちをあかねに伝えてみたのである。
「川の水に喩えたものね…。ええっと…。」
 あかねは乱馬の意図が見えていないらしい。チンプンカンプンに言葉を巡らせる。
「だから…俺が言いたいのは…。」
「恋心…ね?」
 あかねは乱馬の言葉を遮って見上げながら答えた。
「誰の?」
「作者の陽成院の…。」
 これは駄目だと乱馬は溜息を吐き出した。
 そして、気が抜けたように小さく呟いた。
 
「鈍感っ…。」








一之瀬的戯言
 百人一首を冬休みの宿題で必死で覚えていた息子の傍らで叩いた短編。
 国文専攻のくせに、和歌には知識が無い私。国文生のときも苦労したのは言うまでもなく…。(苦笑

 最近は、書で苦労しています。仮名文字もかなり素で読めるようになったものの、まだ、字典がなければ、何やっけ、この仮名?…みたいな感じで…。


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