◆ひこうき雲


 真夏の空には湧き上がる入道雲が遥かに見える。
 蝉時雨が頭上から降り注ぎ、少し歩いただけでも滝のような汗が身体中から滴り落ちる。太陽は容赦なく空の高きからじりじりとその身を焦がす。
 右手で汗を拭いながら、あかねは黙々とお寺の参道の砂利道を歩いていた。左手には家から摘んで無造作に新聞紙に包んだアスターの鮮やかな紫色の花束。

「乱馬のバカ…。」
 玉砂利を蹴りながら、あかねは呪文のように、その言葉を繰り返す。

 家を飛び出す前に、派手にやらかした「口喧嘩」。いつものこととはいえ、今日のは深刻さを残しそうなほど、激しい言葉の応酬だった。乱馬に約束を反古にされることなど、慣れっこになっていた筈の自分だったが、今朝はナーバスになっていた分、いつもの数倍可愛くない絡み方をしてしまったのだ。
 ずっと待ちぼうけを食らわされて、揚句の果てに帰宅は深夜ときた。何でもシャンプーや右京、小太刀に順番にまとわり付かれ、女に変身したところで九能にまで追いまわされてヘトヘトになったらしかった。
 すっかりヘソを曲げてしまったあかねは、昨夜は乱馬と顔を合わすのも嫌気がさして、Pちゃんを抱いて、早くに床に就いたのだった。
 朝ご飯の時に隣に座った乱馬は苦情を言ってやっても、
『俺だって、好きですっぽかしたんじゃあねえ・・。』
の一点張りだった。
 「ゴメン」の一言でも聞けたのなら、あかねだって納得して引き下がったのかもしれないが、このややこしい性格の許婚は、口が裂けても優しい言葉やいたわりの言葉は一切、あかねには掛けてこないのだった。すっかりボルテージが上がってしまったあかねは、いつもの数倍もの勢いで、乱馬に突っかかってしまった。
 その腹立たしさも手伝って、つい、朝ご飯もそぞろに勢い良く家を飛び出して来たという訳だった。
 その折、ちょうど玄関先にかすみが仏壇用にと花壇から摘んできてバケツに水揚げしていたアスターを、新聞受けにあった朝刊で包み門を出たのだった。
 今頃、父親の早雲が朝刊がないと大騒ぎしているかもしれない。


 何故だろう…。
 あかねの行き先は、家を出るときから定められていた。
 足は天道家の菩提寺に向いていた。
 寺の樹木越しに見上げる空は抜けるように青く澄み渡っていた。悲しみや苛立ちをすべて染み込ませてしまうような輝きの色だった。
 心ごと空に吸いこまれるのではないかと、あかねは立ち眩みがしたように思えた。
 墓所の入口のところで手水用の桶を取り、焼けつくような水道の蛇口を捻って水を注ぎ込む。なみなみと注がれてゆく水面に自分の影が揺れる。
 天道家の墓所はちょうど中ほどにあった。何の変哲もない、ゴク普通の墓石。「先祖代々之墓」と刻まれた中央の墓石の傍には墓碑銘が刻まれている。
 その脇にバケツを置くと、あかねは地面から伸びている雑草を無心にむしりはじめた。月命日には誰彼となく家族が訪れているので、良く手入れは行き届いているが、雑草の逞しさはそれに勝るのである。地面に這うように点在している雑草をむしり終えると、あかねはふっと息を吐いた。
 息をするのも大儀になるような、暑さが身体を支配する。
 枯れて干からびた供え花を取り除くと、家から持ち出したアスターをそっと差し入れる。鮮やかな紫が石の前でほころぶ。
 それからたっぷりと水を注ぎ入れた。そして、柄杓を手に取ると、墓石や墓碑銘の上から少しずつ注ぐ。ジュッと石が焼ける音でもするのではないかと思うほど、墓石は太陽に炙(あぶ)られていた。かけたそばから水が大気に向かって蒸発してゆくのがわかるのである。
 墓碑銘に目を落すと、読みなれた母の名が白い文字で刻まれていた。
 「享年33才…。」指でそれをなぞりながらあかねはまた溜息を吐く。
 母が死んで、ゆうに十年は年月が流れた…。
 さっき、寺務所で貰ったロウソクと線香。借りてきたマッチ箱を擦って、先にロウソクに火をともす。
 赤い炎が陽炎のように揺らめいて、ともった。それに線香の束を押しつける。
 何秒かして、線香に火がついて燃え始めた。それを右手で揺らして消すと、白い煙がほのかに立ち込める。辺りに線香の芳しい香りがふっと立ち込めて、あかねは落ちつきを取り戻し始めたような錯覚に捕らわれる。線香の香りとは実に不思議な魔力があるようだ。
 古来、人々は、死臭を消すために線香を焚きこめたという…誰かからの受け売りだったが、そんなことをフッと思い出したのだった。ロウソクは一本の道しるべを死者に与えるのだという。迷わずに成仏への道をたどるためにともされる光りという訳だろうか。
 ロウソクと線香をともしたとき、何故か、死者と一体になれるような気がするあかねだった。
 線香を立ててから、ロウソクを傾けた。蝋を滴らせてからロウソクをそれに押しつけて固定する。線香の白い煙とロウソクの橙の炎は、亡き母への慕情をかきたてるのに充分だった。

「ねえ、お母さん…私ってやっぱり、どうしようもないくらい不器用で素直じゃない女の子だよね…。」
 手を合わせながら母に話し掛けてみる。
 幼い頃に母と死に別れたあかねにとって、瞼の母の思い出はそう多くはない。
 もし母が生きていたなら、自分のことや乱馬のことを何と言うのだろうか…
 それは常に頭から離れない疑問の一つである。
 いくら長姉のかすみが母親代わりを勤めてくれているとはいえ、やはり、母への慕情は捨て難い。かすみは「母」ではなくあくまでも「姉」であった。
「でも、乱馬も悪いでしょ?私だってあんな言い方不本意だったもの…喧嘩なんてホントはしたくないのよ。……。」
 あかねはもやもやしていた胸の内をそっと母に打ち明ける。
「ホントは私、あいつの前で、いつも可愛い女の子でいたいのに…。わかってる、可愛くないことくらい…。」
 柔らかい風が側を渡って行った。
「あいつに、もう少し、思いやりがあったら…思いやりの欠片が形になって零れたら、私だってもう少し素直になれるのに…。ねえ、お母さん、どう思う?」
「でも、好きになった方が負けなのかな…。お母さんがお父さんに恋したときはどうだったの?やっぱり素直になれなかったの?」
 胸に溜まっている鬱憤を、とうとうと母に語り掛ける。あかねは暫らくそこに膝をついて、晴れない想いをとうとうと言葉にした。
「きっと誰よりもあいつのこと、好きだから、こんな天邪鬼(あまのじゃく)になるのね…。なんであんな思いやりのない奴のこと好きになったんだろ…私…。」
 サワサワと微かな風に揺られる木陰。
 
 
 どのくらい、炎天下の中、そうしていたのだろう。胸の内を少し吐き出して心は幾分軽くなったような気がした。
「また来るね…お母さん。」
 あかねは寂しげに微笑むと、立ちあがろうとした。

 クラクラッときたのはその時だった。
 長い間、太陽光線をマトモに浴びていたので、どうやら、軽い眩暈(めまい)が襲ったようだった。
 前へつんのめって、墓石に手をつきかけたとき、後ろから太い腕で支えられた。
 はっとして振り向くと、そこには乱馬が立っていた。
「バカ…照りつける太陽の中、長い間立っているからやられっちまうんだよっ!」
 相変わらずの悪態。
「何よ…何であんたがここにいるのよ…。」
「いいから日陰に入れ!」
 ムリヤリ手を引っ張られて、木陰に連れて行かれた。
「体温、上がっちまうぞ…。たく…世話ばっかり焼かせやがって…。ほれっ!」
 そう言って乱馬は缶を差し出した。
 あかねは受け取ると、座り込んで生温い缶の中身を口に含む。
「ホントにおまえは…バカなんだから…。ちったあ、帽子かぶって来るとか日傘使うとかしろよな!こんな中、ずっと佇んでたら日射病にかかっちまうぞ!」
 横で心配そうに覗きながらもぶつぶつ悪たれる乱馬。
「ねえ、どうしてあんたがここにいるのよ…。」
 人心地がついたあかねはさっきの疑問を投げかける。
「……んなこと、どうでもいいだろ…。急に家を飛び出しちまうから…俺は…。」
 歯切れが悪そうに答えが返って来る。
「もしかして、ずっと着いて来てくれた訳?」
「……。」
 乱馬は腕を組んだまま黙り込んだ。どうやらビンゴのようだった。
「悪かったな…思いやりがなくって。」
 かわりにぼそっと言葉が漏れた。
「…・!!あんたひょっとして…。」
 あかねは顔がカア―ッと赤くなった。
 …母と交わした会話を全て聞かれていたのかもしれない…。
 そう思うと気恥ずかしさで体温がますます上がって行くような気がした。
「ほれ、母さんにちゃんと挨拶してから帰ろうぜ。もう、落ちついたろ?」
 乱馬はそれには答えずに、先に立って歩き始めた。
「俺も、少し手を合わせておくよ…。おまえの母さん…だからな…。」
 そう言って墓に手を合わせた。
 何を祈ってくれたのか、横目で見やる乱馬の表情は真剣だった。

「さて、帰ろうぜ…いきなり飛び出して行っちまったから、きっとみんな心配してるぞ…。」
「ん…そうだね…。」
 あかねは一緒に立ちあがると乱馬に微笑みかけた。

「なあ、帰ってから、昨日行けなかった映画へ行こうぜ…。どうだ?」
「いいよ…行こう!」
「決まりっ!」 
「でも、当然、乱馬のおごりね…♪」
「なにぃ?足元見るなよ…ったくう〜可愛くねえ。」
「うっさいわね…そのくらいの「思いやり」つけてくれてもいいじゃない?」
「だあっ!おめえの母ちゃんもそんな風だったのか?考えてみたらなびきの母でもあるしな…。」
「あ〜、お母さんの悪口言うつもり?」
「悪口は言わねえさ…。感謝はしてるけど…。」
「なんで?」
「だって…おまえを生んでくれた人…だからな…」
 そう言って、乱馬は軽くあかねの額を突付いた。
「そら、行くぜっ!」
「ん…。」
 あかねは後ろの母に軽く会釈すると、乱馬の後を歩き始めた。

 いつか、いつかきっと、素直になって
 大好きな人の胸に飛び込むから…
 それまで、私の本心は
 そっと胸の奥にしまっておくわ…
 だから、
 ずっと見守っていてね…お母さん

 速足で歩く乱馬を追い掛けながら高い空を見上げた。
 流れる雲の合間から、母が笑いかけているような、そんな錯覚に捕らわれた。
 …悲しみや寂しさはきっと母のいる青い空が吸い上げてくれる…
 青い空にはさっき棚引いたひこうき雲がひとつ。



 完




一之瀬的戯言
お盆ネタということで突発的に書いたもの。
あかねちゃんの母親の享年33才というのは私の創作。
原作でもアニメでも享年は一切ふれられていません。
御存知のとおり、数え33才は「女の大厄」です。


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