◇浜木綿


           ねえ、浜木綿の花言葉知ってる?
           「遠くへ行きたい」って言うのよ。
           いつも海に向かって白い花を咲かせているから。
           海原の果てへ想いを寄せながら咲き続けているから…

一、

 夏休みに入って間なしの頃、風林館高校の二年生達は臨海学校へ出掛けた。二クラスずつ、編成を組んで入れ替わりにロッジを使う。聞くところによると、九能家のプライベートビーチだという噂もあった。
 だからかどうかは知らないが、巷の海水浴場のような喧騒は見当たらなかった。遊泳客もまばらな比較的落ちついた雰囲気のビーチだった。
少し海から入った小高い丘に、いくつかの木製のバンガローが据えられていて、自炊しながら三泊四日を過ごす。

「あかねと一緒の班じゃなくてよかったぜっ!!」
 一所懸命にジャガイモの皮を剥いていたあかねの後ろで聞き慣れた悪態が聞えてきた。乱馬だった。
「食事に関してだけは、天道さんと組まない方がいいってみんな言うからなあ…。」
 大介が同調する。
「あかね、ひどい言われようね…。」
 あかねの横で包丁を動かしながら、さゆりが苦笑いした。
「別に…乱馬の言う事なんか気にしてないわ…。」
 あかねは平気を装いながら、包丁を危なっかしく動かす。
「乱ちゃん、夕食には美味しいお好み焼きつくったるでぇー。」
 後ろで右京の声も響いてきた。
 あかねはそれを聞きながら、だんだん腹立たしい気分になるのを感じていた。それは悪態を吐いている乱馬や彼に媚びる右京に対してではなく、ジャガイモの皮一つ、まともに剥くことができずに、おたおたしている自分に向けられた怒りであった。
「あっ!いたっ!!」
 苛立ちのせいで集中力が欠けたのか、あかねは包丁で指先を突いてしまった。
 幸い、深い傷ではなかったものの、末端神経の集る指先である。案の定、どくどくと赤い血が噴出してきた。
「保健婦の先生に言って、消毒してもらってきなさいよ…」
 さゆりが覗き込みながら言った。
「うん…そうする…。」
 あかねは切った左手の人差し指の付け根を右手で軽く押さえながら、保健婦の先生がいるバンガローへ向かって歩き始めた。
「ドジ…。」
 乱馬が振り向きもせず、あかねに言い放った。
「うるさいわねえ…バカッ!。」
 あかねは彼に言い返して、立ち去った。

 丸太が横たわった赤土の階段を下りながら、あかねはくさくさと考えこんでいた。
…だから、臨海学校なんて、イヤなのよ…
 己の不甲斐なさに溜息がどっと漏れる。切れた指先はドクンドクンと脈打っているような気がした。
 立ち止まって視線を上げると、青い海原が広がっている。
…せめて、スカッと泳げたら…
 そう考えるとまた憂鬱になった。
 彼女はカナヅチ…そう、泳げないのだ。
 運動神経は人並み以上だと自負していたが、どうも水だけは苦手であった。
 光る海原を見詰めてさっきより深い溜息を吐く。
…もしも泳げたら、この海原を自分のものにして、どこまでも泳いで行けるものを…
 叶わぬ夢であるから、余計に溜息が漏れる。

「たいした傷じゃあないけど、テーピングしとくわね。」
 保健婦の先生は慣れた手つきで手当てしてくれた。
「ありがとうございます。」
 しゃきしゃきとあかねが声をかけると
「天道さんも大変ねえ。切ったり溺れそうになったり…。」
 保健婦の先生は屈託無く話し掛けてくる。
 昨日の昼間、水練の特訓中に溺れ掛けたことを先生は思い出したらしい。あかねはバツが悪そうに愛想笑いをした。
「彼も心配してたでしょう?」
 先生はからから笑いながらそう言った。彼…乱馬のことだろう。
「あいつが心配なんて…するわけないですよ、先生。」
 あかねはポツンと吐き出した。
「そうかなあ…昨日だって怒鳴りながらもあなたの周りウロウロしてたじゃあない…。口は悪いけど、心配してるのよ、きっとね。はいっ、終わり。これで濡れても大丈夫よ。」
 保健婦の先生にお辞儀をしてあかねはバンガローを出た。

…あいつが心配…なんかするわけないじゃない…
 あかねは、太陽の光に目が眩んで、手をかざしながらそう思った。
 みんなの所へ戻ろうとまた階段を上がり始める。ふと目を脇に反らすと、浜木綿の花が一面に咲いていた。白い大輪の花々は浜風に揺られて輝いている。
 思わず、あかねは浜木綿の花に誘われるように、階段の道から少し外れた。少しだけ見て帰るつもりだった。
昨日別の海辺リで乱馬と交わした会話を思い出す。
「ロマンの欠片もないんだから…乱馬ったら…。」
 もごもごそんな不平があかねの口から零れ落ちた。
 あかねはバンガローに通じる海岸沿いの原っぱは危険が伴うことを先生達から言われていたのをすっかり忘れていた。

えっ?

 石ころだらけの原っぱに大きな穴がぽっかりと口を開けていた。
 浜木綿に気を取られていたあかねは、足元に気付かず、滑ってその穴に落ち込んだ…

ドスン…

 鈍い音がして、あかねは気を失った。


二、

「ねえ、それにしてもあかね…遅くない?」
 ゆかがさゆりに話し掛けた。
 保健婦の先生のところに切った指を消毒してもらってくると言い残して席を立ってから三十分近くになる。作業が苦手でも、進んでサボるような協調性のなさは持ち合わせていないあかね。料理を真っ当に作る側から見れば、味付け時の彼女の不在は好都合だったが、帰ってこないとなると心配になってくる。
「私、見てくるわ…」
 そう言って、さゆりがバンガローに駆け出した。

「ちぇっ、何やってんだか…」
 背中であかねの班の女性徒の会話を聞きながら、乱馬は独り言を呟いていた。
「なんだよ…おまえ、気になるのか?」
 呟きを聞いたひろしが横からちゃちゃを入れた。
「へん、あかねのことなんか気にするかよ…。」
 乱馬はだるそうに答えた。
「誰もあかねが気になるのか…なんて聞いちゃあいねえぞ…乱馬。」
 くすくす笑いながら大介が突付いた。
「うるせえ…」
 失言に気付いて乱馬は黙り込んだ。

「ねえ、とっくにバンガローからこっちに戻ったって先生が言ってたわよ…。」
 息を切らせながらさゆりが帰ってきた。
「え?でも、あかね、何処にもいないよ…?」
 女生徒たちがざわつき始めた。
「ねえ、乱馬くん、あかね何処へ行ったのかなあ?」
「お、俺が知る訳ねえだろっ!!」
 乱馬は吐き捨てた。さっきの照れがまだ少し残っていたのだ。

 しかし、あかねはそのまま、夕食が出来あがっても戻ってこなかった。

 当然、緊急召集がかけられ、手分けして捜索が開始された。

…あいつ、何やってんだよっ!!…
 バンガローの周辺や海岸へ出て、みんなが口々にあかねの名前を呼ぶ。


 一方、穴に落っこちたあかね。
 彼女は、ようよう正気を取り戻していた。
…う…ん…
 目を開けたとき、辺りは薄暗い闇が支配していた。
 自分が置かれた境遇を理解するのに少し時間を要した。
…ここは…
 ゆっくりと身体を起こすと天井の透間から光が射し込んでいるのがわかった。天井は今いるところから二メートルばかり上部にあった。
 生温い湿った空気が顔をなでる。
…あたし…あそこから落っこちたんだ…
 少女は自分の身に降りかかった災難をようよう思い出した。
 脇道を反れて、浜木綿に見惚れているうちに、穴に落っこちた…それを思い出したのである。
「痛いっ!」
 上体を起こそうとすると、右足に激痛が走った。
 悪いことに上から落っこちたときに、足を傷めたらしかった。サンダルの片方は落ちたときに何処かへ飛んだのか、探しても見つけられなかった。身体のあちこちが擦り切れていて、所々血が滲んでいた。
 幸い落ちたところは砂地だった。クッションになっていたので、打ってどうのというような傷はなかった。
 この様子では落ちたところへ這いあがるのは至難の技だと見て取った。
 辺りを改めてよく見ると、洞穴のような穴がいくつか開いているのが見えた。
 這いあがるのは無理だったが足を引きずりながらでも、なんとか歩けたので、洞穴の先に出口が無いかと本能的に判断した。傷む足をかばいながら少しすすんでみたものの、穴の殆どは数メートルで岩肌に突き当たった。そう、行き止まり。
 唯一、奥まで続いていた穴も、海の端でふっつりと水面に消えていた。そう、汐が満ちていて、泳げないあかねは、閉じ込められたような状態になっていたのだ。
 いずれにしても八方蓋がりで、あかねは足が痛むのを我慢してふりだし地点へ戻った。
…助けが来るのを待つしかないかな…
 ぽっかりと開いた穴を恨めしそうに見詰めながらあかねは砂の上に腰を下ろした。
 浜辺の洞窟らしく、カニや船虫といった小さな生き物たちが嬉しそうにあかねの脇を走りまわっていた。


三、

「いたか?」
「こっちにはいねえ!」
「あっちは?」
 あかねの捜索は日暮れが過ぎても続けられたが、一向に埒があかなかった。
「困ったなあ…」
「みんなお腹も空いているだろうから…」
 一旦、打ち切られてみんなは夕食にあり付くことになった。
「まさか、海に落ちたんじゃあねえだろうな…」
 乱馬の不安は時と共に増殖してゆく。
「乱ちゃん、ちゃんと食べとかんと、いざと言うとき力が出えへんで…。」
 右京が食を進めたが、乱馬は味気なく呑み込むだけの食事を進めた。右京はそんな乱馬を脇から見詰めて、
…やっぱりあかねにはかなわんわ…
と舌を巻いた。
 乱馬の頭の中にはあかねのことしか存在していない。

 味気ない夕食が終わると、またみんなは手分けして探し始めた。
「あかね…」
 乱馬はだんだん悲壮感漂う自分に気付いていた。
「あいつ、俺のひとことに傷ついちまったのか?」
「一緒に保健婦さんの所へ行ってやったらよかったのだろうか?」
 珍しく、プラス思考ができなくなって、マイナス方向にばかり感情が流れ出すのだ。
 何度目かの階段の上がり降りの中で、乱馬はふと咲き乱れる浜木綿が目に入った。
「浜木綿…か」
 乱馬はあかねが昨晩言ったことを思い出した

『浜木綿きれいね…花言葉知ってる?』
『さあな…興味ねえ。』
『遠くへ行きたい…って言うんだって。いつも大きな海を見詰めながら咲いているからそんな言葉がついたのかなあ…。』
『ちぇっ!くだらねえ…。』

 乱馬は半ば浜木綿に導かれるように、階段の脇を逸れた。
「!!」
 あかねのサンダルが浜木綿の根元に落ちているのを発見した。
…もしや…
 サンダルを辿り、ぽっかり開いた穴を見つけ出した。
 暗くてよく下が覗けない。
 乱馬は無我夢中で、穴の中を滑り下りた。修行で鍛えている彼にとって二メートルくらいの高さは平気だった。
 砂地に着地したとき、乱馬はあかねの姿を見出した。

「あかねっ!!」
 膝を抱えていた少女を見つけ出して、駆け寄った。
「あ、乱馬…。」
 あかねが気付いて声をかけたとたん、乱馬の平手があかねの頬に入った。

パシンッ!!

 乱馬の右手はあかねの頬を思いきり張った。
 突然、平手打ちをクラってあかねは驚愕した…。よろめいて後ろに倒れそうになった身体を今度は思いきり抱きしめられた。
「乱馬…?」
 息ができないくらい締め付けてくる両腕。
「あかねのバカッ!!心配したんだぞっ!!」
 耳元で乱馬の大声がこだました。
 乱馬の腕と身体は小刻みに震えていた。
 打たれた頬はひりひりしたが、そこへ暖かい水が滴り落ちてくるのを、あかねは知った。乱馬の頬を伝わってきた一筋の滴。
 彼が本気で心配してくれたことを知り、あかねは打たれた頬と一緒に胸も熱くなった。
「ごめんなさい…ごめんなさい…」
 あかねは何度も何度も呟いた。
 子供をあやす母の腕よりも深い、暖かい、逞しい乱馬の二の腕の中で。

 月明かりの中、乱馬に助け出されて、あかねはようやく穴の外へ出た。
 浜木綿の蕾みが、海を見詰めてたわわに揺れていた。
「ちゃんとみんなに謝れよ…。」
「うん、わかってる。」
 浜木綿のさざめきの中、乱馬はあかねの手を引きながら笑った。


             どこか遠くへ行きたいの
             見果てぬ海原の遥か彼方
             でも、ずっとあなたの傍にいたい
             二人の時が果てるまで
             遠くへ行くなら二人一緒に
             この大海原を世界の果てまで








一之瀬的戯言
「水平線」と一緒に作ったプロットから作文。
浜木綿の花言葉をベースに乱馬×あかねを描き出したく挑戦。
この作品の中の乱馬はあかねの「お母さん的」いや「保護者的」かもしれない。
乱馬はよほどでないと、あかねに手を上げないと思うが、心配のあまりに突発的に出た彼の愛情表現の一つとして理解してください。


ところで、私の大好きな高石ともやさんの歌の中に「浜木綿咲いて」というちょっと切ない初恋の歌があります。
実は少しその歌を意識しながら書きました。
中学生の頃にファンになり、いろいろあって大学時代は高石家にも出入りしておりました。
一緒に出入りしていた友人のG嬢はザ・ナターシャー・セブン解散後、暫くともやさんと一緒に音楽活動をしておりました。

浜木綿って何処か淋しげで…。
海風に吹かれながら佇む花をあかねになぞらえて創作。
初期作品の中では、気に入った一作となっています。
しかし、文章は稚拙です。今読み返すと。




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