◆素朴な疑問


「ちっきしょーっ!親父の野郎っ!」
 稽古していた乱馬がずぶ濡れになりながら縁側の軒先へ歩いてきた。全身から水が滴り落ちている。
「大変ねえ、あんたも。」
 あかねは半ば同情の眼差しを手向けながら、お湯の入ったやかんを持ち、彼女の頭上へと注ぎかけた。
 湯煙と共に、彼女のふくよかだった胸は厚い胸板に、きゃしゃな小さな手はごつごつした筋肉で溢れ、精悍な少年へと変化を遂げる。
 彼の名は早乙女乱馬。
 彼がこの天道家に来て、もう何度も目の当たりにした変身風景。水を浴びて女の子に変化した姿形も可愛らしいが、やはり元に戻った逞しい彼の方が幾分も好きだとあかねは思う。男へ戻るサマを見せられる度、この頃はどうにかなるほどドキドキしている。
 彼の広い背中越しに少し頬を染めた。そんな初心(うぶ)さをあかねはまだ持っている。
「そ、それで、おじさまは?」
 あかねは不覚にも赤らめてしまった頬を、彼に悟られまいと、慌てて言葉を放った。
「親父ならパンダになって、どこかへ逃げていきやがった。」
 乱馬は恨めしそうに塀の方を見やる。
「畜生!もう少しで一本取れたのに。負けるのが嫌だからって、池に突き落としやがって!!」
「おじさまって、パンダに変身しても身軽なのね。」
 あかねはくすっと笑って乱馬にタオルを手渡した。
「あー。くそーっ!面白くねえっ!!」
 池に突き落とされたのが余程頭に来ているのだろう。乱馬はまだ言い足りないと言う風に、タオルで身体を拭きながらぶつぶつと口中で呟いた。
 
「乱馬、あかねちゃん。お茶菓子ここに置いておきますからね。」
 不意に後ろで乱馬の母、のどかの声がした。彼女もずっと天道家の居候を続けていた。最近ではかすみと交互に天道家の台所を預かるようになっていた。
「サンキュー、おふくろ。」
 乱馬は後ろをちらりと振り返ると、返礼を述べた。
「お父さんの分も、ここへ置いておきますからね。もし、姿を見かけたら、お願いね。二人とも。」
 のどかは楽しそうにそう告げると奥へと引っ込んでいった。
「なあ…。」
 その後姿を見送りながら乱馬はあかねに声を掛けた。
「何?」
「おふくろさあ…。その…あの親父の何処に惚れたんだろう?」
 乱馬は後ろに両手を突っ張って縁側に越を下ろした。
「せこいし、意地汚ねえし、髪は若い頃から薄かったろうし…。近眼だろ?おまけにパンダだし…。あいや、これは後でなったことか…。でも、何処をどう見たって、美人で器量良しで上品なおふくろにはつり合わねーよ。そう思うだろ?」
 あかねは乱馬を一瞥すると、隣に膝を付いて正座した。
「さあ、それはおばさまにしかわからないわよ。」
 そう答えるしか返答が見当たらなかったのである。
「そんなもんかなあ…。」
「そんなものよ…。恋なんて。」
 恋愛、色恋沙汰は当事者にしかわかるまい。
 いや、自分のことすらわからないのだ。天上天下唯我独尊を地でゆく粗忽者の乱馬にどうして自分が心時めかせるようになったのか…。それは未だにわからない。理屈があるようでないもの…多分それが「恋」なのだろう。
「おふくろも親父も、互いに恋しあったってことか…。」
 渋茶を口に含みながら乱馬はそう言って溜息を吐いた。
「そうよ、案外、おじさまもおばさまも目の醒めるような大恋愛して結ばれたのかもしれないし…。」
 あかねはふふっと笑った。
「ま、まさか…。」
 乱馬はの見かけの湯飲みを持ったまま、信じられないというような目つきであかねを振り返る。
「だから、それは当事者にしかわからないのよ…。いくら詮索してみたところでね…。いいじゃない。二人が結ばれたからこそ、乱馬がここに居るんだもの…。ね。」
 あかねはちょっとはにかんで答えた。
「そうだよな。当事者同志にしかわからねえ永遠の恋の謎かあ…俺たちも子供たちに同じこと云われるのかもしれねえもんな…。父さんと母さんはどうして一緒になったのって具合にさ。」
 乱馬はポロリと自分の気持ちを零した。そして零した直後、しまったというような顔になった。これではあかねに己の気持ちを白状したのと同じである。
 湯飲み茶碗へ伸ばしかけていたあかねの手が止まった。そしてふっと顔を上げた。
「え?」
 鈍いあかねも、軽く聞き流しかけた言葉の中に、自分への愛がこめられていたことに気がついたのだ。
「今、何て言ったの?」
 そう小さく声を上げかけた。

 と、その時…。

 ガサゴソッ。
 真後ろで物がうごめく音がした。

 二人が慌てて振り返ると…大きなパンダが、縁側に置かれた茶菓子を口いっぱいほおばっているのが見えた。
「あーっ!」
 大きな声と共に、乱馬の表情は驚愕から怒りへと変化を遂げる。
「このクソ親父っ!それは俺んだっ!返せっ!」
 そして、大きく振りかぶって、玄馬パンダを追いまわし始めた。
「てめえっ!意地汚えぞっ!人の分まで食いやがってーーっ!あーっ!あかねの分まで食いやがったなあっ!!」
 ありったけの罵声を上げて追い掛ける乱馬とパフォフォフォ言いながら逃げ惑う玄馬。
(確かに、何年かしたら、子供に同じこと言われるかもしれないわねぇ。あたしたちも…。ね、乱馬。)
 あかねはそのさまを見学しながら、愉しそうに呟いた。

 雲の果てで遠雷が鳴った。
 青い空の向こう側は、厚い雨雲。きっともうじきにわか雨が降るだろう。
「またやかんにお湯、用意しておかなくちゃね。」
 あかねはそう囁くと、そっとやかんの取っ手に触れた。








一之瀬的戯言
同人誌「半夏生草紙」に掲載した、小説「半夏生」のプロローグ用に書き下ろしていたもの。
本と物語の構成上、使わなかったので短編として収監。
同人誌の方は、頁数の加減で玄馬さんとのどかさんのロマンス部分は、ばっさりと、切り捨てたので…


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