早春の夜想曲   3


七、

 皆が立ち去った後、暫らく乱馬は、毛布を抱えたままポツネンと立ち尽していた。
 確かに撃退したものの、あの妖怪エロじじいは、いつまた立ち直ってあかねを襲うとも限らない。抵抗する気力も体力もない今のあかねを一人にしておくのは危険すぎる。
 しかし、病人とはいえ仮にしも男と女だ。それを承知で乱馬だけにガードを押しつけるなんて…天道家の人々はこの状況をどういうふうに考えているのだろうか?
 釈然としない突っかかりが乱馬の胸に去来していた。
 たとえ、同じ屋根の下に暮らしていても、親同士が勝手に決めた許婚でも、乱馬があかねの部屋に不用意に立ち入ることは殆どなかった。宿題を頼む時くらいだ。
 賑やかな天道家においては、あかねと二人きりになるということすら稀だった。
 二人ともそれぞれ、お互いの存在を意識しあっていたが、「好き」という気持ちを言葉に表したことはない。
 つかず離れず…。
 それが乱馬とあかねの距離だった。
 あかねさえその気になってくれれば、いつだってその想いを受け入れてやる決心はとうの昔についていたが、気の強い跳ねっ返り娘が素直に心情を白状するワケがない。
 勿論、乱馬とて同じだ。自分の方から愛の言葉を囁くなんてガラではない。

 でも、それでいい…
 この微妙な関係のまま暫らく一緒に居たい…

 乱馬は真剣にそう考えていた。
 痴話喧嘩ばかりの毎日が楽しかった。
 変に意識しあって、気まずくなりたくなかった。
 つかず離れす傍に居て、ずっと守っていてやりたい…それだけ、あかねを大切にしたかった。
 
 それなのに、ここの連中ときたら…。

 また乱馬は、恰好の喧嘩相手の跳ねっ返り娘が弱っている姿など、見たくはなかった。
 弱々しいあかねを見てしまっては、とても平常心で居られない。
 乱馬にはそれが良く分っていた。
 現に今、背中にいつもと違うあかねの弱くなった気を受けて、身体が過剰に反応を示している。

 乱馬が与えられた状況を受け入れようと決心がつくまで、いったい、どのくらいの時間を要したのだろう。
 一瞬だったのか、それとも延々とした時間が流れて行ったのか…。

 乱馬は半ばヤケクソにあかねの傍に、付いていてやる意志を固めた。
 そう決めたとき、乱馬は一つホーッと長い息を吐き出すと、ゆっくりとあかねの方に向き直った。

 電気スタンドの薄明かりが柔らかくあかねの熱っぽい顔を照らし出す。
 ほんのりと頬が紅く染まり、いつもより可愛く見える。
 戸惑いを胸にそっと隠し、乱馬は静かにあかねを覗き込む。
 するとあかねは驚くほど素直な微笑を乱馬に返してきた。
 その笑顔の眩しさ。
 全身の筋肉がギシギシと音をたてて固まってゆくのが分る。

 あかねはそんあ乱馬を円らな瞳で不思議そうに見つめていた。
 あかね自身は高熱で、自分の目の当りにしている光景が夢なのか現(うつつ)なのか把握できていなかった。

 無言で見詰め合ったまま、静かに時が流れる。

「ごめん、起こしちまったかな。」
 先に口を開いたのは乱馬の方だった。
「大丈夫、平気。」
 そう言ってあかねはベットから起き上がろうとした。
「寝とけよ。熱、高いんだろ?」
 慌てて乱馬はそれを制した。
「たくー、昼間バスケの試合なんかに出て無理するからだ!おまえ、朝から調子悪かったんだろう。」
 乱馬の問いかけにあかねは軽く頷いた。

「ねえ、八宝斎のおじいちゃんと何争ってたの?」
 ふいにあかねが訊いてきた。
「あ、いや、じじいが薬をおまえに飲ませる飲ませねえで、その、取りあいになってドタバタしていただけさ。」
 乱馬はたどたどしくそう答えた。
 まさか、惚れ風邪薬を巡って争っていたなんて言えるワケがない。
「そう言えばあたし、まだ寝る前のお薬、飲んでなかったわ。乱馬、悪いけどお薬取ってくれる?」
 あかねは乱馬の方にそう言いながら手を伸ばしてきた。
「え?薬?」
 乱馬は弱った。辺りを見回してみたが、本来の薬らしきものは何処にも見当たらなかった。
「乱馬が私のお薬、持っててくれてるじゃあないの?」
 不思議そうにあかねは訊いてくる。
「持っているっちゃあ持ってるけど…。」
 乱馬は曖昧な答え方をした。
 乱馬が持っているのは、東風先生の処方した薬ではない。じじいの丸薬、物騒な惚れ風邪薬だ。
「じゃあ、あたしに渡して。それを飲むわ。なんか、また熱が上がってきたみたい…」
「……。」
 乱馬は動揺し始めた。東風先生の薬ならいざ知らず、効き目は確かだが惚れ薬など飲ませる訳にはいかない。
 乱馬は見回して、東風先生の薬袋を探したが、それらしき物は見当たらない。そもそも乱馬は東風先生の薬の在り処は知らなかった。
 かすみさんあたりを起こして、何処にあるのかを訊くのも一つの選択肢だったが、わざわざ起こしにいくのも気が引けた。
 かといって、高熱のあかねを放っておく訳にもいくまい。

 どうしようかと考えあぐんでいると、懐に仕舞い込んでいた筈の惚れ風邪薬の丸薬がコトリと音をたてて、あかねの蒲団の上に落ちた。


八、

「あ…」
 乱馬より先にあかねが丸薬を摘み上げた。
「変わったお薬ね。」
「おい、それ…!」
 乱馬は焦った。
「なんだか甘くていい匂いがする。」
 そう言ってあかねは丸薬をしげしげと見つめる。
「ちょっと、あかね…それは。」
 乱馬の焦りは頂点に達する。
「ねえ、乱馬、机の上の水差しとコップを取ってくれる?お薬飲むわ。」
「おいっ、飲むって、おまえ…。」
 ますます乱馬は焦ってうろたえる。
「乱馬が持ってきてくれたんでしょ?このお薬。早く、飲んで熱を冷ますわ。」
 あかねは薬の正体を知らないから何とでも言えるのだろう。
 夕刻、父、玄馬の迷走を目の当りにした乱馬の焦り方は尋常ではなかった。何かに憑りつかれたように急に玄馬に抱きつかれたのだ…まだ、身体の何処かにその時のおぞましい感触が残っている…。

 そんな物騒な代物をあかねが目の前で飲んでしまったら…。

「……?」
 乱馬はそこで、ふと焦りが止まった。

…確かじじいは『飲ませた者に惚れる』って言ってたな、あの薬。親父に飲ませたのは俺だ…だから、親父があんな反応したとして、あかねは?このまま自分の手で飲んだとしたらどうなるんだ?…

 乱馬が少し考え込んだ隙に、あかねは丸薬を自分の目の前に持って来てじっと見つめていた。
「なんかこれ、この前作った、トリュフみたいね。」
 と呟いたのを乱馬は聞き逃さなかった。
「あ、ああ。そうそう、この前俺が貰った、そ、そのチョコだよ。だ、だから飲むな!!」
 丸薬を取り返そうと、乱馬は思わず口から出まかせを言った。
 あかねはそれを聞くと、ちょっとムッとした顔になった。
「乱馬、ねえ、あんた、食べてくれなかったの?」
 乱馬はギクッとした。

 確かに、食べた。…勿論効用はさっきの八宝斎と同じ目に合った。
 流石に鉄の胃袋を持つ乱馬でも、二つか三つが限度だった。後は、自分の部屋の奥に仕舞い込んである。それをじじい退治に使ったのだ。

 乱馬が返答に詰まっていると、
「ホントに意気地なしなんだから…全然食べてくれてないんだ。」
 とあかねが怒ったように言った。
 その言い方にちょっとカチンときた乱馬は、
「食べて欲しけりゃ、ちゃんと味見して作れよな…ただでさえ人の数倍も不器用なんだから、おめえは。」
 ついつい本音が口から滑った。
「何よ…その言い草。」
「おめえ、ちゃんと味見したのか?あのチョコ。」
「してないっ!」
「しろよっ!味見くらい…頼むからしてみろよ。したらわかるぞ!一口で天国の度ドアが見えたんだぜ…。」
 毎度のことながら、あかねの手作りには泣かされている乱馬。
「とにかく、それは危険だ。こっちに寄越せよなっ。」
 乱馬はそう言うのがやっとだった。
 しかしながら、この言葉はあかねを強く刺激した。それに気がつかないのも、また鈍感乱馬なのだった。
「イヤよっ!」
 あかねは強く言った。
「えっ?」
「イヤよって言ったのよ。」
「イヤよっておまえ…。」
「だから、味見してみるわ。」
「はあ?」
「味見してみろって言ったの乱馬じゃない。」
「あっ、くぉらっ!!」

 一瞬だった。
 あかねは持っていた丸薬を口の中に勢いよく放り込んだ。
 そして、ゴクンっと飲み込んでしまった。

「お、おいっ、おまえ、な、何するんだよっ!!」

 乱馬は焦った。突然のあかねのリアクションに成す術(すべ)なく、そう言うのがやっとだった。

 あかねは丸薬を飲み込んだ後、ふーっと息を一つ吐き出し、そのまま前のめりに蒲団の上に沈みかけた。
 乱馬は思わず、彼女を支えようと右手が出る。…その時、あかねの熱っぽい身体に手が触れた。

 二人の間に、奇妙な緊張感が走る。

「だ、大丈夫か?」
 少し間を置いて、乱馬があかねを起こしながら訊いた。
「ン…多分。」
 あかねの顔は、高熱を映し出して紅い。

 乱馬の思考力はほぼ完全に静止していた。一種のパニック状態だったかもしれない。
 あかねを支えた手をゆっくり外して、彼もまたひとつふーっと溜息を吐く。
 あかねの熱気に冒されてゆく自分を自覚していた。
 惚れ風邪薬…その物騒な効き目があかね本人ではなく、自分にきたのではないかと思えるほど、乱馬の心はざわめきだっていた。

 あかねは乱馬の手が自分から外されると、再びベットの上に静かに横たわった。
「これ、私が作ったトリュフじゃあないみたいね…なんだか不思議な味がしたわ。ねえ、これって何だったの?心臓がドキドキしてきたわ。」
 あかねはまた一つ溜息を吐いた。
 そして、宙を眺めて、虚ろに天井を仰いだままじっと動かなかった。

 乱馬はあかねの変化の様子を、無言のまま息を呑んで見守るしかなかった。
 もし、親父のように、本気であかねが迫ってきたら…。
 そう考えると自然に身体に力が入っていたが、乱馬の期待(?)とは裏腹に目立った変化はいつまでたっても現れなかった。
 多分、誰に飲まされたわけではなく、自分の手で飲んだ結果だろう。
 ひとまず、あかねの無変化に安堵した乱馬だった。


九、

 それから、どのくらいの時間が二人の上を過ぎて行ったのだろうか。
 ずっとあかねは仰向きにぼんやりと横たわっていた。
 乱馬はベットの横に固まったまま、あかねを見守り続けていた。今更、声をかけるのもためらわれて、ずっと押し黙ったままだった。

 時が少し過ぎて、乱馬が落ちつきを取り戻した頃、何時の間にかあかねは乱馬の方に顔を向けていた。
 二人の視線は、ゆっくりと交差した。
「ねえ、乱馬…。」
 あかねは口を開いた。
「なんだよ。」
 気恥ずかしさも手伝って、乱馬はぶっきらぼうに答えた。
「あのね…もう少しだけ、ここに居て。」
 小さな声で、あかねは懇願してきた。
 丸薬の効果が、少しだけあかねに作用してきたのかもしれない…普段なら絶対に口になどしない乱馬への一途な気持ちが、言葉となって溢れ出す。

「あと少しだけでもいいから、このままあたしの傍に居て…ねえ、何処にも行かないで…。」

 あかねの澄んだ声と清らかな瞳の輝き、そして、普段は片鱗も見せない素直さ。乱馬は完全に打ちのめされた。
 と、同時に、堪らなくあかねが愛しくなった。

「俺は何処にもいかねえさ…」
 そう、ポツンと答えた。
「ホントに?」
「ああ、だから、少し眠れよ…。そんな風邪、早く治しちまえよ。」
「うん。」
「弱りきったお前を見るなんて、金輪際(こんりんざい)ゴメンだぜ。」
 それは乱馬の正直な気持ちだった。弱りきったあかねをこれ以上見せつけられたら、きっと正気では居られまい。
「おまえが眠ってしまうまでは、ちゃんとここに居てやるよ…。」
「ホント?」
「疑ぐり深い奴だなあ…相変わらず。」
 そう言って、乱馬はそっとあかねの熱っぽい手に自分の一回り大きな手を重ねた。

 二人の上を、また静寂が流れ出す。ゆっくりと時を刻んで。

「ねえ、乱馬…。」
 あかねは静かに、問い掛ける。
「ん?」
「あのね…」
 あかねの頬ははほのかに赤らんだ。そして、はにかむように小さく続けた。

「大好きよ。」

 それは消え入りそうなくらい小さな囁きだった。
 丸薬のせいだったのか、熱にうかされて本心が口を吐いたのか、それとも空耳だったのか定かではなかったが、確かに乱馬にはそう聞こえた。
 暖かい、あかねの想いが、ふっと乱馬の心を過(よ)ぎっていった。

 あかねはそのまま静かな、眠りの淵に落ちていった。
 乱馬の手をしっかりと離さないように握りしめたまま、安寧な笑顔と微かな寝息とともに。

「あかね…?」

 乱馬が呼び掛けても、もはや返答はなかった。

「ば…か。」

 そう呟くと、乱馬はそっとあかねの頬にくちづけした。


 早春の永い夜は、そのまま静かに優しく更けていった。
……二人の時間を暖かく、柔らかく包み込みながら……








一之瀬的戯言
この作品は、私のらんま的小説の処女作品を改作して作ったものです。
友人(同年代の腐れ主婦仲間Y子さん〜らんまも嗜好の範疇にある奇特な御方)とメールでリレーして小説書きっこして遊んでいたネタがそのままプロットになっています。
但し、その作品そのまま載せると問題があるので随分手直ししました〜1999年2月、しつこいインフルエンザで寝込んだ家族達を介抱しながら思いついてパソコン内へ書き込んだネタ。
元ネタを暴露しますと、惚れ薬騒動ではなく「座薬騒動」だったんです。そこに八宝斎が絡んでくるので、ご想像どおりのドタバタでした。あまりにお下劣な会話が並んでいたので、Web用にと「惚れ薬」に改作したのでした…。まんま掲載すればR作品になることは間違いなく。(笑
元作は座薬が八宝斎のスケベ熱で溶けたしまったり、あかねちゃんが飲み薬間違えて飲みそうになったりと…ギャグの極地だったんですが…。
作り直すにあたり、「惚れ薬」がアイデアとして浮かんできたのでした。これはこれで気に入ってます。
1999年のインフルエンザには泣かされました〜私が一番軽かったみたいです。
思いっきりらんま的世界にのめり込み掛けて、上滑っていたから私に憑依した「インフルエンザ菌」もすぐ死滅したのかもしれませんが。そんな状態の中で作ったプロットだったのです…。

ホントはこのお話、次の日の朝のシーンがありました。
それで乱馬くんを思いっきり落して終わっていたんですが、雰囲気ぶっ壊しそうなので、ここで止めました。
なお、元ネタの方では、熱に浮かされていたあかねに乱馬は優しくキスをしました…。

この先もちょっとだけ原作より二人の関係を深めた作品になりますが、できるだけ原作の持つイメージを壊さないようにすすめていきたいと思っています。
だから、頬っぺたにキス。この辺りが限界かな…これでも、ラスト、WEB掲載当時はメチャクチャ悩んだんですよ(^^;
まだ、乱あネットも確立されて間なしの頃だったので、それすら躊躇われるくらい、私の方も純情な書き手でありました。


オマケ
チョコレートトリュフの作り方
 ☆材料
   板チョコ…150g(普通のでOK)
   アーモンド…100〜120g
   マシュマロ…120g
   バター…50g(できれば無塩で。なければ普通のでもOK)
   水…大さじ1杯
   ココア…仕上げ用に適宜

 ☆作り方
  1. 板チョコは割りほぐす。
  2. アーモンドは生の場合はフライパンでからいりする。そして細かく刻む。
  3. 耐熱容器にマシュマロ、バター、水を入れて蓋なしで電子レンジ強で約1分加熱。
  4. その後すぐに取り出してヘラなどでかき混ぜる。
  5. そこに板チョコとアーモンドを入れて軽く混ぜ、蓋なしで再び30秒間加熱する。
  6. すぐに取りだし、ヘラなどでかき混ぜる。
  7. 底が浅いシール容器やパットに流し入れ、あら熱がとれたらラップか蓋をして冷蔵庫で約1時間ほど冷やす。
  8. ナイフなどで25等分し、一つずつ丸める
  9. ココアを敷いた容器に丸めたチョコを入れて、ココアをまぶす。竹串を使うと汚れないから便利。  
  10. ペーパーカップに入れてできあがり。
ココアの代わりに粉砂糖やアーモンドパウダーを仕上げに使ってもいいですよ。
簡単にできますから、やってみて下さいね。


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