早春の夜想曲   2


五、

 目覚し時計の音が静かに鳴った。
 慌てて音を止めると、乱馬はゆっくり起き上がった。
 天道家に母のどかまで一緒に居候するようになって、乱馬は二階の奥の物置部屋だったところに自分の部屋を貰って移動していた。元いた和室はそのまま、父と母が使っていた。

 乱馬は目を完全に覚まそうと、大きく伸び上がった。
 今、彼が寝ていたのは、移った自分の部屋ではない。
 実は、あかねの隣の部屋…そう、なびきの部屋だった。
 夕食後のドタバタの後、乱馬はなびきに部屋をチェンジさせてもらったのだ。五百円を払って。
 なびきには、ナルト柄の乱馬のパジャマを着て、おさげ髪の鬘(かつら)つきで、乱馬のベットに寝てもらっている。
 これも、そう、なびき思案の作戦のうちだった。
 断っておくが、乱馬はなびきのベットではなく、床の上に寝ていた。なびきのベッドを使うことに、乱馬なりの抵抗(?)があったからだ。

 八宝斎のパターンからして、皆が寝静まってから、行動をおこすに違いなかった。
 昔でいうなら「丑三つ時」。時計の針は午前二時をさそうとしていた。

…ぼちぼちかな。

 乱馬は臨戦態勢に入るべく、そっと身体をほぐしにかかった。

 あかねを八宝斎の魔の手から守ってやれるのは、自分しかいない…いや、何がなんでも守ってやらなければ。
 八宝斎を相手にするのだ。
 少しでも休眠をとろうと、なびきに無理言って部屋を替わってもらったのだ。
 あの並外れたエロじじいに太刀打ちするには、最後に物を言うのは体力だろう。
 それに、部屋を替わっておけば、八宝斎に油断が生じるだろう。
 あかねの部屋に乱入する前に、何としても八宝斎を取り押さえたかった。


カタン。

 微かに階下で物音がした。

「来やがったな…。」
 乱馬はなびきの部屋の戸口でじっと息を凝らして耳を澄ませた。
 全神経を研ぎ澄ませて、八宝斎の襲来を待ち構える。

 八宝斎はまず、宿敵、乱馬の部屋に足を忍ばせた。
 そっと、彼の部屋のドアを開け、乱馬の様子を伺った。
 意外にも、乱馬はベットの上に沈んでいた。
 油断させておいて、飛びかかってくるのではないかと八宝斎は警戒しながら乱馬を覗き込む。じっと様子を伺ったが、乱馬は軽い寝息をたてて眠り込んでいた。
「何じゃい、口ほどにもない。」
 八宝斎はそう思いながら、扉を静かに閉めた。
 少々、肩透かしを食らわされたようだが、邪魔者は居ない方がいいに決まっている。

「あかねちゃん、待っとれよ。今、ワシが風邪を治してやるからのう。」

 八宝斎は、あかねの部屋に確実に近づいてくる。
 その足取りは、ふざけたように軽い。

 一方乱馬は、いつでも扉を開けて、八宝斎に飛び掛れるように体制を整えていた。

 そんなことは露とも知らず、八宝斎はあかねの部屋の前にすっくと止まった。
 そして、そっと、その手がドアノブに掛かった瞬間、

「おいっ!」

 背後から、乱馬のドスのきいた声が響いてきた。
 その声に、八宝斎はビクッとして、立ち止まった。

「何やってんだ?こんなところで。」
 乱馬の殺気は尋常ではない。八宝斎とて一角の武道家だ。そのくらいは気配で読めた。
「いや、ワシはただ…」
「ただ?」
「風邪を治してやろうと…その…。」
「さっきの惚れ風邪薬をあかねに飲ませにノコノコとやって来って訳か。」
「なんで、お主、ここに居るんじゃ?さっきまで部屋で寝ていたんじゃあないのか?」
 釈然としない表情で、八宝斎は尋ねた。
「俺の部屋で寝ていたのはなびきだ。予め部屋をすりかわっていたんだよっ。」
 乱馬は勝ち誇ったように言った。
「のう、乱馬。」
「なんだ?」
「あかねちゃんが中で苦しんでいるんじゃ。見逃してくれっ!」
 八宝斎はうるうるしながら乱馬にすがろうとした。
「はいそうですかって見逃せるワケねえだろがっ!」
「だめか?」
「あったりめえだっ!さあ、渡せっ、その変な薬っ!」
 乱馬は右手を八宝斎の前に差し出した。
「乱馬よ、お前がその薬を使ってあかねちゃんを自分の物にするつもりか?」
 八宝斎は乱馬に抗議するように言い放った。
「な……!!」
 八宝斎の暴言に乱馬はカーッと頭に血が昇ってきた。
「図星じゃな?」
 八宝斎が念を押すと、
「バカっ!そんな姑息なマネするわきゃねえだろっ。」
 乱馬はそう、言葉を返した。
「ウソじゃっ!」
「嘘じゃねえっ!第一俺は薬に頼る気なんかねえっ!」
 昂揚した乱馬は、何を口走っているのか自分もはやわからなくなりつつあった。
「お前だって、あかねちゃんに心底惚れて欲しいんじゃろがっ!」
「俺はてめぇとは違うんだっ!薬に頼らなくったてかまわねえっ。惚れる惚れねえはあいつの意思一つだ。とにかく俺のあかねに手を出すなっ!このクソジジイっ。」
 端で聞いていると、乱馬もなかなか凄いことを口走っている…当人は気づいていないらしいが。
「いやじゃっ。この薬はワシが使うんじゃいっ!」
「オトナシクよこせっ。」
「絶対お主にはやらんっ。」
「よこせっ!」

 いつものドタバタが始まった。
 決して熱くはなるまいと思っていた乱馬だったが、無駄だった。
 あかねのことが絡むと、冷静ではいられなくなるのが乱馬の常だった。
 真夜中だというのに、結局、取っ組み合いが始まってしまった。


六、

 いつのまにか、二階の廊下には天道家の住人達が続々集まり始めていた。
 まず、天道早雲とパンダの玄馬が出て来て、二人の闘いぶりを見守っていた。
「ガンバレっ!乱馬くん。お師匠さまの暴走を止めてくれっ!」
 早雲が呟くように声を掛ける。
『それゆけ、乱馬!』『ファイトだ、乱馬!』
 左右に看板を上げながら、玄馬もパフォパフォ応援する。

「どうしても邪魔立てするつもりか、乱馬っ!」
「てめえこそ、薬よこしやがれっ」

 こうなると、もう泥沼だ。どうにも止めようがない。

「派手にやってるわね…二人とも。」
 ナルト柄のパジャマを着込んだなびきが乱馬の部屋から目を擦りながら出てきた。
「あらあら。」
 かすみも出てきた。
 のどかは刀を抱えて、何事かと飛び出してきた。

 起き出した天道家の人々を他所に、乱馬と八宝斎の惚れ風邪薬争奪戦は、ますます熱気が帯びてきた。
 誰一人、その騒乱を止めに入る輩がいない…これもまた、天道家らしいことであった。


 当然、病人のあかねも、部屋の外の異変に気付いていた。
 しかし、思ったよりも高熱を発していた彼女は、頭がぼんやりとしており、大騒動に聞き耳を立てる気力がなかった。全てが夢の中での 出来事のような、遥かな響であった。

 揉みあいながら隙を見て、八宝斎は乱馬を振り切った。
 そして、一気にドアを開き、あかねの部屋に飛び込んだ。

「あっかねちゃ〜ん。」
 八宝斎は目もくれず、そのまま、あかねに突進して行く。
「あっ!こら。じじいっ。」
 乱馬は慌てた。
 乱馬もまた、八宝斎に引き続いて、あかねの部屋に乱入する。

ドカッ!

 目の前で八宝斎が倒れた。
 見ると、あかねの右手が蒲団から真っ直ぐに伸びている。
 あかねは薄い意識の下から、身の危険を察知したのだろう。日頃鍛えた腕力で、襲いかかってきた八宝斎をのしたのだ。
 武道少女の本能が成せる見事な技一本だった。

 予想外のあかねの反撃に、八宝斎はよろめいた。
 しかし、こいつも武道の達人だ。すぐさま体制を立て直した。熱い下心が八宝斎を回復させるのだろう。
「ひっどぉーい。あかねちゃんっ!あんまりじゃ〜。」
 八宝斎は「懲りる」という言葉が思考の中から欠落している。
「たくーっ!病人の部屋にドカドカ上がり込みやがってっ!」
 乱馬の怒りもまた、頂点に達しつつあった。
「あかねちゃん!安心せいっ。風邪はこのお薬で楽にしてやるからのう。」
「まだ言うかー!いい加減諦めろっ!このクソじじい。」
「いやじゃ、この丸薬はワシとあかねちゃんの愛の掛け橋じゃっ!!」

 傍らで騒々しく繰り広げられる、二人のやり取りを、あかねはぼんやりと見つめていた。
 抵抗する気力もないようだ。

…このままでは、あかねがじじぃの餌食になる!

 乱馬は八宝斎と闘いながら、最後の手段をこうじることにした。
 そして、虎視眈々とその手段を使うチャンスを伺った。
 できれば使いたくない手だったが、背に腹は変えられない。
 なんとしても、あかねを守りぬかなければならない…

 乱馬はそっとズボンのポケットからこげ茶色の惚れ薬と同じくらいの丸い玉を一つ取り出した。
 そして、
「じじいっ、そんなに丸薬を飲ませてぇなら、先にてめぇが飲みやがれーっ!」
 と叫ぶと、八宝斎の口目掛けてその丸い玉を無理矢理押し込んだ。

 一瞬、時が白んだよう静寂が二人を覆った。
 続いて脳天を突き刺すような悲鳴。

「ぎぇーーーーっ!!」

 八宝斎はそう叫ぶと、パタリと沈んだ。

 乱馬に遺物を放りこまれた八宝斎は、そのまま、床下に転がりながら、悶え苦しみはじめた。
 のた打ち回って、咽喉を掻き毟(むし)る…尋常の苦しみ方ではなかった。

「へっ、ザマアミロっ!あかねお手製ののチョコレートトリュフは惚れ風邪薬より強烈だろう?」
 勝ち誇ったように乱馬が言う。

 乱馬が八宝斎の口の中に押し込んだのは、惚れ風邪薬と見紛うようなチョコレートトリュフだった。…この間のバレンタインに貰った、あかねの手作りだ。乱馬は悪いと思いながらも、全部食するのは諦めたと言う曰くつきのものだ。
 あかねの不器用はピカイチで、彼女の作る食べ物は充分凶器として有効だった。そこいらの毒物よりも強力だった。
 普段の元気なあかねなら、このあたりで乱馬に鉄拳を食らわせてくるのだろうが、幸い、高熱で思考力は頓挫していた。ただぼんやりと 二人のやり取りを見つめている。

 暫らくして八宝斎は、そのまま白目を剥いてピクリとも動かなくなった。
 乱馬はすぐさま、八宝斎の手の中から、本物の惚れ風邪薬を奪い取ると、懐奥深く、仕舞い込んだ。
 二人の風邪薬争奪戦は乱馬の勝利で幕を閉じた。

「八宝斎、敗れたりー。」
 背後で、早雲の声がした…。
「……!!」
 乱馬はその声にビクッとして後ろを振り返った。
 開けっぱなしのあかねの部屋のドア向こう側には、天道家の面々がズラ―ッと行列して、こちらを見ているではないか!
 無我夢中で八宝斎との攻防戦を繰り広げていた乱馬は、ここにはじめて、天道家の人々全員を起こしてしまったことに気付いたのだった。と同時に、バツが悪くなった。当たり前だ。
 そんな乱馬の心情を知ってか知らずか、意味深な微笑みを浮かべて、天道家の人々は乱馬を見つめていた。

「ご苦労様、乱馬くん。もういいでしょ?私、自分の部屋で寝るからね…おやすみ。」
 最初に口を開いたのはなびきだった。
 そして、そう言い残すと、さっさと自分の部屋に引き上げて行ってしまった。
「お師匠さまを無事、撃退できたね。乱馬くん、ご苦労だった。じゃが、しつこいお方だからなあー、悪いが朝まであかねを見ていてやってくれ。頼んだぞっ乱馬くん!」
 玄馬はその後ろで、『がんばれよ!乱馬』という看板を手に掲げて踊っていた。
 そして、二人は気絶している八宝斎を引きずりながら、ズルズルと階段を降りていってしまった。

…朝まで頼むと言われたって…・

 乱馬は早雲の言葉に、困惑してしまった。
 そのまま何も言い返せずに、乱馬が突っ立っていると、
「はい、これっ、乱馬くん。」
 とかすみがにこにこしながら半ば押し付けるように毛布を乱馬に手渡した。
「しっかりと、看病、してあげてね。」
 と言い残し、かすみも部屋に引き上げた。
「乱馬、ちゃんと、男らしくあかねちゃんを守ってあげるのよ。」
 最後にのどかが念を押して、パタンとドアを閉めてしまった。

 そう、乱馬一人が、あかねの部屋に取り残されてしまったのだ…



つづく



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