早春の夜想曲   1


一、

 その日の天道家はいつもの活気がなかった。
 病人が一人居るだけで、こうも、違うものなのだろうか?
 
 学校から乱馬があかねを抱いたまま、連れ帰ったときは、天道家は上を下への大騒ぎになった。
 父親の早雲は、パンダと二人でうろたえるし、かすみは夕食の支度もそこそこに床の用意をする。
 なびきは、取り敢えずかかりつけの接骨院の東風先生を呼びに玄関を駆け出した。
 最初はかすみが行くと申し出たのだが、天道家の人々は、彼女を強引に押し留めた。東風先生は、かすみの御前に出ると、あがってしまって別人格になることを皆知っていたからだ。
 乱馬の母のどかは慌しく動き回る天道家の家人に成り代わり、夕食の支度に取りかかった。
 乱馬はあかねを部屋のベットに下ろすと、自分の役目は終わったと言わんばかりに道場に行ってしまった。…ホントはそのまま、彼女の傍に付いていてやりたかったのだが、乱馬の羞恥心がそれを許さなかったのだ。
 素直になり切れない自分を否定しながらも、道場で汗を流し、宙ぶらりんの時間を過ごしていた。
 あかねの容態が気にならないわけはない。でも、家人がたくさん居る中では、どうしても体裁を繕ってしまう。…そんな自分が情けなかった。
 と同時に、なんで朝方、あかねの様子がいつもと違っていることに気付きながら、それを言葉に出して言わなかったのか。あかねの勝気な性分から、たとえ昼の試合を止めたところで、無理矢理にでも出場していたには違いなかっただろうが。それでも、やっぱり、あの時ひとこと言っておくべきだったのではないか…。
 瓦を素手で割りながら、乱馬はあかねのことばかりを考えていた。
 
「あくまでも、専門外だけど。」
 なびきが連れてきた東風先生は、そう断ってあかねを診察してくれた。
「風邪だね。流行感冒だよ。熱が高いみたいだから、侮っちゃいけないよ。ちゃんと暖かくして、消化の良いもので栄養をつけて、たっぷり休養させる。それが一番だよ。」
 かすみを部屋に入れないように気遣いながら、天道家の家人たちは心配そうにあかねを覗いていた。
 かすみを遠ざけたのは、東風先生がかすみを見ると変に緊張してしまい、先生の人格が吹っ飛んでしまうことを良く知っていたからだ。下手をすれば、あかねの命に関わりかねない。東風先生はかすみが好きなことに全ては起因している。
 かすみは何故自分だけ邪見にあかねの部屋から遠ざけられているのか、気に留めるふうもなく、のどかと入れ替わって夕食の支度を進めていた。彼女は恐ろしく、そういうことには疎いのだった。
 
「僕が一応、処方箋を書いておくから、近くの薬剤店で薬を調合してもらってね。」
 東風先生は、接骨医だが、一応医師免許も持っていた。(作者注/医師免許持っているかどうかはホントのところは不明です)
 慣れた手つきで、処方箋を記入し始めた。
「あのう、東風先生。あかねは大丈夫ですよね。」
 父親の早雲は、その横で、おろおろしていた。後ろで玄馬もパンダのままでパフォパフォ言ってそれに付き合っている。
 どこまでも、仲の良い父親同士だった。
「まあ、流感は悪化すれば肺炎を起こしかねませんから、充分、気をつけてあげてください。聞けば昼間、相当無理したようですね。疲れきって眠っているだけみたいですから、その辺は大丈夫だと思いますよ。」
 あかねは帰って来て、一度目覚めたようだが、自分の部屋に居ることを確認すると安心したのか、またうとうと眠ってしまったのだ。
「熱が高いと、体力を消耗してしまいますから、お薬に、熱さましの座薬を入れておきますね。38度5分以上の高熱が続くようなら、様子を見て使って下さい。」
 
 東風先生は、帰り際、奥からひょいと顔を出した、かすみを見て、スキップしながら帰路に就いた。
「東風先生、あれが無きゃ、申し分ない名医なんだけどね。」
 なびきの呟きに、かすみ以外の天道家の家人たちは、うんうんと深く頷いた。
 かすみだけはなびきの言った言葉の意味が飲み込めていないようだったが、気にも止めていない様子だった。
 東風先生の見送りには、道場にいた乱馬も、出てきて付き合っていた。
 気にていないふうを装ってはいたものの、内心、気になって仕様が無かった。
 
 東風先生の影が見えなくなると
「さあ、夕ご飯にしましょうか。」
 かすみがニコニコしながら先に玄関に入って行った。
 後にぞろぞろ続いて、天道家の家人たちは家の中に入って行く。
 皆と一緒に入ろうとしたとき、乱馬はふと夕暮れの街灯が点き始めた道端に目が行った。
 
ずーり、ずうーり。
 
 大きな傘付きのリュックサックを引きずりながら歩いて来る、黒い小さな物体が目に入った。
 
「りょ、良牙…。」
 それは黒豚Pちゃん、もとい、響良牙に間違いなかった。
 
「ちぇっ、ややっこしい奴が帰ってきやがったな…。」
 乱馬は苦笑しながらも、Pちゃんを門の中に迎え入れた。


二、
 
 天道家の住人たちは、南向きの縁側に面した茶の間に会し、家族、居候、揃って賑やかに夕食を摂るのを常としていた。
 当主の天道早雲と居候のパン、もとい早乙女玄馬と乱馬がそれぞれ所定の場所についた。
 長姉のかすみ、次姉のなびき、乱馬の母・これまた居候ののどか、彼女たちによって台所から夕食を盛った皿やお椀が次々と運び込まれてくる。
 味噌汁、野菜の煮付け、焼き魚、お浸し、白いご飯に漬物…こういったゴクありふれた日本の夕食が大きなテーブルに並んでいく。
 乱馬の正面に座ったパンダ親父は赤っぽい火照った顔をしている…パンダの毛並みは白いからすぐわかるような顔の赤さだった。
 鼻水がズルズルと糸を引き、時々、ハックションと大きなクシャミまでしている。
 元は人間だから、パンダになっていても、何処となく動作や表情は人間臭い。
 
「親父まで、風邪ひいちまったのか?」
 パンダ親父の様相を見兼ねて乱馬が口を開いた。
『心配ない、少し風邪気味なだけだ』
 パンダの間は喋れないので、玄馬は看板文字で会話する。
「どいつもこいつも、弛(たる)んでるから風邪なんかひいちまうんだよ。」
 乱馬はムスッとして答えた。
『そういうお前は大丈夫なのか?』
「けっ、親父やあかねとは日頃の鍛え方が違わあっ。」
 玄馬はせっせとマジックで文字を入れる。
 手馴れたもので、最近では黒板のように布切れで書き込んだ文字がさっさと消える使い回しタイプの木製調の看板を使っていた。(作者注/ホントのところは知りません)
『そうだな、昔から言うもんな』
 玄馬はゆっくり文字を書き入れてゆく。
「何がだよ…」
 肘を突いて乱馬が聞くと
『バカは風邪ひかんっ!!』
 黒々とそう書き出されていた。
 
「何だとぉー?てめえ、息子をバカにする気か?」
 乱馬は怒った。
 早乙女親子の雲行きが怪しくなり始めたその時、黒豚のPちゃんがのそのそ茶の間に入ってきた。
 そして、彼の所定の場所である、あかねの席にちょこんと座った。
 玄馬パンダとのやりとりで気分を害していた乱馬は
「おいっ、P助、今日はあかねはいねえぞ!!」
 と、ぶっきらぼうに言ってやった
 Pちゃんは乱馬の言った言葉が理解出来なかったらしく、何?とでも聞き返したげに
「ぷぎっ?」
 と、鳴いた。
「風邪ひいて、寝ちまってんだよ。あの、バカ…。」
 あかねのことをわざとツンケンドンにそう言い放った。
 乱馬はPちゃんを横目で睨みつけた。負けじとPちゃんも乱馬を睨み返す。
 Pちゃんの正体が良牙だと知っている乱馬にとって、あかねに想いを寄せている良牙は邪魔者に違いなかった。
 あかねのことを「バカ」呼ばわりされて、怒ったPちゃんは、ヒヅメで乱馬を攻撃し始めた。
「あっ、こら、何しやがるっ!」
 Pちゃんは構わず乱馬目掛けてヒヅメをばたばた打ち付けてくる。
「くぉら、P助っ、いい加減にしろっ。」
 堪らず乱馬が突き放しにかかる。
 と、そのとき
 
バゴンッ!!
 
 鈍い音がして、乱馬は畳の上に打ちつけられた。
 
『父さんは、豚と争うような子にお前を育てたつもりはないっ!!』
 
 そう、黒々と書かれた看板で、乱馬はパンダ親父に思いっきり後頭部をどつかれたのだった。
 
「ちょっと、ご飯どきに争うのやめてよねっ!」
 
 ご飯を茶碗につぎながら、なびきが乱馬たちを嗜めた。
「Pちゃんは私と一緒に食べましょうね。」
 かすみがニコニコしながら、ひょいとPちゃんを抱き上げた。
 Pちゃんはかすみに抱かれて悪い気はしていないらしい。大人しくそれに従った。
「ちぇっ!いい気なもんだせ。」
 乱馬はさっき殴られた頭の後ろを手でさすりながら舌打ちした。
 
 夕食をとりながら、乱馬は不自然にポツンと空いている自分の左隣に得も言われぬ違和感を感じていた。
 あかねが居ないという事実が、無言で乱馬に迫ってくるのだ。
 何だか、自分の分身が居なくなった…そんな気がして落ちつかなかった。
 普段は遠慮の欠片もなく、掻き込むご飯も、いつもの四分の三くらいで留まった。
「ごちそうさま。」
「あら、乱馬くん、もういいの?」
 普段は三膳いくのに二膳で留まった乱馬を訝しげにかすみがそう、声を掛けた。
「ふーん、なんだかんだって言ってても、あかねが心配なんだ、乱馬くん。」
 なびきがすまし顔で言うと
「そんなんじゃ、ねえよっ。」
 核心を突かれた戸惑いをわざと突き放すように、乱馬はムキになって答えた。
 
 
三、
 
 そこへ、天道家のもう一人の居候、八宝斎が外から帰って来た。
「おー、皆して夕ご飯か?」
 大きな風呂敷包みを抱えて、八宝斎はご機嫌だった。大方、包みのなかは戦利品の女性ランジェリーが一杯詰まっているのだろう。
「おじいちゃんも食べます?」
 かすみが声を掛けると、
「ワシは外で食ってきたからいいぞっ!…ん?なんだ?あかねちゃんは居らんのか?」
 八宝斎も、乱馬の横が空いているのを目ざとく見つけた。
「風邪ひきこんじゃって寝てるのよ。」
 なびきがあっさりと答える。
「珍しいこともあるもんじゃのう…あの、元気印のあかねちゃんがのう。」
 八宝斎はそう言って、暫らく黙り込んだ。
 じっと腕を組み、何かを考えているふうだった。
「そうじゃっ!!」
 ポーンと手を打って、八宝斎は風呂敷包みを広げて、ガサゴソやり始めた。
 風呂敷包みの中には、やはり女性のランジェリーが目いっぱい詰められていて、それらが畳の上にばら撒かれて行く。一同、皆、怪訝な顔をして八宝斎を見守った。
「あった、あった。残り二粒か。」
 八宝斎は、何やら丸薬のような丸い包みのようなものを二つ手にしていた。
「お師匠さま、何ですか、それは。」
 興味深く、早雲が尋ねると、
「民間薬じゃよ。昔、ワシが中国で修行しておったとき、手に入れた妙薬じゃ。」
「妙薬?ですか。」
 早雲は訊き返す。
「ああ、そうじゃ。とても良く効く万能風邪薬じゃ。」
 そう言って、その場を立とうとした八宝斎を、乱馬は後ろから着物の首根っこを掴んで引き止めた。
「おいっ、ジジイ。」
「なんじゃ?乱馬。」
「てめえ、それをあかねに飲ませる気だな?」
 乱馬は不機嫌そうに問い掛ける。
「当たり前じゃ。飲ませてやるために出したんじゃ。」
「……。何か、変だな。」
 乱馬は手を緩めることなく、八宝斎に詰め寄った。
「ギクリ…。」
 八宝斎は乱馬の鋭い洞察にゴクンと生唾を飲み込んだ。
「おめえ、何か、他に下衆(げす)な下心でもあるんじゃねえか?」
 八宝斎の態度の変化を乱馬が見逃す訳がない。
「し、下心なんて、ある訳無いぞぃ。」
 ふいっと八宝斎は乱馬から視線を反らせた。
 
…やっぱりなんかある!!
 乱馬は直感した。
 
「どっちにせよ、東風先生からもらったちゃんとした薬があるんだ。そんな得体の知れねえ薬、あかねに飲ませる訳にはいかねえからな。」
 乱馬はそう言って、八宝斎を取り押さえている手に力を込めた。
「こりゃ、乱馬。師匠に向かって何をする。」
 乱馬に抑えつけられて、八宝斎はあがき始めた。
「いいから、その薬、こっちによこせっ。」
「ダメじゃ。あかねちゃんに飲ませるんじゃ。」
「飲ませてどうするんだ?え?その薬、風邪薬なのか?ほんとに。」
「風邪薬の妙薬だと言っとろうが。離せっ!!」
「信用できねえゼっ。」
「ひ、ひどい。」
 八宝斎はうるうる涙目になる。
「お師匠さま、ここは自重して下さい。あかねは重病人なんですよ。」
 早雲も脇から合いの手を打ってくる。
「重病人じゃから早く良くしてやろうという、ワシの心遣いが、貴様等にはわからんのか…。」
「へっ、わかんネエな。それがホントに風邪薬なら、丁度いい。」
 乱馬は丸薬の一つを八宝斎からむしりとった。
 そして、それを前に居たパンダ親父の口の中に放り込んだ。
 そう、玄馬は風邪気味だった。
 
ごっくん。
 
 玄馬パンダは乱馬に放りこまれた丸薬を一飲みに飲み込んでしまった。
 
「あっ、何てことを!!」
 
 八宝斎が叫んだのと、パンダ親父の様相が変わったは、殆ど同時だった。
 
パホホホホホ〜
 
 玄馬パンダは身悶え出した。
「ほれ、風邪薬なんて口から出任せじゃあ…えっ?」
 乱馬はそのまま固まった。
 なんと、玄馬パンダが大きな図体を乱馬にぶつけてきたのだ。
 そしてやおら、乱馬に抱きついた。
「うえーっ、親父、何しやがる。」
 乱馬は思わず八宝斎を掴んでいた手を離してしまった。
 玄馬パンダは構わず、乱馬ににじり寄って、あろうことか、乱馬を舐め回しはじめた。
「こらー、親父、何してんだ。離せっ、やめろっ!!気色ワリぃーっ。」
 玄馬パンダの目つきは明かに何かに憑りつかれたように、虚ろだった。
 そう、まるで乱馬に惚れたように顔を摺り寄せ、乱馬を力一杯抱きしめる。
 
「何なんだよーっ、うわーっ。」
 乱馬の悲鳴が轟き渡り、玄馬パンダは…乱馬の頬にキスをした。
 
「……!!!」
 
 その場にいた、天道家の人々は皆、玄馬パンダの奇行に、放つ言葉も無く、白み渡っていた。
 
「いい加減にしろー、バカ親父っ!!。」
 急所は外れたものの、乱馬はパンダ親父の突然の狂乱に、スクリューパンチを一つ、お見舞いしてやった。
 その拍子に、玄馬パンダは湯の入ったやかんに頭から突っ込み、人間へと戻っていた。
 
はあはあはあはあ…
 
 肩で息をしながら、乱馬は八宝斎に向かって叫んだ。
「じじいっ!!風邪薬なんかじゃねえだろ。えっ?何なんだ?説明しろっ!!」
 八宝斎は、乱馬の追撃をひょいとかわしながら答えた。
「正真正銘の風邪薬じゃ。のう、玄馬。」
 玄馬はそう話しかけられて我に返ったようだった。
「はっ?ン?」
 きょときょとしながらその場にへたり込んでいた。
「こら、じじい、まだしらばっくれるのか。」
 乱馬と八宝斎はもつれ合いながら部屋中を駆け巡る。
「乱馬よ…確かに、この薬、効いとるぞ。」
 お湯をかぶって、変身の解けた玄馬は人間の言葉で答えた。
「確かにさっきまでのクシャミ、鼻詰まり、倦怠感がすっきりしとるわいっ。」
 玄馬はさっぱりした顔で言った。
「ほうれ見ろっ。ちゃあんと、薬が効いてるじゃろうが。」
 勝ち誇ったように八宝斎が言う。
「でも、お師匠さま、さっきの早乙女くんの様子は明らかに変でしたが?」
 早雲が横から口を挟む。
「副作用じゃ。」
 八宝斎は乱馬との追いかけっこを続けながら言った。
「副作用だぁ?」
 乱馬もムキになって追いまわしながら叫ぶ。
「なあに、ちょっとした副作用じゃ。飲ませた相手に、ちょっとの間、惚れ込んで、かぜの菌を体内から追い出すんじゃ。」
 
…とんでもねえ…だから、親父の奴、俺にあんなことを…
 
 乱馬は更に思った。
…そんな物騒な物、あかねに飲まされて堪るか!!
 
 八宝斎の狙いはそこにある。間違いないと、乱馬は思った。
 あかねに無理矢理、その丸薬を飲ませて、一瞬でも自分に惚れさせる…それこそ、八宝斎の純粋な下心だろう。
 
「とにかく、そんな物、てめえに使わせて堪るかよっ。こっちによこしやがれっ。」
「いやじゃー。」
 もつれ合いながら乱馬と八宝斎は互いの激をぶつけ合った。
 乱馬は、突然、廊下に置いてあった水入りのバケツを被った。
 そして、女に変身すると
「は〜い、ハッピーちゃん。」
 と言って、ふくよかなバストをチャイナ服の下から八宝斎に向かって見せつけた。
 らんまは、最早、手段を選ぶ余裕はないと踏んだのだ。
 スケベな八宝斎が、らんまの剥き出しになったバストに飛びつかぬはずがない。
 案の上
 「お〜スイートっ。」
と言って、八宝斎はらんまの胸に飛び込んできた。
 
「へっ、まだまだ甘いなっ。じじい、。」
 らんまは、いとも簡単に八宝斎を捕まえることに成功した。
「む、無念!!ずるいぞ、乱馬っ。」
 八宝斎は再び首根っこをらんまに掴まれてジタバタしていた。
「こんな見え透いた罠にひっかかるてめえが悪いんだよ。」
 らんまは八宝斎の手の中から残りの丸薬を取り上げようとした。
 しかし、八宝斎とて必死だった。
 薬の効き方には多少、疑問はあったのだが、目の前で、玄馬の事例〜薬を飲ませた乱馬に激ホレしていた〜を見せ付けられて、下心が騒がぬ筈がない。上手く行けば、あかねの可憐な唇を自分の物にできるかもしれない…
「八方大華輪っ!!」
 八宝斎は、必殺技を乱馬に仕掛けた。
 
ドッカン!!
 
 爆炎とともに、八宝斎はほうほうの体で乱馬の魔手から逃れた。手にはしっかり丸薬を握り緊めていた。
 
「乱馬よっ!覚えておれっ。必ず、今夜中にあかねちゃんをワシに惚れさせて風邪を治してやるからな!」
 こうなって来ると、惚れさせることか、風邪を治すことか、どちらが目的なのかわからない。
 
「ちくしょうっ!逃したか!!」
 らんまは地団太を踏んで悔しがった。
 あのスケベの権化の八宝斎のことだ。このままで済むわけがない…そう思った。


四、

 なんとか八宝斎からあの薬を取り上げて、あかねから遠ざけなければ。あかねの貞操の危機に関わる。

 らんまは取り敢えず、男の身体に戻る為、風呂場に入った。
 八宝斎の性格からして、絶対、あかねに例の薬を飲ませに忍んで来ることは目に見えている。
 勿論、乱馬とて、手を拱いて、八宝斎の乱入を見て黙っている気はない。
 あかねを守れるのはこの自分しか居ない…乱馬は、真剣にそう考えていた。
「みてろ、ジジイの奴。」
 湯船に身体を浸らせると、ようやく、本来の男の姿に戻れた。
 いつまで、このふざけた体質は続くのだろう。
 早く、女とおさらばして、マトモな男に戻ることは乱馬の悲願のようなものだった。
 でも、今はそんなことどうでも良かった。

 身体を芯から温めて一息つくと、いきなりPちゃんが入ってきた。
「何だよ。良牙。てめえ、折角人が気持ち良く風呂に入っているっていうのによー。」
 乱馬は明らかに不機嫌だった。
 Pちゃんも湯を浴びて、本来の姿、響良牙に戻った。
「不甲斐ねえなあ、乱馬よ。」
 良牙は男に戻ると、そう言った。
「何だよ。」
「だって、そうじゃねえか。八宝斎をとり逃がすなんて。だらしねえ。」
 乱馬は良牙にそう言われて、ますます不機嫌になった。
「おめえだって、下衆な男の下心持ってるから、黒豚に変身して、あかねに貼りついているんじゃねえかよ。」
「ふん。なんとでも言え。俺は俺のやり方で、あかねさんを守るんだけだ。」
「おめえのやり方って、ひょっとして、黒豚に変身して、あかねの部屋に潜り込むことか?え?」
 乱馬としては、今のあかねにはPちゃんですら、近づけたくないと思っていた。
 薬を八宝斎から取り上げて、良牙が使うかもしれなかったからだ。
「お前にとやかく言われる筋合いはない。四つ又がけのお前にはな。」
「誰が四つ又がけだよ。」
「おまえだ。乱馬。」
「俺がいつ四つ又なんてかけたんだよ。」
「じゃあ、聞くけどな、シャンプーや小太刀、右京のことはどう説明するんだ?全然、関係を清算できねえくせに。」
「何が清算だよ。あれはあいつ等が勝手に騒いで俺にちょっかい出してくるだけだろうが。だいたい俺は、あかねにしか…。」
 そこまで言って、急に乱馬は口をつぐんだ。
 良牙に対して、必要以上にムキになって言い訳していることに気付き、先の言葉を飲み込んだ。
「おめえだって似たようなもんじゃねえか。あかりちゃんはどうなんだよ。お前にはもったいないくらい可愛い、彼女じゃねえか。え?今更。 あかねなんて言う可愛げのない女にちょっかい出さなくっても…。」
「俺は、あかねさんを守りたいだけだ。」
 そう言うと、良牙は、水を被った。
 そして、一目散に、風呂場を飛び出して行った。
 
「あ、こら、良牙、待ちやがれ。」
 乱馬は慌てて、良牙を追い掛けた。
 
どたっ、ばたっ。
 
 廊下で争う音が響き渡る。
 何事かと天道家の家人たちは集ってくる。
 
「きゃあー、乱馬くん。なんて格好して豚なんか追い掛けてるのよ!!」
 なびきが叫ぶ。
「うわあっ、見るな。」
 乱馬は一糸まとわぬ身体に気付き大慌てで脱衣所に戻った。当然だろう。
「たく、ウチにはレディーがいること忘れないでよね。」
 Pちゃんはぶつかりザマにかすみに抱き上げられた。
 乱馬は服を急いで着ると、廊下に戻ってきた。
「それにしても、あんたたち、何追いかけっこしてたのよ。」
 豚に対してムキになっている乱馬になびきが訝しがって言葉を投げた。
「あ、いや、こいつがあかねの寝床に行こうとするから…。」
 乱馬が口をもごもごさせながら言うと。
「何?この子はあかねのペットなんだから仕方ないでしょうが。それとも、豚にヤキモチでも焼いてるの?乱馬くん。」
 乱馬はなびきのその問かけには敢えて答えなかった。
 良牙が豚に変身してPちゃんになっていることは、この天道家では、乱馬と玄馬親子位しか知る由が無かった。Pちゃんはあくまであかねのペットの黒豚なのだ。
「そうね、あかねちゃんの具合、悪そうだから、Pちゃんをあかねの部屋にやる訳にはいかないわね。」
 Pちゃんを抱きながらかすみが頷く。
「あらあら良く見たら、Pちゃんずぶ濡れじゃない。」
 風呂場で水を被ってPちゃんに変身し直したから当然だろう。
「仕様がないわね。そうだ。Pちゃん、今晩は私と寝ましょうか?」
 かすみが微笑みながら言う。
 Pちゃん、もとい良牙はかすみの申し出に心なしか顔が赤くなった。
「あ〜こいつ、赤くなりやがって。」
 乱馬はすかさず突込みを入れてからかう。
「乱馬くん、何変なこと言ってんのよ。」
 なびきが溜息をつく。Pちゃんの正体を知らないから仕方がない。
「いーよなあ、お前は幸せもんだよな〜。あかねがダメならかすみさんか。えっ、おいっ。」
 乱馬ははにやにやしながらPちゃんをからかい続ける。
 Pちゃんはキッと乱馬を睨みつけた。
「これこれ、Pちゃん大人しくしてなさい。ダメよ。乱馬くん。Pちゃんが怒ってるわよ。」
 かすみはPちゃんを落ちつかせようと嗜めた。
「そうだ、Pちゃん。水に濡れてるみたいだから。今日は私がお風呂に入れてあげる。」
 かすみがそう言った。
「ぷきっ?」
 Pちゃんは慌てた。
 当然だろう。お湯につかれば、元の人間に戻ってしまうからだ。
「おーおー。そうしてもらいなよっ。Pちゃん♪」
 乱馬はPちゃんの鼻を軽く突付いた。
 
…冗談じゃない!!変身を知られて堪るものか!!
 
 Pちゃん、もとい良牙は、慌てて、身体を横に捻って暴れ出すと、かすみの腕から抜け出した。
「あっ!」
 Pちゃんは、かすみから逃れることに成功すると、一目散に裏口のドアから逃げ出して行った。
「残念。やっぱりあかねちゃんの方が良かったのね。私も一回、Pちゃん抱いて寝てみたかったわ。」
 かすみさんはニコニコを崩さないで、そう言った。
 乱馬はそれを複雑な心境で聞いていた。
 
…まっ、いずれにしても、良牙の奴、十日ばかり戻って来られねえだろうな。
 
 乱馬は心の中で安堵しながらそう思った。
 人並み外れた方向音痴の良牙だ。天道家を飛び出したら、暫らく帰ってこられないだろう。
 正直、乱馬は厄介払いができて良かったと思っていた。
 
 さて、後は八宝斎の撃退方法だ。
 どうしたものかと考えて、乱馬はなびきにこっそりと耳打ちした。
「まあ、あかねを守る為ならいいけど。そんな面倒なことしないであかねの部屋に泊まり込んだら?」
 なびきはしらじらと乱馬に言った。
「やだよ。なんでそこまで…。」
 乱馬は真っ赤になって否定した。
「はあ、あんたもややっこしい性格してるわね。…でも、その方が撃退しやすいかもね。わかったわ。私に妙案があるの。」
 そう言って、なびきは右手を乱馬の前に出した。
「なんだよ、それ。」
 乱馬が訝しがると、
「決まってんでしょ、協力費よ。私に物を頼む時の常識よ。」
「……。」
 さすがに守銭奴、なびきのことはある。ちゃっかりしたものだった。妙案を教える何某を、さりげなく要求しているのである。
 しぶしぶ、乱馬は協力費なるカンパをなびきに手渡した。五百円玉一枚。
「しけてるわね。まあ、今日はこれでいいわ。がんばってね。」
 商談成立。
 なびきに妙案の提案を受けた。



 彼女に指南された後、乱馬は夜中の決戦に備えて、少し、横になることにした。
 
「絶対、あかねは俺が守りきってやるからな…。」
 
 一方、八宝斎も、燃えていた。
 
「見てるがいい、絶対、あかねちゃんの風邪はワシの手で治してやる。」
 と。



つづく




一之瀬的戯言
この小説の題名、元は小夜曲だったのですが夜想曲に変更しました。
小夜曲(セレナーデ)って窓の下で歌う恋歌。夜想曲(ノクターン)は夜を思う曲です。
ショパンの有名なピアノ夜想曲集第二番あたりをイメージして頂ければいいんですが…。あ、でもそんな高尚な作品じゃないか。


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