桜狩    六


10、 乱馬の場合


 乱馬はひょいひょいとみんなの追撃を逃れ、人込みを避けながら桜の木の間を走り抜けた。
 良牙は追いすがろうとしたが、元来の方向音痴の彼は、数歩で乱馬を見失った。いや、みんなの視界から消え去ったと言った方が妥当かも知れない。
「乱馬ぁー!待てーっ!」
 彼は全く見当違いの方向を見定めると、そのまま真っ直ぐ驀進して闇に消えて行った。

 これで暫らくは帰って来られないだろう…

 シャンプーや右京、小太刀も乱馬を見失ってしまった。
 勿論、九能も。
 辺りはもう、闇が迫っている。人出も多く、当然の成り行きだ。

 乱馬は桜の木の上に登って、皆がどこかへ消えてしまうのを待った。
 満開の枝はさざめき、まるで、乱馬の子供地味た行動を笑っているかのようだった。

「乱馬…!」
 桜の下で声がした。
 下を覗くとのどかが笑いながら乱馬を呼んでいた。

 ひょいっと乱馬は木の上から地面に落地した。
「何だよ、オフクロ…。」
 乱馬はのどかがどうしてここがわかったのかちょっと不思議そうに下に降りた。
「よく、俺がここにいるのがわかったなあ…オフクロ。」
「桜の木が居場所をちゃんと教えてくれたのよ…。」
 そう言ってのどかは微笑んだ。
「桜の木…?」
 乱馬は不思議そうに反芻したがのどかはそれには答えなかった。
「ちょっと気になったことがあったからね。」
 のどかはにこにこしながら言った。
 さっきのお酒は醒めてしまったのか、冷静に戻っていて、刀を持って追い掛けてくる様相はどこにもなかった。
「気になることって?」
 重箱を右手でひょいと持ち上げながら乱馬はのどかを顧みる。
「そのお重のこと…。」
 のどかは微笑みながら話しかける。
「……これって、あかねが作ったお重のこと?」
 乱馬はのどかがだいたい何を告げにきたのか分った。
「そうよ、乱馬はそれから逃げたがってたみたいだけど…。」
 のどかは笑っている。
「でも、逃げ切れないのよ…乱馬。だって、あなたはあかねちゃんの許婚なんだから。現にイヤだって言いながらちゃんと手に持っているものね。」
「……。」
 乱馬は母親には叶わないと思った。
 食べたくないと思う反面、他の男には食べさせたくないと働いた乱馬の複雑な思考結果の行動をのどかにはちゃんと見破られているのだろう。
「やっぱり、食わなきゃ駄目なんだろうな…。」
 ふっと言葉が出てくる。
「そうね、ちゃんと食べてあげたほうがいいと思うわよ。あかねちゃんがどんなに頑張ってそれを作っていたか、傍で見ていた私にはね。」
「頑張って作ってた…か。あかねらしいや。」
「そうね。乱馬が修行から帰ってくるって今朝方聞いた途端、あかねちゃん、台所で頑張り出したわ。あかねちゃんは何も言わなかったけれど、乱馬のために頑張ってたのよ。」
「……。」
「あかねちゃん、前からそうだったでしょ?まだあなたが乱子ちゃんとして私の前に存在していた時だって、あなたとお料理を競い合いながらも、乱馬の為に頑張ってるって頷いてた…。覚えてる?」
「そんなこともあったけ…。」
 あの時のあかねは乱馬に負けたくないという女の子としてのプライドの陰に確かにいつか許婚の俺に美味しい手料理を食べさせたいって頷いていた。
「見た目にはキレイとは言えないお煮しめだけど、あなた達が先に大八車を引っ張って出ていった後、もう一回って頑張ってたのよ。私が見る限りでは、ちゃんと味見もしていたようだし、調味料も順番を間違わずに入れていたわ。」
「……。」
「余程、あなたに食べてもらいたいっていう気持ちが強かったのね。一所懸命っていうのが私にはとてもいじらしく見えたわ。乱馬だって、そんなあかねちゃん、大好きなんでしょ?」
 乱馬はそのままうつむいてしまった。返事をするのも頷くのもなんだか、母親の前では照れ臭かったからだ。
「味は大丈夫よ。私が保証してあげる。見た目は確かにまだまだだけどね…。あなただって他の人には食べさせたくないって持ってきちゃったみたいだから…。」
 やっぱりのどかは乱馬の心情を見通していたようだった。
「ねえ、乱馬。あかねちゃんはいいお嫁さんになるわ。きっといつかは桜のように料理の腕だって花が咲きほころぶわ。そう信じてあげなさい。女はね、愛する男(ひと)の優しさひとつでどんな苦汁にも耐えられる強い心を持っているのよ。…私があなたに言いたかったのはそれだけ…。あとは乱馬の判断に任せるわ。」
 のどかはそう言うと、乱馬の前から立ち去った。
 愛する男の優しさ一つでどんな苦汁にも耐えられる…それはまさに、10年以上も修行という名目で玄馬と乱馬から突き放されていたのどかだから言える言葉だったかもしれない。
 あんなスチャラカ親父でも、確かにのどかには優しい男なのだろう。
「しょうがねえな…。あんな不器用な奴をちゃんと見てやれるのは、俺しかいねえもんな…。」
 背負ってる台詞を乱馬はのどかの後姿に呟き掛ける。

 乱馬はあらためてあかねの作った煮しめのお重を覗いた。
 のどかが言うように、見た目には不揃いで、ぶきっちょで、いかにも…という感じであった。
 ひとつ、人参と思われる赤黒い物体を口に含んでみた…。
「……。」
 ちゃんとした人参の煮物の味が染み込んでくる。
 その素朴な味の中に、必死で作っているあかねの後姿が浮かび上がってくる。
 と同時に、なぜか胸の辺りが熱くなる。
「愛する男(ひと)の優しさで…」
 乱馬の頭の中にのどかの声がこだまする。
…あかねもやっぱりそうなんだろうか…。あいつも好きな男の優しさ一つで、そんな強い女性になれるんだろうか…。
 そう思うと、もやもやしていたあかねへの愛しさがはっきりと形となって心の底から涌きあがってくる。乱馬は居たたまれなくなった。

「よしっ!」
 意を決すると、乱馬はあかねを探すことにした。

 通りすがりに立ち並ぶ屋台によって、暖かい飲みものの缶を二つ買い込んで、あかねを探す…。

…この人ごみじゃあ、見つけるのは容易じゃないな…闇雲に走って来ちまったから…

 と、さっきのどかが桜の木に自分の居場所を聞いたと呟くように言ったのを思い出した。

…まさかな…

 苦笑しながら乱馬は傍の桜の木を見上げた。
 桜は満開の枝をふさふさ揺らしながら、夜風に煽られいた。
 夜空に浮かぶ白い花枝は、優しく乱馬を見下ろしている。

「!!」

 その枝の先にあかねが見えた。
 薄い桜色のトレーナーに白いフレアスカート…。そしてショートカットのヘヤースタイルの少女。
「いたっ!」

 乱馬は駆け出した。
 真っ直ぐに、その少女に向かって。


11、 終章〜桜の木の下で

 乱馬たちがお重を持って、どこかへ立ち去った後、あかねは天道家の花見場所から離れて、ひとり人ごみの中をさ迷うように歩いていた。自己嫌悪観に駆られて居たたまれなくなってその場を立ったのだ。

 はじめから分っていたはずだ。
 何を作ってみたところで、料理はいつも悲惨な結果に終わる。
 どんなに頑張っても、人並み以上の不器用な手先では、どれほどの物が作れるというのだろう…。気持ちだけは誰にも負けていない…でも。
 他のみんなは違う。シャンプーや右京は同じ位の年頃なのに、二人とも立派にプロとして飲食店の営みができている。一角の腕を持っているのだ。小太刀だって毒さえ入っていなければ、並以上の腕前と言っていいだろう。
 なのに、私は……。

 あかねは、そんなことをつらつらと考えながら、人でごった返す桜並木を、あてなく歩いていた。

 桜はあかねの心情など、全く気にも留めていない様子で、見事に膨らんだ枝先を夜空いっぱい広げて、誇らしげに揺れている。
 そんな桜を見上げていると、なんだか無性に悲しくなった。涙が目に浮かんでくる。
 人の流れを避け、零れ落ちそうになるのを堪えながら、桜の木を見上げてふと立ち止まった。


「あかねーっ!」

 うつろな耳の奥で、聴きおぼえのある声が響いてきた。
 乱馬だ。あかねはそのまま振り向きもせず、沈黙を続けた。

 桜の木に導かれるように、人ごみの中から愛しき少女を見つけ出した乱馬は息咳き切って走りこんだ。
「あかねっ…」
 全速力で駆けて来たのか、乱馬は少し息が上がっていた。
 あかねは黙ったまま身体を硬直させた。

 花見客たちは、皆、二人の真横を、何事もないかのように通り過ぎてゆく。

「あかね…」
 乱馬は息を切らせて少女に話し掛ける。
 尋常ではない様子を気配から察した乱馬は、そっと少女の前へ回り込み顔を覗き込んだ。
 その時、円らな瞳からホロリと涙の粒が流れ落ちた。
「……!」
 少女の目は涙で滲んでいた。

 乱馬はその涙を見て、動揺した。
 何故かわからないが、胸がキュンと締まるような想いが涌きあがってくる。
 それを見られまいと、あかねは慌てて涙を拭った。
 そして、矢も楯も堪らず乱馬から逃れようと駆け出した。

「待てよっ!あかねっ!」

 駆け出したあかねを乱馬は慌てて追い掛ける。手にしたお重箱と紙袋がカタカタと音を立てる。
 人ごみにぶつかりそうになりながら、二人は桜の下を駆けて行った。

 どのくらい追い掛けっこをしただろう。
 いつしか人ごみは途切れ、公園のはずれまで来ていたようだ。
 もう、そこには桜並木はなく、暗がりだけが辺りに迫っていた。

 乱馬はあかねに追いつくと、その腕を掴んで引きとめた。

 あかねは腕を振り解こうと自分の体の方へ引っ張ったが無駄だった。乱馬の一回り大きな手は、左手とは言えども、腕にがっしりと食い込んで容易には離してもらえそうになかった。
「いいから、離してよっ!」
 うつむき加減にあかねは小さく叫んだ。
「やだ!離さねえっ!」
「ほっといてよ!」
「ほっとけねえっ!!」
「なんで?」
「……。」
「どうしてほっとけないのよ!」
「おめえが泣いてるから…ほっとける訳ないだろっ。ばかっ。」

 あかねは気が動転してしまい、自分で感情のコントロールが利かなくなりはじめていた。
「バカで悪かったわねっ!私は不器用でバカな女の子よ…。」
「ああ、不器用でバカだよっ!だから、ほっとけねえって言ってるだろ!」
「……。」
「ごめん…。悪かったな…。ちゃんとおめえが作った物最初に食ってやんなくって。許婚なのにな…。腹壊すの怖かったからさ…。一所懸命作ってくれたのにな。」
 言い訳なのか、お詫びなのか、良くわからなくなりながら、乱馬も必死であかねに言葉をかける。
 涙を見せられた後だ。乱馬は彼なりに動揺していた。このあたりが乱馬の臨界点だろう。
「腹壊すってどういう意味よ…ばか…。」
「とにかく、ごめん。あやまるからさ。機嫌直せよ…。いつまでも、根に持ったらかわいくねえぞ。」
「どうせ私はかわいくないわよ…。」
「だからほら。」
 乱馬は重箱を差し出した。
 蓋を取ると、まだそのままお煮しめが入っている。あかねはそれを見ると顔が曇る。
「やっぱり、食べてくれてないんだね…。」
 震えるような小声で呟くように言う。
「最後まで俺の話しを聞いてから抗議しろ。これから食う。でもさ、残ってるのはおまえにも責任がある訳で…。」
「私が作ったものだもの、誰も箸をつけたがらないって言いたいんでしょ?」
「ああ。」
「はっきり言うのね。別に乱馬が責任感じて食べてくれなくっても…。」
「だから、話しを聞けって!まどろっこしい奴だなあ…。いいか、黙って聞けよっ。」
「分ったわよ。だから?」
「だから…おめえにも責任の一端はある。ええいっ。もう。はっきり言うぞ。」
 乱馬は赤くなりながら一気に喋った。
「桜眺めながら一緒に食おうぜっ…。二人でさ。」
 そう言い切ると乱馬は恥ずかしそうに頭をぼりぼりと掻いた。
 あかねは思わず乱馬の方をじっと見つめた。
「そういうこと。ほれ、飲み物も買って来た。」
 そう言って乱馬は飲みものの缶をあかねの頬にくっつけた。
「あったかいだろ?お茶にした。お酒って訳にはいかねえからな。折角桜が綺麗に咲いてるんだ。二人で花見…。たまにはいいんじゃないか…それも。」
「うん…。」
 乱馬の言葉に、あかねは一気に様々な想いが心から溢れ出すのを感じた。止めど無く湧き出す乱馬への想いが涙となってまた頬を伝って来る。止めようとしても止まらない。
 乱馬はまたあかねを泣かせたのかと思って慌て出す。
「おい・・だから、泣くなって…。」
「ごめん、涙、止まらない…。何でだろ…嬉しくって止まらない。」
「……。」
 どこまでいっても不器用な乱馬は、泣いているあかねを前に、ただ動揺して固まるばかりだった。あかねの肩を抱いたり、自分の胸を貸してやるほどの余裕なんて毛頭ない。それがまた、乱馬らしい。

「花見だから、桜咲いてる場所、探さねえとな…。ついて来いよ。」
 ぶっきらぼうに歩き始める。
 暗がりの中だから、あかねの腕くらい引いてやれば良いのだろうが、それすら出来ない乱馬だった。違う意味で、不器用なのだ。
 でもそれなりに気は遣っている。そそっかしい彼女が転ばないように、ゆっくりと先を歩き出す。
 すぐ後ろにあかねを感じながら乱馬は先に進んで行く。
「なあ、この公園、街灯こんなに少なかったかな?人もあんなに居たのに誰にも出あわねえな…。」
「うん、なんだか公園というより山の中に迷い込んだみたい…。」
 不安そうに後ろであかねが呟く。
「足場も悪いなあ…。おめえが闇雲に走るから、わからなくなっちまったかな。」
「良牙くんじゃあるまいし、迷子だなんて…。」
 本当に不思議だったが、どこまで歩いても、人っ子ひとりすれ違わない。街灯すらない。
 ただ、夜の闇と木々の影が、二人に迫るだけの寂しい道だった。

 闇の中をどのくらい歩いたのだろう。
 どこからか一際強い風が渡って来る気配がした。
 微かだった風の音が後ろから、二人に向かって吹いてくる。それはだんだんと大きな音となって後方から渡って来るのを感じた。

「あかねっ!」
 風の渡る気配に乱馬は自然に身体が動いた。あかねを守るために乱馬の本能がそうさせたのだろう。
 振り向きザマに、すっぽりと腕の中にあかねを包み込んだ。そして、彼女を守り、そのままじっと旋風が通り過ぎてゆくのを待った。

 ゴオォォォォーーーーッ。

 大きな唸り声を上げながら、風は一気に二人の身体を通り抜けていく。

 ガサガサガサガサ…

 頭上で小枝が擦れる音がする。乱馬のおさげも風に靡いて舞い上るような突風だった。

 風音が止んだとき、乱馬はあかねを腕の中にしっかりと抱きしめていたことに、初めて気付いた。慌てて、あかねの身体から両腕を外そうとした。
 あかねの身体の温もりが乱馬には心地よかったが、これ以上抱きしめていると、壊してしまいそうだと思ったのだった。
 そして、ふと目を上げた途端、意外な光景を目(ま)の当りにした。

「すげえ…。」

 乱馬に促がされるように顔を上げたあかねも同じものが目に入った。そして、息を呑んだ。

 二人の目の前には、大きな桜の大木が一本、夜空に悠々と枝先を広げて咲き誇っていたのだ。
 枝にたおやかに咲き誇る花びらは、夜陰に神々しく光り輝く。
 ただ一本咲き乱れる桜の木は、夜の闇の中に、光を解き放っていた。
 この世のものとは思えぬほどの美しさに、乱馬もあかねも、言葉はなく、二人立ち尽くして、木を見上げているばかりだった。
 こんなに美しく咲いているのに、辺りには人影はなく、風が去った後は静かに枝を揺らせるばかりだった。
 二人は、一言も発することなく、ただ黙って桜に見惚(みと)れていた。

 微かに乱馬の耳元に、聞き覚えのある老人の声がこだました。

…はるがすみ たなびく山のさくらばな みれどもあかぬ きみにもあるかな…どうじゃ、美しいじゃろう。愛しきものと見上げる山桜は…

 乱馬ははっとなって。辺りを見まわした。
「どうしたの?乱馬?」
 あかねは乱馬の挙動を不思議に思って、尋ねかけてきた。
「爺さんか?」
 乱馬は辺りを見回すが、人影はない。しかし、確かに、今朝方山で会った老人の声だと思った。
「ねえ、乱馬?」
 あかねはきょとんと乱馬を見る。
「あ、いや。いいんだ、ちょっと誰かが俺に話し掛けてきたような気がしただけだから…。」
「誰もいないわよ。私たち以外には…。」
 あかねは訝しがる。


…そうだ。きっと、この桜はあの爺さんの贈り物に違いない…


 何故か、そんなふうなことを思った。
「春霞、たなびく山の桜花…みれどもあかぬ 、君にもあるかな…か。」
 乱馬は今しがた耳にした和歌を声に出して反芻してみた。
「……。古今集の歌ね。まだ覚えてたんだ。乱馬」
 それを聞いてあかねが声を掛ける。
「古今集って?」
「寝ぼけてるの?古典の時間に、先生から習ったじゃない。紀友則の歌だって。」
「こんなの教科書にのってたか?」
「嫌ね…。教科書にのってたのは百人一首の『久方の、光りのどけき、春の日に、しづ心なく、花の散るらむ…』でしょ春霞はこんな歌もあるから覚えとけって先生が板書してた歌よ…。」
「ふーん、そうだったっけ…。」
「なんだ。覚えてたんじゃなかったの?この前のテスト範囲だったのに。」
 そう言ってあかねはくすっと笑う。
「意味わかる?」
 あかねはいたずらっぽく乱馬に問い掛ける。
「春霞にたなびく山に咲いている桜の花は…見ていても飽きることがない…ええと。」
「見ていても飽きない桜のようにどれだけ会っていてもあなたに飽きることはないですよっていう、恋の歌よ。忘れちゃった?」
「うん。覚えてない。」
「じゃあなんで、そんな歌が口から出てくる訳?」
「さあ…。」
 爺さんに聞いたなんて言える訳もなく、乱馬は黙って口を閉じた。

…おまえさんにとっての『あかぬ君』はその娘のことじゃろう?…
 どこからともなくまた乱馬の耳奥で老人の声が響いた。
…ああ、そうだ。あかねのことだ。…
 声にしないで心で答えた。
…そっか、爺さんだな。ここに俺たちを連れてきたのは…
…そういうことじゃ。何、朝方のお礼じゃ…
 老人はまた乱馬に囁く。
…別にたいしたことしてねえけどな…
 乱馬は桜を黙って見上げながら囁き返す。
 身体を張ったとはいえ、小鳥を助けることくらいたいしたことではないと思っていた。
…でもありがとう。こんなに美しい満開の桜の大木を見せてもらって…
 桜の木は心なしか笑っているように見えた。
 枝先は頷きながら花を揺らせた。

…いつまでも愛しきものを大切にな。またどこかで会おう…お若いの。

 老人の声が途切れると、また、旋風が鳴った。
 今度は花びらが一斉に舞い上がってはらはらと散り始める。花びらは白銀のように光を放ちながら次々と舞い降りてくる。
「わあっ!きれい。」
 あかねは目を輝かせて、その光景に踊るような声を上げた。
 ふわりと舞い降りた花びら越しに、乱馬はあかねの横顔を垣間見た。花びらの中に浮かぶあかねは眩しく、光り輝いて見えた。

…いつまでも大切にするさ…。俺の大切な『あかぬ君』だからな…。
 そう返事をしながら花びらを見て無邪気に笑うあかねの肩を、乱馬はそっと抱き寄せた。
 突然の乱馬の行動に、驚きながらもあかねは素直に身を任せる。
 二人は肩を寄せながら、しばし幽玄の世界を眺め続けた。
 言葉など、もはや二人にはなんら意味をなさず、ただ、無言で桜を飽きずに眺め続けた。

 春の夜は深淵と二人を見詰めながら時を刻む。
 桜の木は若い二人を微笑ながら見下ろして、無限の花びらを舞い踊らせ続けた。二人の行く手を祝福するように。


12、 エピローグ

 どのくらい時間(とき)が流れたのだろうか?

「もう、そろそろ帰るわよ…二人とも。」
 突然のなびきの呼び声に、二人は現実に引き戻された。
「もう、何やってんのよ、こんな外れで。いちゃついてたの?」
「えっ。桜を眺めてただけだけど…。」
 乱馬は肩に置いていた手を払いのけて、答えた。
「なに寝ぼけてんの…桜なんてどこにもないわよ。」
「うそ、だって、今まで、散り初めて綺麗だったのに…。」
 あかねもなびきに反論する。
「どこに桜があるっていうのよ。もう、二人して現実逃避してたの?さあ、お花見はお開きよ。先に行くからね。」
「あ…うん。」
 なびきが指摘するように、桜の大木は跡形もなく消え失せていた。

…夢だったのだろうか…

「やってらんないわ。夏はまだ先なのにこう熱いと。」
 なびきは右手をぱたぱたさせながら先に歩き出す。
「桜…あったよね。」
「ああ、あった。見事な山桜が…。」
「乱馬と見てたよね…。」
「ああ、ちゃんと一緒に見上げてた。」
「夢?」
「夢…だったのかもな。でも、しっかり目に焼き付いてる。」
「そうよね。」
「いいじゃないか…。夢でも。同じ桜を二人で見上げていたんだ。それで。」
「それで、いいね。」
「帰るか…。」
「うん。帰ろう…。」
 二人は、見詰め合って微笑み合う。

 手を繋いで歩けないような不器用な二人に戻って歩き始めたが、ホンの少しだけお互いの距離が縮んだような気がした。
 桜の季節がまた巡ってきたとき、また一緒に桜の花を見上げたい…それは二人のささやかな願いだった。
 いつまでも、春を一緒に迎えられるように。

 公園の桜の木々は、そんな二人を黙って見送った。
 その枝先には、翁が一人。



一之瀬的戯言

    春霞 たなびく山の 桜花 見れどもあかぬ 君にもある哉 (古今集 巻一四  紀友則)

    久方の ひかりのどけき 春の日に しづ心なく 花のちるらむ (古今集 巻二 紀 友則)

         出典 岩波書店刊行 新日本古典文学大系・5 『古今和歌集』1989年初版
         校注 小島憲之 新井栄蔵

お花見に行った公園に咲き乱れていたのは「ソメイヨシノ」、乱馬とあかねが二人で見上げたのは「山桜」です。
ソメイヨシノは花が咲いて散った後に葉っぱが出てきますが、「山桜」は葉っぱと花が同時に芽吹きます。
花言葉は「純潔」や「精神美」

さくらの語源は穀霊を意味する言葉の「サ」と神が降臨する「クラ」(磐座=イワクラ)からきているそうです。
農耕のはじめの頃に咲き乱れるこの花木は農耕を司る神のヨリシロ(依代)と考えられていたのでしょう。
日本神話の神々は「高い木の上」に降臨してくると考えられていました。だから、神社の周りには木がたくさん植えられているのです。特に常緑樹は一年中枯れないで緑の葉をたたえているので、神のヨリシロとして大切にされたようです。神棚に榊をお供えするのもそのためです。
また、枯れ木からいきなり春を迎えて花をつける桜も古くから信仰の対象に思われていたのでしょう。
「記紀神話」の神の中に「木花佐久夜毘売」(コノハナサクヤヒメ)という女性神がいます。皇祖のニニギノミコト(正式名は(ヒコホノニニギノミコトといいます。)が一目ボレした女性です。吉野山にまつられています。
余談ですが、「乱馬」の姓名「早乙女」の「サ」はさくらの「サ」つまり穀霊を意味する「サ」の代表格の単語だそうです。他に「早苗」「五月」の「サ」が同義のことばになるとか。

この話しに登場する老人は「花咲じじい」あたりなどの昔話の「翁」を連想していただけたらいいと思います。
桜の木の精霊として描いたつもりです。

参考書
『日本書紀(上)』 日本古典文学大系(旧大系本) 岩波書店刊行
『古事記』 新潮日本古典集成(集成本) 新潮社刊行

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