◇桜狩   五


8、 東風先生とかすみの場合


「いやあ、すっかり遅くなってしまいました…。」
 あたりが真っ暗になってしまって、東風先生がやっとのことで天道家の人々と合流した。
 手にはちょっと洒落たワインを持っている。
「あ、東風先生、いらっしゃい。遅かったんですね。もう大分進んじゃってますけど。」
 あかねが塩らしく迎え入れる。
 乱馬はやかんのお湯を頭から被り男に戻っている最中だった。
「やあ、あかねちゃん。お招きありがとう。」
「いいえ、先生にはいつもお世話になってますから…。」
 あかねは、とびっきりの笑顔を東風に向けた。
 とびっきりの輝くような笑顔…少なくとも乱馬にはそう見えた。

…なんで、そんなにいい笑顔、東風先生に返すんだよ。俺には向けなかったクセに…。

 乱馬はまだ彼なりに昼間の台所での一件を根に持っているようだった。案外、シツコイ乱馬だった。
 この世で一番欲しい物。乱馬にとってそれは多分、あかねのとびっきりの笑顔。できれば自分に向けられた…。

「東風先生、遅かったんですのね。」
 のどかが横から声を掛けてきた。
 どうやら酔いが覚めたようだ。
「これは、乱馬くんのお母さん。いえ、急患が入りましてね。こんな稼業をやっているものですから…。あれ?のどかさん、どうされましたか?手にケガをされていらっしゃるようですね。」
 東風は右手で眼鏡を持ちながらのどかに声を掛けた。
「あらあら。ホントだわ。どうしたのかしら、記憶にないわ。」
 大方さっきの酔っ払い騒動の時に傷つけたのだろう。本人は泥酔していたのだから、記憶になくってあたり前だ。
「東風先生、お料理どうぞ。」
 あかねは気を利かして、紙皿と割り箸を差し出す。
「あかねちゃん、ありがとう。」
 東風もまた、当たり障りのない笑顔をあかねに向ける。

「おい、おめえの作ったもんはすすめんなよっ!」
 小声で乱馬はあかねに耳打ちする。
「うっさいわねー。あんたが心配することじゃないでしょっ。」
「東風先生はかすみさんに任せとけばいいじゃねえか…。」
 ついつい、本音がちらりと言葉に漏れる。
「仕方ないじゃない。いま、かすみおねえちゃん、席外してるんだから…。」
 あかねはツンケンドンに答える。
「あれ、そう言えば、かすみさんいねえな?トイレか?」
「ばかっ!デリカシーないこと言わないでよ。おねえちゃん、お酒がたりなくなりそうって、さっきシャンプーや右京たちと一緒に調達しに行ったのよ!」
「ふーん。で、おめえがかすみさんの代わりか…役不足だな…。」
 やけに乱馬はあかねに絡んだ。
 あかねが東風に対してやけに親しげに世話を焼きたがるのが、気に食わないのだ。

 乱馬があかねに出会った二年前、彼女は東風に淡い恋心を抱いていた。ロングの髪を棚引かせ、あかねはいつも東風の方を見詰めていた。
 あの頃の乱馬は、まだ、あかねに対して特別な感情を強く持っていたわけでは無い。跳ねっ返りのじゃじゃ馬娘が、いつも東風の前では急にしおらしくなる。
 女の子に身体は変身できても、心は猛々しい男のままの乱馬には到底理解しがたいあかねの感情だった。
 東風に恋心を抱きながらも、叶わぬと知ったとき、彼女は長かった髪の毛をバッサリと切った。自分と良牙の闘いに巻き込んでしまって、量らずしも切らせるという結果になったのだが、もしあの事件が起こらなかったとしても、彼女は切っていただろう。女の子とはそういうものだ…今では少しくらいあの頃のあかねの気持ちがわかるような気がする。
 夕暮れの帰り道、フェンスの上から覗き込んだ、泣いた後のあかねの輝くような笑顔に、乱馬は「かわいい」という感情を初めてあかねに強く持った。気がつくといつしか、それは恋に変わっていた。
「かわいくねえ。色気がねえ。」
 と口を吐(つ)く悪態とは裏腹に、
「あかねは俺の許婚だ。絶対誰にも渡さない。」
 という想いが常に乱馬に去来するようになっていった。
「好きだ」という気持ちを未だ素直に表現はしたことがない乱馬だったが、あかねはとっくにそれに気がついているはずだ。

…まだ少し、東風に対し未練みたいなものが残っているのではないか…と、要らぬ猜疑心を抱いてしまう。

 しかし、乱馬の釈然としない思いとは裏腹に、当のあかねはとっくに東風への想いを閉じていた。
 片恋に焦がれ苦しんだ日々はもう過去のものだ。
 つい二年前のことだが、その間に、自分を取巻く環境は、物理的にも心理的にもすっかり変わってしまっていた。
 あかねの心の中には、東風ではなく、乱馬がしっかり住みついている。
 父親や姉たちに勝手に押し付けられたこの許婚は、無二無三の存在になってしまっていた。

 だから、乱馬のそんな猜疑心はただの取り越し苦労に違いなかったのだが…。


「あかねちゃんも随分大きくなったなあ…。覚えてる?十年くらい前に、やっぱりこの公園で一緒にお花見したことがあったよね。」
 東風はお皿の料理を盛りながらあかねに話し掛ける。
「覚えてますよ。ちゃんと。私、東風先生に肩車してもらって桜の花に触ったけなあ…。桜の花が欲しくってしょうがなくって確かダダこねてたっけ…。」
 あかねは答える。
「そうそう、あのときは困ったよ。」
 東風とあかねは昔話をはじめた。
 こうなると、乱馬の入る透間はますますなくなる。
 乱馬はムスッと黙ったまま、二人の話を聞き入るしかない。
「あかねちゃん、小さい頃からお転婆さんだったけど、かわいかったんだよ、乱馬くん。」
 東風は心の中を見透かしたように、乱馬に言葉を振ってきた。
 乱馬がきょとんと見詰めると、
「失敬、今でもあかねちゃんはかわいいね。こんなかわいい子、許婚にしてる誰かさんが羨ましいな。」
 東風は笑いながらそう言って、乱馬の背中をポンと叩く。
 とっさのことにどう返答したらいいかわからなくって、乱馬は顔が熱くなるのを自覚した。

「東風先生、いらっしゃい。」
 背後で、かすみの声がした。
「か、かすみさん…。いやあ、いいお天気で…。」
 東風はかすみの声に緊張して声が上滑りはじめた。
 いつも沈着冷静の東風だったが、かすみの前に出ると、途端に人が変わってしまうのだ。極端のあがり症になってしまうのだった。
「ごめんなさいね。お酒を買いに行ってましたの…。」
 かすみはにこにこしながら東風に答える。
「かすみさん、お酒ですか?お召し上がりになりますか?どうぞ、こ、これ。」
 と言って、東風は手土産のワインをやおら、開けた。
「あらあら、美味しそうなワインですこと。じゃあ、遠慮なく。」
 かすみはそう言って紙コップを差し出した。
「どうぞどうぞ。このままで、一気にどうぞ、かすみさん。」
「まあ、そんなに飲めませんわ、東風先生。少しでいいですわ。」
「少しでもたくさんでも、どうぞどうぞ…。」
「東風先生もどうぞお召し上がりくださいな…。」
「あ、はい。じゃあ遠慮なく。これに。」
 東風は傍らにあったお重の空箱を持ち出す。
「面白い方ね、相変わらず…。」
「面白い方です。かすみさん…。」
 東風は今度は、弁当を包んでいたクロスを頬かむりにして見せた。
「ほら、面白いでしょう。」
「まあ、東風先生ったら、お茶目さんね。」

 かすみと頓珍漢になってしまった東風は、端で見ていても、のほほんとして焦点の合わない、ある意味いいコンビネーションだった。

 かすみと東風の、一風変わった会話のやりとりに、乱馬もあかねも、もう、入り込む余地は残されてはいなかった。
 このままほっておいても、二人は独自のオオボケの世界を構築して行くだろう。
 思わず、乱馬とあかねは目を合わせ、やれやれと言いてたげに微笑んでしまった。


9、 良牙の場合

 乱馬とあかねはお互いの気持ちを確かめ合うように、傍へ寄り添おうとした途端、かすみと共に帰って来たシャンプーと右京と小太刀が、また二人の間に割り込んできた。

「らんま〜今度は私の料理食べるね。」
「いいや、ウチのお好み焼きや!」
「私のお料理ですわ!」

…また始まった、。
 三人は三様に乱馬にべったりと張り付いて来る。

 乱馬は焦った。
 折角、あかねとのこじれ掛けた(と彼は思っていた)関係を修復できると思ったのに…。

 あかねは乱馬の予測どおり、また、途端に不機嫌を装い始めた。
 ヤキモチで顔がツリ上がってゆくのが、良くわかるのだ。
「おい、なんとかしてくれよ!あかね。」
 乱馬は媚びてみたが、
「私、知らない。勝手にずっとやってなさい。」
 と、冷たくあしらわれた。

「ここは何処だーっ??」

 そこへ地中から声がした。
 そして、急に地面が盛りあがったと思ったら仁王立ちした良牙がいた。爆砕点穴をかけていたのだろう地中から泥まみれの良牙が出現した。

「りょ、良牙…。」

 突然の来訪者に、一同あっけに取られていると、
「おお、ここは天道家か?やっと戻って来られたのか?」
 良牙が馴染みの顔を見回して歓喜の声を上げた。
 感涙して良牙は目が輝いていた。大方、また何処かで長期間迷子にでもなってさ迷い歩いていたのだろう。
「良かった、良牙くん、お花見に間に合ったのね。」
 あかねは良牙ににこにこと話し掛けた。
 シャンプーや右京、小太刀にまとわりつかれている乱馬に対抗心でも燃やしていたのかもしれない。
 これ見よがしに笑顔を振り撒いている。
「花見?おおーっ。これは素晴らしいっ。満開の桜だ。あかねさんとさしつ、さされつ料理を食べながらお花見を楽しめるなんて…なんて俺は幸せなんだーっ!」
 良牙は真剣に感動しているらしい。
「アホらし…。」
 乱馬はぶすっと言い放った。
 ややこしい時に、またもっとややこしい奴が割り込んで来たもんだ…。心底そう思った。
 このままでは、あかねと仲直りするどころか、話はますます混迷を極めるだろう。

「良牙くん、お煮しめ食べる?」
 あかねは早速、煮しめの入ったお重を運んできた。
「お、おめえ、それは…。」
 乱馬はあわてて止めに入った。
 紛れもない、あかね作のお煮しめがたっぷり入ったお重だった。乱馬はモチロンのこと、誰も怖がって箸をつけようとしないので、まんま手付かずで残っていた。
「わあー。頂きます。」
 良牙の目はますますきらきらと輝いた。
 彼もまた、あかねの料理の腕は知ってはいたものの、乱馬と違って、あかね本人に差し出されたものは、例え、不味かろうが腹痛を起こそうが、お構いなしに食べ切る勇気と根性を持ち合わせている。
 良牙が箸をつけようと手を伸ばしたのと、乱馬がお重を奪ったのは同時だった。
 良牙の箸は虚しく中を空振りした。
「くぉら、乱馬、貴様なんの真似だ?」
 良牙は怒鳴った。
「うるせえっ!これは食うなっ!」
 何故にあかねのお重を良牙から奪い取ったのか、自分でもわからなかったが、乱馬はそうせずにはいられない挙動にかられたのだ。
 それは、あかねの許婚という乱馬の自負心からきていたのかもしれない。
…たとえどんな酷い味をしていようが、やっぱり他の男に先に食わせたくない。食わせて堪るかっ!
 それは半ば乱馬の意地みたいなものだった。それゆえ、咄嗟に行動に出たのだ。
「返せっ!それはあかねさんが俺に出してくれた料理だぞ。」
「へっ、あかねの作ったもんなんか食ったら腹壊すのが関の山だぜ!」
 そう、そんな憎たれ口を叩くのも、また、乱馬の性(さが)だった。
「おまえ、また、そんな暴言を…!!」
 良牙が迫る。
「乱馬っ、あかねの料理は良牙に任せて、こっち食べるね。」
「いいや、ウチのお好み焼きや!」
「いいえ、私のお重が一番ですわっ!乱馬さま!」
 シャンプー、右京、小太刀も負けていない。
「ちょっと、勝手なことしないでよっ!!」
 あかねが叫ぶ。
 このままだと、場外乱闘は避けられまい。不穏な空気が乱馬ちを支配し始めていた。

「うるせーっ!!」
 そう叫ぶと、次の瞬間、乱馬はあかねのお重箱をもったまま、遁走していた。
「こら、まてーっ、乱馬っ。あかねさんの料理は置いて行けっ!!」
 良牙は叫び、
「乱馬、何処行くね!」
 シャンプーは追いすがろうとする。
「まちーや、乱ちゃん何処行くねん。」
 右京も負けじと追いたてる。
「乱馬さまっ!」
 小太刀も共鳴する。
「早乙女乱馬!あかねくんの料理は僕のものだ!」
 と見当違いなことを口走りながら竹刀を振りまわす九能もいる。

「もう、何なのよっ!」
 あかねはその場にひとり取り残された。
「そんなに、良牙くんにあげたくないなら、さっさと、食べてくれれば良かったのに…。」
 あかねはなんだか悲しくなった。
 乱馬が帰ってくる…朝、のどかからそう聞かされたとき、お花見のお弁当の煮物を作ってみようと思い立った。
 いつもいつもへんてこな物しか作れないという強迫観念を押しのけて、とにかく、一日台所に篭っていた。
「美味しいよ…」
 そんな乱馬の一言が欲しくって、がんばってみた。
 何度も失敗し、出来上がったときは夕方近くになっていた。
 かすみものどかもじっとあかねを見守っていた。納得がいくまで頑張ればいい…この二人の先輩主婦たちは暖かく見守ってくれていた。
 なのに、乱馬は食べようともしてくれなかった。予想はしていたものの、あかねは傷ついていた。
 自分がとても惨めになった。

…シャンプーも右京も小太刀も非の打ち所のない料理を乱馬の為に作ってきた。それなのに、あたしは…

 あかねは情けなくて悲しくて、乱馬たちの去ったシートから立ちあがり、放心したようにその場から離れた。

 桜の花びらが一片、風に煽られてあかねの頬に流れて止まった。
 それを絆創膏だらけの指で拭いながら、人込みの中へと歩き始めた。



つづく



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