◇桜狩 三
4 シャンプーとムースの場合
小一時間ほどなびきにタダ働きさせられただろうか。
高かった日も、大分と西に傾きはじめていた。四時くらいのものだろうか。
人の波は夕方に近づくにつれて、明かに変化し始めた。
昼間は子連れの主婦が団体で牛耳っていた公園も、次第に仕事を早めに切り上げてきたOLやサラリーマンたちに取って代わられてきている。
朝から食事を摂れないでいた乱馬のお腹は限界に達しつつあった。体力だけは自信が有った乱馬だが、山篭りの修行のあとの空腹には流石に勝てなかった。
「乱馬ぁ〜っ!!」
不意に後ろからいきなりシャンプーが抱きついてきた。掟を守る為、乱馬に嫁ぐためにはるばるやって来た中国娘だ。
「うえっ!」
空腹で地からが抜け始めていた乱馬は、彼女の勢いに足を取られ不覚にも後ろにドスンと尻餅をついた。
「乱馬ぁ〜!会いたかったある!」
一緒に地面に倒れ込んでも、手を離すこともなくシャンプーは乱馬に頬ずりをする。シャンプーの頬っぺたは弾力があって柔らかかった。
「やめろっ!シャンプー離れろよっ。」
肌の艶めかしさに耐えきれなくなって、乱馬は思わず声を荒らげる。
「いいね。久しぶりに愛人(あいれん)に会ったある。暫らくこうしていたいある。」
シャンプーは離れるどころか、首に回した白い腕に余計に力を加えて絡みついてくる。
「よくねえ〜。いいから離れろっ!」
乱馬は振りほどこうと身じろきしたが、のしかかって来るシャンプーも力をこめ続けていて、埒があかない。
そこに腹の虫がグーっと鳴った。
シャンプーにも聞こえたらしく、嬉しそうに言った。
「私、乱馬の為にいっぱいご馳走作ってきたね。桜を見ながら一緒に食べさせてあげるある。」
「わかったから、その腕どけてくれっ!」
乱馬は更にもがいたがシャンプーは一向に腕の力を抜こうとはしなかった。
「オラのシャンプーに何するだっ!」
そう言いながら、乱馬に突っ込んできた奴がいた。自称シャンプーの婿、ムースだ。
「シャンプー、乱馬なんか放っておいて、オラと桜を見るだっ!」
ムースはシャンプーと間違えて乱馬に抱きついた。ど近眼の彼には乱馬とシャンプーの区別もついていないのだ。
結果的に乱馬はシャンプーとムースに両側から抱きつかれてしまった。
「や、やめろーっ!二人ともっー!」
堪らなくなって乱馬はもがいたが両側から攻めたてられてますます深みにはまって行った。
「ほっほっほっ。婿殿はモテモテじゃのう。」
後ろでシャンプーの曾婆さんコロンが愉快そうに笑っていた。
「やめろーっ。そんなに締め付けられたら首がしまるじゃねえか…」
ばっしゃんっ!!
「ち、ちめてーっ!!」
今度は頭上から水をぶっ掛けられた。
春とはいえ、まだ肌寒い。水は冷たい。
乱馬は冷水のおかげで、みるみる男から女のらんまに変身を遂げる。
「何やってんのよっ!こんなところで!」
頭上から水を浴びせ掛けた張本人が不機嫌そうに声を出した。
あかねだ。
らんまはホッとしたものの、抗議は欠かさない。
「それはこっちの台詞でぃっ!おまえこそ、何のつもりでいっ!水なんか頭からかぶせやがって。あーっ!服までビショビショになっちまったじゃねえかよ…。」
「ふんっ。端から見ていて、男女二人に抱きつかれてジタバタしてたから、水をかけて助けてあげたのよ。」
あかねの鼻息は粗い。
ムースはともかく、シャンプーに抱きつかれていたことに腹をたてているのだろう。
らんまにしてみれば、シャンプーに抱きつかれたところで、嬉しくもなんともないのだが、このヤキモチ焼きの許婚はそうは思っていないようだった。
「とにかく、お花見はじめるから呼んで来いって。お父さんたちが待ってるから早く来てよね。」
あかねはくるりと背を向けると、さっさと行ってしまった。
「ちぇっ、相変わらずかわいくねえヤキモチ焼きやがって。少しは俺のこと信用しろってんだよ…ったく。」
口はそんなふうに動いてはいるものの、あかねにヤキモチを焼かれること自体はイヤではなかった。
それだけ、この許婚が己の挙動に関心を持って接してくれていることがイヤであろう筈がない。ただ、もう少し穏便なヤキモチを焼いて欲しいと、それだけは思ってしまうらんまだった。
とその時、らんまは自分の置かれた状態に初めて気付いた。
耳元で、「ミーニャン、ミーニャン」と鳴く猫を発見したからだ。
猫の横では眼鏡をかけたアヒルがガーガー言いながららんまを突付いてくる。
一緒に頭から水をかぶったシャンプーとムースだ。
すっかり忘れていたが、彼らもまた、らんまと同じく呪泉の呪いを受けている。水で変身する体質を引き摺っている。
案の定、シャンプーは猫に、ムースはアヒルに、変身を遂げていたのである。
しかも、らんまは幼少児、父親に施された猫拳の荒行から、大の猫嫌いになっていた。とにかく傍に寄られるだけでもパニくってしまうほど猫が苦手なのだ。
ニャーニャー。
猫になっても性質が変わるわけではないから、シャンプーはお構いなしにらんまにすり寄って来る訳で…。
らんまはゴクリと一つ生唾を飲み込んだ。
そして、次の瞬間…、
「うぎゃーっ!猫っ!ねこ゛ーっ」
そう叫びながら、一気に桜の下を駆け回りはじめた。
あかねはそんならんまを見て、
「いい気味よ。シャンプーはあんたの嫌いな猫に変身するんだから、以後気をつけなさいね。」
そう心で呟いて、くすっと笑った。
そう、彼女は確信していたに違いない。こんなザマになることを。
桜の木の下では、らんまと猫(シャンプー)とアヒル(ムース)の追いかけっこが暫らく続いた。
5、 乱馬を取巻く三人娘の場合
陽が西に傾いてぼちぼち光りが弱くなりはじめた頃、賑やかにお花見が始まった。
乱馬は猫シャンプーとの追い掛けっこで体力を使い果たし、空腹で目が回りそうだった。
お湯を被って、シャンプー、ムースともども元の身体に戻って、ようよう、シートの上に胡座(あぐら)をかく。
目の前には、かすみとのどかが作り上げたご馳走のお重や猫飯店から持ち込まれた中華料理がびっしりと並べられている。
酒樽も中央に据えられている。
後はゲストが揃って、宴会の開始を今か今かと待ち侘びるだけであった。
紙皿と割り箸が配られる。紙コップには酒やジュースが注ぎ込まれる。
準備は万端!さあ宴会の開始だ。
どこから持ち込んだのか、カラオケ用のワイヤレスマイクを片手に家長の早雲がここぞとばかりに唸り始める。
「あー、あー…。ううんっ。」
咳払いをして、間をとってから話し始める。
「さて、皆さん、大変長らくお待たせいたしました。良牙くんや東風先生、右京くんなど、まだお越しでない方もございますが、ぼちぼち日も 傾いて参りましたので、このあたりで盛大にお花見の宴(うたげ)を始めさせて頂きたいと思います。」
小指をピンと立てながら、マイクに向かって話し掛ける早雲は、なかなか挨拶上手だった。
「さて、皆さん、準備は宜しいか?」
早雲は左手にマイクを持ち替え、右手に紙コップを手にした。
「では、かんぱーいっ!」
「乾杯っ!」
紙コップをかざして、高く持ち上げながら、口々に乾杯を言って回る。
ありふれた宴会の始まりの音頭だった。
…やっと飯にありつけるぜ…
乱馬はホッとして箸を持ち上げた。
ご馳走は色とりどり。
思わず迷い箸をして空で止まってしまう。
その中に、一つだけ周りの色彩から取り残されたようなお重箱があった。そう、あかねが一人で作ったと思われる料理だった。
お煮しめらしき物だったのだが、大きさは不揃いで、何だか料理の色もあせていて、とても美味しそうには見受けられなかった。
天道家の人々も、ゲストの人々も、自然と、目も箸もその一角だけは避けて通ってゆく。
乱馬も心の中で悪いと思いながら、やはり背に腹は変えられない。自然と避けて通ろうとした。
すると、乱馬の母親ののどかが気を利かせたのか、あかねの料理を指差して
「これから食べなさいね。乱馬。」
とすすめてきたのだ。
「……。」
乱馬はドキッとした。
のどかはのどかなりに「許婚が一所懸命作った料理」を「一番始めに口にするべき」だと踏んだのであった。
しかし、乱馬にとっては要らぬお節介だった。肝心の乱馬は母親の意図を汲みかねた。
どうしたものかと一瞬躊躇していると、シャンプーがにこにこしながら隣に割り込んで来た。
「乱馬ぁっ!まず最初に私の作た、料理、食べるよろし。」
差し出した料理は中華ちまきだった。
「お、おう。」
素直にそうさせてもらうかと乱馬が箸を持ち上げた途端、
「ちょい待ちっ!乱ちゃん。こっち先に食べてんかっ!」
右京の声とともにコテが飛んできた。見るとちゃんと焼き立ての湯気の上げるお好み焼きが上にのっている。おまけに「愛しの乱ちゃんへ」という文字がソースで添えられている。ちゃんとケチャップのハート付きだった。
「おう…。」
すす 乱馬は別に口にする順番などどうでも良かったから(そのくらい鈍いとでも表現しておこう)箸を進められるままに伸ばして行った。
「お待ちくださいっ乱馬さまっ」
今度は背後で桜吹雪ならぬ、黒薔薇の花びらが舞い上がった。そう、小太刀だった。重箱を手に持っている。きちんと黒基調の振袖まで着付けていた。
「中華料理やお好み焼きなどといった下賎な料理は乱馬さまのお口には合いませんことよ。さあ、こちらをお召し上がりくださいませ。ほーほほほほ。」
小太刀はそう言って、お重を差し出し、蓋を開けた。
お重の中には整然と料理が並べられていた。小太刀のことだ。痺れ薬だの眠り薬だの、乱馬をはめようとする毒薬がし込んでありそうな雰囲気だった。いかにもそれらしい…という感じの毒々しい色をしていたのだった。
さすがに、乱馬も小太刀の重箱だけは勘弁して欲しいと思った。
「後から来て、割り込む。これ良くないね。」
「何言うてんねん。花見には屋台仕様のお好み焼きが一番に決まってる。」
「いいえ、お花見には古来からお弁当の重箱のお料理ですわ。」
シャンプーと右京と小太刀は口々に罵りはじめた。
「なんなら、力ずくで勝負してもええねんでっ。勝ったもんが乱ちゃんに一番最初に料理を食べさせる。これでどうや?」
右京は背中のコテに手をかけた。
「のぞむところね!」
シャンプーも何処に持っていたのか、中国風の武器を手にした。
「やるしかございませんわね!」
小太刀に至っては、振袖をバッと脱ぎ捨て、下に着込んでいたレオタード姿になる。
「お、おい。おめえら。何をそんなに争って…。」
乱馬は慌てた。
「乱ちゃん!これはウチらの問題や。後腐れないように闘うのみや。ほっといて。」
「乱馬、すぐに私勝って、美味しいちまき食べさせてあげるね。待つよろし!」
「乱馬さま、今暫らく、お待ちになっていて下さいませ。おーほほほ。」
三人は同時にすっくと立ちあがり、お互いの間を見極めながら三竦みの状況に入って行った。
「ホント、あんたって情けないわね…。ハッキリしないし…。」
あかねが不機嫌そうに乱馬に言い放つ。
「なんだよ。俺は別に何にもしてねえぜ。あいつ等が勝手に…。」
「いつも、そうなんだから…鈍感男。」
あかねはそう吐き捨てると、乱馬から目を逸らしてくるりと背を向けた。
「ちぇっ、なんだっていうんだよ。ったく。かわいくねえ…。」
乱馬は腹立ち紛れと空腹感に苛(さいな)んでいたので、ついに、何の気なしに、目の前に合った天道家持参のお重に箸をつけた。
「うんめー、やっぱりかすみさんやオフクロのがいいな…。活き返るぜ。」
乱馬舌鼓を打つ。
『あーっ!!』
乱馬の目の前で睨み合っていた少女たちはそれを見て一斉に悲鳴を上げた。
誰しも、乱馬の一番目の箸を狙っていたのだ。
それがその瞬間に潰えたのだ。嘆きとも悲しみとも落胆とも、なんとも表現のしがたい悲鳴となって表れたのも当然といえば当然のことだった。
少女たちは脱力し、暫らく、まんじりともしなくなった。
おかげで乱馬はご馳走を気にせず食べ始めることができたのだが…
つづく
ブレイクタイム〜古典文学へのいざない〜
世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし
在原兼平の作と伝えられています。(『伊勢物語』八十二段)
現在の大阪府枚方(ひらかた)市の淀川(よどがわ)沿いにあったと比定されている「渚(なぎさ)の宮」で作られたと言われています。
今は、淀川の堤防がひたすら続いていて、渚の宮の跡は何にもございません。
春先は菜の花が堤防いったいに咲き乱れて美しかったです〜今でもそうなのかは暫らく行ってないので分りません。
でも、淀川の堤防は菜の花がホントにそこここで咲き乱れていて、桜よりも美しいのですよ。
原典は岩波書店の新古典文学大系〈通称/新大系本)「古今集」から引用しました。
古今集は二十巻から成っていて、一巻二巻は春の歌を集めています。
この歌は一巻に集録されています。
正岡子規あたりに言わせると、古今和歌集は技巧に走りすぎていて、「くだらない歌集」などと表現されています。その風潮は結構最近まで文学界で言われていたみたい。私は最近、「古今集」を読み返してみて、そうかなあ…と首を傾げています。
子規は「万葉集」を絶賛していますから…仕方がないかな(^^;(『再び歌詠みに与ふる書』参照)
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