◇桜狩   二


2 天道家の台所の場合


「ただいまーっ!」
 春の陽射しがポカポカと頭上から照らしつける昼下がり、早乙女親子は一週間ぶりに天道家の敷居をまたいだ。
 玄関の引き戸をガラガラと開けて中へ入ると、空きっ腹を刺激するようなかぐわしいご馳走の匂いが漂っていた。乱馬は結局、朝から何も食べられないでいた。
 お腹が鳴り出すのを堪えながら長い廊下を渡り、暖簾(のれん)ごしに眺めると、天道家の長女かすみと乱馬の母のどかが、かいがいしく動き回っていた。少し視線をずらすと、いたいた。あかねも中に混じって調理を手伝っている。
 乱馬は黙ったまま、あかねの動きを目で追った。

 あかねは、薄ピンクのエプロンを身に纏い、乱馬のことは耳にも目にも入らないらしく、一心不乱に料理と格闘している。

…やっぱり、調理班に入っていたか…
 乱馬の顔から思わず苦笑いがこぼれた。
 あかねの不器用さは一筋縄ではいかない。これまでも、超怒級の神業とも言える料理を数々作ってきた。
 良くぞここまで、まずいものを作れるものだと、毎回感嘆してしまうほどの腕前だった。
 乱馬があかねに対して素直に自分の想いを口に出来ない理由の中に、百年の恋も悪夢に変わってしまうようなあかねの料理の腕があるのかもしれない。結婚したら、イヤでも毎日、毎食、彼女の食事の世話にならなければならないのだ。
…願わくば、あかねの手料理だけは、食べたくない…
 これは、乱馬だけではなく、他の天道家の面々も常々思っていることに違いなかった。

 料理の腕とは裏腹に、台所に立つあかねは実に楽しげだった。
 今日も流し台の前に立ち、何やらごそごそ作り上げている。手慣れたかすみやのどかとは明かに違って、手つきも動作も見ていて危なっかしい。
 小鍋片手に、何かをやっている。

 ツーン。
 やがて何とも表現しがたい臭気が小鍋から立ち込め始めた。
 空腹の乱馬には胃酸が逆流しそうな刺激臭だった。

「あかねちゃん、何作ってるの?」
「話しかけないでっ!かすみおねえちゃん!野菜の炊き合わせよ!」
 あかねは邪見そうに答える。
「ちょっと、あかねちゃん、それ、お砂糖じゃなくって塩よ!」
「いいの、塩っけも必要よ!」
「それはみりんじゃなくってお酢よ。」
「いいの、隠し味!」
「そんなに入れて、ちょっとお醤油濃すぎないかしら…。」
「大丈夫よ、きっと…。」

 あかねとかすみのやり取りを、暖簾ごしに見守りながら、
…こりゃ、今回も期待薄だな…
 乱馬は一人、溜息を吐く。
…結局、あかねの作ったものには誰も箸を付けず、最後には俺の胃袋に…
 そう考えただけで、胃もたれがしてくるのだった。できることなら、あかねの料理を食するのは勘弁させて欲しい。

「あら、お帰りなさい、乱馬。」
 のどかが真っ先に気がついて、声を掛けてきた。
「思ったより早かったのね。良かったわ。」
 かすみがにこにこして振り返る。
 あかねは一瞬、ピクリと肩が動いたが、振り返りもせず、何も言わずに作業に熱中していた。

…ちぇっ、久しぶりだっていうのに…
 乱馬はあかねの様子を見て少しムッとした。お帰りなさいの一言と彼女の笑顔が欲しかったのだ。
 それが貰えないとなると、いつものように反目してみたくなるのが、また、乱馬の常だった。
「あかね、おまえ何作ってんだ?。」
 わざと近寄って行って思わせぶりに口を開く。
「話しかけないでっ。気が散るでしょ…あ、いけないお鍋が吹いてきた…。」
 ホントのところは、あかねには乱馬と言葉を交わす余裕がないのだった。
「おい、なんか異臭が漂ってきてるぜ。大丈夫か?。」
「……。」
「ブタのエサにでもするつもりか?それ。Pちゃん用に…。」
「失礼ねっ、お弁当用の煮物よ。気が散るから出て行って!」
「ふっ、せいぜいがんばんなっ!人を殺すような料理は作んなよ。」
「うるっさいわねっ!!」
 乱馬の悪態についにあかねも反撃に出た。手にしていたお玉が乱馬目掛けて飛んだのだった。
「いってーっ。何すんだよ!」
 いきなりの強襲に乱馬は悲鳴を上げる。これもいつものこと。とり立てて珍しいことではない。

「ホント、仲がいいのね…。」

 かすみは傍で手を拭きながらニコニコと二人に声を掛けた。

「乱馬、帰ってきて早々悪いんだけど、荷物の運び出しを手伝ってあげて欲しいの。」
 のどかも、二人の痴話喧嘩には気も留めないふうに言った。
 いちいちこの二人にかまけているものバカらしいといえばバカらしいのだ。喧嘩はこの二人の日常会話みたいなものだから、誰も進んで止めようとはしない。
 当人達は、いつも真剣そのものに喧嘩してはいるのだが…。

「そうよ、あんたがここに居たんじゃ、邪魔だから、先に公園でもどこでもいいから早く出て行ってよね。」
 あかねの鼻息は荒い…内心は乱馬が無事に修行から帰ってきてくれて嬉しくって仕方がないくせに…。
「ああ、どこでも先に行ってやらあー、かわいくねえっ。」
 乱馬も応酬する…ホントはこの気の強い許婚がかわいくって仕方がないくせに…。

 乱馬は挨拶代わりの喧嘩をそこそこに、のどかの進言どおり、荷物班に加わることにして、そそくさと台所を後にした。


3、 天道家の男どもの場合

 荷物班の男連中は裏口近くで待機していた。
 陣頭指揮は、家長の天道早雲が執っている。
 どこから調達してきたのか、大八車がどでんと裏口につけられていた。
 その回りを早雲と玄馬と八宝斎の爺さんが取巻いて、順々に宴会道具を大八車に積み込んでいく。

「えらく大掛かりだな…。」
 裏口から追い出された乱馬は苦笑しながら言った。
「こらっ、どこをほっつき回ってたんだっ!おまえも手伝わんかっ!乱馬。」
 玄馬は手を止めて乱馬に文句を言った。
「そうじゃ、乱馬、お主もちゃんと働かんと、連れて行ってやらんぞっ!」
 珍しく、一緒に働いていた八宝斎も口を尖らせる。
「まあいいさ。久しぶりにあかねに会ってきたんだろ…。」
 汗を拭いながら早雲が付け加える。
「今朝、早乙女くんから来た電話を聞いて、あかねの奴、俄然、張りきり始めたからなあ…」
「そうじゃな、昨日、花見をかすみさんが提案した時は『乱馬たちが帰ってきてからでいいんじゃない…?』なあんて乗り気じゃなかったからなあ…。」
と八宝斎。
「そうそう、電話の後の豹変ぶりは…あれでいて、乱馬くんのことを随分気にしているんだからなあ…。」
 乱馬は少しくすぐったい気持ちになる。
「何だよ。それっ。」
 と素っ気無く言ってみたが、顔は赤くなってくる。
「おー、おー。照れちゃって。まだまだ修行が足らんぞ、乱馬っ。」
 玄馬までからかい始める。
「だから、分っているとは思うけど、乱馬くん。」
 早雲は思わせぶりに乱馬の肩に手を置いて続けた。
「あかねの手料理は全部、君に任せたからね…」
「……。」
「そうじゃ、許婚として、ちゃんと最後まで食べんといかんぞっ。これは師匠命令じゃからなあ。あかねちゃんを悲しませたらワシがタダではおかんぞっ。」
 八宝斎までがそんなことを言い出した。
「あかねくんの料理は乱馬に任せて、わしらは花見酒といきましょうや。」
 カラカラと玄馬が笑う。

…こいつら、結局、あかねの料理が食べたくねえだけじゃんかよ…
 心の中で乱馬は吐き捨てる。
…宴会のバツゲームより恐ろしいからなあ…あいつの料理は…

 乱馬の後ろを春風が笑いながらサアーッと通りぬけてゆく。
 風の匂いの中に、ふと乱馬は今朝方逢った爺さんの気配を感じた。

「……。」

「どうした?乱馬?」
 乱馬の心の動きを少し察知したのか、玄馬が声を掛ける。
「あ。いや、何でもねえ。早いことやっちおまおう。ぐずぐずしてたら日が落ちちまう。」
 乱馬はそんな訳ないやと振り切ると、若い力に溢れかえった身体を動かし始めた。
「それ、乱馬くん、そっちの酒樽を持って乗っけてくれ。」
 早雲が大きな酒樽を指差す。
「うへっ、何処から持って来たんだ?こんな酒樽。」
「九能くんが持って来たんだ。」
「く、九能?あいつも来るのか?」
 イヤな名前を聞いて乱馬は訊き返す。
「いやあ、この際だからってみんなに声を掛けまわっていたようじゃぞ…かすみちゃんは。」
 八宝斎がつけ加えた。

…かすみさんらしいや…
 乱馬は思った。
 が、次には
…ひょっとして、トラブルメーカーみんなが揃うのかよ…
 と思いなおした。
 シャンプー、ムース、コロン婆さん、右京、小夏、良牙、あかりちゃん、小太刀、バカ校長…
 いろんな顔が乱馬の脳裏に次々浮かび上がる…
 途端に得も言われぬ「不安と気苦労」が頭を持ち上げて来る。

 そこへかすみが裏口から出てきた。
「ぼちぼち出掛けて、先に場所取りに行ったなびきちゃんと合流しておいて下さいな。」
 そう言いながら、出来あがってきたお重箱を運び始めた。
「かすみさんたちは?」
 玄馬が汗を拭いながら言うと、
「私達はもう少し、お料理の品数を作っておこうと思うの。あとは私達でも持って行けると思いますから、先に行って下さいね。」
「あい分りました。期待しておりますぞ。かすみさん。」
 玄馬は嬉しそうに答える。
 かすみは、そうそう、という具合に、一言付け加える。
「お料理の方は、あかねちゃんも頑張ってますからね。」
「あは、あは。まあ、適当に頑張るようにあかねには言っておいてくれね、かすみぃ。」
 早雲が脇から口を挟む。
「わかったわ、お父さん。乱馬くん、ちゃんと胃腸薬も用意しておくから、安心しておいてね。」
 かすみスマイルで乱馬に言った。

…胃腸薬ねえ…。やっぱり最後は俺の胃袋行きかあ…やっぱり。…
 乱馬は心中複雑だった。

「ほれ、ぼさっとしとらんで、行くぞっ。乱馬。」
 後ろから玄馬にハッパをかけられて、乱馬は慌ててそれに従う。

「じゃあ、お願いね。」

 かすみの笑顔に送られながら、一足先に、天道家の男たちはお花見会場の公園へと出発した。


3、 天道なびきの場合

 さて、花見会場の公園に着いてみると、平日だというのに、いるわいるわ、人の山。何処から湧いてくるのか、賑やかだった。
 まだお天道様(てんとうさま)は高いから。さしあたり、子供連れの主婦や学生達の団体、お年寄の団体がシートを広げて、思い思いに宴会を繰り広げていた。
「うへっ!普段はここ、そんなに人っ気がねえのにな!」
 乱馬は人の多さに圧倒されながら言い放った。
 桜を愛でるのは古来からの日本人の慣習のようなものだ。
 「花」といえば桜のことを指すと言うのが古典文学の常のように言われているが、実際は「万葉集」の編纂された時代あたりまでは、「花」は梅を指す言葉だった。平安時代、国風文化の芽生えと浸透中で、春を誘う花は何時の間にか、梅から桜へと変化したものらしい。
 鈴なりに枝に咲き誇る桜の美しさは、遠目でも見ても、目を見張るものがある。この季節になると、日本に生まれてきたことが良かったと思えるのは、乱馬とて同じだった。

世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし

 乱馬はふと、古典の時間に習った和歌が思い浮かんだ。
 直訳は
〜もし、この世の中に全く桜がないとするならば、春の心はどんなにかのどかでしょうか。〜
平安時代きってのプレイボーイ、在原業平の作と伝えられているこの「古今集」の和歌は、百人一首にも取り上げられていて、つい先頃、古典の時間に暗記させられたものだった。
 桜があることへの恨みつらみを書きたててはいるものの隠喩的には桜の素晴らしさを詠ったものだ。
 柄でもなく、乱馬はそんなものを思い出してしまったのだった。
 恋すれば犬でも詩人になるというが、乱馬もまたそうだったのかもしれない。
 それほど、満開の桜は見事だった。

「ほれっ!ぼさっとしとらんで、早いこと、なびきくんを探して来いっ!!」
 大八車を公園の脇に止めると玄馬が急(せ)かすように乱馬に言った。
「あ、ああ。探してくるよ!」
 乱馬は現実の世界に引き戻されて、慌てて、人ごみでごった返す公園へと入って行った。

「この人ごみじゃあ、なびきを探すのは一苦労だぜ…。」
 乱馬はぶつくさ言いながら人を掻き分けてきょろきょろと辺りを探しまわる。
 だが、乱馬の予想に反して、なびきを見つけ出すのは簡単だった。

「はーいっ!次の方はこちらよ!四名様ご案内。」
 なびきの声が何処からともなく聞こえた来たのだ。
 声のする方に寄って行くと、いたいた。拡声器を手にしたなびきが目に入った。

…げっ!こんなところで商売してやがる…
 乱馬はなびきを見つけて絶句した。

「さあさあ、九能ちゃん、四名様を場所までお連れしてね。」
 更に、なびきの様子を見て、驚いた。九能が傍らでいいようになびきにこき使われているではないか。
 どうやら、場所取りの商売のようだった。
 さすがは天道家の次女、守銭奴のなびきだ!

「おい、こんなところで何やってんだよ!」
 乱馬はそのまま立ち去る訳にもいかず、なびきに声をかけた。
「あらっ。乱馬くんじゃないの。丁度いいわっ!九能ちゃんだけじゃ、持て余していたのよね。手伝ってね。」
 となびきはいともあっさりと仕事を押し付けてきた。
 見廻すと、そこら中になびきが確保したと思われるシートが張り巡らされていた。なびきは場所の使用料として、入れ替わり立ち替わりやってくる花見客にワンシート何某で貸しつける商売をしているようだった。
 公共の場に商売を持ち込むなんて、トンでもない話だったが、金の為には常識も書きかえるなびきだった。
 また、実際に、花見客たちも、少しでもいい場所を確保しようと、なびきの商売のお得意さんに成り下がている。花見が終わると、場所もなびきに返上し、またそこへ新しい客が入ってくる…そんな商売だった。
 何より乱馬が疑問に思ったのは、いつ、こんな商売が成立するほど、シートを敷いたのかということだった。
「おめえ、いつの間にこんなに場所をとったんだ?」
 乱馬の投げ掛ける疑問に
「あら、九能ちゃんに頼んで、剣道部の男子部員を早朝から動員しただけのことよ。」
いともあっさりと言うなびきだった。
「バイト代は?まさかタダ働きなんてことは…。」
「タダだなんて失礼ねえ。あかねやあんたの秘蔵写真があれば、誰だって男の子は働いてくれるのよ…。」
「俺の秘蔵写真だあ??」
「誤解しないでね、男の乱馬くんじゃあなくって、女のらんまくんだから安心して。」

…こ、この女わっ!!…

 そんな会話を続けていると
「何やっとるんだっ!乱馬!なびきくん一人探し当てるのに、どれだけ時間を費やしておるんだ!」
 と玄馬が声を掛けてきた。
 乱馬がなかなか帰ってこないのに痺れを切らしたのか、早雲と八宝斎とでた大八車越し、公園の中にまで一行は入り込んできたのだ。大迷惑と言わずなんと言うか…。
 しかし、そんな一行も、なびきにとっては絶好の働き手に見えるらしい。
「あら、丁度いいわ、お父さんたち。人手は多い方が有り難いものね。」
 八宝斎だけは、なびきが言わんとしていることにピンと来たらしく、
「わしゃ、ごめんじゃ〜、花見が始まるまで、ちょっくら遊んでくるくるから後は任せたぞいっ!」
 そう言い捨てて、身軽に何処かに行ってしまった。
「ち、逃げ足の速いジジイだぜ…。」
 乱馬は苦笑する。
「いいわよ。おじいちゃんなんていなくったって。おじいちゃん、若い女の子にしか興味ないから、いてくれたところで使い物にはならないわよ。いない方が苦情も上がらないから気にしないわ。それより、お父さんたち、荷物はここに置いてね。この場所が一応私たちの会場よ。しょば代はいらないわ。サービスしとく。」
 と変な恩を売る。何処まで行っても、なびきはなびきだった。

「ねえ、次はまだなの?」
 お客が文句を言い始めた。
「はいはいただいま〜。ほら早く、働いてよねっ!」
 乱馬はこの後に及んで、まだ、なびきに反論しようとしたが、九能に遮られた。
「早乙女乱馬。四の五の言わずにさっさと手伝えっ!」
 なびきと九能に押し切られるような形になって、結局乱馬と玄馬と早雲までこき使われる羽目に陥ってしまったのだった。



つづく



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