◇桜狩   一


1、 序章


 山の空気はまだ冷たい。
 木々の緑も閉ざされていて、枯れ枝が風に微かに揺れる。

「てめーっ!待ちやがれーっ。」
 山の静けさを乱すように、斜面の獣道を、巨大パンダと一人の少年が追いかけっこを繰り広げていた。
 少年の名は早乙女乱馬。
 前を行くパンダはその父親の早乙女玄馬。パンダの形(なり)をしていても、お湯をかければ戻る、れっきとした人間だ。
 この父子は春休みを利用して、修行に深山に分け入っていた。居候生活でだれはじめた武道家の身体に喝を入れるため、自給自足で山に篭る。

『ここまでおいで〜』
 玄馬パンダは木製の看板を息子にひけらかす。そして、バフォバフォと巨大な図体に似合わないくらいの素早さで山道を辿り谷へと渡って行く。
「くそーっ!人の朝飯、分捕りやがって!!」
 乱馬はそう口にしながら父を追いかける。…どうやら朝ご飯のことから追いかけっこが始まったらしい。
 息子の追撃をひょいひょいとかわしながら、からかうように玄馬パンダはちょこまかと動き回る。その動作に乱馬はほとほと頭に血が上っていた。
 躍起になって、玄馬ぱんだを追いかける。流石に若くて体重が軽い分、息子の方が有利だ。
 すぐに追いついた。そして、パンダを取り押さえようと足を前のめりに一歩踏み出した。
 と、途端に、
「あっ…。」
 木の根っこにけつまずいた。
 そのまま、ドスンと地面に投げ出されたのは、まさに不運としか言いようがない。
「いって〜。」
 山の地面は湿っぽい。泥だらけになった上体を起こしながら
「ちっきしょー、親父め。とッ捕まえたら只じゃおかねえからなー。」
 と吐き捨てた。
『未熟者!』
 玄馬パンダは息子に向かってそう看板を掲げると、アッカンベーをして、走り去って行ってしまった。
 乱馬は遠ざかる玄馬パンダを見送りながら、悔しがる。

 枯れ枝が風に揺れ、頭の上でカサカサと音を立てた。
 乱馬はふっとつまずいた木を見上げた。
 それは、見事な桜の大木だった。
 山の中にそびえ立つ桜だ。一般に良く知られているソメイヨシノではなく、おそらくヤマザクラだろう。
 こんな鬱蒼(うっそう)とした山の中に、何故、このような山桜がと見紛うほどの大木だった。おそらく樹齢も三百年は下らないだろう。
…まだ、つぼみは固いな。こんな山の中じゃあ、満開になるのは暫らく先だな…
 見上げたついでに乱馬はそんなことを考えた。
 山桜は固い蕾みを豊かに蓄えて、開花の瞬間(とき)を静かに待っているようだった。
…東京あたりじゃあ、そろそろ満開で見頃になってるだろうけどな…
 青空に映る静なる野性の大木にふっと乱馬はあかねの横顔が脳裏に浮かんできた。
…あいつと満開の山桜でも、眺めてみてえな…
 何故かそんなことを考えた。普段の乱馬ならそんなことは微塵も考えないのだろうが、離れているとたまらなく懐かしくなるものだ。

 乱馬はあかねのことを思い出しついでに溜息を一つ吐いた。
 そして、立ちあがろうと、手を地面についた時、背後に急に人の気配を感じた。さっきまで人の気配など何も感じなかったのだ…突然の気配にビクッとなった。
 と、
「ホッホッホッホッ。」
 軽快な笑い声がすぐ後ろで響いた。
 何者か…と乱馬が振り向くと、一人の白髪の老人が木の元に立ってこちらを見ていた。
 右手には木製の長い杖を持ち、頭にはドラマの水戸黄門さまのような頭巾を被り、動物の毛皮でできたちゃんちゃんこを着込んだ和装のいでたちの爺さんだった。おまけに顎には見事なくらい長い白髭をたくわえている。

「お若いの…白黒熊(しろくろぐま)には逃げられてしまったようじゃのう…。」
 そう言って爺さんは愉快そうに笑った。
 乱馬はそれには答えずに、腰をあげ、バンバンと手を打って埃を払った。
「見事な桜の大木じゃろう。おまえさんがつまずいたのも、この木の根っこじゃよ。」
 乱馬は老人に言われて足元を見た。確かにそこここにこの大木のものと思われる、根っこが、地面を這い出していた。
「まだ、花には少し早いようだけど、咲けば見事なものだろうな…爺さん。」
 乱馬は老人に話し掛けた。
「ああ、この世のものとは思えんほどに見事じゃぞ…。ところで、おまえさんに折り入って頼みたいことがあるんじゃが…。」
 老人はそう言いながら、乱馬をじっと見つめた。
「何だよ?俺に頼みたいことって。」
「あの枝の辺りをご覧。」
 老人は杖で一際高い枝先を指した。
「ん?」
 乱馬は言われるままに目を凝らした。何やらその辺りがざわめいている気配がした。
「実は、あそこに椋鳥(ムクドリ)の巣があってのう、その巣が今朝の春風に煽られて、今にも転げ落ちそうなんじゃ。巣の中には玉子があって、親鳥すら近づけんで、ずっと木の傍を飛んでおるんじゃよ…」
 確かに老人が言うとおり、小さな鳥が上空を旋回している。
「見たところ、お前さん、武道の修行でこの山に入ったと見える…身体を相当、鍛えておるじゃろう…この老人に成り代わって、何とかしてやってくれまいかのう。」
「お易い御用だ。俺に任せときな。」
 乱馬は二つ返事で引き受けた。
 足を後ろに屈脚させると、タンと勢い良く地面を蹴った。そして、木に飛びつくと、ひょいひょいと幹を伝って身軽によじ登り始めた。
 並外れた鍛え方をしている乱馬にとって、木登りなど朝飯前のことだった。
 あっという間に、問題の枝近くまで登り詰めた。

 風に揺られながら巣を確認したが、如何せん、乗っかっている枝先が思ったより細い。
 己の体重では強度が持つか危うい。
 そう判断した乱馬は太い幹のところで暫らく考え込むと、一度下へ降りた。

「やっぱり、無理かのう…。」
 老人は困り果てた顔で乱馬に声を掛けた。
「なあ、爺さん、水持ってねえか?」
 乱馬は出し抜けに老人に問い掛けた。
「水か?水ならこの竹筒の水筒に入っておるが…。」
「丁度いいや。ちょっと貰うぜ。」
 そう言うと乱馬はやおら竹筒に手を掛け、頭から水をぶっ掛けた。

 みるみる、乱馬は女に変わる…

「おーっし。女の身体なら幾分か体重も軽くなるからな。待ってろよ。今度こそ。」
 そう言ってニッコリ笑うと、再びらんまは上を目指して登り始める。
 女に変身すると、男の時より体重が落ちる分、身軽になる。細い枝先を伝うには女の身体に限る。
 上まで簡単に登りきり、そっと細い枝を辿って行く。左手で枝につかまり、右手を伸ばしてそっとお目当ての巣を持ち上げる。
 巣を覗くと、老人が言ったとおり、三つばかり白っぽい玉子が行儀良く並んでいた。親鳥は心配そうにすぐ上でさえずっている。
 らんまは辺りを見廻して、太目の枝の小別れした比較的平らな安心できそうな場所を選んで、手にしていた巣を据えてやった。
「よーし、このくらいでいいだろう。」
 らんまは使命を終えた安堵で、緊張感が緩んだ。
「あっ…。」
 一瞬の油断に枝に掴まっていた手が滑ったのだ。
 そのまま重力に引かれて、下に向かって落ちて行った。
 夢中で落下の途中、手探りで枝を掴もうとあがいた。

バキッ。

 無常にも掴んだと思った枝は音をたてて折れる。でも、それが幸いして、地面への激突は免れた。

ドスン。

 ぎこちない体制ではあったが、なんとか土の上に着地することができた。

「ふー、危ねえ、危ねえ…。」
 らんまは冷汗を拭った。
「あーあ、途中で掴まった枝、折っちまったか…。」
 右手には50センチ程の枝をしっかり握っていた。
 らんまはバツ悪そうに、頭を掻きながら苦笑した。
「大丈夫じゃッたようじゃのう…ところでおまえさん、両性具有じゃったのか?」
 老人は意味深に笑いながら言ってのけた。
「男だよっ!訳ありで水をぶっかぶると女に変身しちまうけどよ。」
 らんまはむすっとして答える。
「ほー、呪泉郷の呪いにでもかかったのかのう…。」
「爺さん、呪泉郷を知ってるのか?」
 意外な老人の呟きにらんまは、はっとなって尋ねたが、
「いや詳しくは知らんがのう、永年生きていると色々な知識だけは増えるもんじゃて。そうか、呪泉郷の泉に溺れなされたか…それにしても、見事な身のこなしじゃったのう…。相当、鍛え込んでおる…痛快、痛快。」
 老人はかっかっかっと高らかに笑った。
 そして、言葉を続けた。
「何かお礼しなければのう。」
「何にもいらねえよ…別にたいしたことしてないし、枝まで折っちまったからな。」
 らんまは手にした枝を見つめて言った。
「そうじゃ、この桜の花を、おまえさんに見せてやろう。満開になるとそれは美しいぞ。」
 老人は微笑む。
「って言っても、爺さん、この様子だと、満開になるまで十日くらいかかるぜ。まだ、こんなに蕾みも固いし、俺だってそんなに長くここで修行してられねえからさ。」
 らんまは老人の申し出を苦笑しながらさり気なく断った。
「なあに、半日もあれば良い…それより、満開の桜を一緒に見たいと思う男(おのこ)…あいや女子(おなご)はおるのかのう?」
 老人は構わず、見当違いの問い掛けをしてきた。
 「おなご」と言われて、らんまはあかねの笑顔が脳裏に過ぎり、少し顔が赤らんだ。
 老人はらんまの表情の変化を逃さなかった。
「おまえさんのような益荒男(ますらお)の惚れるおなごじゃ。さぞかし可愛いかろうのう…。」
と言って、らんまを覗き込む。
 はっとなってらんまは
「そんなこと訊いてどうするんだよ…。」
 照れ隠しにそう訊き返した。
「第一、あんなかわいくねえ女…。」
 口の中でもごもご言う。
 そんならんまの恥らう様子に、老人はまた高らかに笑う。
「おまえさん、正直だのう…何を考えているか、すぐわかる…。」
 老人は、目を細めながら続けた。
「この木の満開の桜を見上げれば、きっと幸いが訪れるぞ…愛しき者と二人で見るがいい…ホンのワシからのお礼じゃて…。」
「何訳のわかんねえこと言ってんだよ。爺さん…。」
 らんまがそう答えようとしたとき、轟音をたてて、旋風(つむじかぜ)が吹き抜けた。
 ゴォーっという音とともに、桜の木の枯れ枝もゆさゆさ揺れる。地に立つらんまも弾き飛ばされるのではないかと思うくらい勢い良く風が通って行く。
 思わずらんまは手を振りかざして風を遮った。
 息もできなくなるのではないかと思うくらい、突風だった。

 風が止んだ時、ふと目を上げると、老人の姿は消えていた。
「え…?」
 辺りを見廻しても、誰もいない。人の気配すら感じられなかった。
 もしかして、突風にさらわれていったのだろうか?
「爺さん?、お、おい、じいさん…。」
 らんまは大声で呼んでみた。
 しかし、返事はない。
「爺さん?何処行っちまったんだ?じいさん?」

 パコンッ!!

 背後から玄馬に看板で叩かれた。
 そして、いきなり頭からお湯を掛けられた。
「何やっとるんだ?こんなところで。」
 やかんのお湯を息子に掛けながら、玄馬は問い掛ける。玄馬もまた、パンダの変身を解いてた。
「あれっ?親父…爺さんは?」
 男に戻った乱馬は玄馬にすがって訊き返す。
「何、言っとるんだ?爺さんなぞ、何処にもおらんぞ!」
「今の今まで、そこに…。」
 狐に摘まれたように乱馬はきょろきょろするが、何処にも老人の気配はなかった。
「大方、寝ぼけて夢でもみておったんじゃろう…しゃきっとせい。しゃきっと。」
「夢なんかじゃねえ。」
 そう言いながらふと右手を見ると、さっき木の上から落ちざまに手折った枝を握り締めていた。
「おぬし、枝を折ったのか?木は大切にしないといかんぞ。環境破壊がどうのこうのと言われておるじゃろが…。」
 空になったやかんを指先にのせて、玄馬は言った。
「好きで折ったんじゃねえ…爺さんに頼まれて…。」
 乱馬はムキになって言い返そうとしたが、玄馬の言葉に遮られた。
「しょうのない奴め。まあいい、下山するぞ、仕度せい。」
「え?」
「わからぬ奴だなあ。東京に帰るぞ言っとるんだ。」
「帰るって、また、急に…あと二、三日、篭る予定じゃあなかったのか?」
「さっき、里に下りたついでに電話をかけてきたんじゃ。」
「なにかあったのか?天道家で。」
 乱馬は玄馬にせっついた。
 急に帰るなどと玄馬が言い出したのだ。何か起こったのかと思うのが人情だ。
…もしや、大切なあかねの身に…。
「いやのう、天道家では…。」
 もったいぶって玄馬が言う。
 この続きにいったいどんな言葉が来るのか…乱馬はドキドキしながら待った。
 乱馬のそんな焦りとは裏腹に、
「今夜花見をするそうじゃ。」
 全く見当違いを玄馬はするりと答えた。
「花見だあ?」
 乱馬は気の抜けた声を出した。全身から力抜けそうだった。
 玄馬は悪ぶるでなく、大真面目に続けた。
「そうじゃ、花見じゃ。満開の桜を愛でながら優雅な時を過ごすんだそうだ…受話器の向こうでかすみさんが言っとった。」
「で、修行は?途中でやめて帰る気か?おい。」
 ふざけているとしか言いようがない玄馬の答えに、乱馬はだんだん腹が立ってきた。
「修行も大切じゃが、花見も大切じゃ。」
「……なんだよ、それ。」
「日本人と生まれたる者、花見は一大事じゃ。なおざりにはできん。わかるか?武道家とて、精神の修養は必須事項じゃ。満開の桜を見て己が精神を磨き上げるのじゃ。」
 玄馬の言葉の後半部は、なんら意味を成していない。
 乱馬は反論して怒る気にもなれなかった。

…全く、親父はいつもいい加減だ…
そう思うと立った腹も萎んだ。

「とにかく、帰るぞ!」
 玄馬はくるりと背を向けた。

 乱馬は桜の枝を握ったまま、桜の大木を見上げた。
 桜の大木は、広げた枝をいっぱいに朝の太陽を受けて、光り輝いていた。その向こうに見える空は限りなく青く、美しい。
 吹き渡る風は心地よく、枝はたおやかに揺られながら、開花の瞬間を待ち焦がれているようだった。

「何、ぼさっと突っ立てるんじゃ?早くせいっ!置いて行くぞ。」
 前を行く玄馬が怒鳴った。動かぬ息子に業を煮やしたようだ。玄馬の心はもう今晩の花見にしかないのだろう。

「お、おうっ!」
 乱馬は慌てて、後に従った。
 中途半端な修行に心残りはあるものの、「天道家の花見」を楽しんでみたいという気持ちも湧きあがったのだ。このあたりは玄馬の血が流れているからかもしれない。
 何より、さっきの老人とのやり取りで、急に里心がついてしまったのだった。…あかねに会いたいという…いや、あかねと満開の桜を見上げてみたいという心情。
 それはささやかな乱馬の恋慕だったのかもしれない。
 恋し焦がれる者だけが知り得る、ささやかな恋慕。


「あーそうだ。親父っ。朝飯…てめー俺の朝飯…。」
 乱馬は急に思い出した…今朝の朝飯争奪戦のことを。
「そんな小事はさっさと忘れいっ。」
 玄馬はびくっとなって言った。
「親父ーっ!朝飯の恨み、忘れはしねえぞっ。」
 乱馬は玄馬向かって駆け出した。
「しつこい奴はあかねくんに嫌われるぞっ!」
 先を行く玄馬も慌てて走り始めた。
「誤魔化すなーっ。落とし前はつけてもらうぜっ。」

 また、追いかけっこが始まった。
 乱馬は玄馬を追って山を下っていった。
 今度は手にしっかりと桜の枝を握り締めたまま。

 桜の大木は、そんな親子を見て笑っているように、枝をかさかさ揺らしながら、二人の影を見送った。

 それはある春の晴れた日の出来事だった。



つづく




一之瀬的戯言
「表題」は「さくらがり」と読みます。紅葉狩と同じく、桜を眺めて愛でること、即ち、花見の別名でございます。


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