◇恋敵はかすみさん  5


九、

 乱馬の目の前にある不可思議な物体。
 作った本人が述べるところに寄れば「オムレツ」だということであったが、その様相を全く呈していない。何か黄色が主体のぐちゃぐちゃとした物体が、目の前に突き出された。
 あかねの作り出すファンキーな味を熟知している身の上としては、視覚的にも嗅覚的にも我慢ができない代物であることは間違いがなかった。

…早く、乱入してくれよ…。良牙っ!東風先生っ!

 祈りにも似た彼の思いは、虚しく心に響くだけであった。

「それでは、ゆっくり味わえよ…。乱馬。」

 そんな苦渋に満ちた息子とは、対照的に楽しそうな玄馬。
 一応、許婚としての立場上、あかねの料理を公衆の面前で拒否するわけにはいかないだろう。拒否すれば、さっきの小太刀同様、あかねは途端に許婚の候補者から脱落する。現状を維持したい乱馬にとって、それは避けなければならないことであった。
 この場を無事に収めるには何食わぬ顔をして、この異様な臭気を放つ調理物を平らげ、どれも甲乙が付け難いと宣言せざるを得ない。
 シャンプーも右京もかすみも、だが、それで納得するような、生易しい娘ではなかろう。
 乱馬の額には汗が薄っすらと浮いていた。
 玄馬は食えるものなら食ってみろと云わんばかりに、その物体を勢いよく、息子の口にぶち込んだ。
 
…うっ!…

 一口入れられてふっと意識が遠のきかけた。それ程、不可解で摩訶不思議なファンタスティックな味だった。
 が、このまま意識を失う訳にはいかない。
 必死の思いで、遠のく意識を引き戻す。必死で、耐え抜いた。
「お…。食ったか…。おぬし、やはり、口で何を言っててもあかねくんが本命なんじゃろ…。」
 玄馬はこそっと耳打ちした。
「うるせえ…。とっとと全部食わしやがれっ!」
 ごくんとすぐさま飲み込んで乱馬が言い放った。
「その心意気や良しっ!では遠慮なく。」
 玄馬は次々に料理を乱馬の口に放りこんでゆく。
 あかねの料理の織り成す彼岸の世界。それと必死で格闘する乱馬。必死で平静さを装う。

「お父さま…。おじさま、もう勝負はついていますわ。」
 その様子を痛々しげに見ていたかすみが止めに入った。
「乱馬くんが可哀相ですもの…。もう得体の知れないものはその位にして置いてあげてくださいな。」
「何よっ!お姉ちゃんっ。乱馬は機嫌よく食べてくれているんだから、水をささないでよ。」
 あかねが鼻息を荒げながらそれに抗議した。
 内心、かすみの言葉に嬉しさがこみ上げた乱馬だったが、このまま止めるわけにはいかない。
「大丈夫…。食えますから。かすみさん。」
 そう言いながら遠のく意識と闘い続ける。

「あなたのは料理じゃないわ。あかねちゃん。そんな訳のわからないものを全部平らげたら、幾つ命があっても足りないわ。乱馬くんは大切な天道家の跡目なんですからね…。」
「そんな言い方ないじゃない。乱馬は食べてくれているんだから。それに、乱馬の胃腸は並以上に丈夫よ。」
「人間、我慢にも限度があるのよ…。」
 あかねとかすみは互いに睨みあった。
「乱馬は元々私の許婚なんだからっ!」
「いいえ。今日から私の旦那様よ。」
 口いっぱいあかねの料理を頬張る乱馬を差し置いて二人は言い合いを始めた。
「ちょっと待つね。乱馬は私の婿殿ね。勝手に決める、これ良くない。」
「いいや…。乱ちゃんはうちの許婚でもあるんやで。そこらへん忘れてもうたら困るわ。」
 シャンプーと右京も口論に入ってきた。本当に女というものはややっこしい。
「乱馬は私の許婚よっ!」
 あかねも負けてはいない。普段の彼女なら決して真っ向から言わない言葉をポンポン投げつける。いつもは穏やかに喧嘩を正すかすみまで渦中の人と成り果てている。止め立てずる人間がいないのだ。泥沼の四つ巴の闘いになってゆく。
「何ならここで腕ずくで決着つけようやないかっ!」
 口論はだんだんと喧嘩腰になってゆく。
「そうね。それが一番ね。乱馬は勝れた格闘家。だからその嫁たる者も強い、これ至極当然のことね。」
「いいわっ!負けないわよっ!!」
 あかね、右京、シャンプーといずれも負けず劣らずの格闘少女。そんな激しい言葉を投げる。と、かすみが横から嘲笑した。
「だから嫌なのよ…。野蛮人さんたちは。そうやって何事も力で解決しようとするでしょう?料理の腕前が私に叶わないからといって、問題解決の方法をすりかえるんですもの。困った人たちよね…。」
 年長者の貫禄なのだろうか。かすみの「のほほんとした口調」はかえってこういう場に立つと、浮き上がってしまう。格闘で鍛えた少女たちとは一線を画する迫力がある。
 かすみの根底には、明らかに武道一族である天道家の血が脈々と波打っている。かすみの持つ気丈さと気高さ。乱馬はその血の匂いを嗅ぎ取って、思わずはっと目を見張った。
 乱馬だけではなく、格闘少女たちもまたその言葉の猛々しさに戦慄を覚えた。
 それに負けじとシャンプーが言い放った。
「なら、野蛮人の力、その身に受けるがいいねっ!」
「そうやっ!こっちから仕掛けたるっ!!」
 流石に同じ血を引くあかねは襲いかかろうとはしなかったが、シャンプーと右京は同時にかすみに向って攻撃を仕掛けていった。
 かすみは不敵な笑顔を差し向けたままその場を微動だにしない。避けようともしなかったのだ。一同は息を飲んだ。

「あぶねえっ!!」

 次の瞬間、乱馬は跳んだ。
 腕にかすみを抱えて道場の天窓を目掛けて跳んだ。飾りつけらた緞帳の横に立てかけられた看板の足組みの上にすっくと立った。
 乱馬の逞しい腕の中で、かすみは勝ち誇ったように言い放った。
「ほうら…。乱馬くんは私を選んだわっ!!」
 かすみの勝利宣言ともとれる叫び声だった。
 野次馬見学者達の間からどよめきが起こった。それだけではなく拍手までもが湧き上がる。
「そうだっ!乱馬はかすみさんを選んだっ!」
「かすみさんが天道家の跡取だっ!!」

…しまったっ!かすみさんにはめられたっ!!

 そのどよめきを聞きながら、乱馬は自戒した。
 乱馬は決してかすみを選んだのではない。格闘少女たちの餌食にされかけた、無防備なかすみを守っただけだ。
 あのまま捨て置けば、確実にかすみはズタボロにされていたはずだ。鯉の影響でいつもと違う様相とはなっているが、元はと言えば格闘技とは一番縁遠いところで生活しているかすみである。
 乱馬のすぐ下で、あかねが物憂げに差すような視線を投げつけていた。それを見たとき、千路に乱馬の心が乱れた。
「違うっ!!俺はかすみさんを選んだわけじゃねえっ!!」
 乱馬は自ずから彼女に向って叫んでいた。
「何を今更…。武道家らしく、腹をくくりなさいな…。」
 乱馬の首にその白く細い腕を絡ませたかすみが耳元で囁く。
「あなたは、私のものよ…。」
 かすみは乱馬の左頬に口を触れようとした。

 と、その時だった。

「かすみさんっ!!ああ、かすみさんったらかすみさんっ!!」
 人々のざわめきの向こうで、東風が放心しながら道場へと乱入してきた。
 大衆の面前で、かすみを抱き上げた乱馬に我を失ったのだろうか?眼鏡がきらりと光り、恐々とした気を身体中に充満させて身構えていた。

…げっ!!東風先生っ!!…

 その様相を見て、乱馬は正直焦った。
 東風の異様なまでの気の高まりに戦慄を覚えた。彼は乱馬を恨めしい目で見上げている。
 虚ろげな目で乱馬を見上げると、有無も言わずに攻撃へと身を転じた。
 東風の激しい気に圧倒されて、乱馬は思わず足元からすくわれた。乱馬のバランスが崩れた。そして、それと同時にかすみから手を放してしまった。

「きゃああっ!」
 乱馬に手放されて、かすみは懸命に、両手で抱え込むように、鉄パイプにしがみ付いた。

「今だっ!!乱馬っ!!」

 そう叫んで良牙が、釣竿を乱馬に向って投げた。
 その声に我に返ったらんまは、無我夢中で右手で釣竿を掴むと、目もくれずにバランスを失いかけて鉄パイプに両手でしがみついていた、かすみ目掛けて、釣糸を投げつけた。
 ピシュッ!!
 糸の唸る音と同時に、確かな手ごたえがあった。
「クッ!」
 乱馬はそれを一気に後ろへ引っ張った。
 釣り糸がピンと張りつめ、身体ごとかすみを、宙へと釣り上げた。釣り糸の先の吸盤は見事にかすみの左胸に巣食っていた鯉に吸いついていた。
「でやーっ!!」
 渾身の力を込めて、両手で竿を引っぱり上げた。

 ズボッ!

 鈍い音を上げ、美しい光と共に、かすみの胸からピンクの見事な鯉がえぐり出されて弾け飛んだ。

「やったーっ!!」
 乱馬の勝どきと共に、鯉はフッと、宙に飲み込まれるように、消滅した。

「きゃあっ!!」
 かすみの悲鳴が空で響いた。そう、鯉ごと釣り上げられたかすみは、道場の、天井近くまで飛ばされていたのだ。
「しまったっ!かすみさんっ!」
 鯉を釣り上げることに集中しすぎて、かすみへ気を配るのが遅れた乱馬だった。
 万有引力が彼女を捕らえる。そのままかすみは床へ向って急降下する。
 このままでは、間違いなく、床に激突する。
 誰もがかすみの尽きた命運に、息を呑んだ。

 と、そのタイミングを見計らったように、黒い影が動いた。
 そう、東風が落下地点へと飛び出したのだ。

「かすみさんっ!!」

 間一髪。東風は、その腕の中にしっかとかすみを受け止めていた。
 どこからともなく、歓声と拍手が沸き起こる。東風のキャッチは見事だった。
「ありがとうございます。東風先生。」
 鯉が消えて正気を取り戻したかすみは、にこやかに満面の笑みを東風に差し向けた。
「あ…これはこれは、かすみさんっ!!」
 眼鏡がまたきらりと光って、東風はいつものオオボケ先生に戻っていた。さっきの凛々しさとは対照的に、かすみの全てにとろけてしまったように。
「ああ、かすみさんったらかすみさん〜。ららら〜かすみさん…。」
 そして、東風はその腕にかすみを抱き上げたまま、踊り出した。

「たく、しょうがねえ先生だな…。」
 良牙は、幸せそうに小躍りする東風をやれやれと言ったように見詰めた。



十、

 一方、乱馬の闘いは、まだ終わって居なかった。


 かすみが投げ出された一瞬の隙を、あかねに突かれてしまった。
「あっ!!」
 瞬時にして乱馬の持っていた釣竿はあかねの手に握られた。そう、あかねに虚を突かれてもぎ取られたのだ。
「返せッ!!」
 乱馬は怒鳴った。
 あかねはくるっと乱馬に身を翻すと、ここまでおいでというような素振りを見せた。微かに口元が笑っている。
 そして、たっと道場の出入り口へと駆け抜けると、そのまま外へと飛び出した。
「ま、待てっ!」
 乱馬もまたそれを追い掛けて道場を飛び出した。
 かすみを抱えた東風の小躍りに気を取られ、二人の逐電に気づいた者は少なかった。
 はっと気がついたシャンプーと右京が、二人が飛び出したのを見て、慌てたが、時は遅く、二人は皆の視界から消え果てていた。
「上手くやれよっ!乱馬っ!」
 ただ一人、良牙は二人の背中を見送りながら、エールを送った。


「待てッ!!釣竿を返せっ!!」
 乱馬は前を行くあかねを懸命に追った。彼女の胸に巣食う鯉を釣り上げなければ事態は丸く収まらない。
 彼なりに必死だった。
 あかねは真剣な表情で追ってくる乱馬を、楽しげに見返しながら逃げ回る。
「ここまでおいで…。ふふふ…。」
 鬼ごっこを楽しむように、愉快げに身を翻すあかね。追いすがってくる乱馬をひょいひょいとかわしながら、あかねは逃げ惑った。そして、街外れの神社の境内へと逃げ込んだ。

 街中にある鎮守の森。その聖域へとあかねは足を踏み入れた。

「ちくしょーっ!何処へ行きやがった。」
 後を追って乱馬も、気配を探りながら、鬱蒼と茂る鎮守の森へと足を踏み入れた。
「あかねっ!近くにいることはわかってんだっ!大人しく出て来いっ!!」
 ひんやりと張りつめる冷気の中で叫んだ。白い息が立ち上がる。その中で乱馬は己の気を高めてゆく。気のアンテナを張り巡らせ、あかねの居所を必死でまさぐる。

 コトン…

 後ろで小石が跳ねた。
「こっちかっ!!」
 乱馬は石が転がった方へと目を転じた。

 ヒュンッ!
 と、小石と真逆の方向から釣り糸が飛んで来た。

「しまったっ!!」
 完全に不意を突かれた。
 あかねが乱馬の胸を目掛けて釣り糸を振り投げたのだ。

 ズボッ!
 乱馬の左胸にしっかりと吸盤が吸い付いた。

「乱馬っ!私があなたの鯉を釣ってあげるっ!!これであなたは私のものよっ!!」
 勝ち誇ったようにあかねが言った。釣り糸の根元を見上げると、あかねがにこやかに笑っていた。
「させるかっ!!」
 乱馬はあかねが釣り糸を引っ張りあげると同時に、ダンと、地面を思いっきり蹴った。
 あかねの吸引と共に、タイミング良く飛び上がったのだ。

 ギュン…。

 糸の先にはあかねが構えているはずだ。一緒に勢いをつけて飛び上がれば、鯉が釣り上げられるリスクは、少しでも軽減するだろう。咄嗟にそう考えたのだった。
「クッ!」
 左胸に張り付いた吸盤と糸を、両手で必死に抑えた。何が何でも、鯉を釣り出される訳にはいかない。本当の想いを失いたくは無かった。
 糸は空高く、鎮守の森のいちだんと高い木の上へと乱馬を誘った。あかねは高い木の枝先から糸を垂れていたのだった。
「釣り上げられて、たまるかーっ!」

 一方、何が何でも、釣竿で乱馬の恋心を釣り上げたい一心のあかねは、糸の先に乱馬の姿を認めると、更に竿を後ろへと引っ張りあげようと力を混めた。

 その時だった。

 ブツンッ!!

 鈍い音が響いた。勢いよく、糸が切れたのだ。

 さっき、かすみを釣り上げた時点で、相当ガタがきていたのだろう。
 糸は見事に千切れてしまった。
 切れた拍子に、あかねはバランスを崩した。只でさえ不安定な枝の上にいたのだ。
 咄嗟に傍の枝先に捉まろうと手を伸ばしたが、辛くも届かなかった。

「きゃあっ!」

 高い枝がざざざっと揺れて、あかねは真っ逆さまに落下していく。

「あかねっ!!」

 乱馬は無我夢中、空で回転し身を翻すと、一番近くに聳(そび)えていた木の幹を思い切り蹴った。
「クッ!」
 落ちてくるあかね目掛け、その身を投じる。
 乱馬の腕は辛うじて、あかねに届いた。あかねの右手につかみかかり、必死で抱え込む。
 あかねの身体を腕の中に押さえつけ、空中で一回転し、気弾を空へ向かって、何度か投げ放つ。そうやって、落下スピードを抑え、衝撃を最小限にしようと、努力したのだ。
 最後は受け身を取り、背後から地面に着地する。

 ドスンと鈍い音がして、枯葉が舞い上がった。

「ててててて…。」

 少し尻餅をついたものの、殆ど無傷で着地できた。
 あかねが手にしていた釣竿は、着地と同時に、無に帰した。そう、釣り糸が切れて自然消滅したのである。
「あっ!釣竿が…。」
 あかねはそれを間近で認めると、悲痛な叫び声を上げた。
 無情にも、あかねの目の前で釣竿は、跡形もなく消えてしまった。

 ざわざわと木立が揺れた。真冬の冷たい風が二人の傍を吹き抜けていく。

「あたし…。これでもう、あんたの心を、恋心を釣ることができなくなったわ…。」
 あかねはまだ未練があるのか、じっと掌を見つめていた。目は虚ろに光もなく、深い落胆の溜息がその口から漏れ聞こえた。
「馬鹿っ!そんなもんで釣り上げられるほど俺の心は安っぽくねえっ!!」
 乱馬は思わず怒鳴り声を上げた。
 その声の大きさにビクッとしたあかねだが、構わず続けた。
「これであなたの心をあたしに釘づけにして、幸せになれると思っていたのに…。」
 あかねの目に涙がうっすらと滲んだ。
 乱馬はそれを見て、切なくなる感情を抑えることができなかった。

「いい加減にしろっ!」

 そう叫ぶと、乱馬はあかねを腕にぎゅっと押しつけた。

「俺の心は、誰の物でもねえ、この俺自身の物だ…。そんなこともわかんねーのかよっ!
 それに…それに…俺の想いはいつもおまえの元にある…。俺は…おめーが好きだっ!道具に頼るなっ!あかねの馬鹿っ!」

 抱き締める腕に力が籠った。打ち付けられる胸から聞こえる、乱馬の鼓動。
 それを耳元に聞きながら、あかねの瞳が柔らかに揺れた。涙がつうっと溢れ出る。
 全ての想いが満たされて浄化されてゆく、そんな波打つ力を、乱馬の鼓動の中に感じていた。
 薄れゆく意識の下で、微笑みながら、そっと囁いた。

「ありがとう…乱馬。」と。

 囁いた後、唇に触れた柔らかい感触。自分を溶かし安心させる暖かい想いがそこから流れてきた。求めていた全てがそこにあった。そして、下りてきた暖かい腕に身を任せた。

 緋色の美しい鯉が、瞼の裏で、一度、大きく跳ねた。
 クスッと笑いを残して、消えて行った。
 遥かに滑らかな乱馬の鼓動を聞きながら、柔らかな眠りへ落ちて行く。

 




エピローグ

「それで?それからどうなったんだ?」

 良牙は好奇心の塊で乱馬に尋ねた。
 手には暖かいホットミルク。それを川原の野営地ですすりながら乱馬と肩を並べていた。テントはすかり片付けられて、旅立ちの前の団欒だった。

「鯉が胸から高く弾け出したんだ。水際を跳ねるように、こう、バシャって空へと飛んだんだぜ。」
「それから?」
「鮮やかな赤い鯉だったな…。緋鯉っていうのかな。そいつが空に舞ががって、尾びれを動かすと、ふと消滅して見えなくなったんだ。まるで空気へと溶け込んだみたいに…。」
「ふうん…。」
 良牙は手にしていたマグカップに息を吹きかけるとそれをそろりと口に含んだ。
「あかねさんは?それからどうした?」
「ああ、鯉が飛び出した後、しばらく死んだように眠ってたけどな…。目が覚めたら、ケロっとしてやがんの…。」
「元に戻れたのか?」
「ああ。全然前と変わらねえ…。気の強さも、俺への態度も、何一つ…今までのままだよ…。」
 乱馬は面白くなさそうに呟いた。
「そうか…。かすみさんは?」
「かすみさんも同じだよ。俺とすったもんだあったことさえ憶えてねえもんなあ…。別にそれはいいんだけどよ…。」
「何贅沢言ってるんだよ…元通り…それはそれで良かったんじゃねえか?」
「そだな…。ま、かすみさんの場合は、前より少し東風先生と親しくなったかもしれねえけどな…。」
 乱馬はほーっと息を吐き出した。そして、良牙に出されたホットミルクを、ずずずっとすすった。暖かいミルクが冷えた身体に染み込んだ。
「東風先生たちは、確かにあれからちょっといい雰囲気だもんな…。」
「ああ…。見ていてこっちが恥ずかしくなるくれえ、東風先生はボケまくってるけどな…。」
 乱馬は苦笑した。
「かすみさんは仲良くなって、あかねさんとは進展せず…ってか…。」
 良牙はそう繰り返すとふっと笑った。そして上目で乱馬をちらっと見ると少し意地悪な表情で続けた。
「で、おまえは、それが不服そうだな…。」
「んなことはねえぞ…。元に戻って、ホッとしてんだからな…。俺は。」
「そうかぁ?少しは鯉が巣食ってたときみたいに、もう少しあかねさんから慕われてもいいとか、かすみさんと東風先生みたいに、仲が進展してもいいって思ってんじゃねえのか?」
 乱馬は少しばかりドキッとした。
 あそこまで病的に慕われたくはなかったが、もう少しあかねが素直になってくれたらいいのに…という思いがどこかにあったからだ。それに…。
 乱馬は少し赤面した。あの時のことを思い出したからだ。
 乱馬の変化に気がついた良牙はミルクを飲み干すと畳み掛けた。
「でもねえか…。少しばかり、おまえ自身の中では、進展があったみたいだな…。」
「へ?」
「だから…。あかねさんが正気に戻る前に、なんかしたんだろ?」

 ドキンと乱馬の心臓が鳴った。

 そうだ。あかねの鯉が弾けた後に、乱馬はその唇に自分の口をそっと当てた。
「ありがとう…」そう言われてそれに礼を返した熱い接吻だった…。あかねは安心し切ったように、唇を寄せられた後、すこやかに眠り始めたのだ。
 次に目覚めたとき、身の上に起こった全てのことを忘却の彼方へ押しやっていたあかね。
 家人たちや友人たちに責め立てられても「んなことあるわけないでしょ?」と涼しげな顔。安堵と落胆が一緒に入り混じった複雑な己。

「たく…。助平心、出しやがって…。」
 良牙の言葉に我に返った。
「うるせーっ!そんなんじゃねえやっ!」
「そうか?おまえのことだから、これ幸いって押し倒したりとかしたんじゃねえのか?」
「あほっ!するかっ!んなことっ!俺はこそっと軽くキスしただけでいっ!!」

 良牙は笑い出した。 
 やっぱりそうかというように…。
 しまった…と固まる乱馬。

「こいつめ、一人でいい想いしやがって…。ちゃっかり進展させてるじゃねーかっ!
 さてと…俺はこれから明日のあかりさんとの約束のためにここを出発するんでな…。
 あかねさんに宜しくな。これに懲りたら、少しは優しくしてやれよ…。」
 良牙は乱馬に合図を送ると
「あばよ。また会おうぜ…。」
 そう言いながら立ち去った。
 
 彼が去った後には、固まったまま動けない乱馬。
 木枯らしが笑うようにその背中を吹き抜けていった。




一之瀬的戯言
 まずは、良牙×右京びいきの方々ごめんなさい。
 原作に沿って、私の延長戦的世界では、良牙×あかりというのが一つの創作妄想の仮定となっております。

 溺泉郷ガイドさまのリクエストはかすみさんが乱馬に惚れる独自の釣竿編だったはずですが…
 なんか、描き終わってみると、やっぱり「乱馬×あかね」になっていましたね。
 あかねはかのキスを覚えていたのかいなかったのかは皆さまのご想像にお任せしておきます。

 読み返して思うのは、まだ描写力が弱いです。特に後半部が如実に力量不足なのが丸わかりです。描写が活かし切れていない。
 今の力量なら、後半部はもっと枚数を使って、濃厚な描写にするだろうなあ…。あえて手は加えませんでしたが、ごっそり書き換えたい気持ちでいっぱいです。


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