◇恋敵はかすみさん 4
七、
乱馬と良牙は夜通しひた走った。
鯉がだんだん成熟してきている以上、早く釣り上げなければならない。二人の胸に巣食う鯉を釣り上げるには少しでも早い方がいいのだ。小さな鯉のうちでないと、一匹、いや下手をすれば二匹とも、釣り上げられずに終わってしまうかもしれない。
しかも、手にした最後の一本は、頼りない「おんぼろ釣竿」だった。
良牙が途中で迷子にならないように、乱馬はそれなりに気を遣っていた。
「おいっ!ちゃんと俺の後を付いて来いよっ!絶対迷うなよ…。」
「へっ!何なら俺のほうが先に行こうか?乱馬っ!」
「アホッ!てめえが先に行ったら絶対に迷うだろうが…。頼むから余計な手間はかけさせねえでくれよな…。」
この二人。良きライバルであると同時に、良き理解者になっていた。
「親友」。そんな言葉がしっくりいく関係を構築しつつあった。以前は真っ向から対立する事の方が多かったが、呪泉洞から帰国してからは、そんな関係が少しずつ変わってきていた。
良牙には雲竜あかりという良き理解者が現れ、だんだんにあかねという存在から距離を置き始めていた。もちろん、あかねに未練があって、完全に想いを断ち切れた訳ではない。事あるごとに乱馬に突っかかってはいた。
だが、反面、ペットの黒豚としてあかねに侍るうちに、彼女の心の本当の姿を既に知っていた。あかねの心に占めている想いが、乱馬以外に向いて居ないことも痛いほどわかっていた。
あかねの心が乱馬の上にある以上、とても叶わないと、とっくに失恋の覚悟はできていた。だが、想いを乱馬に譲る…というような生易しい気持ちにはなれなかった。乱馬があまりにも不甲斐なかったからだ。自分の恋路になると奥手になり過ぎていたし、素直ではなかった。その上、他の少女たちに言い寄られて、それを跳ね除けるだけの強い意志も無いように見えた。それが腹立たしくもあり、また、歯がゆくもあった。
いい加減、彼らが素直になって、互いの心を通わせてくれれば、もっと自分の気持ちも楽になるのに…。そんなことを考える良牙だった。
乱馬は乱馬で、良牙に対して、ライバルであると当時に、最近は何かしら親密感を抱くに至っていた。
同じ呪泉の被害者という共有意識だけではない、もっと違った親近感、信頼感のようなものを持ちつつあった。他のライバル達とは少し違う感情を良牙には感じ始めていたのだ。
とにかく、今回は良牙の機動力に期待したかった。今回ばかりは自分一人ではどうしようもない。珍しく「気弱」だったのである。
それだけに、良牙にくっついていて欲しかった。迷わずに一緒に帰って欲しいと思ったのである。そうでなければ、釣竿を手にした瞬間に、置き去りにしていただろう。
夜は白み始め、太陽が昇った。
しばれるような真冬の冷たい空気が二人を包んでいたが、白い息を吐きながら、二人は天道家目指してひた走った。
二人が天道家に戻ったときは既に日は昇り、新しい一日の営みが始まっていた。
疲れた足を引きずりながら帰って来ると、天道家は上を下への大騒ぎになっていた。
道場の前には赤い弾幕が張られ、物見遊山の人の列が出来あがっていた。何か慶びごとが天道家で始まろうとしている。そんな感じが見て取れた。
九能がいる、シャンプーや右京もいる。良く見るとクラスメイトなどの知った顔が天道家の前をうろうろと囲んでいた。
乱馬と良牙はその間を大歓迎で出迎えられた。
二人は怪訝な顔をしながら門をくぐると、道場の前で、なびきとパンダの形をした玄馬がこそこそと人員整理をしている。
「あら、乱馬くん。やっと帰ったのね。」
にこにこして、最初になびきが声をかけてきた。
「何が始まるんだよ?なんなんだ、朝っぱらからこの騒ぎは…。」
肩で息をしながら、乱馬がなびきに尋ねた。夜通し駆けて来たのだ。身体はへとへとに疲れていた。
「ま、いいからいいから…。主役はこちらへ…。」
無理矢理、腕を掴まれて、なびきに道場の方へと引っ張り込まれた。
訳がわからぬままに、乱馬はなびきにかしずかれて道場へと連れ込まれる。
道場の中は何かの会場にされるのか、紅白の弾幕と花輪で飾り付けられていた。何よりも驚いたのは、正面に飾られた緞帳(どんちょう)の文字。
『許婚争奪杯、料理大会』
墨で黒々と書かれた文字が乱馬の目に飛び込む。
「な、何だ?あれは?」
乱馬の背中に、何故か戦慄が一気に走りぬけた。
「何って書いてあるとおりだけど…。」
なびきはいとも簡単に言ってのける。
道場の中は外と同じように冷気で冷え切っていた。裸足で入ると足がかじかんだ。疲れ切った足は重く、本当は一刻も早く休みたい心境だった。寝ずに走って帰ってきたのである。当然の生理反応だろう。
だが、周りの様子から休ませて貰えそうにない気配を感じ取っていた。
「おい…。あの料理大会って…。」
嫌な予感をなぎ払えずに、乱馬はじっとなびきを見返した。
「そうよ…。あんたが昨日、ドロンしてから、そういうことになったのよ…。」
「そういうことって…。ま、まさか…。」
「あんたの許婚の座を巡って、かすみお姉ちゃんとあかねで料理で決着つけることになったの…。二人ともそりゃあ気合入ってるわよ…。」
冗談ではないっ!!
乱馬は一瞬険しい表情をなびきにぶつけた。
「ちょっと待てっ!聞いてねえぞ…そんなこと!」
思わず声を荒らげた。
その場に居なかったのだ。知らなくて、当たり前だ。
「いいじゃない…。あかねだって、絶対負けないって気概はいてたし…。もう、こうなったら、無理やりにでも、白黒はっきりつけるしか無いのよ。それとも、何?あんたがどっちと結婚するか大衆の面前ではっきり宣言する?それなら誰もが納得すると思うけど…。そんな根性、あんたにあって?」
なびきはにやりと笑った。
乱馬は絶句した。
彼の心の中では、とっくに許婚はあかね一人だと決めてはいた。が、まだ公言できたものではないし、第一、今のあかねは鯉のせいでおかしくなっている。そういう状況下で結婚宣言などできようはずもない。プライドが許さない。
「まあ、余興だと思って、付き合いなさい。もう、イベントとしての前売りも売っちゃったんだから…。オトコは細かい事、ごちゃごちゃ言わないの…。」
なびきは楽しそうだった。きっとこの金銭感覚に溢れたあかねの姉は、ちゃっかり儲けを電卓で叩き出しているに違いない。断ろうものなら、イベント中止の賠償金を吹っかけてくるかもしれない。
「あ、それはそうと…。胃薬も用意してあるからね…。判定はどっちの料理を美味しく平らげたかで決まるから、そのつもりで…。あー、忙しいっ、忙しいっと!」
なびきは呆然と突っ立つ乱馬にそう言うと、さっさと道場から出て行ってしまった。
…どういうつもりでいっ!なびきのやろう…。
正直、乱馬は困惑した。
何が、かすみとあかねの料理合戦だ。開くまでもなく、かすみの優勝に決まっているではないか。
そう、あかねは誰もが認める味音痴。それも「超」という言葉が頭に幾つも重なるような腕前だ。かつて何度も彼女の作ったものに当てられて苦しみまわった。一口食べようものなら、悶絶する。そんな腕前のあかねが、天道家の台所を何年にも渡ってまかなう、器用なかすみの腕に叶う筈もなく…。
勝負は始まる前からついている。
…絶対に俺は参加しねえぞっ!
乱馬は逃げる決意を、瞬時に固めた。
当然の選択だろう。
こんな戯事に関わっていたら命が幾つあっても足りない。それより、鯉を釣り上げることが先決だ。それさえできれば何事も丸く収まる。
彼が逃げようと戸口に走ったとき、突然頭から水をぶっ掛けられた。
「ぶはっ!ちめてえっ!!」
季節は真冬。水は凍りつくくらい冷たい。
そのせいで一瞬の隙ができた。
その機に乗じて、早雲と玄馬がらんまを羽交い絞めにする。
「くおらっ!てめえらっ!離せっ!なんのつもりでいっ!」
ジタバタする乱馬に二人の父親たちは
「観念せいっ!乱馬よっ!どっちにしたっておまえは天道家の跡取になるんだから…。ちゃんと腹を決めてどっちを嫁にするかはっきりするじゃっ!」
人間に立ち戻った玄馬が右から、らんまを抱えて言った。
「何、てめえらで勝手に決めてんでいっ!」
「勝手もクソもないよ、乱馬くん。ついでだから、選んだ方と今日中に祝言だっ!」
早雲は左から抱え込む。
抵抗する間もなくらんまは簡単に捉まってしまった。
「冗談じゃねえっ!」
ぱこんッ!
後ろからのどかが刀の鞘で、らんまの脳天を一発殴った。
う…。
らんまの意識はそこで途切れた…。
八、
頭から湯を浴びせ掛けられて我に返った。
目を開くと、道場のど真ん中。大きなテーブルの前に縛り付けられていた。
「レディース・アンド・ジェントルメン!さあ、これから許婚争奪杯、大料理大会をこちらでおっぱじめますっ!!」
早雲が小指をつきたててマイクを握った。
会場に今や遅しと詰め掛けた野次馬たち…。彼らの大半は多いなる他人事だ。面白いショーの一端としか捉ていないだろう。
「さて、ルールは簡単っ!これから出される料理を全部食して、婿候補の乱馬くんが判定を下します…。それで選ばれし者が彼の一生の伴侶に…。」
「じ、冗談じゃねえぞっ!そんなこと!俺は認めてねえっ!!」
傍から乱馬ががなったが、その口を両脇から猿ぐつわをかまされて、塞がれた。
「そうねっ!そんなこと私たちが認めないねっ!!」
「そやそや…!うちらかて参加の権利はあるでっ!!」
「異議ありですわっ!!」
異を唱える少女達が乱入した。シャンプー、右京、小太刀の三人娘だった。
「もし、ここで決めるなら、当然、私も入るねっ!」
「当然やわっ!!」
「ほほほほ…。勝負は見えておりますけれども…。」
三人の乱入に喜んだのは、詰め掛けた観衆たち。殆どが無責任に言い放つ。
「そうだ!そうだ!」
「彼女達にも参加権利を与えろよっ!!」
やんややんやの拍手喝采。
たじっとなった早雲に代わって、なびきがマイクを持った。
「そうね…。それが妥当ってところかしらね。この際、皆で競っちゃったら、後腐れなくていいんじゃないの?」
…な、何勝手な事言ってんでいっ!!こんなことで俺の大切な将来を決められてたまるかっ!!
押さえつけられている口の下で、必死で叫ぶのは当事者の乱馬。
まさに悲劇だった。いや、拷問と言った方が良いのだろう。人権などあったものではない。何とか逃げようとあがいたが、縄はしっかりとイスに固定されて微動だにしない。
おまけに、猿ぐつわまでされて、口も封じられていた。
…ちくしょうっ!きつく縛りやがってっ!!
もぞもぞやっていると、テーブルクロスで覆われた足元で、ごそっと音がした。
目を下にやると、良牙と東風先生がこそっと下から覗いていた。
「乱馬くんっ!これは返って好都合だよ…。この中で騒ぎを起こせば、かすみさんやあかねちゃんに隙が生じる。それを狙って釣竿を使うんだっ!僕と良牙くんも協力するから…。」
そんな、こそこそ声がした。
なるほど、いざ、釣竿を構えるとなるとなかなか難しいものがあるだろう。かすみはまだしも、釣竿のなんたるかを知っているらしいあかねは、一筋縄ではいくまい。かすみと違って、あかねは武道の使い手でもある。
この場を逆手にとって、利用するのも、妙案に違いない。
大衆がウヨウヨ動き回る中、何か、騒ぎを起こせば…。
「大丈夫だ。任せとけっ!乱馬っ!!ちゃんと細工は俺と東風先生でしてやる。釣竿だってほらここに…。おまえは観念したふりをして、料理を食っていればいいから…。」
良牙も隣でにっと笑った。
どのみち、こうなれば、腹を括るしかない。何が何でも、一気に片をつけるしかないだろう。
一人だけならまだしも、東風先生と良牙が手助けしてくれるという。他の誰よりも頼りになる二人だ。
…わかった。任せたぜ。
口を封じられている乱馬は二人に、小さく頷いて見せた。
…なんとしても、この状況を粉砕してやるぜ…。
うだうだとルールを説明しているなびきと早雲を尻目に、乱馬は腹を決めた。
「とにかく、そのままじゃ不味いだろうから…。」
玄馬が目を離した隙に、良牙はナイフで乱馬の縄の一部を切った。
…ありがてえ…
「縛られたふりをしばらくして、おとなしくしてろよ…。宴たけなわになってきたら、騒ぎをおこしてやるからな…。」
良牙はこそっと言い放つと、テーブルの下深くに再び身を沈めた。
乱馬は観念したふりをして、じたばたさせていた身体の動きを、パッタリ止めた。
「おお…。やっとその気になったか…。」
その様子を見て、玄馬が笑った。
…勝手なことばっか、やりやがって…。事が終わったら絶対に仕返ししてやっからなっ!親父っ!!
心で思い切り叫んでいた。
「さて、選手の入場です。」
早雲の手招きと共に、五人の選手たちがエプロン姿で現れると、会場は拍手で包まれた。
にこやかなかすみ、すまし顔の小太刀、戦々恐々としている右京、不敵な笑みを浮かべるシャンプー、そして満面に笑みを浮かべるあかね…。
乱馬はふーっと溜息を吐いた。
あかねのエプロン姿がやけに目に焼きつく。これが、いつものあかねなら、どんなに嬉しいことか…。今のあかねは、鯉のせいで、俺に惚れているだけだ…。そんな複雑な思いが一瞬心を駆け抜けた。
でも…やっぱり、好きな女の子のエプロン姿はかわいい…。正直、そう思う。
用意ドン、と始められた調理姿を見ると、複雑な想いが、余計に膨らんだ。
他の四人は、器用に材料を調理してゆく。手際もいい。
それに比べてあかねは…。
おぼつかない手つきで材料と文字通り格闘している。鯉に心を操られているとはいえ、不器用さ不変だ。しかし、返ってその姿が微笑ましく感じるのは、何故だろう…。
乱馬は複雑な自分の心の反応に苦笑いしながらも、あかねを愛しげに眺めていた。他の女の子たちの手つきをと、あかねの手つき…それを交互に見詰めながら、無意識に不器用な彼女へと、心は躍動している。
順番に出来上がる料理は、それぞれの個性のままに。
中華風仕立てのシャンプー。何処までもお好み焼きにこだわる右京。二人ともそれが本職だから仕方があるまい。小太刀は見るからに美しい毒々しさを持つ西洋風な盛り付け。かすみはいかにも家庭的な肉じゃがと味噌汁。そしてあかねは、不器用なりに作ったオムレツ。
会場を美味しそうな香が包む。
昨夜から何もお腹に入れていない乱馬だ。不覚にもぐうっと腹が反応する。
「たく。おまえの腹は正直じゃのう…。」
傍らに立つ玄馬が苦笑した。
「さあ、出揃いました。それでは、審査の乱馬くんに全部、食していただきましょう…。」
そう言うと、料理が乱馬の手前に置かれた。逃げられると不味いと思ったのだろうか。乱馬は後ろ手にイスに縛り付けられたままだった。
「わしが食させてやるからのう…。」
玄馬が不敵な笑いを浮かべる…。
「自分で食うぜっ!」
猿ぐつわを外された口で。乱馬が言ったが、玄馬は首を横に振る。
「おまえのことじゃ。逃げるつもりであろう?そうや問屋は卸さぬよ。どうれ、これから…。」
玄馬はなず無難なところから箸をつけた。右京のお好み焼きだ。
これは言うまでもなく絶品だ。が、熱い。
「こらっ!熱いじゃねーか。ちったあ、冷ましてから口に放り込めっ!」
「文句が多い奴じゃなー。」
次はシャンプー。これもまずまずだ。
もちろんかすみの料理も逸品。空腹にはたまらない。
が、しかし、小太刀とあかねのものはどうしても食いたくない意識が先に立つ。小太刀のは味はともかく、何が混入されているのかわかったものではないからだ。
首を振って抵抗したがままならず。小太刀の料理を口に含まされた。
じーんと身体に痺れがくる。
「うっ!これ以上この料理は嫌だっ!か、体が…しびれる…。」
乱馬の言葉に、玄馬は小太刀失格の札を上げた。
「何ゆえ、私が失格ですの?」
小太刀は抗議したが、失格は失格だ。
「あんたは失格や。さあ、帰りっ!」
「そうね…。残念だけど仕方ないね。乱馬が決めた事!」
誇らしげに右京とシャンプーががなった。
「失格ーっ!失格ーっ!!」
観客席からシュプレヒコールが上がった。大衆の面前から小太刀は弾き返された。
その声に負けて
「こんなの私は認めませんわよっ!!おぼえておきなさいっ!!」
そう、きーっと声をあげると小太刀は黒薔薇の花びらと共に消えうせた。
彼女が去った後、会場は再び壇上に釘付けになった。
「じゃあ、最後は、あかねくんのだな…。」
にやにやしながら、玄馬がもったいをつける。
あかねが心配げにこちらを見る。もし、乱馬が抵抗すれば、小太刀と同じくあかねの脱落は決定する。
どうしたものか。乱馬の顔はみるみる苦渋に満ちてくる。これが普通のあかねの作った料理なら、不味かろうがどうだろうが、我慢して食べたかもしれない。しかし…。今のあかねは、鯉のせいで、尋常ではない。
複雑怪奇な乱馬の心が、悲鳴を上げ始める。
…良牙…。東風先生っ!乱入はまだかよ…
心の中で叫びながら、ごくんと唾を飲んだ。
野次馬達がシンと水を打ったように静まり返り、乱馬の口元を見ていた。
「さあ…。最後の料理…ゆくぞ…。」
玄馬がゆっくりとあかねの料理に箸を付けた。
つづく
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