五、

「ちっきしょう!何だってんだよ…。」
 ヘろへろになりながら乱馬は川沿いの道を歩いていた。
 あれから、乱闘になってから、ほうほうの体で逃げ出した。
 日頃恨みを抱いている者、冷やかし半分の者、右京に九能、校長までもが乱入してきて、シッチャカメッチャカになってしまった。教室は今頃ボロボロになっていることだろう。
 乱馬は袋叩きにされながらも、必死で逃げた。
「やっぱ、このままじゃ、身がもたねえ…。」
 服は揉みくちゃにされてズタボロ。身体も傷だらけ。

 ふと目を上げると「小乃接骨院」の看板が見えた。

…そうだ、東風先生。…
 彼は藁をも掴むような心境で接骨院へ入っていった。

「どうしたの?そんなにボロボロになって。」
 入ってきた乱馬の姿に驚いて、東風が声を掛けた。
「色々とあって…。」
 苦笑いしながら、診察室の椅子に座る。
「ま、いいよ…傷もたくさん負っているみたいだから、先に手当てしなくちゃね。」
 東風先生は細い目をますます細めて微笑んだ。
 擦り傷、引っかき傷は勿論の事、打撲の痣やタンコブなど、身体中ズタボロであったが、その割には大してダメージは受けていないようだった。故に消毒が処置の殆どになる。
「で、どうしたの?あかねちゃんとまた喧嘩でもした?」
 東風先生は手当てをしながら、乱馬に話し掛けた。
「聴いてくれよ…東風先生。酷い目にあってんだ。俺。」
 乱馬は年長のこの東風なら、何とかしてくれるのではないかと淡い期待を抱いて、一部始終を話し始めた。

「ふうん…。恋の釣竿ねえ…。」
 東風は神妙に聞いていた。東風が想いを寄せているかすみの恋心を釣り上げてしまった乱馬だ。東風と全く無関係な話ではなかった。
「そうそう。その釣竿、メチャクチャ物騒な代物なんだぜ。あかねは勿論のこと、かすみさんまで…。」
 東風のメガネがきらんと光る。
「なんだか俄かには信じられない話だけどなあ…。」

 そこへ闖入者(ちんにゅうしゃ)が現れた。
「こんなところに居たのね、乱馬くん。」
 かすみだった。
「もう、捜したんだから、あなたっ!」
 あかねまで一緒だ。
「うへっ!てめえら…。」
 乱馬の顔色がさっと引く。
「お迎えに来ましたよ。さあ、私と帰りましょうね。」
 いきなり首に、かすみが抱きついた。

 バシッ、バキッ!

 と同時に後ろで物が弾ける音がした。
 乱馬がその音の方へ目をやると、東風が松葉杖を折っているのが目に入った。彼のメガネは青白く怪しげに光っている。
「と、東風先生?」
 かすみに抱きつかれた身体を背けて声を掛けると、轟音と共に、東風が乱馬に襲い掛かる。
「ちょっと…。先生っ!」
 東風は豹変した。おそらくかすみが嬉しそうに乱馬に抱きついたのを目の当たりにして切れたのだろう。
「乱馬くん…。いいねえ…。実にいい。ははは…。かすみさんに慕われて君はなんて果報者なんだーっ!こんちくしょうっ!」
 訳のわからないことを口走る。
「先生、何を…。うわっ!」
 乱馬は壮絶な悲鳴を上げて床に転がり落ちる。悲惨だった。

…殺される。…

 東風の気配からそんなことを感じ取った乱馬は、絡(から)みつくかすみの腕を外し、床を転げて逃げ回った。
「乱馬くん。逃げなくてもいいよ。」
 東風が不気味に笑っている。

 パリンっ!

 窓ガラスが割れる音がして、何者かが乱馬に水を被せた。みるみる女の姿に変身を遂げる。
 そして布が被せられ、誰かに袋ごと抱え上げられた。
 そのまま、らんまはそいつに抱えられて、辛くも難を逃れた。

「たく…。いいザマだぜ。」
 何が何やら訳のわからぬままに気が付くとらんまは川べりにどさっと投げ出されていた。
 目を上げると、良牙が居た。
「助けてくれたのか?」
「ああ…。危機一髪、偶然に通りかかったらそのザマだ。」
「たくう…。何も女にすることはねえだろ?」
「助けてやったんだ愚痴ぐち言うな。男より女の方が体重も軽かろうが…。」
 どうやら、乱馬を抱き上げて飛び出すのに良牙は咄嗟に女にすることを選択したらしい。
「うかつだったぜ…。東風先生まで豹変するとは…。」
 当然といえば当然だろう。かすみに抱きつかれた乱馬を見て、東風の平常心が変な弾け方をしたに違いない。
「仕方ねえよ。あの先生、かすみさんに惚れてるんだろ?」
「ああ…。まあな。くっそーっ!東風先生まで恋敵かよ…。」
 らんまは溜息を吐いた。
「で、これからどうするんだ?」
 良牙の問いに
「天道家に帰るのもあれだしなあ…。やっぱ、釣竿を探し出して買ってくるしかないのかもな…。」
「俺にも半分責任があるから、いいぜ。一緒に買いに行ってやらあっ!」
「って、おめえ、売ってる場所知ってるのか?」
「……。」
 良牙は黙ってしまった。当然だ。彼は筋金入りの「方向音痴」。売っている場所を知っていても、辿り着けるのかどうか。
「あーあ。これだもんな…。」
「縁結び神社ということだけはわかってるんだがな…。」
 良牙は苦虫を潰したように腕を組んだ。

「縁結び神社なら、わかるかもしれないよ。」

 背後で声がした。
 振り返ると東風が立っていた。
「先生…?」
 らんまは思わず身構えた。
「大丈夫だよ。さっきは、その…。かすみさんが居たから。ちょっとね。」
 東風は頭を掻きながら、らんまを見下ろしていた。目が正気に戻っていた。安堵のため息を吐き出して、らんまは臨戦態勢を解いた。
「かすみさんたちは?」
「乱馬くんがまた逃げたって、大騒ぎしながらあかねちゃんと、診察室を飛び出して行ったよ。」
 はあっとらんまは溜息を吐き出した。やはり天道家に帰るわけにはいかないだろう。あの二人に揉みくちゃにされるに決まっている。
「ちょっと待ってて、調べてくるから。」
 東風はそう言うと、接骨院の方向へと消えていった。

 良牙とらんまは河原の草むらに腰掛けて東風の帰りを待った。
「なあ、乱馬…。」
「あん?」
「元はと言うとおまえがあかねさんへの想いをはっきりさせねえから、こんなゴタゴタに巻き込まれるんだぜ。わかってんのか?」
「突然、何訳のわかんねえこと言い出すんだよ…良牙。おめえだってあかねが好きなんだろうが…。」
「まあな…。」
 時々このライバルは、意味深な言葉を並べたがる。根っからの御人好し、それが良牙だ。
「これを期に、いい加減、はっきりさせたらどうだ?」
「はっきりったって…。あかねは釣竿の効果で変になっちまってるし。」
 らんまは歯切れ悪そうに言葉を濁した。
 そうだ、釣竿の効果で己に惚れている状態のあかねに、気持ちを伝えたくない。男のプライドが許さない。
「何はともあれ、今は、かすみさんとあかねを正気に戻すことが先決だよ。このままじゃ、俺、あの二人に取り殺されっちまうぜ。」
「たく…。だからおまえはだらしないんだよ。」
 良牙はそれ以上何も言わなかった。乱馬の性分はとっくに見知っているつもりだった。頑(かたく)なになると何事にも耳を貸さない、それが乱馬である。

「わかったよっ!縁結び神社の場所が。「全国神社大鑑」に載っていたよ。」
 東風が顔を出した。
「ありがてえっ!」
 らんまは目を輝かせた。
「この住所地を訪ねたら手に入るんじゃないかな…。」
「東風先生、恩に着るぜ。」
 らんまは東風の持ってきたメモ用紙を、大切にズボンのポケットに仕舞いこんだ。
「乱馬くん。急いだ方がいいかもしれない。この恋、成長しきると、もっと暴走するらしいよ。人によって多少差があるらしいけれど、成長しきって成魚になると、釣り上げても元に戻せなくなるそうだ。」
 東風は真剣な表情でらんまを見据えた。
「そうだな。早速行って来るよ。」
「これ少しだけど旅賃に。家に取りに帰るのもままならないだろ?」
 東風は少しお金を握らせてくれた。その辺りは流石に大人の判断だ。
「何から何までありがとう。先生。」
「いやあ…。かすみさんが元に戻らないと、僕自身、君に何をしでかすかわかったもんじゃないからね…。」
 そう言うと東風のメガネがまた不気味に光った。
 らんまはその光を受けると背中から虫唾が走った。東風を敵に回すと悲惨だろう。この男は底知れぬ強さを持っている。おまけに人体のツボを知り尽くしている。下手をするとズタボロにされる。いやそれだけで済むかどうか。命の保障もない。
「わ、わかりました。急ぎます…。かすみさんは無事に戻してみせます。」
 らんまの声は東風を前に、心なしか緊張していた。
「ほら。そうと決まったら、急いでね。」
 東風は一緒に持ってきたやかんをらんまの上から注ぐ。女でいるより男で戻った方が有利だ。みるみるらんまは元の姿に変身を遂げる。
「ようしっ!俺もついて行ってやらあ。」
 良牙は尻の土を手で払いながら立ち上がった。
「おめえはいいっ!足手まといになるだけだ!じゃあ行って来ます。」
 乱馬は身を翻すと、川べりの道をすぐさま駆け出した。
「待てよっ!乱馬っ!」
 良牙もその後を追って駆け出した。

「頼んだよっ!乱馬くんっ!良牙くんっ!」

 走り去る若者達を見送りながら、東風が叫んだ。


六、

 乱馬と良牙が縁結び神社に辿り着いた頃、日はすっかりと落ちかけていた。
「どうやらここらしいな…。」
 人影まばらな神社の参道。
「縁結び神社の参道の…確かこの辺の露店で買ったような記憶があるんだが…。」
 迷子になられては、またややこしいので、乱馬はぴったりと良牙にくっついていた。
「見あたらねえぞ。本当にこの辺でに売ってるんだろうな?」
「ああ…。」
 気のない返事に乱馬は焦る。
「ちょっとあの店で聞いてみるか。」
 仕方なしに乱馬は、すぐ傍の露店のじいさんに恋の釣竿について訊いてみた。
「ああ、その釣竿なら、もう売ってないなぁ。」
 気の毒そうに言う。
「じゃあ、ちょい前までは売ってたって訳か?」
 乱馬が乗り出すと、
「去年は置いていたなあ。いや、待てよ。」
 じいさんはそう言うと、奥へと引っ込んだ。そしてややあって釣竿をひとつ、手に引き下げて出てきた。
「お客さん、運がいいね。ほら最後の一本があった。」
 と言って差し出す。よく見るとどこかよれよれで頼りない。吸盤に繋がれた釣り糸もほころびていた。
「これしかねえのか?」
 乱馬は顔をしかめながらじいさんに問い掛けた。
「最後の一本だ。これきりで終わり。どうするかね?やめるかね?」
 じいさんは欠けた歯を見せながらにっと笑った。
「背に腹は変えられんだろう?これしかないんだったら。」
 良牙は腕を組んで乱馬を見た。
「そうだな…。仕方がねえか…。」
 乱馬はいくらだと言ってじいさんに訊いた。
「御代はいいよ。最後の売れ残りだし。それより、気に入った女の子のハートでも射止めたいのかい?」
 じいさんはニコニコしながら釣竿を出した。
「いや違う。その逆だ。間違えて釣り上げた鯉を元に戻したいんだ。」
 乱馬はむっとして答えた。
「そうか。それは大変なことだね。成魚近くなると胸の鯉の重みも増すからのう…。この釣竿じゃあ、きついかもしれないなあ。」
 じいさんは気の毒そうに言い含めた。
「これきりだって言ってたな、じいさん。」
「ああ、これきりじゃ。これを作れる職人がもういないでな。」
「失敗したらどうなるんだ?」
 良牙が心配げに訊いた。
「なるようにしかならんじゃろうな…。もっともこの釣竿でつり上げた鯉は、釣り上げられた者の恋心が成就すれば、自然消滅するとも言われておるがのう。」
「自然消滅?」
 乱馬は思わす訊き返していた。
「ああ。釣り上げた異性の心が納得すれば、わざわざ釣り上げんでも、胸に巣食った鯉は消えて居なくなるらしい。まあ、古くから伝わる言い伝えでは、真意の程はワシもよくは知らんがのう。いずれにしろ、釣り上げる者の心次第と言うわけじゃよ。ほほほ…。」
 じいさんは高らかに笑い上げた。
「俺の心次第か…。」
 乱馬はそう呟くと、ぎゅっと拳を握り締めた。

 乱馬と良牙は、露店のじいさんに礼を述べるとその地を後にした。
 一刻も早く、釣り上げないと。鯉はこの間にも成長を続けている筈だ。時間が経過する分だけ、この頼りない傷んだ糸では、二人分の鯉を釣り上げるのは難しくなるだろう。
「なあ、乱馬…。」
「ん?」
「もし…もしもだ。釣竿が途中で切れちまったらどうするんだ?」
「ありえねえよ、絶対二人とも元に戻してやる…。」
「もし、あかねさんがあのままだったら、おまえは…。」
 良牙は言葉を途中で切った。だが、乱馬には彼が続けたかった言葉がわかった。
 そして
「俺は嫌だね。」
と一言。低い声で唸るように答えた。
「え?」
 良牙は訊き返した。
「だから…。今のあかねは本当のあかねじゃねえ…。そんなあいつに好きだって言い寄られても…。それともおめえは、本心じゃなくても好きだって言われて嬉しいか?…好きだって言うのは姑息な手段を用いて言わせる言葉じゃねえ。だから俺は…。」
 良牙は黙した。乱馬の云わんとしていることは良くわかる。だが、俺だったらそれでも良いと思ってしまうかもしれない。相手の本心がそう言わしめていなくても、それでお互いが結ばれるのなら…。だが、乱馬は嫌だとはっきり口にした。
「プライドが高いんだな…おめえは…。」
 良牙はポツンと言った。
「志が高いと言って欲しいな。さ、急ぐぜっ!迷子にならないように付いて来いよっ!」
 乱馬は走るスピードを上げた。
「あ、おいっ!待てっ!俺を置いて行くなっ!」
 良牙は慌ててそれに従った。