恋敵はかすみさん   1

一、

「誰がおめえみたいな可愛くねえ女にやきもちなんかやくもんかっ!」
 そう吐き捨てて乱馬は虚空を睨んだ。
「何よっ!乱馬のばかっ!」
 あかねも負けじと声を張り上げた。
「勝手にしろっ!」
 乱馬はズボンのポッケに両手を突っ込むと、ずかずかと歩き出した。
 目の前から立ち去ろうとする彼を見送りながらあかねは大きく溜息を吐き出した。

 …どうしていつもこうなってしまうのだろう。
 
 いつもの喧嘩風景。
 素直に謝ってしまえば良いものを、互いに旋毛を曲げてしまうとすれ違ってしまう心と心。
 自分が悪いことが判っていながらも、口から流れる言の葉はなかなか素直になれない。
 謝ることが嫌いなわけではないのに。ごめんと言葉を紡ぎさえすれば、喧嘩もしなくて済むのだろうに。
「何よ、乱馬のばか。何もそんな言い方しなくてもいいじゃないの…。」
 遠ざかる影に向って、あかねは言葉を送り出す。
 俄かに空は雪雲が垂れ込めてきて、今にも白いものが降ってきそうなくらい暗くなった。さっきまで見えていた青空は何処か遠くへ流れていってしまい、北風がビュービューと耳元を過ぎてゆく。
 ちゃんと謝るつもりで彼の前へ立ったつもりなのに、謝れなかった自分が、今更ながらに情けなかった。
 昨日から乱馬に組み手の相手をしてくれと言われていたのを、すっかり忘却していたのだ。
 ついつい、大介の懇願に負けてしまい、彼らの買い物に付き合わされたのだ。彼はゆかの誕生日プレゼントを買おうとして、あかねに相談を持ちかけた。放課後、あかねも二つ返事で引き受けてしまい、乱馬との先約をすっぽかして、大介に付き合って今しがたまで商店街を歩いていたと言う訳だ。
 寒空の中彼は道場で待ちぼうけを食らわされていた。面白いはずがない。寒さに凍る彼の姿を見て、しまったと思った。そのとき初めて、約束のことを思い出したのである。
 口が詫びの言葉を紡ぎだす前に、開口一番、乱馬はあかねに対して、文句の一つ二つ、いや何十何百を撒くし立ててきた。
 売り言葉に買い言葉とはよく言ったもので、乱馬の苦情の羅列に、つい、いつもの気の強さが露見してしまった自分。素直に謝るどころか、ついつい罵り合いになってしまったという訳だ
 後味の悪さがあかねに去来していた。
「あかね…。乱馬くんずっと道場で待ってたんだから。素直に謝った方がいいんじゃないの?」
 不意に後ろから声がした。振り返るとすぐ上の姉、なびきが立っていた。
 日頃、二人の痴話喧嘩には無関係を装うなびきが珍しく老婆心を挟んできた。二人のやり取りを傍で聞いてしまったのだろう。しょうがないわねと言いたげだった。
「わかってるわよ…そんなことくらい。」
 あかねは姉にそううそぶいた。
「わかってるんだったら、ちゃんと謝ることね。あれで乱馬くん、根に持つタイプなんだから。時間がたつと、余計に謝りにくくなるわよ。」
 そう言って、なびきはあかねの肩をポンと叩くと傍を離れていた。
…そうよね…約束を忘れていた私の方が悪いんだから、なびきお姉ちゃんが言うとおり、ちゃんと謝らないと駄目だわよね。
 あかねはすぐ上の姉の忠告に、自分を省みて、そう決心した。
…夕食の時にちゃんと謝ろう。


「畜生っ!あかねの奴。」
 乱馬は口ではそう罵りながらも、釈然としない感情のわだかまりを感じていた。
 あかねが自分との約束を反故にしたこともさることながら、大介と一緒に居たことの方を責め立ててしまったのだ。謝る機会を与えないほど、先に文句の言葉を羅列してしまった自分。
 信用していないということは無かったのだが、彼女が自分との約束を忘れ去って、他の男と街を闊歩していてたことの方へ神経が行ってしまい、ついつい言わなくてもいいことまで言ってしまった浅はかさ。
…あれじゃあ、あいつの性分からして、謝れないのも無理ないかもしれねえか…
 自分の短気を少し反省し始めていた。冷静になって考えてみると、喧嘩の原因などというものは些細なことが発端になるものだ。
 「やきもち」を充分にやいていた。男のやきもちはみっともない。重々承知だったが、つい、悪言が口を吐いて流れ出た。
「ちぇっ!面白くねえっ!」
 彼は自分へともあかねへとも、取れぬ言葉を吐き出してみる。
 道場から家へ入ると、父親の玄馬が待ち受けていて、早々にこんなことを言ってきた。
「乱馬…来いっ!たまには共に修行するぞ。」
 突然太郎の玄馬だった。いつも修行に出るときは思いつき、そして唐突だった。
「何だよ…藪から棒に。」
 乱馬は不機嫌さをそのまま父親に向けて言葉を吐き出した。
「寒いからとて修行を嫌がるようでは、無差別格闘流の跡取の名が廃るぞっ!今日は川原修行するからさっさと支度して来いっ!」
 玄馬は父親よろしく、乱馬に向って命令の言葉を投げかけていた。
「わかったよ…。」
 いちいち反論するのもかったるいような気がした彼は、渋々玄馬の提案を受け入れた。ここで否を唱えてみたところで、結局は父親の言うなりになって、修行に借り出されるのがいつものパターンだ。
 こほっと一つ咳払いすると玄馬は乱馬にやんわりと命令した。
「ならば、釣竿を拝借りてきておくれ。」
「釣竿?」
 乱馬は怪訝そうに父親にきびすを返す。何故、修行にそんなものが要るのか不思議に思ったからだ。
「もう、早乙女君。そんなにムキにならなくてもいいじゃないか。」
 早雲が後ろから口を挟んできた。
「あん?」
 乱馬が訊き返す間もなく、早雲が言葉を継いだ。
「乱馬君。さっきから、早乙女君が川の中に人間の子供くらいの大きな鯉が泳いでいたって言うんだよ。」
 早雲は困ったように乱馬に訴えかけた。
「鯉だあ?」
 話の筋が見えない乱馬は訊き返した。
「そうなんだよ。何かの見間違いだろうって言っても聞き入れてくれないんだ。」
 早雲の言葉を遮るように玄馬が口を割り込んだ。
「確かにワシは見たんだからっ!天道君っ!君は全然信用してくれないじゃないか。だから釣り上げてくるしかなかろうに。」
「何もこの寒空の中出てゆくこともなかろうに…。」
「いや、天道君。男が一度言い出したからには、前言を撤回するわけにはいかんじゃろう。それが武道家というものだっ。わしは絶対釣り上げてくるぞっ!!」
 玄馬は完全にムキになっていた。大人気ないとはこういうことを言うのだろう。
「じゃあ、己が一人で行けばいいだろ?何も俺まで担ぎ出して来ることねえだろうが。」
 乱馬は横目を流しながら玄馬を顧みた。
「何を言うかっ!貴様も承諾した以上は、父に従うのが子供の了見っ!四の五の言わずに、早く釣竿を取って来いっ!!」
 
「ちぇっ!どいつもこいつも、勝手ばかり言いやがって。」
 結局、反抗むなしく、乱馬は父親の尻拭いに、付き合わされる形となった。
…まあいいか。川風に吹かれたら、少しはあかねのことも冷静になれるかもしれねえし…。
 大喧嘩の後だ。このまま、夕食時に隣に陣取ると、また、文句の一つでも彼女に投げかけてしまうのは目に見えている。これ以上互いに嫌な気分は味わいたくないし、気まずくなりたくない。厳冬の川で風に当たると少しは冷静に物事が判断できそうな気がしたのだ。
「かすみさん。釣竿を借りたいんだけど…。」
 乱馬はひょっこりと台所を覗くと、かすみに声を掛けた。
 こういう探し物の類は、天道家の家事を一切に引き受けているかすみに訊くのが一番手っ取り早い。
 かすみは夕飯の支度の手を止めると、
「確か、道場脇の物入れにあったと思うわ。」
 エプロンで濡れた手をしばきながら勝手口から出てきた。
「すいません。ちょっと入用なんで、出してくれます?」
 乱馬は丁寧に頼んだ。口の悪い乱馬もかすみには、ぞんざいな口の利き方をしない。天道家を仕切るこの長女は、他の姉妹と違っておっとりとしており、とてもため口を利ける相手ではなかった。
 かすみは乱馬に先立って、物置を探りに出た。
「えっと、確かこの奥にさし掛けて居たと思うんだけど…。」
 かすみはごそごそと物置をまさぐり始めた。
「すいんません、手を煩わせちゃって。」
 乱馬は神妙に表で待っていた。
「あったわ。これね。」
 かすみはそう言って奥から釣竿を取り出した。
「変な釣竿だな。針じゃなくて吸盤がついてる…。」
 差し出された釣竿を手に持つと、乱馬はそんなことを言った。
「もう一本取りましょうか?」
 かすみが前で言った。
「これじゃあ、雑魚一匹釣り上げられそうにないな…。じゃあ、別のをお願いします。」
 乱馬は吸盤を目の前でぶらぶらさせながら乱馬は答えた。
「わかったわ。」
 かすみは後ろを振り返りながら、そう言った。
 その時だった。
 棚の上から荷物が滑り落ちてきた。
「あぶねえっ!」
 物置の中は雑然と物が並べられているものだ。一つバランスが崩れると、荷物の雪崩が起きるものだ。
 前へつんのめったかすみは、乱馬の足元へ荷物と共に埋もれた。
 乱馬は慌てて、荷物をどけにかかった。夢中でかすみの上にのしかかった荷物をどけると、かすみを抱き起こした。
「大丈夫ですか?かすみさん。」
「ええ、大丈夫よ。でも、さっきの釣竿の吸盤が、胸に吸い付いちゃったわ。」
 埃まみれになりながらかすみが膝を付いていた。
「ほんとだ。今取るからちょっと待っててください。」
 乱馬ははからずしも手に持っていた釣竿をそのまま引っ張ってしまった。
「痛っ!」 
 かすみの声がした。
「かすみさん。どうしました?」
 乱馬が覗き込むと、
「大丈夫。荷物の箱がちょっと胸に当たったみたいなの。別に怪我はしてないから。心配ないわ。」
 かすみが笑った。
「だったらいいんですけど。」
 乱馬はそう言って、釣竿を手に取ると、扉の外へ出た。
「じゃあ、これを借りていきますね。」
 乱馬はもう一本奥から出された釣竿を手にすると、元気良く寒空の元へと駆け出した。
 かすみはそれを見送りながら
「さて、ご飯、ご飯。」
 そう念仏のように言いながら、台所へと戻って行った。

 この時点では、乱馬もかすみも自分たちの上に、とある事件が牙を剥いて襲いかかろうとしていたことに、まだ気がついていなかった。

 皆さんは覚えているだろうか?
 良牙がかつて、あかねの恋心を釣り上げる為に使った、えんむすび神社の「恋の釣竿」を。意中の人の胸を吸い付けると、恋の鯉が育って恋が芽生えると言うお騒がせアイテム。
 そう、乱馬は知らず知らずのうちに、件(くだん)の釣竿で、こともあろうに「かすみの恋心」をその胸から吸い上げてしまったのである。
 
 
二、

 夕食の時間になった。
 結局玄馬が言っていた鯉は釣ることはおろか見かけることもなく、早乙女親子は黙って食卓に付いたのである。
 身体はすっかり冷え切っており、乱馬はかじかんだ手を擦り合わせながら、いつもの場所へと腰を落ち着けた。隣にはあかね。
 まだ機嫌が悪いらしく、一言も口を利こうともせず、黙ったまま俯いている。
…なんだよ。あかねの奴。愛想のねえっ!
 さしもの乱馬も、そんなあかねの様子を見て憮然とした表情で座っていた。彼は彼なりに和解のきっかけを探っていてのだ。
 本心のところでは、さっきの喧嘩の原因を謝ろうと、あかねもまた機会を伺っていたのである。
 しかしながら、一筋縄ではいかな意地っ張り同志。なかなか思うように素直な言葉は口を吐(つ)いて流れてこないのであった。
 互いの空気がよどんでしまっていて、気まずさが漂う。
 それでも勇気を振り絞って、乱馬があかねの方へ向きかえった。
「あ。あのさ…。」
「あ。あのネ…。」
 あかねも詫びの言葉をかけようと乱馬の方へと少し身体をずらせた時、かすみが急に二人の間に割って入った。
「ちょっとごめんなさいね。お料理置くわね。」
 二人はそのままきっかけを失ってしまい、言葉が途切れた。かすみはあたかも、あんたは邪魔っけよ、と言わんばかりにあかねの方に尻を投げ出していた。二人の間に割り込んできたと言った方がシックリくるような勢いだったのである。
 言葉を遮られた二人は、貝のようにまた口を、ぎゅっと結んでしまっていた。
 
 そこへ、早雲と玄馬が座って、一同が揃った。
「いただきまーす。」
 夕食が始まった。
「ん?」
 箸を取ろうとして、乱馬が目の前の食卓に目を見張った。
 明らかに、乱馬の皿の上の料理だけが、他を圧倒して、豪華で量も多いのである。
「あーっ!何故に乱馬だけそんなにご馳走なんだ?」
 乱馬の横からその父玄馬が声を荒げた。
「何だね?かすみ。今日は乱馬くんの特別な日とか、そういったものかね?」
 かすみはニコニコしながらご飯を茶碗についだ。
「いいえ。別に。でも、乱馬くんは育ち盛りだから、いいんですよ。他の人よりたくさん召し上がれ。」
 本来ならまず父親の早雲に差し出す茶碗を、何故か乱馬に最初に手渡しながらかすみは答えた。
「いいな…乱馬だけ。」
 玄馬は恨めしそうに乱馬の皿を覗き込む。何故か、彼だけ御頭つきの魚なのである。
「何だよ…そんなにじろじろ見られたら食い辛くてしょうがねえだろ。そ、そんなに欲しいなら、分けてやるよ…。」
 あまりに物欲しそうな目を父親が差し向けてくるものだから、堪らず乱馬が答えた。
「なかなかいい心がけだな、息子よ。」
「けっ!調子良いこと言いやがって。」
 そんな父子を遮ったのは以外にもかすみであった。
「駄目ですよっ!!これは乱馬くんのなんですからね。はい、乱馬くん。」
 かすみは玄馬が箸をつけようとしたのを遮ったのである。
「かすみ?」
 ムキになって玄馬に食って掛かったかすみに早雲が不思議そうな目を向けた。
「私が食べさせてあげるわ。」
 かすみはそう言うと、ニコニコしながら箸を乱馬に差し出した。
「え?」
 乱馬をはじめ、食卓の一同は目を見張った。明らかにかすみの言動がおかしい。
「ちょっとお姉ちゃん。冗談はやめてよね。」
 なびきが嗜めると
「何も冗談なんか言ってないわよ。はい、あーんして、あなた。」

「あなたっ!!?」
 早雲も玄馬もなびきも八宝斉もそう切り替えした。

「あら、だって、乱馬くんは今日から私の許婚になるんですもの。」
 そう言ってかすみは頬を染めた。
「え、えーーーっ!!!?」
 的を射ないかすみの宣言に、一同、大口をあんぐりと開けたまま固まってしまた。
「ちょっと乱馬くん…。」
 なびきが疑わしき目を乱馬に差し向けると、
「ま、まてっ!お、俺は何も聞いてねえぞっ!」
と乱馬はかわした。かすみの許婚宣言は寝耳に水だったのである。何かたちの悪い冗談をかすみが持ち出したとしか考えられなかった。
「そういうことだから、あかねちゃん。今日から私がここに座らせてもらうわよ。」
 そう言ってかすみは、これみよがしに、乱馬とあかねの間に座布団を敷いた。
「おねえちゃん?」
 あかねがまごまごしている間に、かすみは強引にその場を確保してしまっていたのである。
「さあ、あなた、お口を開けて…。」
 かすみはそう言って箸を上げた。
「ちょっと…かすみさん…。いいです、俺、自分で食いますから。」
 乱馬はかすみの様子にたじたじになりながら断りを入れる。
「まあ、私のお料理が食べられないとでもいうの…?」
 かすみは、わっと泣き出した。
「かすみさん…。ちょっと、あかね、何とか言ってくれ。」
 乱馬はかすみの向こう側のあかねに声を掛けた。
「ふんっ!私の知ったこっちゃないわよ。」
 あかねはおろおろしている乱馬にそう言い捨てると、知らんふりをしながらご飯に手をつけはじめていた。また喧嘩の蒸し返し。そう、完全にあかねの気分は害されてしまったのである。


 とにかく、かすみの様子がおかしい…。

 天道家の皆は、夕食の後片付けをしに、のどかと台所へ入ってしまったかすみを評して、真剣に何やら、言い合っていた。
 あかねは知らんふりを決め込んで、夕食が終わるとさっさと自分の部屋へ引き上げてしまっていたので、その談話に残っていたのは、早雲と玄馬となびきと八宝斉、そして当事者の乱馬であった。
「何か悪いものでも食ったのかのう…かすみちゃん。」
 八宝斉が首を傾げた。
「乱馬、おまえ心当たりは?」
 玄馬にうながされると、
「あるわけねえだろっ!」
 乱馬は少し離れたところで言い放った。
「何かおかしいわよ…。だいたい、お姉ちゃんの理想の男性って、「年上の人」っていうのが絶対条件のはずなんだもの。」
 なびきがこそっと言った。そうなのである。常々、かすみは男性を品評するときに、「年上がいいわ。年下はいやーよ。」とやんわりと理想を口にするのである。
「でも、さっきの言動…。一体かすみに何が起こったんだ?許婚は私に交代するのって宣言するし。」
「乱馬はどうじゃ?許婚が代わってもよいかの?」
 玄馬が訊いてきた。一同はどうするのと言わんばかりに乱馬を顧みた。
「俺はまだ修行中の身の上だから、許婚が誰だろうと知ったこっちゃねえっ!」
 そう言って腕を組んだ。
「天道家としては、三人のうちの誰が乱馬くんの嫁になってもいい訳だから…。」
「そうさなあ…早乙女家としても、別にかすみくんが乱馬の嫁になっても構わないぞ。」 
 玄馬も同調した。
「ちょっと、待て。勝手に決めるなよっ。」
 乱馬が憤然と言った。
「やっぱり、乱馬くんはあかねの方がいいんでしょ?」
 なびきがにや付きながら乱馬を見た。
「……。」
 意地っ張りな乱馬は首を縦には振らなかった。誰が見ても、乱馬の気持ちは常にあかねの上に注がれていることは一目瞭然であったが、乱馬は変なところで体裁を気にするのである。それに悪いことにあかねとは喧嘩中の険悪ムードが漂っている。
 そこへ、かすみがにこやかに現れた。
「乱馬くん、お風呂が沸いてるわよ。」
「あ、は、はい。でも、俺後でいいです。おじさん、先にどうぞ…。」
 そう言うと
「だめよ、乱馬くんが一番湯。」
 かすみは強引に手を引いた。
「ちょっとかすみさん…?」
 乱馬はぐいぐいと引っ張られる。大人しいとはいいながら、かすみも天道家の娘。案外力は強いのである。引きずられてゆく形になった。
「穏やかでないわねえ…。」
 なびきがそう呟いた。
 
 乱馬は脱衣所に連れ込まれると、かすみが着替えを出してきた。
「はい。湯加減もちょうどいいですからね。」
 そう言うと、かすみは靴下を脱いで髪をたくし上げた。そして先に風呂場へ足を踏み入れるとタオルを取ってその場にしゃがみこんだ。
「かすみさん?」
 乱馬はたまらずかすみに疑問の声を投げかけると、
「早くいらっしゃいな…。」
 と手招きする。
「いいのよ、妻たるものは、旦那さまの背中を流して差し上げるものですからね。」
 そう言ってにこにこしている。
 乱馬は固まってしまった。明らかに動揺していた。さすがにこのまま服を脱いで、風呂場に入る気にはなれない。
「もう、ウブなんだから、乱馬くんは…。なんなら一緒に入りましょうか?」
 そういうとかすみは自分の衣服を脱ぎ始めた。
「かすみさんっ!!」
 乱馬の動揺は頂点に達しようとしていた。
「ちょっと二人して何やってるのよっ!!」
 背後であかねの怒声が響いた。
「あ、あかね…。」
 乱馬はたじろきながらあかねを振り返った。
「おいっ!ご、誤解するなよ。これはかすみさんが…。か、勝手に…。あ、あかねっ!やめろっ!!」
「いやらしいっ!!!」
 そう言うと、思わずあかねは拳を差し出した。次の瞬間、乱馬は風呂場の窓から外へと弾き飛ばされていた。
「あかねの馬鹿野郎っ!!」
 乱馬はそう言いながら風呂場から蹴りだされていった。

「もう、あかねちゃんは乱暴なんだから。」
 かすみはそう言うと、乱れた着衣をきちんと直し始めた。
「ちょっとお姉ちゃんっ!どういうつもりよ。乱馬にこんなことするなんて、冗談にも程があるわよ。」
 あかねの鼻息は荒い。
「どういうつもりも何も、あかね。乱馬くんは私が頂くわ。あなたがどうあがいても、大人の魅力には叶わないでしょうからね。」
 かすみは不敵な笑みを浮かべると、あかねにそう宣言した。
「乱馬くんは私が幸せにしてあげるの…。ふふふ。彼は私のものよ…あなたには渡さないわ。奪ってあげる。」
 そうきっぱりと言い捨てると、かすみは風呂場を出て行った。
「お、お姉ちゃん?」
 あかねは呆然とその場に立ち尽くした。そして、凍るような身震いを覚えた。


「あれはなんだったんだ?」
 乱馬は草むらにすっくと立ち上がると、そう言いながら夜空を見上げた。
 乱馬は見た。弾き飛ばされ虚空へ舞い上がりながら。かすみの下着の間から見えたのだ。ふくよかな胸の膨らみの上に、くっきりと「鯉」の形に刻印された痣を。
 それは赤く、美しく、不気味に肌を泳いでいるように見えたのだ。
 乱馬はじっと胸に手をあてて、痣のことを思い巡らしていた。乱馬はその痣を何処かで見たことがあるような気がしたのだ。
 はて、それはどこだったのか。そしていつだったのか…。
「あの痣…。」
 彼はかすみの豹変にはあの痣が影響しているのではないかと、武道家の勘が教えてくれているように思えたのである。
「確かめるしかねえか…。」
 乱馬はそう意を決すると、夜陰に消えた。



つづく




一之瀬的戯言
 「呪泉洞」のカウンターの7777番目をゲットしてくださった呪泉郷ガイドさまのリクエスト作品です。
 いろいろ考えあぐんだ末に、連載形式を取らせて頂くことに…。
 リクエストは「恋の釣竿かすみさん編」

 なお、「呪泉洞」は現在、キリ番制度は導入しておりません。
 管理人が目いっぱい忙しいからです。この年齢で同人活動にまで手を染めてしまったので、リクエストに応じている暇がないというのが実情です。
 キリ番を導入しない分、目いっぱい通常の創作に力を注ぎます…。ということでお許しください。


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