◇水鏡   一


 深淵なる水のその下に
 己が真の姿形が映し出されるという
 静かなり 蒼き水面(みなも)
 孤高なり 鏡の泉


一、

「何か棲んでいそうな山の中だなあ…。ここかねなびき。」 
 一家の主、天道早雲が傍らの娘に声をかけた。
「地図ではここに間違いないわ。」 

 晩秋の寂とした空気が透き通る山の中。天道家の人々はこぞって一泊旅行に出掛けてきた。格安の「紅葉狩りツアー」ということで、金銭感覚が鋭い当家の次女なびきが適当に見つけてきたのである。
 都心から電車とバスを乗り継いでやってきたのは、静かな山中の寂びれた宿屋。
「風情があるわねえ…。」
 長女のかすみはのほほんとしている。
「たまには喧騒を忘れてくつろぐのもいいわよね。」
 末娘のあかね。
「ぱふぉぱふぉ…。」
 このような場所に似合わないジャイアントパンダ。
「人間の言葉を喋れ、人間の言葉をっ!」
 パンダをコツく居候の乱馬。パンダは彼の父親の玄馬。訳あって人間の姿からパンダに変身できるのだ。
「ギャルはいそうにないのう…つまらん。」
 同じく居候の八宝斎。
「とにかく中へ入りましょう。」
 玄馬の嫁であり乱馬の母でもあるのどかが微笑みながら促がした。
 一行は天道早雲、かすみ、なびき、あかね親子と早乙女玄馬、のどか、乱馬親子そしてそれぞれの家長の師匠八宝斎の八人。

「よう来なさったのう。ほれほれお荷物はこちらへ…。」
 待ちうけたのはかすりの着物を着込んだ年老いた婆さま。どうやらここの女将らしい。古びた民家をそのまま改造した天井が高い田舎の宿だった。

 それぞれ部屋に案内されてほっと一息つく。
 裏手には山が迫り、窓から眺める紅葉は、それは見事な深紅の絨毯だった。醒めるような想いであかねは山並みの美しさに見惚れていた。
「お茶を持って参りました。よかったらお茶菓子などもどうぞ…。」
 襖が開いて女将が盆を差し入れた。
「これはありがたい。」
 一家の主、早雲は早速茶菓子を手に取った。
「田舎ゆえ何もお構いできませんが…。」
 女将は湯を急須に注ぎ入れながら愛想を言った。
「きれいな紅葉ですねえ。」
 かすみが感心したように女将に話し掛ける。
「この先に、この世のものとも思えないくらい美しい淵がございましてな、宜しければ後で行きなさるといい。」
 女将は茶をすすめながら言葉を継いだ。
「淵…ですか?」
「そうです。地元の者は『鏡池』と呼んでいる淵でしてな。水面に映る紅葉の美しさは類稀でございましょうな。」
「いいですわね…行って見たいわね。」
 かずみはお茶を取りながら言った。
「でもお嬢さん方、一人で行ってはなりませぬぞ。池の主に魅入られでもしたら大変ですからな…。」
「池の主?」
 あかねが興味深々に問い返すと、
「そうですじゃ。鏡池の主さまですじゃ。」
と、女将はちょっと雰囲気を出して話し始めた。
「鏡池には太古から主が棲んでおりましてな、若い男の姿をした竜神と言われておりますじゃ。永遠の若さを保つため、何年かに一度、若い生娘を淵の中へと引き込んでしまうと恐れられております。まあ、他愛のない伝説には違いないんですがのう…主さまに魅入られた娘は幸せな夢を見ながら池の底に沈んでいると、まあ、昔からずっと言われております。鏡池はそれはもう、引き込まれそうになる錯覚を受けるほど美しい淵でございますから、誰彼と無くそんなことを面白おかしく伝えたのでございましょうが…。」
 女将は茶をみんなに入れ終わると
「まあ、一度皆さんでお散歩されてこられるといいですじゃろうて。」
 そう言い残して部屋を出て行った。

「美しい淵かあ…行ってみたいなあ…。」
 女将が出た後、あかねがふっと言葉を落した。
「おめえなら心配ねえもんな…。頼まれたって、池の主さまとやらは色気のねえ女には手なんか出しゃしねえだろうし…。」
 傍から乱馬が悪態を吐き返した。
「ぬわんですってっ!」
 あかねはギロリと乱馬を見据えた。
「池の主さまだって選り好みすらあっ!」
 そう言い放った途端、平手打ちが乱馬の頬を強襲した。あかねが怒って食らわせたのだ。
「いってえっ!何すんだよっ!」
 乱馬は打たれた頬を撫でながら金切り声を上げた。あかねのバカ力は相変わらず凄い。手の形がそのまま残った一発だった。
「ふんっ!あんたなんかに乙女のロマンがわかって溜まりますかっ!」
 あかねはすっかりヘソを曲げてしまった。
 くるりと乱馬から背中を向けると、お茶を黙ってすすり始めた。怒ってます…と云わんばかりの殺気があかねから立ち上がるのを、入合わせた者たちは苦笑いしながら見守った。
 
「ホント…あんたたち、仲がいいんだから…。」
 半ば呆れた顔をして、なびきがぼそっと呟いた。


二、

「もう、乱馬のバカ…。」
 あかねは女将から聞き出した淵への道をトボトボと歩いていた。
 あまりに腹が立ったので、お茶を一気に飲み干すと、そのまま外へと飛び出してきたのだった。
 山の空気は澄んでいて、ひんやりと頬を撫でる。鬱蒼と茂った草木は天高く伸び、山の端に傾き掛けた太陽の光が赤みを差して射かけてくる。夕暮れが近いのだろう。頭上では名も知らない鳥たちがさえずりを繰り返している。枯れ木を踏みしめながらあかねはまだ落ちつかない怒りとも侘しさともつかない想いを引き摺っていた。
(本当は、乱馬と一緒に眺めて見たいクセに…。)
 素直でない自分の心にも嫌気がさしていたのかもしれなかった。

 そんなあかねを少し離れたところから追い掛ける一つの影…乱馬だった。
 さっきは悪態を吐いてみたものの、彼もまたあかねの動向が気になってしょうがないのである。好きな子にちょっかいを出したがる餓鬼みたいな性格の乱馬であった。

 山道の中ほどで、あかねは一匹の狐が倒れているのを見掛けた。
 思わず近寄って見ると、どうやら罠にかかっていたようで、足から血を流しながら横目であかねを睨みつけていた。
「あらあら…。誰がこんな惨いことを…。」
 あかねが近寄ると、狐は歯を剥いて抵抗を試みようとした。
 もともと心臓が据わっている男勝りなところがあるあかねは、狐のそんな態度を気にも留めずに話し掛ける。
「そんなに怯えなくても大丈夫よ…。罠、取ってあげるからね。」
 あかねの取り方はなかんずく「力任せ」である。ふんぬっと力を込めると、罠の歯をこじ開けるのだった。
 バチンっ!
 罠が弾け飛んだ。そして、狐は解放された。
「良かった、取れたわよ…。ほうら、もうこんなところウロウロして罠に掛かるんじゃあないわよ。狐くん。」
 あかねはウインクして、狐を見返した。
「ケーン。」
 あかねの言葉を解したのか、殺気立っていた狐はお礼を言うように一声鳴くと、茂みの中へと逃げて行った。
「ふう…。でも、誰がこんなこと…。まあいいわ。無事に外せたし…。」
 一息吐いたとき、右手にかすり傷を発見したあかねだった。罠を外したときについたのだろう。赤い血が少し滴り落ちた。
「つ…っ。」
 今頃になって痛みが走ってくる。さっきは狐を助けるのに夢中になっていて傷がついたことすら感じなかったのに…。
「深くはないわね…あとで消毒しておこっと…。」 
 あかねは呟きながらまた、歩みを始めた。

「たく…危なかしくって見てられねえんだから…。」
 その後方から覗いていた乱馬がホッと息を吐き出した。飛び出そうと身構えたときに、外れた罠。だから、そのまま見守っていた。粉々に砕け散った罠を見下ろして、あかねのバカ力に目を見張り、そしてふっと笑いを浮かべる。
「もう少しスマートなはずし方できねえもんかな…。」
 乱馬は目を細めながら微笑む。
「ホントに不器用なんだから…。おまえは。」(だからいつも俺がいなくちゃいけねえんだよ、バカ…。)
 乱馬はあかねの後姿にそっと声をかける。でも、あかねの前に出るタイミングをまた外してしまった乱馬だった。ヘソを曲げてしまったあかねが気になって追い掛けてきたのだ。謝る気はなかったが、一人にはできなかった。あかねが部屋を出てから少しだけ間を置いて、トイレに立つふりをして出てきたのだ。
 心の底では、一緒に淵を眺めて見たいと思ったが、家族の手前では決して素直な自分は出せなかった。冷やかされるのが落ちだったし、変な勘ぐりを入れられるのも耐えられなかったからだ。

 乱馬とあかね。
 父親同志が勝手にあてがった「許婚」
 素直でない分、距離は遠かったが、決して反目しあっている訳ではない。いや、むしろ、心はとっくに繋がっていて、お互い無二の存在だということを認識しあっていた。お互いの未来を託す決心はとうの昔にできていた。ただ、不器用過ぎる恋愛で、「好きだ」という一言が継げないままずっと時間を過ごしてきた。
 素直な言葉は必ずと言ってもよいほど「悪態」に取って代わる複雑な性格の二人だった。
 心は互いの上に有りながら、その距離は果てしなく遠い両想いの二人…。


三、

 紅葉の森の中ヘ通じる一本道をどのくらい歩いたろうか。
 木々が覆い被さるように密集する茂みを抜けると、それは、突然目の前に現れた。周りを木々に囲まれながらも、揺れる深緑の水。深紅の紅葉が垂れ込むように水面に映り込む。それはまさに「幽玄美」の世界。
 息を呑むような美しさに、あかねは我を忘れて魅入った。
「綺麗…。」
 透き通る空気はますますシンとして、その身に迫る。静かなる緑の淵はその底知れぬ深さを物語る。
 竜神が現れると信じられるのもわかるような気がした。そのくらい神々しい輝きに満ちていた。この世のものとは思えぬ風景にただただ息を呑むばかり。
 あかねは溜息を深く吐いた。
 そして、魅入られるようにそっと水面近くへと近寄ってみた。
 泳げないあかねは注意深く淵面に迫り出した平らな岩の上から恐る恐る覗き込む。
 水には自分の影が鏡のように写し出される。映り込む自分は虚ろげに見えた。一緒に映り込む景色に比べ、己の顔は色褪せて醜く見えた。
 紅葉した葉っぱが一枚。はらりと木の上から落ちてきて水面に留まった。
「乱馬のバカ…。」
 あかねは水面に写し出される自分に向かって言ってみた。
 何故だろう、悲しい気持ちになってきた。乱馬に対する不平より、素直になりきれない自分への恨み辛みが吐いて出た。
「あかねのバカ…。」
 今度は自分に言ってみた。突き上げてくる自己嫌悪感。溢れる想いが止まらなくなったあかねは、そこに一粒だけ円らな涙を落した。
 涙は淵の水に溶け出して、深い淵に同化してゆく。涙が起こした波紋が静かに広がっていく。

 あかねの涙を受けて、水面の下で黒い影が蠢いた。
 思わず落した恋の苦悩の一滴。
 それが禍禍しき邪念を呼び覚まそうとは…。あかねには想像だにできなかったのである。


 そんなあかねの少し後を息を潜めてついて来た影。そう、乱馬だった。
 彼もまた、茂みを抜けたときにその幽玄なる美しさに心を暫し奪われた。山中で修行をすることが多い彼であったが、ここまで美しい光景は滅多やたらに見られるものではない。
(すげえ…。)
 感嘆の溜息が彼から漏れる。
 見渡せばあかねが見えた。乱馬の居る所から少し右手に行った岩にいる。
 なんだかとても寂しげで頼りなく見えるその横顔。
(何悩んだ顔つきしてやがるんだか…。)
  あかねの切なげな表情の奥には大概煮え切らない乱馬自身の陰がある。長く付き合ううちに、あかねの考えが読めるようになっていた。
(また小さなことをウジウジ悩んでやがるな…。)
 乱馬の一挙手一投足に、思い倦(あぐ)ねるあかね。わかってはいるが、いつも悪態を吐いてしまう自分。
(まるで俺ってばいじめっ子みたいじゃねえか。)
 あかねと根本的に違うのは、乱馬は無類の自身過剰方人間であるということ。あかねは俺の横にいつも居て然りだと彼なりに思い込んでいる節があった。絶対あかねを自分から離しはしないという自信が彼には満ちていた。だから、あかねの乙女心を掴みきれない部分があるのだが、当人は全く気にしていないのだった。いや、それほど鈍感な男だと言い切ったほうが妥当かもしれない。
 しかしながら、あかねの切ない表情を目の当りにすると、少しだけ心の呵責を感じた。いくら鈍感男でもあかねの悲哀に満ちた表情をこうはっきりと見せられて動揺しないわけがない。
(しょうがねえ奴だな。)
 そっとあかねに歩み寄ろうと思った。そのままほって置けない衝動が突き上げてくる。それは乱馬の恋心からくる感情だった。彼自身もまた狂おおしいくらい「純粋な恋心」をその胸の奥深くに秘めている。
  
「…あかね…。」
 心が彼女の名を叫んだとき、乱馬の足元で水面が揺れた。
 『淵の中に何か居るっ!』
 武道家としての乱馬の直感が警鐘を鳴らした。はっとして水面を振り返った。途端、乱馬は眩いばかりの光を全身に感じた。
 『うわあっ!』
 身構えることも抵抗すことも叫ぶことも叶わぬまま、乱馬はその光に包まれた。
 微動だにできない状態で、何か大きい力に呑み込まれてゆく。
 
「ふふふ…おまえの身体は貰い受けた…あのあかねとかいう娘はおまえの身体ごとこの私が永遠に虜にしてやる…。安心するがよい…。彼女の無垢な想いはこの淵の底深く、美しきまま封印されるのだ。おまえの意識とともに…な。」
 低い笑い声とともに木霊のように耳元でそんな声が響いてくるのを、乱馬は薄れゆく意識の下で訊いた。
 …畜生っ!身体が…意識が…あかね…
 乱馬は声にならない声で叫びながら、侵入してきた怪物に意識を無理矢理押し込められていった。乱馬の身体から掌大の玉が弾き出されると、湖面に静かに沈んで行った。
 
 
 あかねはほうーっと深い溜息を何度も淵に向かって吐き出し続けた。
「ばか…。」
 最早誰に向かってそんな言葉を投げ掛けているのか、あかねにすらわからなかった。

 何度目かに息を吐き出したとき、あかねの他にもう一つの顔が淵面に映った。
 はっとして淵面を眺めると、彼と視線が合った。乱馬だった。
 気配も無く彼はあかねに近づいて来たのだ。流石のあかねも突然の登場に驚いて振り返ろうとしたときだった。
 いきなり、乱馬はあかねを後ろから羽交い締めに抱きしめてきた。
「乱馬?」
 乱馬はそれには答えずに、更に力を入れてあかねを抱き留める。 
 焦ったのはあかねだった。振りほどこうにも乱馬との力の差は歴然だった。
「ちょっと乱馬…。」
 乱馬の息が耳元近くで揺れた。
「あかね…。俺の愛しいあかね…。」
 乱馬は呟くようにあかねの耳元で囁く。
 あかねの鼓動は信じられないくらい速く波打ち始めた。信じられない言葉が飛び出して来たからだ。
「ちょっと乱馬。どうしちゃたのよ…乱馬ったら…。」
 あかねはなすすべなく途方に暮れながら、乱馬の逞しい腕に掴まれたまま、逃げようと試みる。
(変だ…いつもの乱馬じゃない…。)
 
 そのとき、後ろで声がした。

「なにやってるの?…はは〜ん。」
 なびきだった。
 乱馬はその声を耳にすると、ぱっとあかねの身体を解放した。
 やっと自由になったものの、あかねは心臓が張り裂けそうなくらいの衝動を覚えていた。
「続きはまた後でな…。」
 乱馬は神妙な顔をあかねに向けるとふっと微笑んでその場から離れて行った。
「乱馬…・?」
 まだどきどきする鼓動を感じながら、あかねは離れてゆく乱馬の後ろ姿を見送った。
「ごめん、邪魔しちゃったみたいね。」
 なびきはあかねに声を掛けてきたが、あかねにはそんな姉の言葉も耳には入ってこなかった。
 緑の淵は、妖艶な光を差し掛けながら、あかねの姿を映し出していた。


四、

 旅館へ帰りついてみると、見慣れない男の子が一人、玄関に座り込んでいた。傍には母親らしい若い髪の毛が長い女性が一人。
「お帰りなさい。鏡ヶ淵はどうでしたかな?」
 女将が奥から顔を出してあかねに問いかけた。
「綺麗なところですね。」
 あかねは愛想笑いをしながら答える。
「それは良かったですなあ。」
 女将はあかねに向かって答える。奥から女中が覗いて女将に何かぼそぼそと言った。
 女将は、その顔を今度は親子連れの方へと向け、
「お部屋の用意ができたから、さ、お客さん、こちらへどうぞ…。」
 と導いた。
 女将は女中に促がして今しがた来たばかりの男の子と女性を奥へと案内させた。ちらりと覗き見る女性は、色が透き通るように白く、髪は後ろに長くたらし、切れ長の目がなんともいえない美しさを漂わせていた。傍の男の子は5、6歳といったところか。口を固く結んで母の手をしっかり握ってあかねの傍を擦り抜けた。
 
 奥から早雲と玄馬がやってきて、すれ違う女性をしげしげと眺めていた。
「きれいな人だねえ…天道くん。」
「ホントだね…早乙女くん。こんな侘しい宿に似合わないような美人だね。」
 二人とも肩から手拭いをかけていた。
「お父さんたち、お風呂?」
 あかねが聞くと
「ああ、なんでも露天風呂があるというのでな。どうだ、あかねも一緒に。たまには親子で。」
「もうっ!お父さんったら。」
 あかねが顔を真っ赤にして反論すると
「こちらの露天風呂は男女別ですよ。」
と女将が水を注した。 
「あは・・あははは…。まあ、そんなところだろうね。天道くん。」
 玄馬が楽しそうに笑った。

 あかねも部屋へ引き篭もると、なびきかすみに誘われて、夕食前の入浴を楽しむことになった。
「あかね…さっき、乱馬くんと何やってたの?」
 なびきがこっそっと訊いてきた。
「何って別に…。」 
 あかねはさっきのことを思い出しながらも、バツ悪そうに俯いて答えた。
 脱衣所で服をたたみながらなびきはふふんと笑ってあかねに言った。
「何でもないことないんじゃあないの?乱馬くん、後ろからあんたを抱きしめてたじゃあない…。」
「まあ…。乱馬くんが?」
 かすみが丸い声を出して、なびきの言葉に反応した。
「悪ふざけよ…乱馬の。あいつが真剣にそんなことする訳ないじゃない。」
 あかねは赤くなりながら否定に走る。そうだ。さっきの乱馬は明らかに様子が変だった。いきなり抱きしめてきて、ぴったりと身体をくっつけてきたのだ。そのときの感触があかねの中で甦る。
「いやあ…案外、乱馬くん、その気になったのかもよ…。」
 なびきがいたずらっぽく笑った。
「無いわよっ!そんなことっ!!」
 あかねはからかわれているくすぐったさに、ムキになって言い返した。

 そのとき、がらりと扉が開いて、脱衣所に侵入してきたのは…八宝斎だった。
「あっかねちゃ〜ん。一緒にお風呂へ入ろう。」
 八宝斎は欲望の権化と化した身体を、あかねにぶつけてきた。
「きゃーっ!!」
 あかねはバスタオルで身体を包むと。咄嗟に八宝斎を牽制にかかる。
「ちょっとおじいちゃんっ!ここは女風呂よっ!男湯はあっちでしょうがっ!」
 なびきも思わず、そこらにある籠や体重計を投げつける。
「ら、乱暴はやめちくれいっ!ワシはただ、あかねちゃんと一緒にバスタイムを楽しみたいだけなのに…。」
 八宝斎は投げつけられる物体からぴょんぴょんと身をかわす。
「おじいちゃん…。だめですよ。あっちへいらっしゃいな。」
 かずみはあかねにホイッと傍に置いてあった扇風機を渡した。
「いやじゃ…ワシもここで一緒に…。」
「男はあっち行けーっ!!」
 あかねは八宝斎の頭上から扇風機を叩きつける。
「ひ、ひどい…。」
 そこへ、さっきの女性が男の子を連れて入って来た。
「ほうれ…こやつも男じゃろうか…なんで、女湯にいるんじゃあ?」
 八宝斎は男の子を指差して駄々をこね始める。
「この子は子供だからいいのっ!」
 なびきが言い返すと
「じゃあ、今日からワシも子供じゃあ…。」
 八宝斎の悪態ぶりにすっかり切れてしまったあかねは、その首根っこを掴むと 
「あっちへ行けって言ってるでしょうがぁーっ!!」
 そう言いながら、振りまわしてブンと女湯から男湯の方へと向けて投げ飛ばした。
「あかねちゃんの、いじわるーっ!」
 八宝斎はそう声を張り上げながら、蔀の向こう側へと消えていった。

 肩で息をしながら
「たくーっ!スケベなんだから。」
 とあかねは怒りをまだ顕わにしていた。
 男の子は母親の影から見守りながらちょこんとあかねを見た。 
「あ…ごめんね。私ったら。」
 あかねは小さな瞳がこちらを向いていることに気がついて、ばつ悪そうに笑った。
 男の子もつられて笑った。

 子供というのは気楽なもので、何かきっかけを掴むと、すぐに仲良くなりたがる。この子も類に漏れず。気に入ったのか、お風呂に入っている間中、何かとあかねにちょっかいを噛んできた。
 あかねも元来子供には愛想がいい方なので、すぐに打ち解けた。
 男の子の左足には擦ったのか、かなり深めの傷があって、痛そうに見えた。
「ねえ、どうしたの?ボク。その傷痛そうね。」
「うん…ちょっと山で転んじゃって。でも平気だよ。ここのお湯って傷にも良く効くんだって、さっきここのおばちゃんが言ってた。」 
 男の子は細い目をさらに細めながらあかねの問いに答えた。
「転んだとき泣かなかった?」
 あかねが訊くと
「平気だよ。男の子だもん。」
 そう答えを返してきた。
 
 風呂場で接しているうちに、男の子もあかねがきにいってしまったようで、それから暫らくあかねにくっついていた。
「ごめんなさいね…。この子、人なつっこくて…。」
 母親はすまなさそうにあかねに言ったくらいだ。



つづく



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