◇秋桜   四

八、

 泣きじゃくるあかねをあやすのは並大抵のことではなかった。当然だろう。彼女の負った驚きは、瞬時だったとは言え、大きな影を残すかもしれない。
 幸いなことに、なびきとかすみは起ったとこに気付かぬまま、安眠を続けていた。
「もう大丈夫よ…あかね。」
 母親は心に傷を負いかけている我が子に優しく微笑み掛ける。
「あかねは、強くなりたいんだろ?」
 背後から乱馬はあかねに語り掛けた。
「だったら、これくらいのことで動じていたらいけないぜ…。武道家なら常に相手を倒すことを考えなくちゃな。」
「そうよ、乱太さんがあかねをちゃんと助けてくれたじゃない。もう、何も怖がることはないのよ。」
 母はあかねを抱きしめながら語り掛ける。
「ホントにあの人達、もうここに来ない?」
 あかねは泣きじゃくりながら尋ねる。
「ああ、来ねえさ。来たって俺がやっつけてやるよ。安心してやすみな…。」
 乱馬は後ろからあかねに呟く。
「お兄ちゃん、右手、怪我してる…」
 あかねが目を上げて言った。男たちと取っ組み合いになったときに付いた傷に気が付いたのだった。
「大丈夫?」
「大丈夫。平気だよ。心配することないさ。おまえが無事だったんだから…。」
「お母さんも一緒に寝てくれる?」
 あかねは懇願する。
「いいわよ…さあ、何も心配しないであなたはおやすみなさいな。お兄ちゃんも一緒に朝までかねについていてあげるって。二人もいるんだからもう平気でしょ?」
「うん、わかった…。」

 あかねを蒲団に寝かせると、川の字になって二人で挟んだ。
 あかねの母は優しく、子守唄をあかねに歌い聞かせる。乱馬は反対側から二人の様子を垣間見ながら、この親子の幸せの時がずっと続けばいいと願わずにはいられなかった。
 暫らくすると、あかねは大好きな人達に囲まれて、何事もなかったように寝息をたてはじめた。

 あかねが寝入るのを確認して、あかねの母はゆっくりと起き上がる。乱馬もまた、蒲団を出た。
 
「ようやく、私ね、あなたの正体がわかったわ。」
 イタズラっぽく、あかねの母はあかねの寝顔を覗き込みながら微笑んで乱馬に言葉を投げ掛けた。
「え?」
 乱馬はあかねの母の突然の言葉に驚きの声を上げた。
「あなた、早乙女さんの息子さん、そう、早乙女乱馬くんでしょ?」
 あかねの母はそう言って笑った。
 乱馬は問い掛けにどう答えてよいものやら戸惑いの表情を浮かべる。すかさずにあかねの母は言葉を続けた。
「おかっぱ頭のかすりの着物を着た男の子に、ここまで連れてこられたんでしょ?あなた。」
 図星だった。確かに乱馬はおかっぱ頭の男の子に導かれて、過去の世界に迷い込んだのだ。確か、こちらに来る際に『ある人がおまえに会いたがっているのでな』という囁きが聞こえて来たことを思い出したのである。『ある人』。それがこのあかねの母親だったとしたら…。
 乱馬は観念したように、軽く頷いた。どうやら事情を知っていそうなこのあかねの母に、己の正体を完全に見破られている。誤魔化しきれるものではないと判断したのだった。
「確かに、俺の本当の名前は佐々木乱太じゃなくて、早乙女乱馬です…。」
 乱馬は改めて正座を組み直し、しっかりと答えた。
「そう、やっぱり、あなたが早乙女乱馬くんだたのね。未来から来た。」
 あかねの母はそう言って親しげに微笑んだ。
「さっき、俺の許婚に手を触れるなって叫んでたからピンときたのよ。この前、ささいなことからおかっぱ頭の男の子を助けてね、その時、未来からあなたを連れてきて欲しいって頼んだの。ホントに連れてくれたのね。あの子。」
 あかねの母は遠くを眺めるような寂しげな表情になった。
「おばさん…?」
 乱馬は彼女の表情が曇ったのを見て、思わず言葉を掛けた。一呼吸置いて、あかねのは母呟くように乱馬に言った。
「あなたの住む、未来の世界に、もう私は存在していないでしょ?」
と。


九、

 突然の言葉にどう答えて良いやらわからずに黙って俯(うつむ)く乱馬だった。
「いいの、わかってるのよ。そんなに気を遣わなくても。」
 あかねのは母乱馬を見詰めながら言い放った。
「私の身体には不治の病が巣食っているの。日々、病状は進んでいって身体を蝕んでいることも感じているの。もう余命、幾許(いくばく)もないということもちゃんと知っているの。だから…だからあなたに会いたいと思ったの。ごめんなさいね。」
 あかねの母は寂しげな表情を乱馬に向けながら続ける。
「男の子を助けた時に言われたの。時を越えた願いを一つだけかなえてやるって。…私があなた達の住む未来へ行くことも可能だと言われたけれど、未来に行って、あの子たちに会ったら、きっと切なくなってしまうのがわかっていたから…無理を承知であなたを連れてきて欲しいって願ったのよ…。」
「おばさん…どうして、俺なんかを?真っ先に未来へ行って成長したあかねやなびき、かすみさんに会いたかったんじゃあ…。おばさんが行かなくても、あかねだけでもここに連れて来られたんだろ?」
「もちろん、成長したあの子たちに会いたい…一人だけでも、会って、あの子達の幸せな姿を確認したい…そう思ったわ。でも、会ってしまったら私、きっと自分の運命を恨んでしまうかもしれない…。明日をも知れない自分の命の重みに耐えることが出来なくなるかもしれない。未来は自分の目で見ない方がいいの。だから、会わずにいようと思ったのよ。」
 あかねの母はふと遠い目をした。乱馬はそんな彼女の表情がとても痛々しく映った。本当は成長した娘たちに会って、一言でもかけてやりたいのが母親の心情だろうと…それを敢えて実行しないことを選んだあかねの母の気持ちが痛いほど突き刺さってくる。
「だから、あなたに会うことを選んだの。あの人、早雲さんが縁を結びたがっている早乙女さんの息子さんに直接会って、少しでもあの子達の未来を確かめたかった…。それが一番いいと思ったから。」
「どうして…俺なんか選んだの?俺じゃあなくてもよかったんじゃあ…。早雲おじさんにだって…」
 あかねの母は乱馬の言葉を静止した。
「それはね、根底にはあなたの家との縁談をすすめていいのか私が迷ったからよ。早雲さんは私の余命が少ないことを知ったときから、前から約束していた親友の玄馬さんの息子さん、つまりあなたとの縁を進んで結ぼうとしていたの。早雲さんが結ぼうとしている縁が本当に、あの子たちに幸せを運んで来るのか、確かめたかったの。本当の所はね、私は早過ぎる縁談だってずっと異を唱えていたんだけれど…。少しでも私があの子たちの将来に不安を持たないようにって早雲さんが急ぐのが堪らなかったのよ。」
 あかねの母の言い分は、ごく当然のことだと乱馬は思った。何処の馬の骨とも、どんな樹に育つかともわからない未知の男との縁を結ぼうとしている夫に危惧を抱くのは当たり前だろう。ましてや縁を結ぶ家の主(あるじ)は、あのスチャラカおやじである。
「でも、あなたに会えて良かった…。ううん、縁を結べるのがあなたで良かった。」
 あかねの母は間を置きながら丁寧に乱馬に語り掛けてゆく。
「あなたが私のいない遠い未来であかねをとても大切に守ってくれているのが良くわかったわ…。あなたがあかねを見詰める目は、子供を見詰める目じゃなかった。あなたはずっと愛しい者を見詰める優しい目であの子を見詰めていてくれた。さっきだってほら、自分の傷つくのを省みないで必死であの子を守ってくれたじゃない。」
 ゆっくりと、でもはっきりと語り続ける。
「あかねも何かしらあなたに近親勘を感じているのね。嬉しそうにあなたに接してた。それに、ほら、見て御覧なさいな。安心しきって眠ってる。」
 あかねの母は慈しむようにあかねの方に顔を向けた。あかねはかすかな寝息をたてながらぐっすりと深い眠りについている。さっきの不安の欠片は微塵も感じられず、ただひたすら安らかな寝顔をたたえていた。
「でも、俺が来た未来のこいつはこんなに素直じゃないけど…」
 乱馬はふっと笑いながら言った。
「かもしれないわね…きっと、この子、意地っ張りで気の強い女の子に育つでしょうね。焼きもちだって妬くかもしれない。でも、あなたのこと心の奥底では愛しているでしょうね。その気持ちが上手く表現出来ないで空回りばかりしているでしょうけどね。そんな、この子のこと、あなたもちゃんと愛してくれている。全てこの子のことがわかった上で、ちゃんと包み込む力をあなたは備えてる…だから、…。」
 あかねの母は乱馬を直視した。
「だから、私は安心して、この子の…あかねの未来をあなたに託せる…。」
 あかねの母の目に薄っすらと光るものが浮かんでいるのを乱馬は見逃さなかった。気丈を装って、自分に来る運命に立ち向かおうとしているあかねの母。その想いは乱馬の心を貫いてくる。子供の幸せを真っ先に希(こいねが)うのはどんな母親とて同じ思いだろう。
「こんなことあなたに言ったらかえって重荷になるのかもしれないけど…」
 あかねの母は乱馬に向き直った。
「あかねを、私の可愛い娘を、どうか、ずっと暖かく見守ってやって欲しい。ワガママも気の強さも、不器用さも全部受けとめてやって欲しい。母親のエゴだということも承知の上で、お願いします。乱馬さん。」
 あかねの母の目は真剣だった。幼い子を残して旅立つ母親の刹那な想いが伝わってくる。
「おばさん…約束するよ…あかねは俺の、俺のかけがえのない存在だから…。だから、ずっと大切に愛します。おばさんの分まで…。」
 乱馬は照れながらも、思ったとおりの言葉を口にした。多分、あかねを目の前に置くと絶対に出せない言葉だろう。
 あかねの母は小指を差し出した。
「今言ったこと、約束よ。ずっと大切に愛してくれるって。」
 乱馬も小指を出してそれに結んだ。
「指きりげんまん…乱馬くん。もし、約束を破ってあかねを不幸にしたら…化けて出るからね。」
 あかねの母はそう言って、笑った。その目からは波だの滴が一つ。それを悟られないようにそっと拭うと、あかねの母は静かに部屋を出ていった。

 後に残った乱馬は、ふっと目を落として、傍で眠るあかねにそっと声をかけた。
「あかね…いい母さんだな。おまえはずっと俺が守ってやるからな…。いつまでも俺の傍、離れるんじゃあねえぞ…・。」
「ん…。」
 あかねは軽く息を吐くと寝返りを打った。


十、

 翌朝、乱馬は早くに天道家を出ることになった。まだ、子供達が起きあがらないうちにと思っていたが、子供の起床は簡単なものではない。乱馬の気配にあかねが早くに蒲団を抜け出してきた。
「お兄ちゃん、もう帰っちゃうの?」
 眠そうな目を擦りながら、寂しげに乱馬を見詰める。
「ああ、またな…。いつまでもここにいたら、未来のおまえが寂しがるからな。」
「ちょっと待ってて。」
 あかねはパジャマのまま、表に飛び出して行く。
「乱馬さん、いろいろとありがとう。あなたに会えて良かった、本当によかった。」
 あかねの母は乱馬を見据えてそう言った。それには答えずに乱馬はただ微笑み返した。
「お兄ちゃん、これあげる…。いいでしょ?お母さん。」
 あかねの手には庭先で咲いていたのか、薄ピンクのコスモスの花が何輪か握られていた。
「プレゼント?気が利くわね。あかねちゃん。」
 母はにこやかに語り掛ける。
「ねえ、お兄ちゃん、あのね…。」
 あかねは後ろ手に花を持ってもじもじしながら話し掛けてきた。
 乱馬は目線をあかねに合わせるようにひざまずく。
「ん?」
「あかね、いつかお兄ちゃんのお嫁さんにしてくれる?」
「ああ、俺なんかで良かったらな。」
 幼いあかねの素直さに翻弄されながら、いつしか乱馬は小さな許婚をしっかりと抱きしめていた。
「良かったわね、あかねちゃん。」
 あかねの母はそんな二人を楽しげに見詰めていた。
 暫らくあかねを抱いた後で、乱馬は離れ際にそっとあかねの右頬に軽くキッスをした。
「十二年後に、また、会おう…な。あかね。」
 乱馬はそう耳元で囁いた。
 何のことを言われているのか、あかねには多分理解できなかったろう。が、
「うん。」
 乱馬の耳にはちゃんとあかねの返事が響いていた。
「お兄ちゃん、これ、持っていってね。」
 あかねは摘んできた秋桜を乱馬に差し出した。
「それじゃあ、おばさん、いや、お義母(かあ)さん、俺はこれで…。」
「ありがとう、乱馬くん…。私も少しでも長く子供たちといられるように精一杯生きてみます。未来のあの子をよろしく…。」
 あかねの母は光るような笑顔で乱馬に答えた。
 軽く会釈すると乱馬は天道家の門を出た。


「待ってたぞ…ぼちぼち時間を元に戻してやろう…どうだった?過去の世界は…」
 門の外には男の子が笑いながら待っていた。
「ちゃんと、元の世界に帰せよ…じゃないと、俺はうそつきになっちまうんだからな…。」
「任せときな…へまはしない。それ…。」
 再び、地面に大きな穴が開き、乱馬は男の子と一緒にそこへ吸い込まれて行く。
 …バイバイ、小さいあかね…


 乱馬を見送ったあかねとその母はこんな会話をしていることだろう。
「お母さん、きっとお兄ちゃんにまた会えるよね…。」
「会えるわ…。あかね。今度回り逢ったら、あの人の傍、離れちゃダメよ。」 
「どうして?」
「あの人は、あかねの大切な…そう、大切な人になるから。」 
「大切な人?お母さんみたいに?」
「…ううん、お母さんのお父さんみたいに…よ。」
「お父さんみたいに?」
「そう…。いつも、見守ってくれる暖かい太陽みたいな人になるから…。」



つづく



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