◇秋桜   三


五、

 風呂から上がると、乱馬は用意されていた浴衣に着替えた。
「主人のもので悪いんですけどね。あなたの着衣は洗濯してますからね。」
 と断わりを入れるあかねの母だった。
 着衣してみると、案外ぴったりしていた。

 夕飯は心尽くしの料理が並べられていた。
 この屋の主、天道早雲は、夕刻、出掛けて行ってしまい、今夜は不在だという。乱馬の父、早乙女玄馬に会いに行っているのだ。
「何にも物珍しいものはないんですけど。子供達も手伝ってくれたんですよ。」
 とあかねの母はにこやかに言った。
「ありがとうございます…。こんなにしてもらって…。」
 乱馬はすっかり恐縮していた。見ず知らずの自分に対しての礼を改めて思い知る乱馬だった。
 皿の中央を見ると、どうやらあかねが手伝ったような形跡のコロッケもある。形がなんとなく歪(いびつ)で、明かに回りのコロッケと全然違った。
「あかねまで手伝うんだから。あかねのは食べると調子が悪くなるかもよ…お兄ちゃん。」
 口の悪いなびきがくすくす笑う。
「なびきねえちゃんの意地悪。あかねだって頑張って作ったんだから。」
 あかねが口を尖らせる。
「ちゃんと食べてね…お兄ちゃん。」
 あかねの味音痴にはいつも手を焼いている乱馬だったが、無下に扱う訳にも行かず、
「ああ。」
と、頷いた。
 かいがいしく、母親に混じってお茶碗をついだり、湯のみを用意したりと動き回るあかね。乱馬はそんなあかねを優しく見詰める母親の視線を肌いっぱいに感じていた。あかねの母は微笑みながらあかねを見守り、彼女の気の済むようにさせているように見えたのだ。
 そんな様子を見て、少し複雑になりゆく自分の感情を感じた。
 そう、自分の来た十三年後に、あかねの母の存在は無い。きっとそう遠くない将来に天に召されるのだろう。屈託の無い少女達の立ち居振舞いに乱馬は複雑な思いを起こさずにはいられなかった。母の愛情をいっぱい感じて、輝いているあかねの瞳。その輝きが曇る日が来る。
「あかね、お兄ちゃんの傍で食べていい?」
 あかねが母の同意を求めた。
「いいわよ。ホントにあかねは乱太さんのことが気に入っているのね。」
 母が答えると、座蒲団を自分で引き摺りながらあかねはちょこんと乱馬の傍に座った。ちょうど、13年後の食卓の位置関係と同じだった。
 自分の空間に、小さなあかねが座っている…乱馬はそんな感触を知らず知らずに楽しんでいた。自然、あかねに愛情いっぱい微笑み掛ける乱馬。そんな乱馬の優しき目を、あかねの母は見逃してはいなかった。
「乱太さんもあかねのことが気に入って下さってるみたいね。こんな小さな子供に懐かれるなんて、ご迷惑じゃないかしら。」
 あかねの母は穏やかに話し掛けてくる。
「いえ、別に…。」
 まさか、自分はあかねの許婚だということを告げるわけにもいかず、乱馬は頭をしきりに掻いた。
「ホント、あかねはガキなんだから…。」
「なびきちゃん、口が悪いわよ。」
 なびきとかすみのやり取りを聞き流しながら、乱馬は勧められるままに箸をつける。
「お父さんがいたら、もっと楽しいのに…。」
 かすみがポツンと言った。
「しょうがないわよ。お父さん、修行ですもの。また、たくさんお土産を持って帰ってくるわよ。」
 母がとりなすと、
「お土産かあ…楽しみだわ。」
と、唯金唯物主義のなびきが嬉しそうに微笑む。
 乱馬の箸はあかねの作ったと思われる物体の前で止まる。
…どうしよう…
 乱馬にとっては苦渋の選択だった。箸を避けるとあかねが傷つくだろうし、あかねの不器用さを知っているのかと母親に変に正体を勘ぐられるかもしれない。
…ええいっ!ままよ!…
 乱馬は勢い良くコロッケと思われる物体を取り皿に取ると、口に流し込んだ。
「…・!!!」
 予想通りの結果が彼の脳天を襲う。
 おまけに咽喉が詰まりそうになった。
 涙目になりながら我慢して、お茶と一緒に胃袋へと流し込む。
「食べたのね…お兄さん。」
 かすみが静かに言った。
 なびきが呆れたと言わんばかりに覗きこむ。
「勇気あるわねえ…お兄ちゃん。」
 なびきは続けざまに言う。
「ありがとう、乱太さん。」
 あかねの母はそう言って、おかわりのお茶を差し出す。
 あかねだけは、自分の料理の真骨頂が分らずに、乱馬の隣ではしゃいでいた。
…てへっ!やっぱり、こいつはあかねだなあ…
 乱馬は末期的な後味に酔いしれながら、あかねの方をちらりと向きやった。あかねの料理音痴、味音痴は天性のものだと言う事が証明されたのだ。
…俺、一生、この料理に付き合わされるんだなあ…
 感慨とも辛労とも言える複雑怪奇な思いを巡らしながら、乱馬はあかねを見詰めた。不幸中の幸いはあかねの作ったと思われる奇怪な料理は、それ一つきりだったことだ。あかねの母もその辺りは心得ていたのかもしれない。

 天道家の楽しい食卓は半時ほど続いた。
 その間にも、乱馬は子供達の質問攻めに合いながら、なんとか自分の正体についてはのらりくらりと上手く誤魔化していたのだった。「武道修行中の高校生」ということでなんとか凌いだ。
 

六、
 
 団欒が終わると、子供達の相手をして、カードゲームに嵩じた。
 子供というものは実に無邪気なもので、お客さまが来るとそれなりに張り切ってしまうものだった。過去の世界は、十三年後と違って、暦の都合上、秋分の日が一日ずれていて、明日が国民の休日ということになっていた。だからなのかも知れないが、この日の天道家の娘たちは、嬉々として、遊びに嵩じる余裕があった。
 ババ抜き、神経衰弱、七並べ…他愛の無い、トランプカードのゲームが続いた。まだ、年端のいかない子供達相手なので、「ポーカー」や「株」といった博打性の強いゲームはさすがにやらなかった。ただ、なびきだけはそんなゲームをもうルールともに知っていて、やりたがったことを付け加えておこう。…自ら「金の奴隷」を自負する娘の幼児期だけあって、五歳にして、もう、その辺りの金銭感覚、博打感覚を持ち合わせているのは流石と言うほかにない。
 乱馬は顔にすぐ出る性質(たち)というのは、博打王キングの時に露見しているように、相手が子供でも、結構いい勝負になった。なびきより弱かったかもしれない。彼の名誉のためにここで詳しく言及するのはやめておこう。
 ただ、気になったのは、外の喧騒である。トランプ遊びに嵩じている間中、あちこちで緊急車輌の音がファンファンと響き渡っていたことだ。
「何かしらねえ…さっきからうるさいわ。」
 かすみが気にしながらカードを切る。
「テレビで銀行強盗の二人組が逃げたとか言ってたわね。この辺りを逃げているそうよ。気をつけないとね。」
 縫い物をしながらあかねの母はそれに答えた。
 天道家の夜は更けてゆく。
 
 多分に洩れず、一番最初にエンジンが切れたのはあかねであった。
 子供と言うものは、眠くなると、途端に機嫌が悪くなるものである。彼女の場合も、なびきと衝突する機会が増え始めた。
「もう、おやすみなさい。あかね、なびき。かすみ。」
 母親がちょっとした衝突の往来に見るに見兼ねて声を掛けてきた。
「もう少し遊んでいたいなあ…。」
 眠い目を擦りながら、あかねもなびきも抵抗しようとしたが、午後9時というのが限界のようだった。もちろん、乱馬にとってはまだ宵の口であったが。
「ねえ、お母さん、あかね、お兄ちゃんと一緒に寝てもいい?」
 あかねは眠い目を擦りながら訊いてきた。
「でも、まだ、乱太さんは眠る時間でもないでしょうに…。」
「あかねったらホントにワガママなんだから。」 
 かすみとなびきに意見されてちょっとすねてみるあかねだった。
「だって…。」
「困った子ね…。」
 母はどうしたものかと困惑顔を乱馬に向けた。
「別にいいぜ。今日しか泊まらねえし…。」
 という訳で、客間として宛がわれた部屋であかねと枕を並べることになった乱馬だった。客間は居間の隣。十三年後の天道家では八宝斎の爺さんが宛がわれている南向きの部屋だった。
 蒲団を敷いて横になると、そのまますぐに寝息をたてはじめるあかね。
 乱馬は横で右肘を付き寝転がる。そして、その寝顔を飽くこと無く眺めながら静かに話し掛ける。
「なんで、おまえ、俺にこんなに懐いちまったんだ?…十三年後のおまえはいつも俺に突っかかってくるのに。そんな飾らない素顔は滅多に、俺の前には出さねえくせに。」
 柔らかなあかねの髪にそっと手を触れてみた。邪見のない幸せな寝顔。小さなあかねに対する愛しさは、波を打つように乱馬の胸を覆い尽くす。
 
 静かな虫の鳴き声が外から聞こえてくる。

 その時、襖の外から声が聞こえてきた。

「乱太さん、お休み前にお茶でもいかが…?」
 あかねの母だった。
「あ、はい。いただきます。」
 乱馬は慌ててあかねから手を離すと、そっと蒲団を抜け出して隣の居間へ移っていった。

「初対面のあなたにはお世話になりっぱなしで、なんて感謝したらいいんだか…。」
 あかねの母は日本茶を注ぎながら乱馬に話し掛ける。
「あかねが、何故かあなたのことを気に入ったみたいで…。人見知りが激しくて、とても初対面の方に自分から懐くような性格をしていなかったんですけどね。なんだかあなたに対しては特別な感情を持っているみたいで。」
 あかねの母は澄んだ瞳で乱馬を見詰めた。そして、そっとお茶の入った湯のみを乱馬にすすめる。
 軽く会釈して、乱馬はお茶を受け取った。
「こっちこそ、ずうずうしく上がりこんで、その上、泊めていただいて…助かりました。今夜は野宿だと思っていたんで。」
「あの、乱太さん、つかぬ事をお伺いしますけど、ホントにあかねたちとは初対面なのでしょうか?」
「え?」
「あ、いえ、あなたの仕草を見ていると、とても初めてあの子達に会ったように見受けられなかったもので…。前からあの子達のことをご存知のような。もし宜しければ本当のことをお話しいただけませんか?」
 あかねの母は真っ直ぐに乱馬を見詰めた。
 それは母親の勘だったのかもしれない。
 乱馬はすすっていたお茶をトンとテーブルに置いた。本当のことを話したものか、話したとして、信じて貰えるのか…乱馬には自信がなかった。それに、どのように話せばいいのかも見当がつかなかった。乱馬は一瞬戸惑ったのだった。

 ガタンッ!!

 その時だった。庭先で何か大きな音がした。

「だあれ?」
 あかねの母は、不審に思い、立ち上がって縁側から音の方を覗く。
「あっ!」
 あかねの母は物音の主を見て、小さな悲鳴を上げた。
「おばさんっ!どうしたんです?」 
 あかねの母の様子がおかしいので乱馬は駈け寄る素振りを見せた。

 異変が天道家を襲おうとしていた。


七、

「静かにしろっ!!」 
 軒先からドスのきいた男の声が響いた。
「騒ぎ立てるなよ…へへへ。」
 もう一人いるらしく、あかねの母に向かって出刃包丁を突き付ける。
「な…。」
 あかねの母は蒼白になった。
「誰だっ!おめえらっ!」
 乱馬は後ろで構えながら問い掛ける。
「なあに、ちょいと銀行に押し入ってドジッちまったケチな野郎二人よ。静かにしなっ!騒ぎ立てるとこのナイフが黙っちゃあいねえぜ。へへへ。」
 闇の中から覆面をした男が顔を出した。見るからに凶悪そうな恰好をしていた。
「悪いが、おまえさんたちには人質になってもらって、俺たちが安全にずらかろうってわけだ。運が悪かったと諦めな…。」
 もう一人は飛び道具を持って現れた。
 乱馬の見たところ、二人とも武道の嗜みもなさそうで、隙をつければ簡単にねじ伏せられると思った。が、凶器をあかねの母に向けている以上、ここは慎重にならなければならないと、自分に言い聞かせた。
「へへへ…大人しくしてろよ…。そしたら別に命まで奪おうとは言わねえからよ。」
 男たちは土足で縁側から家へと上がりこんできた。
 乱馬は男たちに悟られないように、静かに隙を伺いながら「闘気」を身体に漲らせはじめた。その眼光は鷹のように鋭く二人の男を見詰めていた。
「なんだ?てめえ、やろうっていうのか?へへへ。大人しくしておいた方が身のためってもんだぜ。」
 乱馬の視線に気付いた一人が牽制をかける。
 
「お母さん、おしっこ…。」
 間が悪く、そこへ襖が開いて、あかねが目を擦りながら居間へ入って来た。
「あかねっ!だめっっ!!こっちへ来ないでっ!!」
 母の悲鳴が上がる。
「やん、だあれ?この人だち…。」
 あかねは回りの状況がおかしいことに気付いて後ずさり始める。
「へへっおあつらい向きにガキまでいやがる。ほれ、そいつを捕まえてふん縛れっ!」
 飛び道具を持った方の男が、もう一人を支持した。
「いやあ…。」
 あかねが悲鳴を上げたのと、乱馬が気合を吐いたのは殆ど同時だった。

「あかねに触れるな…。」
 静かだが魂の底から湧き上がるような絞り声を上げる乱馬。
 男たちは
「あん?なんだって?兄ちゃん…。」
 乱馬の言葉が良く聞こえなかったのか一人の男が訊き返す。
「俺のあかねに指一本触れるな…触れたらおめえらタダじゃあおかねえっ!」
 乱馬は睨みながら男たちに威勢を張る。
「寝言言ってんじゃあねえよ…。兄ちゃん。これが見えねえのか?」
 男は武器を手にしている優越感をちらつかせて、軽く鼻で乱馬を嘲り笑った。
 あかねは足がすくんだのか、そのままへたへたと畳の上に尻餅をついてしまった。恐怖で顔は引き攣っている。
「へへへ、お嬢ちゃん、いい子だからちょっと大人しくオジさんの所へ来な…。ほうら。」
 出刃包丁を持った男が、足がすくんで動けないあかねの方へと歩みを進めた瞬間、乱馬は再び渾身から叫んだ。
「俺の許婚に触れるなと言ってるだろうがっ!!」
 乱馬は瞬時に溜めていた「闘気」を爆発させた。鍛えぬかれた身体から発せられる闘気は男たちを一瞬にして貫く。
 凶器を手にしていても、男たちは乱馬に敵ではなかった。ただ、あかねの出現で、乱馬が熱くなった分だけ冷静さを欠いてしまい、男の振り上げた出刃包丁の切先が少しだけ乱馬の右腕をかすったことを除いては…。
 男たちは乱馬の強拳に無残にも崩れ去った。乱馬は冷静さを失った分、もちろん手加減も欠けてしまい、気の毒にもズタボロにのされてしまったが。
「へっ!あかねを怖がらせた天罰でぃっ!」
 乱馬は吐き捨てるように言って二人組をふん縛った。そして、あかねの母が呼んだ警察に二人を突き出すと、何事も無かったように天道家はまた静けさに包まれた。
 あかねの母の配慮で、警察には静かに入ってもらい、事情聴取は夜が明けてからということになったのだった。



つづく



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