◇秋桜   二


三、

「ねえ、お兄ちゃん、あかねにも武道を教えてっ!」
 小さな道着に着替えて来たあかねが乱馬の手を引っ張った。余程、さっきの組み手に感銘を受けたらしい。尊敬してやまない父をいとも簡単に払いのけた乱馬は、あかねにとってとても頼もしく見えたのか、それとも、いずれ目の前の若き武道家を愛することになる予感が働いていたのか。
「じゃあ、少し組んでみるか?」
 特にやることもないので、乱馬はあかねの相手をしてやることにした。
「あかねも、物好きねえ…。武道の何処がそんなに面白いんだか…。」
 なびきは子供心にも冷めた目で見ていて、一文の得にもならないという風に、姉のかすみと共に道場を出て行った。
「あかねちゃん、よかったわね。じゃあ、乱太さん、この子を頼みますわ。」
 あかねの母もにこにこ笑いながら道場から出て行った。

「構えてみなっ!」
 乱馬はあかねに声をかけた。
 あかねは乱馬に促がされて、一息呼吸を入れると、左足を後ろに引いて「よーいどん」の体型よろしく、腰を引いて構えた。
「打って来なっ。」
 乱馬はあかねの前に立ちはだかって同じように身構える。
「えいっ!やあっ!」
 あかねは元気よく飛び出して、短い手足を懸命に動かして、乱馬目掛けて激を飛ばす。当然のことながら、乱馬の敵ではない。乱馬は軽く避けながら、あかねの動きを見守った。
 小さいと言えども、武道の筋はきらめく物がある。基本から早雲に叩き込まれているのだろう。まだ、身体がついて来ていないが、手足は滑らかに動いていた。
 何より、乱馬が感心したのは、「無差別格闘流」の流儀の基本体型が、早乙女流も天道流もそう変わらないことだった。あかねの小さい体から繰り返される動きは、早乙女流のそれと大差ない。あかねと日頃組み手していても感じることがあったが、やはり、兄弟流儀だということを乱馬は改めて実感していた。あかねの動きを素早く見切れるのも、次の行動が読めるのも、ひょっとすると兄弟流儀だからなのかもしれないと乱馬は思った。小さなあかねは、十七歳のあかねよりも数倍動きが素直で真っ直ぐだ。
 乱馬はあかねの動きを読みながら、決して蹴りも拳も自分の方からは振り上げなかった。そして、道場の壁際に来ると、ひらりと身をかわして、目前に迫る小さなあかねの頭上を飛び越えてすとんと降り立った。
 乱馬目掛けて打ち込んだ拳は、道場の壁に打ち込まれる。
「いったっぁい。」
 あかねは小さく悲鳴を上げる。
 十七歳のあかねなら道場の板を軽く打ち破る拳も、さすがに五歳やそこらなら、まだ打ち破るまでには至らなかった。
「あ…。ごめんごめん。おめえ、まだ、そんなに力なかったんだな…。」
 ついつい、いつものクセであかねをいなしていた乱馬は背後から覗き込んだ。
 そして、あかねの左手を取る。
「大丈夫かあ?いたくねえか?」
 乱馬の大きな手があかねの小さな手に触れた。
「うん、大丈夫よ。ちょっと痛かったけど、あかねは強くなりたいから泣かないの…。」
 そう言ってにっこりと微笑む。
 …かわいい…
 一瞬、あかねの笑顔にクラッと来た。
 …っと、いけねえ。まだこんな子供なのに…
 慌てて感情を押し込めると、
「まだ、力のコントロールが上手く出来ていないんだな。おまえ、ブロックや瓦割ったことあるか?」
乱馬はあかねに向かって訊いてみた。
「うううん。やったことない。お兄ちゃん何枚くらい割れるの?」
 あかねが目を輝かせて尋ね返した。
「何枚かなあ…数えたこと無いけど、瓦なら10枚は軽く行けるけど。」
「す、すごい。お父さんでも8枚くらいなのに…。」
「見せてやろうか?」
「うんっ!!」
 乱馬はあかねを連れて、表に出た。いつも、あかねがストレスが溜まってくるとブロックを割っている道場の脇だ。
 抱えてきた瓦をブロックに10枚ほど積み上げると、一つ深呼吸をして、精神を集中させ、一気に右手を振り下ろす。
 ガシャッ!!
 目の前の瓦は下に敷いたブロックごと見事に真っ二つになっていた。
「すごい…。こんなに切り口がきれい。」
 あかねは目を見張った。
「ごく自然な力の反動を利用すれば、おめえだってすぐに割れるようになるさ。」
 乱馬はにこにこしながらあかねに答える。
「ねえ、あかねもやってみていい?」
「一枚からやってみるか?」
 真っ二つに割れたブロックを少し透間を空けて並べると、その上に瓦を一枚乗せた。瓦が割れて、あかねが怪我をしないように乱馬の配慮だった。
「いいか、振り下ろす時は一気にいくんだぞ。と中で迷ったら、絶対に割れないからな。」
「うん。」
「気合を溜めて、ここ一点に集中するんだ。息を思いっきり吸って、吐いて。そして止めて一気にだぞ。」
  あかねは乱馬の指示通りに深呼吸し、思いきり良く右手を振り下ろした。
 バリンッ!!
 瓦は勢い良く割れた。
「やったじゃねえか…よしよし。これからも、時々やってみな。」
 乱馬はあかねの頭をくしゃっと撫でてやった。
「やった、やった。初めて割れた。」
 無邪気に喜ぶあかね。
 そこへ、かすみがひょこっと覗いた。
「お風呂が沸きましたって…。乱太さん、どうぞ。」
「あのネ、お姉ちゃん、あかね、瓦が割れるようになったんだよ。」
 あかねは余程嬉しかったのだろう。武道に興味をまったく示さない姉にまで自慢げに話し掛ける。
「あらあら、良かったわね。あかねちゃん。」
 かすみはまだ幼くてもかすみだった。穏やかに妹の快進撃を誉める。
「できたからって、何の得にもならないのにね…。」
 後ろからなびきが覗いた。
…可愛げのねえ奴…
 乱馬はなびきのらしい言葉にひたすら感心していた。
「三つ子の魂、百までも」とは良く言ったもので、こんなに幼くても、重々、乱馬の居候している時代の姉妹たちの性格は、全く変わりが無かったのだった。


四、

「ここに着替えとタオルを置いておきますからね。一汗かいて洋服も汚れているでしょうから洗っておきますね。まだ、気温も高いからすぐに乾くと思いますから。」
 洗面所の前で、母親が乱馬に声を掛けた。
「ありがとうございます。」
 乱馬は一通り礼を言ってから、脱衣所で脱ぎ始めた。もう、秋だとは言え、一汗かいた後は衣服も何処と無く汗臭い。ふっと一息ついて、ガラガラと引戸を開けた。
 風呂場の雰囲気は乱馬が居候している時代と何一つ変わっていない。むしろ、今立たされている立場が不思議に思えるくらい、普段の入浴と変わらない空間だった。
…男の俺って、ここではじめてあいつと対面したんだっけ…
 ふと甦るあかねとの出会いの記憶。
 通り雨に打たれて女に変身してしまっていた乱馬は、初めて天道家に上がったとき、ここで男に戻ったのだった。そこへ、女の子だと思い込んでいたあかねが入って来て…
…そりゃあ、女と思って入った風呂に男がいたら誰だってビックリするのは当たり前だよな…
 そんな思い出を甦らせながら軽く打ち水を済ませると、浴槽に身を沈めた。
 ガラガラッ!
 いきなり引戸が開いて、そこにちょこんとあかねが立っていた。
「ねえ、あかねも一緒に入っていい?」 
 勢い良く乱入してきたあかねに乱馬はそのままズブズブっと沈み掛けた。
「一緒にって、お、おいっ!」
 乱馬は一瞬戸惑いの言葉を投げたが一向にお構い無しで、さっさとあかねは浴室に入って来てしまっていた。
「乱太さん、あかねがどうしてもって聞かないの。ご迷惑じゃなかったら一緒に入れてやって戴けます?」
 引戸の向こうであかねの母の声がした。
「え、あ、はい。」
 乱馬は咄嗟に承諾の返事を入れた。
「ありがとうございます。あかね、良かったわね。乱太さんと入りたいってワガママばかり言うんだから。じゃあ、お願いします。」
 母はそう声を掛け、頭(こうべ)を垂れるとると向こうへ行ってしまった。

 子供とは、兎角(とかく)、無邪気なものだ。未就学児にとっては、男湯も女湯もたいして問題ではない。女湯に入ってくる男の子も、男湯に入ってくる女の子も多々いる。当の小さなあかねも目の前の乱馬を「男」として認識してない。「男」として見ていると言うより、「優しいお兄ちゃん」として見ているに過ぎないのだろう。
…まあ、いいか。相手は年端も行かない子供だし…
 苦笑しながらも乱馬は小さなあかねを入れてやることに同意した。
「ねえ、洗いっこしていい?お兄ちゃんの背中流して上げる。」
 あかねはそう言って石鹸をタオルに擦り付けてごしごし遣り出した。
「あかね、上手いでしょ?いつもお父さんの背中洗ってあげてるんだ。」
 そう言いながら無心に手を動かしてくれる。乱馬はなんだかとてもくすぐったい気持ちになって行くのを感じていた。
…こんなことがあいつにばれたら何て言うんだろうなあ…
 ぼんやり考えていると、いきなり背後から水を掛けられた。

「ち、ちめてえーっ!!」

 乱馬は次の瞬間「女」に変身を遂げていた。
「お兄ちゃん?」
 あかねは少し戸惑い掛けた。
…い、いけねーっ!…
 らんまは慌てて湯をかぶる。
「あれ?今、お兄ちゃんがお姉ちゃんに見えたけど…」
 あかねはきょとんとして見詰めていた。
「あん?どうした?寝ぼけたか?」
 乱馬は必死で知らんぷりを装った。そうやって場を擦り抜けるしかないだろう。
「ううん…いいの。あかねのオメメが悪かったみたい。」
 あかねはそう言って、また手を動かし始めた。元来、鈍いあかねだ。まだ、Pちゃんの正体にも気付いていない鈍さだ。これで多分、誤魔化せただろう。乱馬はほっと胸を撫で下ろした。
…それにしても、こいつの懐き方って…
 今の今まで、こんなに幼児に懐かれたことはない。回りに幼児がいないせいもあったが、それにしても、あかねの懐き方は…
 乱馬はそれなりに困惑していた。
「ねえ、今度はあかねの番ね。お兄ちゃん。」
 あかねは乱馬に振り向くとにこにこしながらタオルを渡した。
「オッケー、後ろ向きなっ!」
 乱馬はタオルを取ると、あかねの小さな背中を擦り始めた。
…何か変な感じだな…
 目の前の子があかねだと思うと、不思議な気がした。
…俺の子供だって思っちまえばいいのかな…でも、顔つきはまんま、あかねだから、俺とあかねの…って思っちまうしなあ…
 小さな背中を擦りながら、そんなとりとめもないことを考えてしまい思わず赤面してしまう。
「さて、今度は頭を洗ってやろうか?」
 乱馬がシャンプーを持つと、あかねの顔が曇った。
「どうした?」
 あかねの様子がおかしかったので訊き返すと
「髪の毛洗うの嫌いなんだ、あかね…。」
 と小さく答える。
「へっ?」
「だって目を瞑(つぶ)るの怖いし…。目を開けてたら染みちゃうもん。」
…そっかあ…こいつ泳げねえし、余計、怖いんだな…
 もじもじしているあかねを他所に、乱馬は声をかける。
「だからって洗わねえワケにもいかねえだろ?目を瞑るの怖いのか?」
「うん、だって真っ暗だし。シャンプーって嫌いっ!」
 乱馬はシャンプーにあの中国娘のシャンプーを重ねてしまい、つい吹き出しそうになった。あかねは多分、中国娘のシャンプーが苦手だろう。言い寄られている時の不機嫌さも小太刀や右京以上だから。
「あかねはシャンプーが嫌いかあ…だったら、楽しいこと考えてたらいいじゃんか。ほら、目ェ瞑ってみな。」
 乱馬は嫌がるあかねを促がす。
「でも…洗うのイヤだな…」
「俺はちゃんとシャンプーした方がいいと思うけどな。」
「なんで?」
「シャンプーした匂いのする髪の毛ってさらさらしてて好きだから。」
 そして乱馬は自分のおさげを解くとおもむろにシャンプーし始めた。
「全然平気だろ?ほら。」
 乱馬は一気に泡立てるとシャワーで洗い流す。
「こうやって下向いて目を閉じて、楽しいこと考えてたらあっという間に終わるし…。」
 泡を切ると、乱馬は長い髪を滴らせながら笑った。そして、慣れた手つきでさっさと三つ編みを編んでゆく。
「お兄ちゃんって凄いね…強いし、何でもできる。」
「おまえだって充分強くなれるぜ。」
「ホント?」
「ああ、俺なんかいっつもやられっぱなしだもんなあ、おまえに…。」
 口が滑ると、あかねが不思議そうな顔をして見詰めた。
「あいや。深い意味はない。」
 乱馬は慌てて打ち消した。
「じゃあ、あかねも、我慢してみる。」
「偉いぞっ!」
 乱馬はあかねのさらさらした髪を洗ってやる。あかねはしっかり目を瞑って耐えているという感じだった。子供というのはチョットしたことが苦手だったりするものだ。
…ホントに幾つになっても、俺に対してこれくらい素直だったら…
 乱馬はそんなあかねを見ながら溜息が漏れるのを感じた。
「ホラ、流すぞ…しっかり目ぇ閉じてろよ。」
「うん。」
 乱馬は一気に頭の上から湯を流し始める。
楽しいこと考えてたらすぐ終わるからなあ…。」
「うん。」
 滴り落ちる湯に耐えながらあかねはしっかりと目を閉じ続ける。
「ホラ、後少し…終わった。ほれタオル。」
 固く絞ったタオルを渡すとあかねはすぐさま顔を拭いた。
 そして目を開くと乱馬を見て微笑んだ。
 その笑顔の眩しさを仰視できずに乱馬は思わず視線を外す。
「お兄ちゃん、ずっとここにいてくれたらいいな…。」
 湯船に浸かりながらあかねは屈託無く話し掛けてくる。
「ずっとそばにいてやりたいけど、それは、ダメだな。」
 乱馬は歯切れ悪く言い放つ。
「どうして?」
「おめえ今幾つだ?」
「んと、これだけ。」
 と言ってあかねは手を四つに広げた。
「四歳かあ…だったら十三年後の、十七歳のおまえが寂しがるから。」
「十三年後?」
「ああ、十二年後十六歳のおまえとまた出会うんだ。ここでな。」
「十二年後?ホントに十二年経ったらあかねとずっと一緒にいてくれるようになるの?」
「疑りぶかいところはちっとも変わってねえなあ…」
 乱馬はあかねの鼻っ柱を突付いて言った。
「十二年経ったら、おまえは俺の大切な許婚になるんだ…」
「いいなずけ?なあにそれ…」
「何でもないよ…まだ知らなくってもいい。でも、今度…十二年後に出会ったらずっと一緒にいるよ。だから、今はダメだ。」
「お兄ちゃんの言ってること、あかね、よくわかんない…。」
「そうだな、まだ、おまえには難しい話しだな…。」
 そう言って乱馬は笑った。
「なあ、十二まで数えられるか?」
 乱馬は無造作にそう訊き返した。
「うん、たぶん。」
「じゃあ十二まで暖まったら出ようぜ。ほら。」
「ひとーつ、ふたーつ、みっつ、よっつ…。」
 あかねは指を折りながら元気良く数え出した。
「いつーつ、ええっとむっつ、ななーつ、やっつ…」
舌足らずの数え方で読み上げて行く。
「ここのつ、とおっ、」
 指がなくなると、諳(そら)んじて続けた
「じゅういち…じゅうにっ!」
「ほら、出るぞっ!」 
 湯煙が上がって、二人で浴槽から出た。
「お母さーんっ!出たよーっ!」
  あかねは元気良く母の名を呼んでタオルを引っかけると、一目散に風呂場から飛び出した。

「十二年後、ちゃんとここでおまえと出会うから…それまで、待ってろ…。そしたらずっと一緒にいてやるからな…。」
 乱馬はタオルで滴る水滴を拭き取りながら、小さなあかねの背中にそう言いかけて、乱馬は軽く微笑んだ。

…ふうっ!のぼせちまったかなあ…

 乱馬は涼やかな秋風を浴室の窓から取り入れながら、夕焼け雲を眺めた。
 夕焼け雲は茜色に染まりながら、残り陽を受けて輝いて見えた。


つづく




一之瀬的戯言

 作者としては、乱馬と小さなあかねのやりとりが結構気に入っている初期作品です。
 この微笑ましいカップルのやりとりはしばらく続きます。

 この作品の幼いあかねに対するやり取りの幾つかは私の子育ての実体験からプロットを組んでいます。
 シャンプーのエピソードもそうです。人にもよるのでしょうがシャンプーハットというものは案外使い辛いんですよ。
 子供持つと分ると思いますが、お風呂も一騒動です。数を覚えさせるのもお風呂が最適ですよ…
 今回使いませんでしたが、シャンプーを泡立てたのを「アイスクリーム作ろうっ!」などと言いながらあやして洗っていた私。
 子供の恐怖心をとるのは、母親の腕の見せ所といったところかな?

 作品世界の設定はご覧のとおり、あかね四歳、なびき五歳、かすみ七歳(小学校一年生?)、母親は三十一歳といったところです…
 前に別の作品(「ひこうき雲」)で母親は享年三十三歳(実年齢は三十二歳)と創作してますのでそれにあわせてあります。
 もちろん原作には天道家の母親については名前も没年齢も言及されてませんでした。あくまで私の創作ですからご了承下さい。


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