◇十六夜月  一、あかね編


 十六夜月が天上高く昇った。その光りはまるで異世界への扉が開かれるかの如く、清新と地面を照らしつける。
 その月明かりの元、あかねは静かに惰眠を貪る。

 

「もう、私はお暇乞(いとまご)いをしなければ、なりません。短い間でしたが、ありがとうございました。」
 あかね姫は奥座敷の片隅で、育ててくれた早雲の翁(おきな)に別れを告げる。
「何をそんな、気弱なことを…。おまえは帝(みかど)から見染められた大事な身の上、私が行かせはせぬ。」
 白髪が混じった黒髪を乱しながら、早雲の翁はあかね姫をしっかりと抱きしめた。
 外には幾百人あろうかという、公達(きんだち)、武人たちの警護。手には弓矢、薙刀、長槍を携え、天に向かって睨みを利かす。いずれも、都中から集めに集められたつわものばかりだ。
 あかね姫は嬉しい反面、複雑な面持ちで育ての父、早雲の翁を見やった。
 月の世界から下されて幾年月。茜色に染まる竹の中から生まれたというので、「あかね姫」と名付けられた。腰先まで伸びた長い髪は光沢を称え、紅さす唇は丹精で、誰彼とも無く愛されて十有余年を過ごしてきた。年頃になった今、求愛してくる男(おのこ)共は数多(あまた)いて、皆競い合うように恋文を邸内に投げ入れた。
 最近は、帝まで御執心になられ、何度か求婚の誘いがあった。
 でも、あかね姫は誰の求愛も受け入れようとはしなかった。

 心残りは、ただ一つ…。
 この現世(うつしよ)に残す唯一の未練。道端で出会った検非違使(けびいし)の乱馬の君のこと。
 精悍で鍛錬された肉体と、少々乱暴な物言いではあったが、優しさにも満ちた心を持ち、いつしかあかね姫の心をそのまま奪って行った、憎い男。
 息の詰まる貴族社会のお屋敷での生活から逃れるために、あかね姫は時々、お忍びで町に出掛けた。お供の者を一人だけ連れて、町娘を装って屋敷を抜け出す。勿論、家長の早雲の翁も知ることがない秘密の散歩であった。
 そう、あれは何時だったか、あかね姫が町の愚連隊どもに取巻かれ、困っていた時にいとも容易く助けてくれた。それから、時々、町娘の恰好をしては、彼にこっそりと会いに出掛けた。会うといっても逢瀬ではなく、彼の警備する町辺りをぶらついて、休憩に訪れる彼と二言三言、言葉を交わすくらいのものではあった。しかし、息詰まる貴族社会の仕来り(しきたり)に辟易していたあかね姫にとって、彼との時間は唯一の息抜であり、自由を味わえる空間であった。
 帝の誘いなど、どうでも良かった。ただ、彼の傍にいられるならそれで。
 これが、世に言う「恋」というものなのだろう…。
 しかしながら、不器用な心はなかなか彼に思いを伝えることができずにいた。愛しているという一言が、彼の前では空回りする。
 絶世の美女とうたわれたあかね姫が相手でも、この物怖じしない男は「かわいくねえ。」を連発する。
 癪に障るが、いつかは「可愛い」と言わしめてみたかった。
 それも、今となっては叶わぬ夢であった。

「あかね姫っ!!」
 帝(注・イメージは九能)が駆けよって来た。
 あかね姫は何故か帝が嫌いであった。できれば言葉すら掛けたく無いと思っていたが、一国の主である以上、無下に扱う訳にもいかなかった。
「朕は絶対、汝を何処へもやらぬぞ…。」
 そう言って抱擁を求めようとする。あかね姫は逃げ腰になりながら、
「いくら帝さまの兵営が優秀でいなさろうとも、月の人々の前では、無力です。お諦めくださいまし…。」
 とつれない言葉を放ってみるのだが、帝は一向に構わぬといった様子で、執拗に敬愛の情を振りまこうとする。
 このような無粋な男と別れられるのなら、天上へ帰るのも致し方なかろうとあかね姫はうんざりとした顔をして後ずさる。
 その時、月明かりが急に光を増した。燭台の蝋燭の火よりも目映い光に、屋敷を守る兵どもがどよめきの声をあげた。
「おのれ、来よったかっ!」
 良いところで邪魔が入った。
 帝はあかね姫を見据えると、
「今夜一晩、汝を守り抜いたなら、妃として迎え入れるからのう。あかね姫。」
 そう言い残して御簾から出ていった。

 いよいよ…。

 あかね姫は輝く月を見ながら深く澱(よど)んだ溜息を吐いた。
 …せめて、彼に会って、一言別れを告げたい…
 
 彼女の心情を思いやったのか、いつも、彼女のお忍びに突いて来る侍女がこっそりと御簾の外に立っていた。
「姫さま、私が暫らくの間、ここで身代わりを勤めます。姫さまは、かの君の所に行かれたいのでございましょう?存分に残された時間をお使いくださりませ。」
「なびきの君。ありがとう。でも、かの人は何処を警護しているかもわからぬまま、出掛けるのは…。」
「大丈夫でございます。彼を先ほど、邸外の竹薮の辺りで見かけました。そこまで行かれれば、きっと出会えます。さ、時間がございませぬ。早くっ!」
「いつもありがとう…なびきの君。これはいつものお礼です。」
 なびきの君はあかね姫が手渡した金子を微笑みながら懐に仕舞い込んだ。
 あかね姫はなびきの君の指図通りに十二単(じゅうにひとえ)を脱ぎ捨て、侍女の姿に身をやつし、夜陰に紛れて表に出た。月は姫を捕らえて、煌煌と照らしつけてくる。足早に、竹薮の方へと急ぐ。
 …一言…一言でいい。彼と言葉を交わしたい…

 「想い」というものは一途になればなるほど、強くなる。あかね姫はひたすら「想い人」を求めてさ迷う。月の光はますます強くなり、別れの時が近いことをあかね姫に予感させた。
 …やはり、このまま、会わずに帰った方がいいのかもしれない…
 あかね姫は心細さに挫けそうになった。何処を探してもあの人は見つからない。
 …戻ろう…
 そう思ったとき、声がした。
「何やってんだよ…こんなとこで…。」
 不機嫌そうに現れたのは乱馬の君。
「今、何時(なんどき)だと思ってる…こんな寂しい所、女一人でうろつくなよ…。」
 あかね姫は、乱馬の君の影を認めると、そのまま、その場にへたり込んでしまった。
「おいっ…お、おまえ…あかね…。」
 突然現れたあかね姫に乱馬の君は驚いた。
「な、なんで、こんな所におまえがいるんだ?」
「話せば長くなります…でも、…最後にあなたにお別れを言いたかった。だから…。」
 あかね姫はそう言うと、涙を落す。
「お別れって…どういう意味だ?なんで、おまえと別れなくちゃならねえんだ?えっ?訳を言え、訳を…。」
 あまりに唐突な言葉に、乱馬の君は思わず声を荒げた。彼は、目の前にいる女が、名にしおう「天道家のあかね姫」ということを知らずにいた。生い立ちも、住むところも見知らぬ。でも、一緒にいるのが心地良くて、逢えた日は仲間から不思議がられるほど気分が良くなった。彼女と会うと心が弾む。心が和む。なのに口から気の利いた言葉は吐いて出ない。いつか、素直な気持ちを打ち明けようと今日まで来た。なのに、突然「お別れ」だという。
「私は…私は、異世界から来た娘。だから、今日、あそこに帰らなければなりませぬ。」
 あかね姫は精一杯、涙を堪えて吐きだした。
「お、おまえ、まさか…天道家のあかね姫…だったのか?」
 乱馬の君は今更ながらに驚きの声を上げる。あかね姫といえば、帝が恋焦がれ求愛するほどの美人の誉れが高かった。その、彼女が、あの跳ねっ返りのあかねと同じ人だったとは…。
 あかね姫はそれには答えずに、ひたすら乱馬の君の目を見詰める。
「できることなら、帰りたくない…このまま、ずっとあなたの傍に侍っていたい…。」
 形の良い唇から、小さな声が洩れ聞こえた。
「なら、帰るなよ…ずっと、俺の傍にいればいい…。」
 乱馬の君はそのまま胸へと抱え込む。身分の違いなど、もう、どうでも良かった。彼女の想いが心に流れ込んだ時、そんな堰は切って落とされていた。彼女を胸に抱きしめた時、彼は己の気持ちの高まりを思い知る。これが世に言う「恋」というものか…。
「運命に逆らうことはできませぬ…。私が望まなくても、迎えは来ます。」
 乱馬の君の逞しい胸に抱かれたまま、あかね姫はむせび泣く。
 そんなか弱い彼女を感じた時、俄然、別れたくないという気持ちが涌いてくる。
「おまえは誰にも渡さねえ・・たとえそれが帝さまだろうが、天女さまだろうが、阿弥陀如来さまだろうが…。」
 竹薮がざわざわ唸り声を上げ始めた。
「もう、迎えはそこまで…。」

 月明かりが黄金の輝きを放ち、天から階段のように降りて来た。その眩しさに思わず目を閉じる。
「さあ、あかね、来なさい。迎えにきましたよ…。」
 目の前には金色の絹の衣を身に付けた(かすみさん顔の)美しい人。菩薩がこの世に転生してきたら、このような感じになるのではないかと思うほど神々しい穏やかな顔立ちをしていた。
 あかねは乱馬の胸に抱かれたまま、微動だにしなかった。それは、無言の抵抗といっても良かったかもしれない。
「否だと言っても、無駄なことはあなたでも良くわかっているでしょうに…。」
 しょうのない子ねえとでも言いたげに天女は顔を曇らせる。
「私、帰りたくない…ここに居たい。」
 あかね姫は好きな人の胸に頭を付けたまま、異を唱えた。
「彼女がそう言い張る以上、ここに置いてはいただけませぬか?」
 乱馬の君は天女を見上げながら懇願の目を向ける。
「あかねは月の世界の人間。あなたはこの地上世界の人間。どうあがいてみたところで、逢い入れぬ示し合わせ。諦めていただくしかありませぬ。」
 天女は笑みを浮かべながらもきっぱりと言い放つ。
 「おねえさま…。私はこの人とずっと一緒にいたい…月には帰りたくありません…。」
 あかね姫が絶唱したのと、月明かりがますますひかり輝き始めて、二人を引き裂こうと力を込め始めたのは殆ど同時であった。地が裂けるような轟音とともに風が吹き渡り、絡めた腕と腕を切り離さんと荒れ狂い出す。
「あかねっ!」
「乱馬っ!」
 互いの名前を呼びながら、二人は離れまじとする。引き離されれば最後、もう、互いに逢い見(まみ)えることもないだろう。
 激しい流動が二人を包み、そのまま天へと持ち上げる。
 所詮、天人の技に叶う筈も無く、虚しく二人は離散する。天には血も涙もないのかもしれない…。

「乱馬ぁーっ!!」




「乱馬ぁーっ!!」



「おいっ!どうした?あかねっ!あかねっ!!」

 目を開けると乱馬が心配そうに覗きこんでいる。
「乱馬っ!!」
 あかねは乱馬に飛びついた。
「お、おいっ!藪から棒に…」
 急に飛びつかれて、乱馬は目を見張った。
「ねえっ!別れたくないのっ!」
 あかねはそう言いながら泣きじゃくり始める。いきなり抱きつかれた乱馬は何が何やら訳がわからぬ体で、あかねを見やる。
「どうしたんだよ…寝ぼけてんのか?別れるって…おいっ!」
 乱馬は狼狽していた。さっきまで縁側で寝息をたてていたあかねがうなされ始め、気になって傍に近寄った途端、これだ。
「ねえ、何処にも行かないで…すっと傍に居てて…乱馬…。」
 あかねはまだ夢の中に取り残されていたのか、溢れる涙を乱馬に擦りつけてくる。乱馬は焦ったものの、あかねにそう言われて、寝言でも悪い気はしなかった。
「俺は、何処にも行かないって…何があったんだよ…どうしたんだよ…こらっ!」
 乱馬の胸の中にズッポリおさまって無言の時が少しだけ流れ、あかねはようやく、さっきまで見ていたのは夢の世界だと知る。
「夢?」
 そう思った途端、乱馬の腕から弾け出した。
「あ、あたしったら…。」
 寝ぼけていたとはいえ、乱馬に抱きついてしまった自分。穴があったら入りたいくらいの醜態を演じてしまったことに、たった今気が付いたのだった。
 回りを見回すと、家人たちが見て見ぬふりを決め込んでいるのが見えた…。そして、勝手におやんなさいと言わんばかりに、各々そわそわしながら、居間から退散を始めていた。
 後に取り残されたのは、硬直している乱馬と真っ赤な顔で俯(うつむ)くあかね。
「おい…大丈夫…か?落ちついたか?どんな夢見てたかしらねえけど…。」
 乱馬がボソッと声をかけた。
「あ…うん。」
 あかねは耳まで真っ赤に染めている。
「あのよ…別にいいけど…こんなところでずっと寝てたら風邪引いちまうぜ…。気をつけろよな…。」
 乱馬も抱きつかれて泣かれた後遺症がなかなか取れないようだった。声が完全に裏返って上擦っていた。
「ご、ごめんね…。」
 あかねは謝ってみる。
「何謝ってんだよ…。別に、俺は…怒っちゃなんか…。」
「だって…急に抱きついたりして…。ごめん…我を忘れて…。」
 罰が悪そうにあかねがそう囁くと、
「ヤだよ…。忘れてなんかやるもんか…。」
 と乱馬は嘯(うそぶ)く。ホントは夢でもなんでも、あかねの本音が垣間見えたような気がして、少し嬉しかった。
「夢でも何でも、俺が必要だったら、いつだって、俺は…。」
 乱馬はふっと息を一つ吐き出すと
「だからさ…その…。悪夢になんかうなされるなよ…。な…。」
 と言って明後日の方向を向いてしまった。
 言っていることの筋は通っていなかったが、あかねは、うん、と一つ首を小さく前に振った。
 乱馬は外した視線をまた、あかねに向けて、にっと笑った。
「夢の中の俺は…優しかった?」
 好奇心さながらに訊いてきた。
「ん…少し…。」
「ふーん。」
 感心したように言い含めると
「でも、夢で良かった…。」
 夢でも乱馬と引き裂かれそうになるなんて…イヤだった。
「正夢だったら?」
 ちょっと意地悪そうに乱馬が言うとあかねは黙ってしまった。その表情が寂しげだったので、しまったと思った乱馬は
「そんな夢、俺が弾き飛ばしてやるよ…」
 そう言いながらゴロンと横になった。
「月がきれいね…。」
「ああ、今日は十六夜だからな…。きっと悪夢に酔わされたん…だな。」
 煌煌と輝く月は十五夜の一日後。宴たけなわに酔い始めたころに出てくる青い月夜。だから「いざよい」。
 昨日は月に団子をお供えして、みんなで食べた。心なしか、昨日眺めた月より少し右下が欠けているような気がした。
「ねえ、お月様も酔っ払うのかな…。」  
 あかねの問い掛けに返事はなく、かわりに乱馬の寝息が響く。
「もう…乱馬ったら…。」
 月明かりに照らされる乱馬の寝顔は安らかで温かい。あかねは、乱馬の顔を見飽きないで眺め続けた。

 小夜更けて 天(あま)の門(と)わたる月影に 
            飽かずも君を あひ見つるかな

 夜が更けて天の門をわたってゆく月影に飽きないのと同じように、月の光の中で見飽きもしないでいとしいあなたをずっと見詰めておりましたわ…。(作者の意訳)

 古典の時間に聞いた和歌が、耳元でそっと甦る。
 あかねはそっと、乱馬に自分が羽織っていたカーディガンをかけると、その頬に顔を近づけた。その時、十六夜の月が薄雲の中へ消えた。



 つづく




一之瀬的戯言
 仕事場で、月見団子を積み込むうちに、「お月見っていつだっけ?」と友人Y子さん(私を同人界へと導いてくれた主婦)との無駄話から思いついてしまった作品。肉体労働の仕事中はあまり考え込むと意識が飛び、怪我をするのでその辺りはいつも適当にやっています。
 仕事から帰ってきていきなりパソコン機に思いつくままキーボードに打ち込んだ突発作品だったのでプロットなし。

 前半部はあかねの夢で、後半は現(うつつ)という構成は単なる思い付き。
 私自身はパラレル作品は書くのも読むのも本来は苦手。乱あでたたき出したパラレルはこの作品が初体験。
 まんま、語り物口調の古典文章でやろうかとも思いましたが、知識的に無謀なのでやめました。
 時代は国文学で言うところの「中古」(平安時代)。最後に引用したのは「古今集」の巻十三「恋歌」の「読み人知らず」。

補足
 月の呼称
 十五夜は満月。月の呼び名は十六夜(いざよい)、立待(たちまち)、居待(いまち)、臥待(ふしまち)と変化する。これらは月の出る時間が、だんだんずれてゆくことから付いた呼称。
 題名の「十六夜月」は「いざよいのつき」と読んでください。

 国文学の時代分類例
 上古…「記紀神話」「万葉集」を中心とした奈良時代の文学
 中古…「竹取物語」から始まる所謂王朝文学が中心。「源氏物語」「枕草子」「土佐日記」「古今集」「伊勢物語」など豊富な仮名文学が中心。
 中世…鎌倉時代から戦国時代にかけての文学。「平家物語」「東鏡」を中心とした軍記物、「今昔物語」などの説話など。「語り物」と分類される口承文学との繋がりも深い。能や狂言もこの時代になる。
 近世…近松門左衛門あたりを境にこう呼ばれる。「人形浄瑠璃」など音色と結ばれたものから、読み物と呼ばれる井原西鶴などの流行作家の台頭もこの時代の特徴。江戸期のいきいきとした作品が魅力的。俳句も忘れてはならない。
 近現代…口語と文語が一体となったころからの作品。小説、詩、随筆と文学は進化を続ける。


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