◆十六夜月  三、 〜完結編〜

 組み手でバランスを崩した乱馬はあかねを巻き込みながら、月明かり射し込む床の上に倒れ込む。咄嗟に受身に入ったものの、二人ともそのまま床に叩きつけられた。
 暗闇の中、二人は暫しそのまま気を失った。



「あかねーっ!!」

 らんまの君は、必死であかね姫の自殺行為を止めようと我を忘れて飛び込んだ。

 赤い鮮血が容赦なく飛び散り、祝いの場は修羅場へと変化を遂げる。
 人々のざわめきは悲鳴に変わり、幾重にも二人の回りを取り囲む。

 皮肉にもあかね姫の鮮血を浴びて、らんまの君は変身を解き放った。細い腕は逞しい腕に、ふくよかな胸は厚い胸板に、小柄な身体は引き締まった精悍な体つきに…光の中で、彼女は彼にと変化を遂げて行く。

「バカッ!なんて無茶なことをするんだよっ!」
 乱馬の君は太い声であかね姫を抱きしめる。あかね姫は懐かしい愛しい男(ひと)の面影を細い息の下で認めると、今にも消え入りそうな声で呟く。
「来てくださったの?愛しいあなた…。これが夢なら、醒めないうちに、私はこのまま…。」
 細いしなやかな指が乱馬の君の顔をそっとなぞる。
「夢なんかじゃあ、ねえよ。バカ…。俺は…おまえに会うため下界から昇ってきたんだ・・。」
 乱馬の君は頬に触れた細い腕をそっと上から重ね合わせる。
「下界の者がここに上がってきたら無事ではいられないものを…。」
「いいさ…命ならとうの昔に投げ打つ覚悟はできている。今ここでこの命絶えようと、かまわねえ…。おまえと一緒なら。」
 事態に気がついた天上の人々は、乱馬の君を捕らえようと集り来る。手には槍や弓、剣を持ち、今にも襲いかからんと身構えながら迫り来る。
 乱馬の君は静かにあかね姫を抱き上げると、きっと人垣を一瞥する。
「行こう…俺と一緒に…。」 
 乱馬の君はあかね姫にそっと呟くと、ゆっくりと歩き始めた。
「何処へ行くっ!」
 人垣の中から若君がリンとした声で咎めたてる。
「おまえ達の指図は受けねえ…。気の趣くままに進むだけだ。」
 乱馬の君は天へ向かって叫ぶと、そのまま静かに歩みはじめた。
 人垣がそれを阻止しようと武器を振りかざした時、若君はそれを制した。
「行かせてやれ…もはや、運命は変えることはできぬ。ここで彼らを引き止めても…。彼女はもう…。」

 天上界の都の朱雀門をくぐり、二人は見渡す限りの雲の上を歩き続けた。

 あかね姫の息は次第に弱々しくなり、頬からは血の気が引いて行く。でも、彼女は幸せだった。
 夜の帳が降りはじめ、太陽は天上界の西城へと消えてかけていた。
 どこまでも続く雲海の中で、乱馬の君はそっとあかね姫を下ろした。絶命の時が静かに彼女を迎えに来る。

 あかね姫の口が愛しい名前を形どったとき、乱馬の君は静かに答えた。

「何も言うな…わかってるよ…。だからもう…いいんだ。いつか再び回り逢い、そのときはきっと…。」

 長い沈黙が二人の上を流れる。それは、恋する二人にとってこの上ない至福の瞬間だったろう。
 唇を離したとき、あかね姫は微笑みながら息絶えた。


…おまえと出会えて良かった…これからもずっと一緒だ…

 乱馬の君はそう囁いてあかね姫の亡骸にもう一度くちづけを交わす。そしと、雲の合間からあかね姫を抱いたまま、下界へと身を投じた。

 落下しながら遥かに仰ぐ、月は十六夜。
 満月ではなく少し欠けた月。






 冷たい床の上。目覚めた二人。
 まどろんだ夢…あまりにも果かなくて、あまりにも悲しくて、あまりにも切ない。

 二人は、互いの瞳を月明かりの中で静かに合わせる。

「ねえ。」「なあ。」

 言葉が重なる。
 はっとして視線を外す。

 …今のは夢だったのかしら…今のは夢だったのか?…

 二人は黙ったまま、息をこらす。

 乱馬は自分の道着に少し血が滲んでいることに気がついた。
「おまえ…怪我したのか?」
 良く目を凝らすと、あかねの腕から少しだが血が滴り落ちていた。
「さっき、すっ転んだときに、乱馬の道着の帯が擦れたみたい。でも、大丈夫。このくらい平気。」
「胸…大丈夫か?切り傷は…。」
「ある訳ないでしょ…。剣の裂傷なんて。」
「おまえも。やっぱり…見たんだな?」
 あかねはコクリと頭を垂れた。
「まるで映画をみているような…ううん、悲劇の主人公になったような。」
 そう言ってあかねは絶句する。

 さっき見たリアリティ溢れる光景が、二人の脳裏に反復する。夢というには鮮明過ぎるそれに、二人とも複雑な想いを抱かずにはいられなかった。
「恋って切ないね…。」
 あかねは堪らなくなったのか、一つ涙を落した。
「バカっ!夢だよ…あれは…。」
「それにしてはリアル過ぎるじゃないっ!あんなの…あんなのってイヤだよ。」
 ナーバスになったのかあかねはそう叫ぶと泣き崩れた。
 普段の乱馬なら、目の前であかねが泣き出すとどうしたものかとうろたえるのが常であったが、今は違った。乱馬はあかねの方に向き直ると、そっと肩に手を置いた。
「俺だって…。あんな切ない思いをするのは一生涯一度きりで充分だ。あんな思いは二度としたくねえ…。俺は…。」
 いつになく乱馬の表情は硬く眼差しは愁眉を帯びていた。さっきの夢物語にかつての己を重ねていたのだ。
 サフランとの死闘の中で、自分を助けるために無理をしたあかねが、息をしていなかったとき。腕にあかねを抱きながら滔滔(とうとう)と溢れ出る感情を制御できずに流した愛別離苦の涙。
 己の肢体が引き裂かれるような悲しみに襲われたとき、乱馬はあかねの名前を絶唱していた。
 それらが鮮やかに乱馬の脳裏に甦った。

…あのままあかねが目覚めなかったら俺は…呪泉洞の水の中にあのまま入水していたかもしれない。
 そう思ったとき、あかねを抱きしめずにはいられなかった。

「乱馬…?」
 乱馬の様子がいつもと違うことに驚いたあかねは小さく名前を呼んだ。
「あんな思いは二度と…二度とやだからな。だから…俺は…。」
 抱きとめる腕に力が入る。
 あかねにははじめ乱馬が何のことを言っているのかピンとこなかった。
「ねえ、乱馬…。」
 困惑したように腕の中でもがいたとき、一筋の光が射し込むのが見えた。
 ほんのりと射し込んでくる月の光だった。二人を闇から浮き上がらせる。
 その場に、あの、呪泉洞の鳳凰の泉が見えたような気がした。闇の中に滴り落ちる滝の流れ。そして、響く足早な水音。

 ようやくあかねは乱馬の言葉の意味が理解できた。

 呪泉洞での死闘の勝利の後、あかねは薄れ行く意識の中で乱馬を見て微笑んだことを思い出した。「死」を意識したとき、何故か心は波立たず、静かだった。柔らかい光に包まれながら、両手を広げて愛しいものへ最期の微笑みを贈ったのだった。
 …あのとき私は幸せだった…。命を投げ打って私だけのために闘ってくれた愛しい人へ。ありがとうとさようならのありったけを笑顔にこめて、落ちていったあの時…。
 薄れゆく意識の中で、乱馬の声が彼方で響いてきた。返事を返すことも叶わず、手足も微動にだにしない中で、耳だけが乱馬の言葉を捉えていた。
 …あの時、私はもう、死出の旅につきかけていたのかもしれない。
 いつものように「あかねのバカ…。」から始まった言葉…。いつしか乱馬の心の奥底に溜まった想いの丈が乱雑な言葉とともに流れ出してきた。悲しげな慈愛と哀切を込めた魂の声が己の名前を叫び、溢れた彼の愛惜の涙が頬を伝わったとき、あかねは死の淵から呼び戻されたと今でも思っている。あの時の乱馬の涙はどんな愛の言葉よりも清らかで美しかった。伝わる水の滴に確かにこう思った。
 …この人と出会えて良かった…と。そして…私はこの人に心から愛されている…と。

 虫たちの囁きが辺りから響き渡る。

 暫らく二人はそのままでいた。月明かりの中、お互いの心に潜む「想い」を無言で確かめ合った。言葉もリアクションもそれ以上は何もない、何も起きないプラトニックな関係。
 ただ、静かに腕に抱(いだ)き、抱(いだ)かれる。今はそれでいいと思う。胸の鼓動をひっそりと聴きあうだけで心が満たされてゆく…。
 たとえ不器用な愛情の交歓でも…。それは何人たりとも侵せぬ聖域。

 どのくらいそのままで過ごしたのだろうか。

 暗かった道場が、いきなりパッと明るくなった。
 「もう、電気消しちゃって、何やってんのよ…二人とも…。暗闇で特訓してたの?」
  お邪魔虫はなびきだった。
 
 「電気を消したんじゃねえっ!停電したんだっ!!」
 「そうよっ!組み手してたらいきなり消えちゃって。あたし、怪我までしたんだから。」
 乱馬とあかねは交互に言い訳じみた言葉を吐いた。
 お互いの距離があまりにも近かったのを見られたのが恥ずかしくて、乱馬もあかねも心なしか赤面していた。
 それを意味深に見詰めながら
 「ふーん。まあいいわ。そういうことにしておくわ。」
 となびきはひとつ咳払いした。そして、
 「それより。残った月見団子を食べるから、茶の間に来なさいってかすみおねえちゃんが呼んでたわよ。」
 とだけ伝えて、さっさとその場を後にした。
 昨日、調子に乗ってかすみとのどかが腕を振るって大量にお供えの月見団子を作ったのが残っているのだ。腐らせる手はない。お茶菓子がわりに戴こうという算段だろう。

 「行くか…。なんか腹減ったしな…。」
 「そうね…。あたしも何だか…。」
 乱馬とあかねはそっと立ちあがって道場を出た。

 速足で流れる雲間から、光琳とした月が微かに二人を覗いていた。

 「ねえ、乱馬…あの夢物語…どう思う?」
 「そうだなあ…。きっと俺たちの潜在意識の底にある『失うと恐怖なもの』が権化して現れた悪夢じゃなかったのか…なあ?。」
 「十六夜の月が見せたためらいの夢物語ね。」
 「十六夜?」
 「あれっ、この前「古典」の時間に習ったでしょう?」
 「んー。覚えがねえなあ…。」
 乱馬はそう言って頭を掻いた。
 「もう、乱馬ったら授業のとき寝てたんだ…。」
 そう言ってあかねはくすっと笑った。
 「ためらいの夢物語…かあ。なんかロマンチックだな。」
 「バカ…。悪夢は悪夢よ。」
 「悪夢ねえ…ホントにさっきのは悪夢なんだろうか…。」
 そう言って乱馬は月を仰ぎ見た。
 月は無言で乱馬を見返す。
 その光に圧倒されながら、
 「さて、月見団子っと。」
 と言葉に出して、先に勝手口へと入ってしまった。
 『あかね。俺は、絶対、おまえを離さねえからな…たとえ月から迎えが来たって。そんなもの蹴散らしてやらあ…もっと強くなって。』
 振り返らずにそう背中で囁きながら。
 「もう…花より団子…ううん、月より団子なんだからぁ…乱馬ったら。」
 ころころと鈴を転がしたような笑い声をあげながらあかねも乱馬の後を追った。


   哀(あは)れとも 愛(う)しとも思ふ 恋の夢
             照らして眺(なが)む 十六夜の月

 「哀れといいましょうか、それとも愛しいといいましょうか そんなふうに思う恋の夢…それを照らし出して(面白おかしく)眺めるのは(少し意地悪な)十六夜の月なのです」(和歌作者の意訳)

 …おまえと出会えてよかった…これからも、ずっと一緒だ…

 月が乱馬の君があかね姫を胸に囁いた最期の言葉を映し出す。
 抱き抱かれながら息絶えた恋人たちの囁きが、十六夜の明かりの中に木霊する。
 乱馬とあかねの影を追いながら。

 「今度は、上手くおやりなさい…。愛し合う者たちよ。」
 十六夜の月は微笑んだ。








一之瀬的戯言
 稚拙な構成の御粗末作文

 …悲劇なんだかラブストーリーなんだか…ようわからんやん、あんた何が描きたかったん?(自戒の一言)

 それはともかく、一度あかねを乱馬の腕の中で絶命させてみたかった…という一心で作文した夢物語。
 ところで古来から「親子は一世の契り、夫婦は二世の契り、師弟は三世の契り」という考えが古くからあります。
「親子は一度、夫婦は二度、師弟は三度めぐり逢って契り(縁)を結ぶ」のだそうで。この話の根底にはこれが流れている。乱馬とあかねが夢物語の二人の生まれ変わりかどうかは、ご自由に想像してください。(そういうつもりで描いているらしい…)
 この作品の場合は、夢物語の過去の二人は縁を結びそこなっているから何とも言えないのではありますが…。

 また、作中に挿入した和歌は最後の一句以外は「古今和歌集」から引っ張ってきました。
 最後の句は作者本人のいい加減な一句也…ピッタリくるのを探せずに自作。


 「十六夜月」について補足
 満月の次の日、だんだん時間が遅れて出てくる月を「いざよい」「たちまち」「いまち」「ふしまち(ねまち)」と呼ぶと前に書いたが、「いざよい」は「宴たけなわ」という意味と「いさよう」という「ためらう、進もうとして進まない」という二通りの意味を兼ねているという説もあります。
 古語辞典などでは「いざよひ=ためらうこと」となっているのでお間違いなく。
 また、十六夜月は旧暦(陰暦)の八月十六日(いわゆる仲秋の名月)の次の日の月を指します。
 古典には「十六夜日記」という日記集(作者・阿仏尼)もありますよね。

 あやふやなこころもとない夢物語との接点と、そんな神秘をこめた月ということで、わざと「十五夜(望・もち)」ではなく「十六夜」を選びました。連作するつもりは全くなかったのですが、何となく書き進めた結果、三部作になりました。
 作者の意とは相反し、掲載時は結構好評でした。
 作文した当時は「パラレルパロディー作品は」乱あネットに殆ど存在していなかったので、かなりの異色作だったと思われます。

 でもって、実は一之瀬、国文学履修したくせに、平安期の文学はメチャクチャ苦手であります。(苦笑

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