◇十六夜月  二、 〜乱馬編

 縁側で月明かりを浴びながら眠ってしまった乱馬。
 あかねの傍で惰眠を貪る…



「乱馬ぁー。」
 遠くであかね姫の声が聞こえる。
「あかねーっ!」
 乱馬の健闘虚しく、そのまま風に巻かれて二人は別離を余儀なくされる。
…畜生っ!!

 己の無力に地団太を踏みながら乱馬は天上をおぼろげに見詰めるのだった。
 いつしか月から下された牛車に乗せられ、あかね姫は天上へと帰って行った。
…もう二度と逢えないのか。そんなことがあって溜まるかっ!!
 乱馬の君は、虚ろげに牛車を眺めた。

 それからの彼は退廃を極めた。検非違使の仕事もままならずに、崩落の一途を辿る。
 乱馬の君だけではなく、帝もたいそうおやつれになられたそうだ。中でも早雲の翁の身のやつし方は凄まじく、見る影もないほどにお痩せになられたと都大路の雀どもは噂しあった。
 都は秋風が吹き荒び、何処となく寂しげに見えた。
 自暴自棄になっていた乱馬の君を心配して、父御の玄馬の大将が喝を居れた。
「のう、乱馬、いつまでも嘆いていても仕様がない。そんなに嫁御が欲しいなら、父が世話をしてやろうか?所帯を持てば、少しは心も変わろうて…。」
「嫁は要らぬ。もし、添い遂げるなら、あの人でなければ否だ。」
 頑として首を縦に振ろうとはしなかった。
「そんなにまで、言うのなら、鞍馬へ行ったらどうだ?かの地に住む天狗は、不思議な術を使うと言う。天狗殿なら何とでもしてくれるやも知れぬ。どうせ、このままではおまえは身を崩してしまうだろう。死んだ気になって行って来い。」
 
 乱馬の君は、言われたままに、都の北の奥地、「鞍馬」へと出掛けて行った。
 鞍馬で天狗に会ったとしても、どうにもなる訳ではないと思ったが、一縷の望みがあるならば、試して見るもいいかもしれぬと出掛けたいった。
 山道は険しく、深淵とした森が続く。奥深く枯葉を踏み分け、天狗を求めて山をさ迷う。

「汝、いずこへ参る?」
 空から声がした。
「天狗に会いに行くっ!」
 乱馬は力を込めて言い放つ。
「人間如きに天狗さまはお会いにはならぬ。帰れっ!」
 そこに現れたのは、(八宝斎顔の)大入道!山ほどあろうかという巨大な人間がにゅっと現れる。そして、乱馬の君を睨みつける。
「帰れ、帰れ、帰れっ!」
「イヤだっ!」
「帰れっ!」
「イヤだっ!」
 押し問答が始まる。
 一日、二日、三日…。
 乱馬の君は、ずっと大入道と対峙して、押し問答を続けた。
 なかなか目の前の若者が強情なのを見て
「お主も聞き分けのない奴だなあ。天狗にあってどうするつもりだ?不老不死の薬でも手に入れるのか?」
 とうとう根負けして大入道が乱馬の君に声をかけた。
「そんな物は要らぬ。ただ、月の世界へと渡る方法を知りたいだけだっ!」
「そんなことか…ならば願いをかなえてやろう。但し、月へ渡るには女体へと変化せねばならぬがそれでもいいか?」
 女体という言葉が引っかかったが、乱馬の君は背に腹は変えられぬ…このままだと月に渡ることも出来ぬと思い、
「それでもいいっ!」
 と声を出した。
「ならば、これをおまえに。そして、この水を頭よりかぶり、女体へと変身するが良い。さあ、月へ行く気があるなら、その水を振り掛けてみよ…。」
 乱馬の君は貰った竹筒をしばし見詰めていた。女になって果たして元に戻れるのか?でも、他に方法がないのなら…。
 乱馬の君は、えいままよと、頭から水を降り注いだ。
 ジュッと音がして、体は縮み、女体へと変化する。
「おー、なんと可憐な…。」
 大入道は微笑むとらんまの君を掌に乗せ、頬擦りした。
「ちょっと待て、気色悪い…」
 頬擦りされてらんまの君はたじろいた。暫らく頬擦りした後に、大入道は鼻が伸び、天狗へと変化を始めた。
「久しぶりの女体に、やっと天狗に戻れたわい。どら、願いを叶えてやろう。」
 そう言って、らんまの君を大きな扇子で扇ぎたてた。
「それっ!月まで飛んで行けっ!!」
 天狗は思いきり扇子を扇ぐ。ゴオゴオという音を立てながら竜巻が起こり始めて、らんまの君ははるか天上へと吹き飛ばされて行った。


 天上界は穏やかだった。
 いい匂いが芳わう。なんとも落ちついた世界。極楽浄土とはこのようなところをいうのか。らんまの君は目を見張った。
 雅楽が鳴り響き、薄絹をまとった天女や仙人が行き交う。らんまの君は物陰に隠れてそっと辺りを覗った。

「のう、今日の結婚式、あかね姫はどんな井出達で現れるのだろう?」
「さてね…。それにしても、急な話だったなあ。」
「なんでも、地上から帰った姫さまを、若君さまが一目ぼれしたそうじゃ。」
「綺麗なお方だからなあ…。」
 人々の微かな囁きに、らんまの君は色を失った。
「あかねが結婚?」
 穏やかな話しではない。らんまの君の心はざわめきだった。こうしてはいられぬ。急がなければ…。

 らんまの君はそのまま宮殿に忍びこむ。どこで調達したのか、天女の着物を身に纏う。何処から見ても天上界の女人。あかね姫を求めて、キョロキョロと辺りを見回す。
「こうれ、そこの女人。汝、出迎えの使いのものか?」
 呼びとめられて振り向くと、(コロン顔の)老婆が一人。
「ええ、そうでございます。」
 らんまの君は咄嗟に嘘の返答を返した。
「ならば、姫を連れて式場へ行かれよ…。」
 御簾の内側に招かれる。
 そこにはこの世ものもとは思えぬほどの美しい姫君のお姿。
「姫、もう、地上のことは忘れておしまい。いくら、おまえが恋しがったとて、もう、地上へは降りられぬ。それより、これからの幸せをかんがえなされ。」
 そう言って老婆は赤い色の水が入った器を姫に差し出した。
「この媚薬を飲めば、たちまち地上の全ての記憶は消えてなくなる。悪いことは言わん。忘れておしまい。」
 姫は器を受け取った。そして、じっと赤い液体を見詰める。
 …これを飲んでしまえば、楽になる。あの愛しい人の全てを忘れれば、新しい世界への扉が開かれる。でも…
 らんまの君はまんじりともせずに、姫を見詰めていた。今にも器を剥ぎ取りたい衝動を必死で堪えた。もし、彼女が望むなら、自分のことは忘れるのが一番だろう。そう思ったのだった。あかね姫が、薬を飲んで新しいこの世界の人生を選ぶのなら、自分はこのまま地上へ帰ろう。

「私には忘れ去ることなど到底できませぬ。」

 あかね姫は器を老婆に戻した。
「今更どうにもならぬのに…。まあよい、もう逃げられもせぬ。若君がお待ちじゃ、とくと参られよ。」
 老婆は御簾から出て、らんまの君にあかね姫を連れて行くようにと促がした。
 らんまの君は一礼して、あかね姫の細い腕を掴んだ。暫らく見ないうちに、心なしか細くなった手首。純白の絹の衣を後ろまで棚引かせて、あかね姫はらんまの君にその身を任せた。目は虚ろになり、光はとうに失せ…。涙が頬を伝わってくる。
「何をそんなに悲しんでおられるの?」 
 らんまの君はわざとらしく聴いてみた。
「あなたは、心にもない契りを結べますの?私にはちゃんと想う人がいるのに、叶わぬ望みを抱くというのに…。」
 そうこうするうちに、二人は大広間の前に出た。
「ねえ、あなた、私を何処か遠くへ連れて逃げてくださいませぬか?もう。これ以上ここにいたくはないのです。たとえこの命尽きようと、私は自分の望まぬ契りは結べませぬ…」
 あかね姫の視線は真剣さながらであった。
「その後、あなたはどうなされるのです?地上へ降りるとでも…。」
 暫らく考え込んだあかね姫。その時、後ろで咎める声がした。
「おお、あかね姫。早く、婚礼の儀に臨まぬか…待ちくたびれた。」
 後ろを振り返ると、きらびやかな衣装を纏った(良牙顔の)男。
「これは若君…。」
 あかね姫の顔が曇る。
「私は、やはり、あなたさまと添い遂げる訳にはいきませぬ。どうか、この場は見逃してくださいませぬか?」
 それを聞いた若君はじっとあかね姫の目を見据えて言った。
「私はいつまでも待つつもりです。例えあなたの心が私の上になくても、それはそれ。愛情はゆっくり育てればいいのです。さあ、私と一緒に…。」
 あかね姫は身体を硬直させたまま、後ろへと引き下がる。
 それを阻止したのが若君。強引にあかね姫の腕を引っ張る。
「あかね姫。あなたは私の麗しの妻となられるお方。さあ、皆が待っておられる。とくと参られよ。」
 そう言いながらあかね姫を軽々と抱き上げ式場へと歩み出す。

 らんまの君は、じっと我慢してその後ろに付き従う。
 ここであかね姫を強奪したとて、あかね姫は自分のことがわかるまい。女に変身してみたものの、どうやったらこの術が解けるのか肝心なことを天狗に聞くのを忘れていた。我ながら情けがないと思う。
 どうしたものかと思案に暮れるうちに、あかね姫は大広間まで歩みを進める。
 歓声があがり、若君と姫の婚姻を祝う天上の人々。
 祝賀ムードがいやでも高まりを見せた。

 その時、悲鳴が上がった。あかね姫は、何を思ったのか、短剣を振りかざし、若君から離れた。
 ざわめきがあたり一面を被い尽くす。
 あかね姫は短剣を逆手に持ち直すと
「どうあがいても結ばれぬ運命なら、それで良し。でも、私は忘れることはできませぬ。だから…。ごめんなさい。」
 そう涙目に叫びながら、胸に短剣を付き立てた。
 スローモーションのように細切れで動くあかね姫の一挙手一投足。らんまの君の目前に迫る。瞳孔を見開き彼は身体を投げ出した。
 短剣は胸に突き刺さり、紅い鮮血が飛び散る…

「あかねーっ!!」
 
 



「あかねーっ!!」


「ちょっと、どうしたの?ねえ。乱馬っ!乱馬ったら!!」
 
 おぼろげに、心配そうに覗きこむあかねの顔が見えた。
「あかねのバカヤローッ!」
 いきなり叫んで乱馬はあかねの腕を掴んだ。その剣幕に押されてあかねは後ろに倒れ込む。
 乱馬の額からは汗が吹き出し、あかねの頬に冷たく当たった。
「どうしたのよ…。乱馬。夢でもみたの?」
 あかねは気圧されながら、乱馬をきょとんと見上げた。
「あ、あかね…俺は…。」
 途切れ途切れに乱馬は言葉を発する。
 乱馬は激しい動機を波打たせながら、さっきのは夢だったとやっと自覚した。そして、全身の力が抜けてゆくのを感じた。
 それにしてもリアルだった。どうやらあかねが短剣で自分の胸を貫き掛けたところで目が開いたらしかった。冷汗が身体から毛穴からどんどんと吹き出るのを感じる。
「良かった…夢で。」
 乱馬は酷く自分が浮かされていたことに改めて気付いた。傍に侍るあかねの顔がそれを如実に物語っている。
「ねえ、大丈夫?悪い夢でもみたの?」
 あかねは心配げに乱馬に声をかけてくる。そう、少なくとも乱馬には「心配げ」に見えた。
「なんでもねえよ…。」
 乱馬は汗が滴り落ちるのを感じ取りながら、わざと面倒臭そうに答えを返した。 
 まさか、夢の中のあかねが短剣で自分の胸を突き刺したところで目が覚めた…などとは言い出せなかった。ゲンが悪いし、第一「なんであたしが、そんなことを。」と笑われるに決まっている。いやあかねのことだ、怒り出すかもしれない。
 激しい咽喉の渇きを感じた乱馬は、台所に水を飲みに入った。
 
「乱馬くん、どうしたの?汗だくになって…。」
 洗い物をしていたかすみが不思議そうに覗きこむ。
「いや別に…。」
 乱馬は返答に困って黙り込む。
「さっきから、うなされてたものね…。乱馬くんもさっきのあかねみたいに悪い夢でも見たんでしょう?違う?」
 なびきが、ふふふと笑うように言った。きっと、なびきは居間の様子を時々チェックしていたのだろう。侮れない奴だと乱馬は心のなかで呟いた。
「どんな夢かはしらないけど、大方、女の体質のまま戻らなくなったとか、あかねがいなくなったとか…そういった類の夢じゃないの?乱馬くん。」
 なびきは鋭い。
「そうなの?乱馬くん…。」
 かすみが、皿の水を切りながら訊いた。
「…どんなのでもいいじゃねえか…たかだか夢なんだし…。」
 乱馬はそう吐き捨てると、一気に水を飲み干した。
「でもね、乱馬くん。夢って見る人の願望とか、精神状態とかいったものが反映されるっていうでしょ?」
 かすみが静かに話し掛ける。
「そうよ…悪夢だったっていうから、完全な男に戻れない恐怖心なんかが潜在意識の中にインプットされているのよ…。」
 乱馬は反論できなかった。
 確かにさっきうなされた夢は、なびきやかすみが言うとおりかもしれないと思ったからだ。男に戻れない恐怖はともかく、あかねを失うという恐怖…。
…ひょっとして、俺はあいつを失うことへの恐怖心をいつも持ち歩いているのかもしれない。
 持ち合わせている愛情を全て曝け出し、確たる契りを持つことは、簡単なようでいて困難を極めることだった。それは、あかねの性格、そして自分の性格上、致しかたがないことだろう。お互い、自分の素直な気持ちのこととなると、億劫になるのである。

「ねえ、何処へ行くの?」
 なびきの問い掛けに、
「一汗流してくるよ…。」
 そう言って乱馬は逃げるようにお勝手口から暗闇へと出ていった。

 空を見上げると、雲居から月が顔を覗かせる。

     木の間より もりくる月の 影見れば
               心づくしの 秋は来にけり

   木の間からもれてくる月の影を見ていると 心を(悲しみで傷め)尽さねばならない秋がきたのだなあと感じます(作者意訳)

 物悲しい秋の夜空を見上げて、乱馬は一つ溜息を吐いた。


 あかねが乱馬の後ろから声をかける。
「ねえ、月明かり…何処か寂しいね。」
「なんだ、いたのか…。なあ、一汗流さねえか?目が冴えちまってそうでもしないと眠れそうにねえや…。」
 あかねもその提案を受けた。乱馬が寝入るその前にやはり悪夢でうなされて、眠る気持ちはとうに失せていた。乱馬と同じように、何かやりきれない釈然としない気持ちを引き摺っていたのだ。
 
 乱馬もあかねも、道着に着替えて道場へ入る。
「いくぜ…。」
 いつになく神妙に身構える乱馬。
 向かい合って組んだ時、汗とともに何かが弾けたような気がした。道場の電灯がフイに消えた。空中でバランスを崩した乱馬は思わず、そのまま落下する。
「わっ!」
 乱馬の小さな悲鳴があかねの上を掠めたとき、あかねの身体も同時に弾き出された。
 二人は済崩しに、月明かりが射し込む冷たい床の上に倒れ込んでいった。

 十六夜の月は意地悪な月…。それとも…



つづく




一之瀬的戯言
完結した筈の短編が…連作になってしまった作品。
もう、この際、夢のはなしも完結させたろやないか…という勢いだけで描き続けた作品です。


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