茜色の時 〜あかね編


一、

 その日の朝は天気が怪しくて、今にも泣き出しそうな感じで雲が垂れ下がっていた。
 日課となっている、朝一番のロードワークから帰ってくると、我が家の外塀の角の電信柱に一匹の仔猫がダンボールに置き去りにされているのが見えた。
 そのまま通り過ぎればよいものを、捨て置くことも出来ずに覗き込んだ。
 仔猫はあたしの顔を一瞥するものの、どう見ても弱りきっていて、泣き声すらたてられない様子だった。
 どうしようかと考え倦(あぐ)んでいると、同じようにロードワークから帰って来た乱馬が声をかけてきた。
「朝っぱらから何やってんだ?」
「さっき、そこの電柱の影で拾ってきたんだけど…。」
 あたしは、ドキマギしながら乱馬にそっと仔猫を見せた。
「な、捨て猫かあ?」
 乱馬は予想どおり、後ろにたじろぎながら答えを返してきた。彼は大の猫嫌いなのだ。
「うん、捨猫。昨夜の雨に打たれて弱ってるみたい…この子。」
 少し間を置いて、
「飼うのかよ?」
 と乱馬は訊き返してきた。
 幼い頃、父親から受けた猫拳の荒修行以来、身体が過度の恐怖心を猫に抱くようになったという彼。その体験が猫嫌いにした。
 彼の顔色が俄かに変わるのを見ながらも、あたしは続けた。
「ねえ、せめてこの子が元気になるまで飼ってあげてもいいかなあ?」
 家で介抱してあげるには、まず、猫嫌いの彼に相談しないといけないと思ったから。
 乱馬の顔は曇ったように見えた。
「おまえの好きなようにしたらいいだろ…俺には関係ねえ…。」
と、ソッポを向いてしまった。これは、彼流の「否」の返事だったのかもしれない。
 でも、やっぱり仔猫を捨て置く訳にも行かず、結局あたしは曖昧な返答を逆手にとった。
「じゃあ、好きにさせてもらうわ…。」
 乱馬には悪いと思ったけれど、そう言って、仔猫を抱えて玄関を潜り抜けた。
 乱馬の刺すような視線を後ろに感じたけれど、小さな命を救う為だから。あたしは少しいい気になっていたのかもしれない。


二、

 家族会議の結果、仔猫の面倒はあたしが見ることになった。ただ、学校へ行っている間はかすみお姉ちゃんやお父さんに手伝ってもらうことにした。
でも、仔猫は相当弱っているようだった。本当に助けられるのか…自信がなかった。
 かすみお姉ちゃんの助言で、東風先生に弱った猫の介抱の仕方を訊いてみることになった。あたしが呼びに行くと、東風先生は機嫌良く、すぐにウチににやって来て、
「専門じゃあないから…。」
 と断わりを入れながらも、適切なアドバイスをしてくれた。
「弱りきった仔猫にいきなりミルクをやったとしても飲まないだろうから、始めはスポイドか綿にしみこませて、少しずつ飲ませるといいよ。」
 東風先生は優しく教えてくれた。
 あたしは先生に教えていただいたとおり、仔猫の看病をすることにした。
 早く元気になって欲しい…毛並みに艶の欠片もない、捨てられた仔猫がとても痛々しく見えたのだった。
「頑張ったら、お母さんのところへ帰れるかもしれないから…。」
 幼くして母親を亡くした想いが、そんな、言葉を解せる筈のない仔猫に向かって口走っていた。
 傍らで、仔猫と一定の距離を保ちながら乱馬が、
「へへん、おめえもペットお払い箱かもしんねえぜ…。」
 とPちゃんに向かって悪態を吐いていた。
 もしかして仔猫にヤキモチでも焼いているのかな…そう期待しながらあたしは
「ごめんね…Pちゃん。この子可哀想だから、暫らくかすみおねえちゃんと寝起きしてね。」
 Pちゃんに言葉を掛けた。
「ちぇっ!いい気なもんだぜ。」
 乱馬は相変わらず、Pちゃんに突っかかっていたが、そう言い切ると、何処かへ行ってしまった。

 その晩から、あたしは仔猫につきっきりになった。夜も気になってしまって、一睡も出来なかった。いや、気がついたらもう外は夜が明けていたと言った方が正確かもしれない。

 学校がなかったら良かったのだろうが、仔猫の世話の為という理由で欠席する訳にはいかない。あたしは約束どおり、かすみお姉ちゃんに仔猫を預けると、朝ご飯もそこそこに家を飛び出した。
 とはいうものの、学校でも、なんだか仔猫のことが気になって授業に集中できなかった。
 下校のチャイムが鳴ると同時に一目散に家へと駆け出す。

 家に帰りつくと、かすみお姉ちゃんから仔猫を貰い受け、また自分の部屋で世話を焼く。そんな生活が続いた。
 自分では多少の寝不足は元気で補うつもりだったが、なかなか思うようにいかなくて、ついつい仔猫から解放される学校では睡魔がしきりに襲ってきた。
 乱馬はムスッとしながら、そんなあたしに一言物申したげにしていたが、あたしはとやかく言われるのも嫌だったので、気付かぬ素振りを続けていた。
 猫嫌いの彼には、そんなあたしの心情なんて、きっと分るはずもなかったろうけど。
 会話らしい会話もしていなかったあたし達だったけれど、じっと傍で見守ってくれている厳しくも暖かい視線だけは常に感じていた。
と にかく、猫嫌いの彼が怖がらないように、離れているしか手だてがないように思えた。


三、

 仔猫に元気が甦ってくると、ついつい欲を言ってみたくなる。
「このまま飼いたい…。」
 そんな言葉があたしの口から自然に漏れるようになった。
 乱馬は内心、穏やかではなかったかもしれない。仔猫が元気になって家中を徘徊するとしたら…乱馬が猫への恐怖心から逃れる為に猫化して暴れ回る危惧もあった。でも、猫化した乱馬を取り押さえることが出来るのはあたしだけだから…有無は言わせないわ…などといつもの強気が頭をもたげて来る。
「この機会に乱馬くんも猫嫌いを治す修行でもしたら?」
 そう言ったなびきお姉ちゃんについつい同調してしまうあたしだった。
 自尊心が高い乱馬は、そうまで言われたら、多分、グウの音も出さずに、黙って従うだろう…などと調子のよいことすら考えていた。
 あたしの思惑どおり、乱馬は異を唱える隙も無く、実にあっさりと、仔猫は天道家に収まることになった…。かすみお姉ちゃんの後添えも大きかったことは否めないけれど…。

 でも…。

 一見元気になったように見えた仔猫は、急に容態が悪化して、あっけなく逝ってしまった。
 あたしの手から、少しずつでもミルクを直接飲めるまでに回復し、ミャオ―と声を上げるまで回復していたのに。
 それは、あたしにとって全くの予想外の展開だった。ダメだと思っていたときに死んでくれていたら、こうも衝撃は受けなかったのかもしれない。
 仔猫はあたしが学校へ行っている間に、天に召されて行ったのだ。
 帰るなり、予想だにしていなかった仔猫の死にあたしは、打ちひしがれた。
「なんで?」
 激しい後悔とも自責の念とも言えるような複雑な想いが、一気にあたしの中に逆流し始める。
…絶対、人前では泣くもんか…
 悲しさの中に何故かそんな頑なな想いが頭をもたげてきた。
 気丈に振舞っていなければ、自分自身を保てないような気がしたのだ。
 冷たくなった仔猫をそっと抱えて、ダンボール箱に納め、庭先に咲いていた花で周りを囲み、桜の木下にそっと埋め戻してやった。目にいっぱい涙を浮かべながらも、零すようなことは必死で避けた、あたしだった。多少、無理をしていたかもしれない。

 それからのあたしはもぬけの殻。
 何をやるにも、気力が涌かなかったのだ。
 仔猫の命を助けるなんて…それはただのあたしの驕りだった…。
 何故、小さな命一つ救えなかったのか…。すり抜けて行った小さな命の重みがあたしを締め付けるのだった。

 サイショカラ、ムダナコトダッタノヨ…!!

 どうにかなってしまうような激しい自責の念があたしの中を去来していた。
 Pちゃんが傍に来てあたしを慰めているのか、しきりに鼻を鳴らしていた。
 でも、その時のあたしにはそれすら全くの虚無のことに思えた…。


四、

 その日もぼんやりと考え倦んでいたあたしの横に、いきなり乱馬が現れた。
「道着に着替えて来いっ!」
 と、黒帯を握り締めてあたしに言い放つ。
 どう切り返していいものか迷っていると、
「いいから、着替えて来いっ!!」
 更に強く言い放つ。
 気迫に押され、あたしは彼の言う通りに従うしかなかった。半ば引き摺られるように道場へと追いたてられる。

「来いっ!!」

 乱馬はそう吐き出して、中ほどの形態で構えた。いわゆる中段の構えだ。
 彼の中には一分の思いやりも、手抜きも感じられない・・・本気の構えだった。
 彼の天性の野性の気迫は嫌が応でもあたしを追い詰める。
 雨音が屋根にこだまして、ぱらぱらと音を立てていた。
 生半可に向かってゆけば、きっと怪我を負うだろう・・・そんな激しさが彼の身体をすり抜けてあたしに勢い襲いかかってくる。
 暫らく忘れ掛けていたあたしの闘争心が激しく揺さぶられる。

「おめえが来ないなら、こっちから行くぜっ!!」
 乱馬は身体中の闘気を漲(みなぎ)らせて、本気で仕掛けてきた。

「やられるっ!」
 あたしは必死だった。
 彼に殺されるかもしれない…大袈裟だが、そんな気迫が彼から放たれる。

 ひゅんっ!

 寸でのところ乱馬をかわす。
 更に激しく彼はあたしに襲いかかってくる。
 始めはかわすばかりだったあたしも、彼の一方的な攻撃に慣らされ、リズムを掴み始めた。繰り出される拳(こぶし)や脚(あし)は紙一重のところでかわすと、耳元で音が空を切って行く。

 来るっ!!

 あたしは必死だった。
 獣のような乱馬の闘争心に駆りたてられるようにいつしか無我の境地で彼に向かって突き進む。あたしの中に深く眠る武道家の血が煮え立ちはじめる。

「でやーっ!!」

 あたしは夢中で乱馬の懐の方へと飛び込んで行った。

 乱馬は寸であたしの身体を右手で軽くなぎ払った。瞬間、逆に彼に身体ごと押し上げられた。

 気付いた時、あたしの身体はふわっと宙へ高く舞い上がっていた。
 バランスを失った私の身体はそのまま道場の床へと落下していく。

 叩きつけられる…

 そう思って目を瞑った時、逞しい腕があたしを支えてくれた…乱馬だった。




そのまま、一緒に床へとはじき出され、あたしは乱馬に覆い被さるように倒れ込んだ。身体ごと乱馬に支えられたので、痛みすら感じなかったが、下になっている乱馬はどうなったのだろう…。。
 顔を上げると乱馬の優しい瞳と出会った。
 あたしは驚いて、大急ぎで彼の身体の上から離れようとした。
 乱馬は力強い腕であたしを引っ張った。私はそのまま、広い彼の胸の中に身体ごと納まってしまった。

 乱馬?

 思わぬ乱馬の行動に動揺しかけると、
「泣きたいときは、泣けばいいんだよ…バカ。」
 呟くような声が耳元で響いた…。
 あたしの憂鬱はきっと涙を拒否していたことに去来していたのだろうか?
 優しい彼の囁きに、堪(こら)えていた想いが一気に噴出してきた。

なんで、なんで、死んじゃったのよっ!
何で…あたしじゃあ救ってあげられなかったのよっ!

 いつしかあたしは声を上げながら乱馬の腕の中で泣き崩れていた。
次から次へと枯れることなく涙が溢れた。

 乱馬の腕は、慈しむように優しくあたしを包み込む。
 彼の厳しさと優しさは、あたしの大切な宝・・・…。

 さっきまで降っていた雨は上がり、道場の入口から夕陽が差し込んできた。

 突然Pちゃんが走り込んで来て、あたしは乱馬と引き離された。
 あたしは、散々泣きじゃくった後、Pちゃんを抱きながら、
「ありがとう…乱馬。」
 そう言って泣きはらした目を拭いながら笑った。
 乱馬は、それには答えず、ポンと頭に軽く一度手を当てた。そして、そのまま、茜さす夕陽の扉の向こう側へと歩いて行った。

 荒々しいやり方だったけれど、乱馬の優しさがあたしには嬉しかった。
…また、泣きたくなった時は彼の腕の中で…。
 ちょっと赤らんだあたしをPちゃんが不思議そうに見上げていた。








一之瀬的戯言
 仔猫を巡るエピソードをあかねの心情から綴ったバージョン。
 推敲前は表記が「私」だったが、「あたし」に改正。
 同じ内容を乱馬とあかねそれぞれの視点で、それぞれの人称で描くことは楽しいが、同時にそれぞれの内面を描き出さねばならず、案外難しいものです。
 もっと暗いネタで実験する予定だったが、長くなりそうなので、その作品で試みるのは辞めた、根性なしです。

 このネタ、元々は子供の頃のかすかな記憶に由来しています。友人が拾って学校の片隅でこっそり面倒見ていた子猫。でも、数日後、無残にも野犬にやられてしまいました。
 同じ作品を別視点で追いかけた、試作的作品なので、文章も展開も、今読み返すと、穴を掘って隠れたいくらいです。


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