◇茜色の時〜乱馬編


一、

 その日は朝から天気が怪しくて、今にも泣きそうな感じで雲が垂れ下がっていた。
 俺は、いつものように親父とロード―ワークに出かけていた。軽く汗を流しながら天道家に帰りつくと、あかねが門のところに一人佇んでいた。
「朝っぱらから何やってんだ?」
 俺はあかねに声を掛けようとして立ち止まった。
 あかねは俺の目の前に小さな赤茶けた物体を差し出しながらこう言った。
「さっき、そこの電柱の影で拾ってきたんだけど…。」
 俺は、あかねの抱える物体を見て、思わず後ずさりした。
 あかねが懐に抱いていたのは一匹の貧相な仔猫だったからだ。
「な、捨て猫かあ?」
 俺は冷汗が滴り落ちるのを我慢して訊いた。
「うん、捨猫。昨夜の雨に打たれて弱ってるみたい…この子。」
 一歩後ずさりしながらも俺は
「飼うのかよ?」
 と訊き返していた。
 情けねえと思われるかもしれないが、俺は猫が「大嫌い」だ。それだけならまだしも、「怖い」ときている。幼い頃、親父から受けた猫拳の荒修行以来、身体が過度に猫に反応するのだ。とにかく猫とは関わりたくない…それが俺の正直な心情だった。
 なのにあかねときたら、
「ねえ、せめてこの子が元気になるまで飼ってあげてもいいかなあ?」
 なんて訊いてくる。
 そんな、媚びるようなかわいい目でみないでくれ.。反則だ!…俺は内心そう思った。
 でも、そんなことを思ったなんて曖気(おくび)にも出せないから、
「おまえの好きなようにしたらいいだろ…俺には関係ねえ…。」
 と、ソッポを向いた。
 あかねは納得したのか、旋毛(つむじ)を曲げた俺の返事が気に入らなかったのか
「じゃあ、好きにさせてもらうわ…。」
 と言って、さっさと仔猫を母屋へ抱いて入ってしまった。

 それから、暫らく、あかねと仔猫の生活が始まる。


二、

 仔猫は相当弱っている様子だった。遠目に見ても、衰弱しきっているのが良くわかった。
 仔猫は家に上げられ、家族会議の結果、あかねが面倒を見ることになった。
 かすみ姉さんの助言で、東風先生に弱った仔猫の介抱の仕方を早速訊きにあかねは駆けて行ったようだった。東風先生はすぐに天道家にやって来て、
「専門じゃあないから…。」
 と断わりを入れながらも、適切なアドバイスをしてくれたようだった。
 弱った生き物ほど扱いにくいものはない。
いきなりミルクをやったとしても飲まないだろうから、始めはスポイドで、少しずつ飲ませていたようだ。あかねはずっと仔猫に付きっきりになっていた。
「へへん、おめえもペットお払い箱かもしんねえぜ…。」
 折りしも、天道家に上がり込んできたP(良牙)に向かって、俺は悪態などをついてやった。
「ごめんね…Pちゃん。この子可哀想だから、暫らくかすみおねえちゃんと寝起きしてね。」
 あかねは優しく、Pに言葉を掛けていた。
 Pは考え込んでいたが、諦めてかすみさんのところに厄介になる決意をしたようだった。
「ちぇっ!いい気なもんだぜ。」
 Pにとも仔猫にとも、「言われ得ぬ焼きもち」を俺は焼いてしまったのかもしれない。何となく面白くなかった。それは単に「猫嫌い」が成せる技でもなかったと思う。

 それでも学校がある日はてこずった。
 残念乍、たかだか仔猫の世話の為だけに欠席する訳にはいかなかったからだ。
 当然、昼間は、猫の世話はかすみさんか早雲のおじさん、又は俺の親父が面倒を見ることになる。
 後ろ髪を引かれるような思いで、あかねは登校している様だった。
 勿論、学校が引けると一目散に家へと駆け出す。そんな生活が続いた。
 一日目はそれで良かったが、二日、三日と経つうちに、あかねの方も寝不足気味になって行くようだった。おそらく、仔猫が気になって夜もろくすっぽ眠っていないのだろう…。一晩中、彼女の部屋に電灯が点いていることを俺はちゃんと知っていた。
 そんな風だから、当然、学校にいる間は、あかねは昼行灯のようにぼーっとしていることが多かった。
 体育の授業以外の時間は、授業中でも机に突っ伏して、眠ることが多かったのだ。隣の席のあかねが気になりながらも、俺はずっと無関係を貫いていた。
 仔猫が来て以来、殆ど、あかねとは会話らしい会話もしていなかった。別に喧嘩していた訳でもなかったが、ただ、黙って彼女を見守るしか術のない猫嫌いの俺だった。
 あかねも仔猫の容態が気になって、俺にてんで関心を示さなくなった。


三、

 あかねが無心で介抱した結果、なんとか仔猫は元に戻りつつあった。
「このまま飼いたい…。」
 当然の如くあかねは主張する。
 俺は内心、穏やかではない。今までは弱っていたからと我慢もできたが、いざ、仔猫が元気になって家中を徘徊するとしたら…俺にとっては実に迷惑この上ない事態が引き起こるだろう。
「この機会に乱馬くんも猫嫌いを治す修行でもしたら?」
 などと、なびきは面白そうに笑い掛けてくる。俺以外に、仔猫を飼うことに異を唱える者はいないのである。いや、一人いるとしたら、かすみの膝の上に鎮座しているPくらいなものか…。
 実にあっさりと、仔猫は天道家に収まることになってしまった…。

 しかし…。

 一見元気になったように見えた仔猫は、急に容態が悪化したのであった。
 もともと、体力がなく、きっと淘汰されるべき固体だったのかもしれない。
 生きとし生ける物も宿命のような「死」が仔猫の上に襲い掛かったのだった。
 断わっておくが、俺は呪詛(じゅそ)なんかはしていない。五寸釘とは違って、誓ってそんな嗜好は持ち備えていない。
 それはさておき、仔猫の最後はあっけがなかったと息を引き取る瞬間を看取ったかすみさんが言っていた。
 俺たちが学校へ行っている間に、仔猫は天に召されて行った。
 帰るなり、予想だにしていなかった仔猫の死に当然あかねは打ちひしがれた。いや、もともと負けん気が強い奴だったから、俺やかすみさんの前では、決して取り乱さなかった。
 冷たくなった仔猫をそっと抱えて、ダンボール箱に納め、庭先に咲いていた花で周りを囲み、桜の木下にそっと埋め戻してやった。あかねは目にいっぱい涙を浮かべながらも、薄曇の中、淡々と作業をこなしていた。
 俺にはかえって痛々しく映った。

 それから暫らく、あかねは抜殻のように、ぼんやりとしていた。
 時折、思い出したように溜息を付く姿が俺の心を激しく揺さぶるのだ。
 仔猫の死は何を彼女にもたらしたのだろうか?

「乱馬くん。仮にしも許婚なんだから、慰めの言葉一つくらいかけたらどうなのよ…。」
 なびきが傍に来て俺に強要する。なびきだけではなくて、天道家の住人、みんなに攻めたてられる…だから、かえって俺もムキになり、あかねに何一つ声を掛けられないでいた。
 Pがそんなあかねを慰めようと、しきりに鼻を鳴らしていたが、あかねは力なくPの頭を撫でるだけで、慰めにはならないようだった。ざまあみろ。


四、

 なかなか立ち直る気配を見せないあかねに、意を決して、俺は道着の黒帯を締めた。
 闇雲に酸っぱくなるような言葉を掛けられるほど器用な俺ではない。だから、同じ武道家の俺にしかできない方法であかねに喝を入れるしかない。
 縁側で降りしきる雨に向かってぼんやりしていたあかねに
「道着に着替えて来いっ!」
 と、凄んで言う事くらいしか出来ないのだった。
 あかねは俺の唐突の言葉に一瞬たじろいだようだったが、
「いいから、着替えて来いっ!!」
 更に強く言い放つ。気迫に押されるように、あかねはしぶしぶ道着を着衣してきた。半ば引き摺るように道場へと先導して連れ出す俺だった。

「来いっ!!」

 己を奮い立たせるように、俺はそう吐き出して、腰を落として中段に身構えた。
 だが、あかねは躊躇して、なかなか踏み込んでこない。
 業を煮やした俺は気迫で彼女を奮い立たせる。
 雨音が屋根にこだまして、ぱらぱらと音を立てていた。
 あかねとて一角の武道少女、気の打ち方で俺の激昂が分るはすだ。
 生半可な構えなら怪我を負わせ兼ねない…でも、敢えて俺はあかねの闘争心に賭けた。

「おめえが来ないなら、こっちから行くぜっ!!」
 俺は、身体中の闘気を漲(みなぎ)らせて、本気であかねに仕掛けて行った。

 ひゅんっ!

 寸でのところであかねは俺をかわす。
 あかねの表情が引き締まった。
 俺は更に激しく彼女に襲いかかった。
 始めは躊躇しているかのようだったあかねの動きも、激しさを増す俺の攻撃に、だんだん激甚を増して来る。考える間も無く、彼女に繰り出す俺の拳(こぶし)や脚(あし)は紙一重のところで、空を切って行く。

 絶対、手は抜かねえ!!

 そう決めていた俺だった。
 あかねも獣のような闘争心を燃やし始め、いつしか無我の境地で俺に突っかかって来た。彼女の中に深く眠る武道家の血が煮え立ちはじめて来るのを俺は肌で感じ取っていた。

 そうだっ!それでいいっ!!

 俺の拳を避けたあかねは、全身の力を集中させて、俺に突っ込んできた。

「でやーっ!!」

 彼女の本気を俺は右手で軽くなぎ払い、逆手にとって左で身体ごと押し上げた。

 あかねの身体は宙へ高く舞い上がった。
 俺の武道家の闘争心は、相手のあかねが女だという手加減をすっかり忘れてしまっていた。
 あかねは体制を済崩し、そのまま道場の床へと落下してきた。
 俺はそのまま、夢中で彼女を支えようと飛び込む。


五、

 次の瞬間、俺の両腕はあかねをわしづかみにしていた。
 そのまま、一緒に床へとはじき出され、大きな尻餅を着く。
 あかねに怪我はなかったようだ。
 俺も、受身を取ったので、少し尻は痛かったが別にどうということもなかった。

 腕に抱えたあかねと目が合った。
 すると、あかねは。大急ぎで俺の身体の上から離れようとした。
 だが、俺は、そのままあかねの腕を繋ぎとめ、自分の胸に彼女の顔を押し込めた。

乱馬?

 あかねの声にならない心の呟きが聞こえてきそうだったが、俺はそうせずにはいられなかった。
「泣きたいときは、泣けばいいんだよ…バカ。」
 擦れるような声で囁いた…。
 俺の言葉の真意を瞬時に理解したのか、あかねはそのまま泣き崩れた。

 おまえを慰めることなんてできっこない。俺に出来るのは、ただ、見守るだけ…。泣き場所を与えてやるだけ…。
 おまえが安心して泣けるのは、ここだけ…。他の誰の胸の中でもない、俺の胸の中だけ、それだけは、それだけは忘れるな…。

 心の中で囁きかけて、壊れ物を扱うように、そっと両手に力を注ぎ、涙に震える愛しい肩を抱きしめた。

 さっきまで降っていた雨は上がり、道場の入口から夕陽が差し込んできた。


 その後、俺は血相を変えて飛び込んできたPの野郎に、そこいら中をヒズメで叩きのめされたことを付け加えておこう。
 あかねは、散々泣きじゃくった後、Pを抱きながら、
「ありがとう…乱馬。」
 そう言って泣きはらした目を拭いながら笑った。
 俺は、それには答えず、あかねの頭に軽く一度手を当てた。そして道場を出た…。
 道場の扉の向こうには天道家の面々がずらりと整列していた。大方、こそこそと覗いていやがったんだろう。

 俺は軽く咳払いを一つすると、茜色に光る夕焼けに向かって一つ大きく伸びをした。








一之瀬的戯言
 乱馬の視点から描いたもの。
 これと同じ内容をあかねに置き換えたストーリーも同時に書きました。
 同じ内容をそれぞれの視点から描いた拙作二次創作作品はこれが初めて。
 視点ものを両サイドから描くことを乱あWEB二次創作で試したのは私が始めてだったかも…。
 実験的要素が強い作文になっているため、エピソードを無理にこじつけたような作品になってしまっております。


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