れんげ畑の少女




「大丈夫…。」
 あかねはそう言って弱々しく口を開いた。
 何かを耐えているような苦しげな瞳とは対照的に、必死で笑おうとする様子が痛々しかった。
「ああ、そうだな…。大丈夫だ。」
 俺はそう答えるしか術がない。
 彼女の手には点滴の針が一本、痛々しげに突き刺さっている。
 
 さっき、外で医者に言われた。
「今夜が峠です。今夜を乗り切れば容態も快方へと向かうでしょう。もし、会わせたい方がいらっしゃるなら、お集めになってもいいです。」
 俺はその言葉を脳内に繰り返してみる。
「いえ…。いいです。それより、一晩彼女の傍に居てやっていいですか?」
 俺は至って平静を装いながらそう口にするのがやっとだった。
「勿論…。」
 医者はそう言うとまた病室へと戻る。
 
 ここはとある総合病院の病棟。
 あかねは静かにベットへと横たわる。
 つい今朝方までは病気ではなかった。
 力溢れる赤ん坊の新米母だった。なのに、何故。
 俺は憔悴を彼女に気取られないように傍らへと腰掛けた。
「帰ってもいいわよ。みんな、心配してるでしょ?あたしなら平気だから…。」
 彼女の口は精一杯の強がりを言う。こんな時にでも素直じゃない。
「いや…。いい。もう暫くここに居る。」
 こくんと頷くあかねは苦しげだが少し微笑み返した。
「いいから、少し眠れ。さっき抗生剤を注射してもらって少しは楽になったろう?」
 頷きで返事を返した彼女は静かに目を閉じた。決して安らかな顔ではない。必死で高熱からくる苦しみに耐えているのだろうか。

 あかねは今朝になって急に発熱した。
 その熱の上がり方は尋常ではなかった。
「産褥熱です。」
 医者はそう言った。
 産後、何らかの細菌が身体に潜入して高熱を引き起こす病だそうだ。つい昨日まではケロッとしていて、おっぱいもたくさん張ってきたなどと嬉しそうに授乳していたのに。
 三千六百グラムの玉のような男の子。
 それが俺とあかねの愛の結晶。初産だから時間はかかったが、決して難産ということではなかった。いたって普通の分娩で、時間はかかったが順調に産声を上げた。
 なのに…。
 
 突然ふって湧いたようなあかねの病。
 昨夕覗いたときと、明らかにあかねの様子が変わっていた。
 病院から呼び出されて、息せき切って駆け込んだ。道場の稽古があったが、親父たちに全て任せて飛び出してきた。
 俺の頭の中には「何故?」という言葉しか浮かび上がらなかった。
 赤ん坊は部屋から取り上げられ、別の新生児室へ移された。まだ抵抗力のない新生児に熱に浮かされた母親の細菌が移っては大変だからだ。
 さっき新生児室を覗いてきた。窓硝子越しに俺たちの赤ん坊は元気いっぱい泣きまわっていた。母親が恋しいのだろうか。

 あかねは苦しくて身体の置き場もないのだろう。手に針が刺さったままであるにも関わらずに、頭の位置を動かして少しでも楽な姿勢を保とうとしているようだった。息も荒い。さっき熱を測ると四十度を振り切っていた。
「熱いか?」
 そう俺が問うと
「寒い…。」
 と震える声で言った。
 身体はある一定の体温を超えてしまうと、温度感覚もなくなるのだろうか。あかねの身体はガタガタと寒さに凍えているように見えた。
「足が・・冷たい…。」
 あかねはようよう口にした。
「湯たんぽ貰って来てやろうか?」
 俺は溜まりかねてそう問うた。
「うん、お願い…。」
 あかねはそう言うとまた目を閉じる。
「待ってろ…。」
 俺はたっと病室を出た。
 ナースステーションへ寄ってあかねの容態を告げ、湯たんぽをお願いした。
「相当熱が高いのね。足に血の気が通わないような感覚になっているのね。」
 ここが家ならば、迷わずあかねの身体を抱いて添い寝してやるのだろうが、流石に病床でそんな大胆なことも出来ない。せいぜい、看護婦さんから湯たんぽを受け取ってあかねの足元へ差し入れてやることくらいだ。
 蒲団の中のあかねの足は、この世のものとは思えぬくらい冷たかった。それだけ熱が高ければ、もっと身体も発熱していてしかるべきなのに、である。それだけに尋常でないことが伺えた。
 あかねの身体は小刻みに震えていた。
 身体中から熱が奪われているような、そんな感じなのだろうか。
「あたし…。このまま死んじゃうのかな…。」
 らしくない言葉が漏れた。
「バカやろうっ!そんなこと、軽々しく口にするんじゃねえっ!」
 思わず叫んでいた。
「おめえが居なくなったら、赤ん坊はどうなるんだよ?それに、俺だって…。」
 それ以上は言葉にならなかった。
 こんな場合男は、いや、人間は無力だ。
 熱と戦っているあかねを傍にしながら、俺は何もできない。ただ傍に居て見守ることしか術がないのである。
 窓の外で雨がバラバラと音を立てて降り始めた。
 五月の闇の雨。だんだんと雨脚が強くなる。その雨の音に闇夜へとあかねが吸い上げられてゆくのではないかという恐怖の錯覚に捕らわれる。
 思わず俺はあかねの手を握り締めていた。
 手先も冷たい。氷のように血色を失っている。
 俺は無意識に温めようと手を摩るように動かしていた。
 あかねは震える身体を持て余しながらも、淡い眠りへと落ちていったようだ。
 いつか弱音も消え、軽く開いた口から微かに息が漏れる音がした。
 俺はぎゅっと手を握り締めたまま、全身を目にしてじっとあかねの苦しげな寝顔を見続けた。そうしていないとあかねがふっと何処かへ居なくなりそうなそんな気がしたからだ。

「あかね…。あかね…。」

 心はずっと彼女を求めていた。




 いつの間にか電灯は消え、あたりは真っ暗になっていた。
 病院の夜は早い。
 ドアの外を器材を積んだローラーを引きながら看護婦さんたちが通り抜ける音がする。パタパタとベタ音を響かせながら洗面所へ向かう患者さん。ぼそぼそと話し声、トイレの水音。
 つんと鼻をつく消毒液の匂いが否が応でもここは病院であることを顕示しているように思えた。
 俺も何時の間にか寝入ってしまっていたようだ。
 非常灯だけの薄明かりの中、眠ってしまったあかねを必死で覗き込む。息をしているかどうか、それだけが気になった。いつあかねの口元から息が漏れる音がきこえなくなるか。気が気ではなかったからだ。スヤスヤとまではいかなかったが、あかねの心肺は動いていた。時々うめくように苦しげな声を上げている。
「乱馬…。」
 うわ言は俺を呼んでいた。
「ここだ…。」
 俺は離れかけていたあかねの手を再び握り締めると、問いかけに答えた。
「乱馬…。」
 夢に魘されているのか、あかねはそれでも俺を求めて声を出した。
「大丈夫…。大丈夫だから…。俺はずっとおめえの傍に居る。」

 そう言い掛けたとき、俺の周りの風景が崩れた。
 じわっと溶けるように、部屋が崩れ始めたのである。





「ここは…?」
 俺は目を疑った。
 さっきまで病室だと思っていた空間が、白んだ世界へと変わっていたからだ。
「あかね?」
 掴んでいた筈の手がそこにはなかった。一瞬己を失い立ち尽くす。

「おじちゃん、どうしたの?」

 と、後ろで女の子の声がした。
 振り向くと、おかっぱ頭の五歳くらいの小さな女の子が一人、俺を不思議そうに見上げていた。円らな瞳に微かにも覚えがあるような気がしたが、その時はそれが誰のものと同じなのか思い出せずに居た。
「あ…。いや。何でもない。」
 俺はふと言葉を継ぐのを止めた。
「誰か探してるの?」
 女の子は人懐っこい笑顔を向けてきた。屈託がないというのは彼女のことを言うのだろうか。警戒心の欠片もなかった。
「ああ…。」
「誰?お母さん?」
 女の子はふっと言葉を継いだ。
「いや…。母さんじゃねえ…。」
 俺はあかねを探していると言いたかったが、子供に言っても始まらないと言葉を止めた。
「ふうん…。あたしはね、お母さんを探しに来たの。」
 問いかけもしないのに女の子はそう言うとふっと微笑んだ。
「はぐれちまったのか?」
 俺は問うと、
「うん…。ここで待ってなさいって言われたから待ってるの。」
 何時の間にか視界が開けた。
 靄ががかっていた目の前に棚引くようなれんげ畑が見える。
 見事な真っピンクの絨毯だった。れんげのピンクに混じって黄色と白の小さな羽根がパタパタと忙しそうに戯れながら空を舞っている。蝶々だ。空は見事にセビリアンブルー。絵に書いたようなのどかな田園風景が広がっていた。
 女の子は薄いピンクのワンピースを着ていた。そして、つばのある帽子をかぶっていた。肩からは小さなポシェット。胸には見覚えのあるような小さな黒いぬいぐるみを持っている。
 何処かへ出かけるのだろうか。ちょっと余所行きに見えた。
 風は音もなく俺たちの傍をそよそよと渡ってゆく。
 俺はここがどこであるのか、左程感心もなく、ぼんやりと空の彼方を眺めた。

「あ、お母さんっ!」
 女の子は目を輝かせた。
「え?」
 俺は彼女の指差す方向を見た。
 そこには小さな小川がせせらいでいた。水がちょろちょろと流れている音が耳に聞こえてくる。ひょいっと飛越えられそうなそんな土手の向こうに、手を振る夫人の姿が見えた。
「お母さんっ!」
 女の子は待っていたかのようにだっと駆け出した。
「おいっ!急に走るとすっ転ぶぜっ!」
 俺は勢い良く飛び出した彼女に、つい声を掛けていた。
 と、予想違わず、彼女はすっ転んだ。
 彼女の小さな身体は瞬間浮き上がり、れんげ畑の中へ投げ出されるように倒れこむ。
「わあーん。」
 痛かったのか彼女はべそをかき始めた。
「云わんこっちゃねえ。」
 俺は仕方なく彼女の方へ手を伸ばした。

「冷たい…。」

 掴んだ腕は氷のように冷たかった。涙に濡れて冷たいのではなかった。まるで蝋人形か何かのように無機質で血が通っていないように思えた。彼女の先には投げ出されたぬいぐるみが転がっていた。
「あれ?」
 俺はそいつもちょこっと拾い上げた。
「P助?」
 長い間忘れていた感覚。独身時代すっとあかねが飼って可愛がっていた子豚そっくりの人形だった。
「子豚ちゃん。返して。」
 女の子はもう立ち直って、俺の傍でそう告げた。
「あ、こいつな…。ほら、土がくっついて汚れたかな…。」
 俺は埃をパンパンと落としてやりながら彼女にぬいぐるみを返した。
「ありがとう…。」
 にっこりと微笑む彼女は俺から人形を受け取ると、
「あたし、もう行かなきゃ。」
 と言って立ち上がった。
 それから彼女は再び、母親が待つ小川の対岸へと目を向けた。

「あ…。」

 俺ははっとして声を上げた。
 
「あかね…。」

 俺は岸辺の向こうを見て思わず声を上げた。
 そこに居たのは白い着物を着たあかね。
「あかねっ!」
 己の探し人が彼女だったことに気がついて思わず身を乗り出した。
「お母さんっ!!」
 俺の傍を女の子がすり抜けた。
 俺とあかねを隔てる小川は大人が飛び越すには勢いをつければ丁度良い距離であったが、幼い子には危険すぎる。
 
「いやあっ!!」

 女の子は俺の目の前で川の中へと投げ出される。
「あぶねえっ!!」
 俺は無我夢中で彼女の手を引っ張った。
 間一髪で俺は彼女の腕を掴んで己の方へと引き寄せた。
 二人一緒に後ろへと勢い良く投げ出された。無我夢中で受け身を取ったので、衝撃は俺の背中に吸収された筈だ。女の子を抱えてぎゅっと抱き締める。
 
 トクン…。

 冷たかった彼女の身体が一瞬波打ったような気がした。

「あかね…。あなたはまだこっちへ来てはならないようね…。」
 対岸から涼やかな声が響いた。
「え?」
 見ると、さっき彼女がお母さんと声を掛けた女性が寂しそうにこちらを見ていた。
「いやっ!あかねもそっちへ行くのっ!!」
 俺の腕の中で女の子が足掻いた。俺は訳もわからぬまま、何故か彼女をしっかりと抱きとめていた。離してはならない。本能が俺にそう命令したのかもしれない。
「甘えん坊ね…。あかねは。ダメよ。あなたが居なくなると、その人が困るわ…。それにあなたの育まなければならない新しい命だって…。」

 遠くで赤ん坊の泣き声がした。

「さようなら。あかね。」
 女性はそう言うと、満面の微笑を浮かべた。それは母の慈愛に満ちた眼差し。


「お母さんっ!!」
 腕の中の少女が叫んだ。

 と、女性の居た対岸はみるみるうちに靄に包み込まれた。そしてやがて見えなくなった。

「お母さん…。あたしを一人にしないで…。」
 俺が抱いていた少女はそう言いながらしゃくり上げている。
(あかね?)
 俺はキツネに摘まれたように腕の中の彼女を見た。幼子の顔が愛する妻へと重なり始める。
(そうか…。あの女性はもしかすると…。こいつの…。)
 俺は泣きやまない少女をそっと包み込んだ。
「大丈夫…。おまえは一人じゃねえ…。俺が傍にいるじゃねえか。ずっとこうやって守ってやるから…。母ちゃんが居なくたって生きていける。いや、おまえは母親になったばかりなんだろう?しっかりしろ。」
 目の前の少女があかねだと俺は確信していた。
 そう告げると、俺は深く少女を胸の中へと抱き沈めた。
 彼女の身体は次第に暖かい温もりを取り戻し始める。
『乱馬さん。あなたにこの子を託します。…。どうかずっとそうやって傍に居てやってください…。この子が私を恋しがらないように。』
 耳元で女性が俺に囁いたような気がした。







 何時の間にか朝の光が病室へと差し込んでいた。
 その柔らかい光に俺は促されるように目を開いた。

「あかね…?」

 あのまま俺はあかねの手を握り締めながら寝入ってしまったのだろうか。
 俺は寝ボケ眼をこすりながら慌てて己の傍を見渡した。
 俺のすぐ傍であかねは目を閉じたまま横たわっていた。じっと彼女を見詰めた。定期的に動く胸で彼女はしっかりと息をしていた。握っていた手には血色が戻り始め、昨夜の苦しみが嘘のように穏やかな寝顔をしている。
「生きてる…。」
 俺は思わず安堵の溜息を吐いた。
 何故かそう思うと涙が溢れ出した。
 その雫が頬を伝い、彼女の顔へと落ちた。
 涙の雫があかねの意識を呼び戻したのだろうか。
 
 あかねの目が静かに開いた。
 そして俺を見つけると、嬉しそうに微笑みかけた。

「乱馬…。」

 俺は黙って頷くと、涙の溢れる顔をそっと近づけた。
「おはよう…。あかね。」
 二人で迎える朝を祝福するように、俺は言葉を紡ぐと、繋がったままの手へと唇を寄せた。止めようにも止まらない涙。その雫で濡れたあかねの手をしっかりと握った。
 あかねは頷くと、そっと掌に力をこめて握り返してきた。
 力が戻ったのだ。
「もう大丈夫…。」
 あかねはそう言うとにっこりと笑って見せた。
「バカ…。」
 俺はお決まりの言葉を発すると、何度も彼女にくちづけした。俺を見詰める瞳。ほのかにれんげ色に染まる頬。
 愛は言葉では尽くせない。
 目の前で微笑みながらはにかむあかねの手の温もりを確かめるように、俺はいつまでも握り続けていた。

 また巡り来た、新しい二人の朝に尽くせぬ感謝を表しながら。



 完










娘を産んだ直後の五月九日…私は確実に死にかけていた…と思われます。
本人にその自覚はなかったのですが、医学が発達していない世に生まれていたら或いは…というくらい危うかったろうと思います。
その実体験を元に描き下ろした作品です。
現実の世界はこんな甘いものではなく、もう、身体も心もボロボロになったのを覚えています。。
ただ、熱に浮かされて凍える身体を持て余した頭で冴え冴えと考えていました。
生まれて間なしの娘とやんちゃ盛りの息子を置いて死ぬに死ねない…生きなきゃ!と。


慢心してしまって「感謝」という言の葉を忘れかけている当時の自分自身への自戒を込めて書き下ろしたため、少し重い作品となっています。



(c)2003 Ichinose Keiko