若夫婦の実情   前編



 あかねが乱馬の子供を産んで二ヶ月近くが経った。
 男の子と女の子の一人ずつ。双子だ。
 只でさえ不器用ときているあかね、その、奮闘振りは傍目に見ても大変そうだった。慣れない手つきでオムツを換え、胸を肌蹴て母乳を与える。新米母親にとって、実は母乳を与える事一つとっても、きつい事だったりする。赤ん坊も母親も慣れていない分、乳房に口を当てて吸わせることも一苦労だったりするのである。
 あかねはそれでも母乳は二人分たっぷり出る体質だったらしく、今のところ粉ミルクは使わずに済んでいる。でも、それがそれでまた大変なのである。粉ミルクと母乳の違い。それは、赤ん坊の消化吸収時間に差が歴然と現れる。母乳は栄養分が高い上に、そう、消化吸収が早いのである。その分、ミルクよりも腹持ちが悪いらしく、龍馬と名付けられた男の子の方は、三時間できっちりとおっぱいをねだって泣き出す。
 生まれたての赤ん坊には夜も昼もない。母乳だと平均でも六回から七回、授乳しなければならない。
 加えて、一人でも大変なのに、一度に二人分だ。
 パニックにならないで、なんとかやっていること事体が奇跡に近かったかもしれない。とにかく、最初の検診までは無我夢中で過ごした。

 乱馬もそんなあかねの奮闘ぶりを傍から見ているから、あかねには優しく接しているし、何より自分の分身が可愛くて仕方が無いらしかった。
 普通のサラリーマンの父親達とは違って、道場主という特殊な家業。比較的、あかねの傍にいる時間が長かったので、それなりに育児に協力を惜しまない。あかねの負担を少しでも楽にしてやるために、乱馬なりに気を遣っていた。 
 それでも夫婦にはすれ違いの隙が生じたりすることがある。これもまた仕方が無いことなのかもしれない。

 産後二ヶ月が過ぎる頃には、あかねの母親業も板につき始めてきた。
 少しは母親らしい貫禄が出始めたというのであろうか。
 そんなある日、久しぶりにあかねの姉、なびきが薮入りしてきた。彼女は自分で事業を起こし、今では近所に事務所を構え、別住まいをしていた。
 起こしたビジネスの相棒はあの九能帯刀。乱馬とあかねが結婚してからというもの、彼なりに諦めたのか、それとも随分前から脈絡があったのか、なびきといい関係を構築していた。察するにこの二人が一緒に暮らし始めるのもそう遠い日ではないだろう。
 それはさておき、なびきが授乳をするあかねを眺めながらぽっそりと言った。
「ねえ、あかね。あんた、ちゃんと乱馬くんにケアしてあげてる?」
「ケア?」
 あかねは姉の言いたいことがわからずに問い返していた。
「鈍いわね…夜の営みのことよ…。」
「夜の営みって?…。」
 あかねは赤ん坊に乳房を含ませながら繰り返した。
「夫婦間の営みよ…その分だと、そっちのことはお座成りにしてるんじゃないの?」
 あかねは黙った。
 姉がストレートに言いたかったのはそれかと思った。そう言えば、妊娠後期から、主だった夫婦関係は結んでいない。母体保護という立場上仕方がないといえば仕方があるまい。乱馬も別に苦情を言うわけでなく、至極当然に交わらないまま半年ほどを過ごしている。
「たく…。相変わらずあかねは疎いんだから…。いい、夫の浮気って妻が妊娠前後にだいたい集中しているって統計があるくらいなのよ…。ちゃんと、ケアしてあげないと乱馬君だって…。二十代前半の男盛りなんだし…。」
 なびきはやれやれというような目を妹に向けた。
「あたしたちに限ってそんなことないわよ…。」
 あかねはすまし顔で答えた。
「そうも言ってられないわよ…。あんたはあんまり知らないだろうけど…。乱馬君、あれでいてなかなか出張道場の若い子たちに人気があるんだから…。彼がそういうつもりでなくても、誘惑はいっぱいあるのよ…。ぼちぼちちゃんとしてあげた方がいいって思うけどね、あたしは…。老婆心ながら忠告しておくわ。」
「ちょっと、お姉ちゃん。なんだかその言い方、引っかかるわね…。」
 あかねは授乳が終わった子の背中をポンポンと叩きながら言った。
「実はねえ…この間見ちゃったのよねえ…。乱馬君が駅前を、女の子と楽しそうに肩を並べて歩いているところを…。」
 なびきはぽそっと答えた。
「まさか…。」
 げぷっと息を吐き出した息子をゆっくりと蒲団に下ろすと、次の娘へ授乳しようと抱きかかえながらあかねは呟いた。そして、抱き上げて再び授乳をする傍ら、姉の話に聴き入り始めた。
「いいこと…。少しは姉の忠告も訊いておくことよ…。」
 なびきは珍しく無報酬であかねに自分の持っている情報を話し始めた。



 それから暫くして、あかねは散歩帰りに乱馬を見かけた。出稽古に週に何度か駅前のカルチャースクールに出かけている乱馬。それを迎えがてらにベビーカーを引いてお散歩するのが金曜日の慣わしだった。子供も太陽の光に当てなければビタミンEは形成されない。だから、こうやって暑い盛りを避けて夕刻になるとぶらぶらと夕涼みに出る。
 いつものように近くの児童公園へと入り、木々の木漏れ日の下で腰掛けていると、脇の道路を乱馬が歩いてきた。声をかけようとしてはっとした。
 乱馬は若い女性と随分親しげにケラケラ楽しそうに笑いながら歩いている。隣の女の子は見たところ学生風だ。化粧っけもあまりなく、初々しさを残す反面、あかねと違ってセミロングのさらさらとした髪をなびかせている。スタイルも良く、何より若さが溢れている。
 あかねは昼間のなびきの言葉を思い出した。

『最近ね…乱馬くんにカマをかけようとしている女子大生がいるって話よ…。気をつけたほうがいいんじゃない?』

 まさか、乱馬に限って…と思ったが、なんだか今のようなシーンを見せ付けられると心が穏やかではなくなっていった。
「浮気?」
 心はざわつきはじめる。
 何より悔しいと思ったのは、乱馬とつりあっているということ。筋肉質の乱馬。ますます精悍になった身体つき。自信に溢れた態度。その乱馬の横で歩む見知らぬ女性の姿があかねには眩しく映ってしまった。
 乱馬はあかねに気がつかずに通り過ぎていった。追いかけようと思ったが辞めた…。

 あかねは一つ溜息を吐くとベビーカーを押して一人道を辿り始める。
 なんだか自分が惨めだった。
 家族の手前、平気を装ってはいたものの内心気が気でない。
 幸いその日は町内の寄り合いがあって、父たちと乱馬は出かけたので顔を正面から合わさずに済んだ。そんなことにホッとしている自分が情けないとあかねは思った。


 夜、寝屋に入って乱馬は開口一番あかねに声を掛けた。
「どうしたんだよ…。夕方からずっと仏頂面して…。」
 明らかにいつもと態度が違う。口数が少ないあかねだった。
「別に…。なんでもないわよ…。」
 蒲団に横たわりながらあかねは答えた。そんな彼女に乱馬はぐっと覗き込む。あかねは思わず視線を外して明後日の方向を見た。
「何なんだよ…。その態度…。」
 乱馬はぷいっと横を向いたあかねに話し掛ける。何か俺が気に食わぬ事でもしでかしたかというような素振りだ。
「いいのっ!あたし疲れてるんだからほっといてっ!!」


 次の日もまた次の日も乱馬は帰宅が遅いような気がした。
 こういうものは疑い出すときりが無い。
 この前見た乱馬と女の子の風景があかねの脳をかすった。
 自分でもわかっていたがあかねはふうっと重い溜息を漏らす。
「どうしたの?」
 のどかがあかねを見兼ねて声をかけてきた。
「いいえ…。別に…。今日も暑いですね…。」
 あかねはそう言いながら姑の言葉を交わした。
「たまには一人でお買い物にでも行ってらっしゃいな。子供達の面倒は私がみてあげますから…。少しは気も晴れてよ。」
 あかねの心を見透かしているのか、のどかは気を回して言葉をかける。
「そうですね…。丁度、駅前の薬局で紙おむつも特売やってたし…。ちょっと出かけてきます。」
 あかねはサンダルをひかけると表へ出た。
 夏の太陽は西へと向い始めていたが、まだ夕刻までには間がある。今日も乱馬は出稽古だった。

 行きつけの薬局の自動ドアを入ると、ひんやりとした空調の風が身体を捉えた。
 とあかねは足を止めた。
 この前の女子大生が店に居たのだ。
 彼女はこちらのことを知らないだろうが、あかねは足を止めて売り場に固まってしまった。彼女は棚を真剣に探している。あかねはじっと彼女の動向をつぶさに見つめていた。
 女子大生は目立たない隅の棚に目的の物が見つかったようで、それを手に取ってしげしげと眺めた。そして、徐にそれを持ってレジへと移動した。小さなメッシュの小箱。そしてそれをレジから貰い受けるととっとと店を出て行った。
 何を買ったのか気になったあかねは、彼女が佇んでいた棚を見上げてはっとた。確かに彼女が持っていた箱。それは…。紛れも無い、「スキン」だ。
 何故そんなものを買って行ったのだろう…。悪びれた様子も無く、堂々と買って颯爽と店を出て行った彼女。
 何かいけないものを見てしまった。
 そう思った。
 或いは見るべきではなかったのかもしれない。
 そこで己の思考がぱたりと止まってしまった。

 そんなものだから、あかねはすっかり薬局へ足を踏み入れた目的を忘れてしまっていた。そう、紙おむつの特売品を買わずに、ただぼんやりと店を出た。
 悪いことは重なるもので、あかねは帰り道、乱馬とさっきの彼女が一緒に歩いているところを見てしまったのだ。
「乱馬…?」
 あかねの顔はみるみる強張った。
 嬉しそうに微笑む彼女と並んで歩く夫…。あかねに猜疑心が生まれた。

 その後、どうやって家へ帰りついたのかは覚えていない。
 のどかにお帰りなさいを言われたような気がしたが、それに愛想笑いだけを返して、また子供の世話に没頭する。同居人たちに心配はかけられない。ただ、それだけがあかねを支配して平静さを装わせていた。
 乱馬はその夜、なかなか帰って来なかった。





後編へつづく…


緊張感漂う前半に対して、恐ろしく低俗なコメディーになった後半…
読むに耐えられないラストになる予定なので、試作室へ掲載していました。
このネタってR指定なのかも…。




(c)2003 Ichinose Keiko