◆猫パニック


 ある秋の日のことだった。
「だんだんと風が冷たくなり、洗濯物も厚物が乾きにくくなったわ…。」
 あかねはそんなことを呟きながら手馴れた手つきで籠に洗濯物を入れていた。
 乱馬と結ばれて六年。不器用だった彼女もすっかりベテランの主婦になりつつあった。
 ふと手を止めて傍らに目をやった。
 さっきまで賑やかに庭先で遊んでいた龍馬と未来の姿がなかった。スコップとミニバケツが土の上にごろんと転がっている。
(もうぼちぼちおやつと言って駆けてきそうなものなのに…。)
 あかねはほっと溜息を吐いた。
 と、小さな影が二つ、道場脇に見え隠れしている。大方隠れん坊でもしている気分なのかとあかねは取り込んだ洗濯物を母屋の方へ持っていった。
 それからいつものように茶の間に広げて、一つ一つ丁寧に畳んでゆく。
 現在の天道家の住人は乱馬とあかね夫婦とその双子、そして乱馬の父母、あかねの父と姉一人、それから八宝斎の爺様。合計九人。なびきは時々別に借りているマンションへ寝泊りしているものの、洗濯物の数は半端ではない。それはそうだ。汚し頭の双子は四歳。毎日泥だらけになって遊んでくれる。一日何度洗濯機を回せば良いのやら。嬉しいような困ったような、そんな母親の日々を送っている。
 カタンと台所で音がした。
「龍馬?未来?」
 あかねは茶の間から声をかける。
 と、戸惑うような気配。
「こら…。また勝手に冷蔵庫、開けてるのね…。」
 あかねは洗濯を畳む手を止めて、台所へと足を伸ばした。育ち盛り、伸び盛り、悪戯盛りの双子は、結託していろいろとしでかしてくれる。この前もお爺さんたちの冷酒を誤って飲んでしまい大騒ぎになった。とにかく目が離せないのである。万国共通の母の悩みでもある。
 案の定、未来がそこに居た。そしてさっと隠した物がある。
「今隠したのはなあに?未来。」
 あかねはにこっと笑って問い掛けた。口元は笑っていても決して目は笑っていない。子供も心得ていて、
「ううん…、別に…。」
 などと曖昧な受け答えをする。
「ダメよ…。隠したって母さんはわかってるんだから…。」
 そう言って未来の首根っこを抑えた。
「あら、まあ…。」
 未来が隠し持っていたのは白牛乳のパックだった。
「何処へ持って行こうとしてたのかな…?咽喉が渇いたならちゃんと言わないと…。」
 あかねはさっと未来から牛乳パックを奪い返した。
「だって…。龍馬が…。」
「龍馬がどうしたの?」
「……。」
 未来はぐっと黙り込む。
「もう、龍馬が持って来いって言ったのね。しょうがない子だこと…。」
 取り上げた牛乳を冷蔵庫に戻しながらあかねが言った。
「母さんが注意しに行かなくちゃね…。」
 そう言うとあかねは勝手口から外へ出た。
 後ろで未来がもじもじしている。何かあるなと直感したあかねは、そのまま無言で龍馬の方へと歩み寄る。

「未来。もう、遅かったじゃねえか…。母さんにみつからなかっただろうな…。」
 幼いとはいえ物の言いようは乱馬にそっくりな龍馬だった。
「母さんがどうしたって?」
 あかねは龍馬を見下ろしながら鼻先で笑って見せた。
 しまったというような顔を龍馬が向けた。そして茂みに何か隠した。
「こらっ!龍馬っ!ダメじゃない…。」
 あかねはそう言うと、龍馬が何か隠した茂みに手を伸ばそうとした。

 と、何かが蠢いた。
「みゃー。」
 そいつは一声鳴いた。
「猫?あらまあ…。子猫。」
 あかねは茂みから這い出てきた物をつまみ上げた。
 みゃあと元気な鳴き声でその子猫は見上げている。生まれて数ヶ月といったところだろうか。
「捨て猫なの…。」
 未来がぼそっと言った。
「そうなんだ…。さっき門のとこに居たんだよ、お母さん。」
 龍馬もばつ悪そうに言った。
「ねえ、飼ってあげてもいいでしょう?」
 未来はあかねを見上げた。
「ダメよ…。」
 あかねは苦笑いしながら二人に言った。
「えーっ?どうして?」
「こんなに可愛いのに…。」
 子供達はこぞって口を尖らせた。
「家には猫ちゃんを飼うことはできないのよ…。飼ってあげたいのは山々なんだけれどね…。」
 あかねは言い含めるように見た。
「お母さんの意地悪っ!」
「子猫ちゃんがかわいそうだよ…。」
 未来も龍馬も抗議の目を差し向ける。
「ダメなものはダメなの…。」
「嫌だっ!飼ってあげるのっ!!」
 未来はぎゅっと猫を抱きしめて放さなかった。誰に似たのか少し強情なところがある。

「ただいま…。」

 玄関先で声がした。
「あ、お父さんだ…。」
「お父さんなら飼って良いってきっと言ってくれるよ。」
 二人の目はぱっと輝いた。そう言うと二人は猫を抱いたまま声のした方へと駆け出した。

「ちょっと待ってっ!!」
 あかねは思わず叫んだ。それはそうだ。龍馬も未来も知らないが、彼らの父親の乱馬といえば、大の猫嫌い。いや、猫恐怖症である。大人になった今でもそれは変わっていない。
 猫を見たら乱馬がどんな反応を示し、そしてどんな事態を招くか。それはあかね自身が熟知していたからた。
 だが、静止する間もなく、二人は元気良く玄関へと走り出す。

「ぎゃーっ!!」

 つんざくような悲鳴が聞こえた。

「あちゃーっ!遅かったわ…。」
 あかねは落胆の息を吐き出した。
 見ると予想通り、乱馬が猫を前にして立ちすくんでいる。おまけに悪い事に、未来から抜け出た猫は、足が凍って動かない乱馬の方へと飛び掛る。
「うわーっ!!猫っ!!猫っ!!!」
 更に悪いことに猫は乱馬の背中にひょんと乗っかってしまった。
 後は悲劇が待っていた。

「にゃあお…。」
 乱馬の表情が一転した。

「まずいっ!!」
 あかねが危惧していたことが起こった。そう、乱馬は恐怖のあまりに、己を猫化したのである。

「お父さん?」
「どうしたの?」

 父親の様子がおかしいのに気がついて、龍馬も未来も驚いた。

「ダメっ!龍馬も未来も、お父さんから離れなさいっ!!」

 あかねが叫んだのと、乱馬が飛び上がったのは殆ど同時だった。

「みゃーおっ!!みゃおうんっ!!」
 乱馬はそのまま四つん這いになって目を輝かせた。

「どうした?」
「何事ぞ?」
 玄関先から騒ぎを聞きつけて早雲と玄馬が飛び出してきた。

「ふぎゃー…。ふみみみ…。」
 それを見つけて、乱馬は一層激しく興奮し始める。背中をピンと立てて臨戦態勢に入った。

「お父さんっ!!」
「ねえったらねえっ!!」
 子供達は父親の異変に訳がわからずにパニくり始める。生まれて初めて目の当たりにした父の猫化だ。仕方があるまい。

「みゃうううん、みゃううっ!!」

 乱馬は丁度良い具合に、父親たちを標的に暴れ出した。そのおかげで矛先は子供等に向かなかった。
「こらっ!!乱馬っ!!やめいっ!!」
「乱馬くんっ!落ち着いてっ!ここは穏便に話しあって…・うわあっ!!」

「ふぎゃーっ!!」

 乱馬が勢い良く飛んだ。
 バリバリ、びりびり音がして、玄馬も早雲も、共に猫乱馬の餌食になってゆく。

「うわーん、お母さんっ!!」
「お父さんがあ…。」
 子供達はすっかり舞い上がっていた。すがるように母の元へと駆け出した。
「だめよっ!母さんは父さんを、しずめなきゃならないの。来ないでっ!!」
 あかねは叫んだが、二人ともそんなことはお構いなしだった。

「大丈夫よ…。二人とも。」

 そこへ割り込んだのはのどかだった。あかねの方へと駆け出した二人を両腕に抱え込むように抱きこんだ。
「おばあちゃん…。」
「ひっくひっく。お父さんがあ…。」
 龍馬も未来も、守るようにすっぽりと抱えてくれた、祖母の傍で泣崩れた。
 天道道場の庭先はすっかり修羅場になってしまった。子猫どころではなくなった。乱馬に乗った子猫はふいっと目を転じると何処かへと立ち去ってしまった。
 乱馬は大暴れした。父親たち二人を足蹴にし、引っ掻き回し、ご乱心。
 こうなると誰も手がつけられなかった。
 
 双子はわんわん泣いていた。
「お父さんが…。お父さんがぁ…。」
「猫になっちゃったよぅ…。」
「大丈夫…。後はお母さんに任せておけばいいのよ…。」
 のどかは微笑みながら二人の背中を撫でてやった。

 ひとしきり暴れたあとで、やっと彼はあかねに気がついた。そして最愛の妻へと目を転じる。

「乱馬…。ほら…。」
 あかねはそっとしゃがみこんで乱馬の方へと右手を差し出した。
「此処へいらっしゃいな…。」
 にっこりと微笑みかける。
 すると、乱馬は待っていましたと云わんばかりに「にゃん!」と一声鳴いて、あかねの膝の上へと駆けた。
 そしてあかねの周りを一巡りすると、ちょこんとその膝の上へと乗り上がった。そしてここは俺の場所だと云わんばかりに占有する。
 乱馬は膝の上に落ち着くと、嬉しそうにあかねへと甘えた声を出した。撫でてくれと身を摺り寄せる。
「本当にしょうがないんだから…。」
 あかねは目を細めてそんな夫の背中を撫でてやった。

「怖かった?龍馬、未来…。」
 のどかは二人を抱きしめながらそう声を掛けた。
 ひっくひっくとしゃくりあげながらも二人はじっと父親を眺めた。
「お父さんは?」
「猫になっちゃったの?」
 そんな幼い疑問に祖母は丁寧に答えてやった。
「お父さんね、猫ちゃんが苦手なの。だからね、猫ちゃんが傍に来るとああやって自分から猫になっちゃうの…。でも、大丈夫。お母さんが治してくれるわよ。ああやってお母さんの膝に乗っていれば、自然に元のお父さんに戻るわ。」
「ふうん…。お母さん魔法使いみたいだね…。」
「じゃあ、猫は飼えないね…。」
 ちょっとがっかりした表情を見せる二人に
「そうね…。家では飼えないから、どこか他を当たって、ちゃんと飼ってくれる人を探しましょうか…。」
 のどかは優しく微笑みかけた。



「たく…。参ったぜ…。」
 灯火の下で乱馬は絆創膏を撫でながらぽつんと吐き出した。
「参ったのはこっちの方よ…。ホントに大変だったんだから。」
 あかねはくすくす笑いながら夫を見上げた。
「あーあ…。あいつらに俺の弱点、ばれちまったからなあ…。」
「そうね…。でも…。おもしっろがって猫をけし掛けるようなことは金輪際しないと思うわよ。」
「そおかな…。」
「だって…。急に猫化しちゃって、あの子たちったら泣くわわめくわ、それはもう、大騒ぎだったんだから…。父親の化け猫なんて絶対見たいって思わないわよ。」
 傍らでは双子がすやすやと寝息を発てていた。
「それにしても…。」
 あかねはまだ笑い足りないというくらいにこにこしていた。
「なんだよ…。」
「大の武道家が猫嫌いだなんて…。」
「情けねえか?」
「うんっ!」
 あかねは思い切り明るく返事した。
「ちぇっ!!はっきり言うなよ…可愛くねえなあ…。」
 乱馬は眉をしかめてあかねを見た。
「嘘ばっかり…。猫になると、気持ち良さそうに身体を寄せて甘えてくるのは誰かしらね…。それでも可愛くねえって言えるわけ?」
「人の弱みに付け込みやがって…。」
「あーら、あたしだって、武道家ですもの…。猫乱馬より強い…ね。」
「たく…可愛くねえ…。」
 そう言いながら乱馬はぐっと身を乗り出してきた。見据える目は少年の頃と同じ輝き。
「天邪鬼!」
 笑いながらあかねが言った。
「悪かったな…。」
 そのまま触れる柔らかい唇。

 外でカタンと風が鳴った。もうすぐ寒い季節が来る。
 晩秋の夜空で、月が障子越しに重なる影を静かに見下ろしていた。







未来編甘味モード。
「陽炎」を書くための…伏線になるつもりで書いていたのもですが…
ま、いいか。

「陽炎」は「ファイト一発味噌汁日和」という作品に転化しました。


(c)Copyright 2000-2005 Ichinose Keiko All rights reserved.
全ての画像、文献の無断転出転載は禁止いたします。