◆十六夜


 長い修業から帰って来た。
 鈍っていた身体を少しでも軽くしたいと思ったから一人で出かけた。
 久しぶりの我が家へ門をくぐると、あかねがツンとして出迎えた。やたら機嫌が悪いらしい。
 長い間ほおっておかれたのが気に食わないのだろう。幾つになってもわかり易い性格の奴だ。
 だが、俺は一切のご機嫌取りはやらない。へつらうのは嫌いだ。それに時間がたてばあかねの機嫌も直るだろう。
 ただ、ショックだったのは、俺の顔を見て子供等が泣きわめいたこと。
「ほうら…。長い間妻子をおっぽって修業へなんか出るから、龍馬も未来も父親の顔を忘れるのよ…。」
 それを見てあかねが小気味良く笑った。
「ちぇっ!俺なりに次の武道会のために真剣に身体鍛えてたのによ…。腹減ってんじゃねえのか?こいつら…。」
 まだ四ヶ月と少しだから人見知りには早い。大方、お尻が汚いか腹が減ってるか、そんなところだろう。
 右と左、両方の腕にそれぞれ赤ん坊を抱えているあかね。逞しくなった腕はもうか細くは無い。しっかり家庭を守るオフクロの腕になりつつある。
 泣き喚く我が子を両腕に抱え込む。
 俺は彼女から未来の方を抱き取った。
 未来は更にけたたましく泣き始める。
「よしよし…。ねえ、薄情者の父さんより母さんの方がいいわよね…。」
 
 たく、こいつは、帰って来た矢先から喧嘩を吹っかけてきやがる気か。

 秋の夕暮れは早い。
 今しがたまで残っていた太陽が山端へ沈むと、辺りは闇に包まれる。
 虫たちが秋の夜長を精一杯歌い始める。

「乱馬くんも一緒にどうかね?」
 縁側で義父、天道早雲が手招きする。横には親父の玄馬。相変わらず仲が良い親父たち。共に月を肴に晩酌をやっている。
 断る理由も無いので、俺も同じように腰掛けて月を見る。
 昇ったばかりの月は赤らんでいる。仲秋の名月、十五夜は昨日だった。傍で庭先にあるススキが穂を垂れて揺れている。金木犀の香りがつんと鼻をつき、裏寂しさを肌に感じた。
 オフクロが持ってきた熱燗と銀杏。これを割りながら交わす杯。
 俺は決して酒飲みではないけれど、最近は昔に比べると強くなったと思う。苦いとしか感じていなかった酒の味もわかり始めた。酒の楽しみ方も。
 とろりとろりと杯を重ねながら、武道談義に身を寄せる。
 疲れた身体にはいつもより早く酒が回りだす。だから、一合くらい進んだところで止めた。

「ねえ、たまにはあたしも飲ませて貰うわ…。」
 子供らを寝かしつけてホッとしたのだろうか、あかねが俺の飲みかけのぐい飲みに手を掛けた。そして途端に一杯、口へ運ぶ。
「おい…。」
 止めようと思ったが、オフクロがにこっと笑ってそれを制した。

…あかねちゃんの好きにさせてあげなさい…。
 
 目がそんなふうに笑っていた。
 あかねは杯に自分でなみなみと注いでは口へ運ぶ。勢い良く飲んだものだから、お銚子一本空ける頃にはすっかり出来上がっていた。
「もう一本つけて来る・・。」
 あかねが空の銚子を持った。
「おい…。まだ飲むつもりかよ…。」
 俺は苦笑しながら彼女を見上げた。と、
「まーだまだ…。これからよ。もっと飲めるわよ…。飲ませてよ…。」
 何かに憑りつかれたようなのみっぷり。勿論、まだおっぱいを出しているから酒なんか常飲したことがないあかねだ。
「おい…。赤ん坊の方大丈夫なんだろうな…。」
 俺はつい小言じみたこと口走った。それがいけなかったらしい。
「一晩くらいいいじゃない…。ここんところずっと私一人で面倒みてきたんだから…。いつも、あたしに何でも押し付けて、乱馬は知らん顔してるんだからぁ…。」
 真っ赤な顔で俺を睨んだ。酒気が漂う。
 何時の間にか縁側で座っていた親父たちが縁側から場所を他へと移してそこにはいない。オフクロはお銚子を一本、ぽんと俺達の傍へ置くと、
「たまにはゆっくり…甘えさせてあげなさいね…。」
 そう言ってさっさと空銚子を下げて立ち去った。
 取り残されたのは俺とあかね。
 あかねはさっさと目の前のお銚子から酒を注ぎ込むと、またくいっと一気に口へ運ぶ。
「おい…。そんなに勢い良く飲んでたら、すぐ回っちまうぞ…。」
 俺はあかねを覗き込みながら忠告した。
「うるさいわねえ…。あたしだってたまには飲みたいって思うことがあるの。あんなにお月様が綺麗なんだから。飲ませてくれたっていいじゃないのぉ…。」
 もうすっかり出来上がっている。
「もうちょっと飲みたいから一升瓶ごと台所から取ってくるわ。」
 そう言いながら立ち上がる。と、足元から崩れた。
 俺は慌てて下からそれをがっしりと支えた。
「ほらっ!言わんこっちゃねえっ!酔っ払ってるじゃねえかっ!」
 あかねはむっと俺を睨んだ。
「酔ってなんかないわよっ!大丈夫…。」
 負けん気だけは相変わらずだ。果敢にもまた立ち上がろうとしたが、ままならなかった。
「そんなに飲みたいなら、俺が取ってきてやろうか?」
 俺は少し意地悪く言ってみる。
「やだ…。」
 あかねは立ち上がりかけた俺の着物の襟ぐりを真正面からぎゅっと掴んだ。そしたら今度は俺の胸に顔を埋めた。微かに肩が揺れている。
「あかね…?」
 
「乱馬はここに居てっ!あたしの傍から離れないでっ!!」

 そう言った切り動かない。
 俺はそっと覗き込んで見る。彼女の顔から光るものが流れるのを見て、ドキッとした。
 泣いてる…。
「どうした?おい…。あかねっ…。」
 軽く背中を叩いてやる。
「折角帰ってきたんだから…今夜くらいは、傍に居て…。」
 小さな頼りない声が胸元で響いた。
「あかねの泣き上戸…。」
 俺はそう囁いてからほっと息を吐いた。
 胸にしがみつく彼女の寂しさが涙を通して伝わってくる。俺がずっと家を空けていたから、不安で仕方なかったんだろう。一人で留守を守っていた強気がふっと緩んだ。
「たく…酒に頼るなんて…。素直じゃねえな、相変わらず…。」
 口ではそう言ってみるが、本当は違う。どんな形であるにせよ、甘えてくれるのは嬉しいものだ。
 
 いつしかあかねは俺の腕の中で気持ち良さそうに寝息を立て始めた。
 さんざん俺に楯突いて、悪態垂れて、そして甘えて…眠りに落ちた。
「乱馬のばか…。」
 呟くように言う寝言。相変わらず口が悪い。でも、そう言いながら顔は微笑んでいる。さっきまでの険しさが消え穏やかだった。安心しきって俺に心ごと全身を預けている。
「ちぇっ!勝手な奴だな…。」
 駄々っ子を抱くように俺はあかねをふわりと胸に抱きしめた。何日ぶりかの心地良い温もり。疲れた俺の身体にも染み通る安楽。

 俺は縁側の障子に背中を預けて、ふっと空を仰ぎ見た。
 真ん丸い月が大きく見開いて俺たちを見下ろしている。
 十六夜の酔いどれ月が愉しそうに照り輝いている。
 うさぎが歌いながら杵を搗(つ)いている。





一之瀬的戯言
他愛の無い夫婦の情景。
格闘家夫婦なら、こんな場面もきっと。


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