BIRTH


 この世に生を受ける瞬間は神秘と感動に満ちている。
 それが己の血を分けた子であれば尚更愛しさは募る。


 お産の兆候は突然現れる。
 勿論「出産予定日」というものが予め定められているので大体のところはそれが目安にはなるらしい。何でも一般的には最終月経のあった日から概算して十月十日、そう二百八十日目を予定日に持って行くという。妊娠上のひと月は四週間だから三十七週目に入ると臨月という計算になる。
 臨月に入ると妊婦は大変だ…。
 ただでさえ不器用なあかねは、傍で見ていて気の毒なほど、ふうふうと言って息を弾ませていた。二人分の命をお腹の中に抱え込んでいるのだから仕方がない。家族たちの労わりを他所に、それでもちょこまかと動こうとする。俺は俺でハラハラし通しだ。
 検診も安定期には月に一回だったのが、二週間に一回、そして毎週へと変わる。
 はじめは産婆さんを呼んで家でお産すると言い張っていた本人だが、お腹に双子を抱えている事を知ると、周りの忠告や何やらで、結局は設備の整った病院で産むことになった。産婆さんも、一人ならまだしも、双子だと予測できないことも起こることがあるからと皺くちゃ顔をほころばせながらあかねに勧めた。
 予定していた産婆さんは、あかねを取り上げたベテランの凄腕でもあるらしい。その紹介で近くの小児科付設の産院に決まった。
 
 予定日が近づくにつれて回りはそわそわとし始める。
 親父達は酒の肴にいつも生まれてくる新しい生命に話題が集中する。毎夜のように賑やかだ。
 あかねもスーツケースに必需品を詰め込んで、いざというときに備えている。電話の前には産院や産婆さんの電話番号とタクシー会社の電話番号が羅列してある。
 双子ということで早産もありえるとずっと言われてきたが、ここまで順調に来た。だから、後は無事に生まれてきてくれる事を祈るだけだ。
 とにかく、免疫力の関係でできるだけ三十八週以降に生まれた方がいいそうだ。
 俺とあかねの混血だから、健康優良児には違いないだろうけれど。
 俺はというと、気にしていないふうを装ってはいたものの、内心ではずっとドキドキしっぱなし。
 エコーと呼ばれる機械でこの前、胎内を見せてもらったが、はっきり言って何が映っているのか、さっぱりわからなかった。二つの生命がそこに息づくということ意外は。
 機械で画像を見ながら微笑むあかね。母となることへの期待と不安と…。本当は相当神経質なあかねのことだ。この数ヶ月間きっと見えないところで思い悩んだに違いない。そんな素振りを絶対に見せようとはしない意地っ張り。
 彼女が感じる分だけ、実は俺も不安に苛まれることもあった。
 まだ若干二十三歳の若造だ。武道家としても駆け出したばかり。やっとそれでも道場経営は軌道に乗り始めたところ。この先どう展開していくのか。果たして義父さんがやってきたことを守れるのか。相変わらず修行と修練の日々は続いている。
 
 予定日より二週間ばかり早く、あかねは産気づいた。
 
 安っぽいドラマにあるような展開ではない。
 なんとなく気だるそうな素振りを早朝からしていたと思ったら、シクシクとお腹が痛み出したらしい。
 それが「陣痛」とわかるにはオフクロの力が要った。
「あかねちゃん…。その痛みは陣痛よ…。なんとなく月の触りのような下腹部の痛みがあるんでしょ?」
「ええ…。初日に感じるような痛みに近いです…。でも、すぐ楽になるんですけど…。」
「母親教室で説明していたでしょう?陣痛って鈍痛から始まるのよ。それも、定期的に訪れる激痛と緩和。だんだんその間隔が短くなってお産が始まるのよ…。さあ、用意して!」
 ささすがに経産婦だ。
 おふくろはうろたえる親父達を尻目にてきぱきと動いてくれた。
 
 あかねが入院する頃には陽も高くなり初夏の太陽が頭上で照り付けていた。
「一晩勝負になるわね…。二人同時に出てくれたらいいんだけどね…。」
 分娩準備室に入ったあかねを見送ってオフクロは俺に問い掛けてきた。
「どのくらいかかるもんなんだ?」
「そうね…。千差万別、人によって随分違うけれど…。あかねちゃんは初産だからきっと時間がかかるわ…。今からだと夜中になるでしょうね。乱馬。そんなに緊張してたら持たないわよ…。」
 と言って笑う。
 親父達は邪魔になるからと家に置いてきて正解だった。
 いよいよというときに呼ぶことにして…。俺はじっと待合室に腰掛けて待つ。
 そわそわドキドキしていた。

…あかねの奴、大丈夫かなあ。苦しいんじゃねえだろうか…。無事に産んでくれよ…。

 普段、信心なんてないくせにこういうときはすがりたくなるものだ。身勝手だ、人間って奴は。
「大丈夫よ…。産みの苦しみは、この先、子育てするのに糧になるわ。お腹で育んだ十月十日とともにね…。」
 傍らでおふくろが囁いた。
 日は傾き始め、ぼちぼち日没への変化が現れるころだろう。まだ暗くはなかったが待合室に蛍光灯が薄らぼんやりと灯った。
 蛍光灯の蒼白い光は、とても頼りなげだ。さっき、入ってきた俺よりか十歳くらい年上の親父はすんなりと生まれたのか、看護婦さんに呼ばれてあたふたと出て行った。
「乱馬…。落ち着きなさいって。さっきの御仁の奥さんはきっと経産婦なのよ。お産の道のついた経産婦と初産じゃあかかる時間も倍以上違うんだから…。」
 俺の不安げな顔を見越して囁きかけて来るおふくろ。
「わかってるよ…。」
 口で答えてみたものの、やっぱり落ち着かない。時々分娩室の方を垣間見る。
「さっき分娩室へ入られましたからもうすぐですよ。」
 と、今しがた別の男性にお産を告げに来た看護婦さんが俺のそわそわを見て笑いながら教えてくれた。
「分娩が始まっても二人分だからね…。時間がかかると思うわ。そんなに緊張しないで、どんと構えてなさい。乱馬。」
 おふくろは笑い乍言った。
 なかなか動きの無い奥の部屋につい、俺は緊張が緩んで、いつの間にかベンチで舟を漕ぎ始めていた。
 見る夢は不安と期待の裏返し…。どのくらいまどろんでいたのだろうか。

 おんぎゃー、と耳元で産声が聞こえたような気がする。生まれた子供と笑うあかねと…。脳裏で一つに重なった。

「早乙女さん…。いらっしゃいますか?」

 そのとき、遠くで声がした。

「乱馬…ほら。呼ばれてるわよ!」
 おふくろの声。

「あ…。はい。」
 俺は慌ててがばっと起き上がった。

 あかねは…?子供たちは?

 はやる気持ちをぐっと押さえ込んだ。

「お父さんですね?」
 と聴かれた。
「はい…。」
 とかすれた声で答えた。お父さんだなんてちょっと照れ臭い。
「先ほど、無事に二人のお子さまを生まれましたよ。一人目は元気な男のお子様、もう一人は女のお子様です。」
「やったーっ!」
 思わず叫んでしまった。ガッツポーズまで取ってしまった。冷静でなんて居られるほど俺はまだ人間ができてはいない。その辺は餓鬼の頃と変わらない。
「これで、我が無差別格闘流も安泰だね!」
「早乙女家も天道家も末代まで栄えるね!
 俺が眠り込んでいる間にいつの間にやってきたのか、親父達がおいおいと男泣きしながら二世の誕生を喜んでいる。良かったわねとおふくろも微笑む。
「ワシも曾爺ちゃんじゃっ!」
 一緒にくっついてきた八宝斉の爺さんも嬉しそうに笑った。
…おめえの孫じゃねえだろう?血の繋がりなんてねえんだから…
 心でそう突っ込みながらも俺は黙って頷いていた。嬉しさの方が長けていた。
「良かったわね…。乱馬…。」
 おふくろはにっこりと顔を向けた。
「こちらへどうぞ…。生まれたばかりのお子様をご覧になってくださいな…。」
 看護婦さんはニコニコ笑いながらこの賑やかな集団を迎え入れてくれた。
 無菌室に居る新生児はとにかく小さかった。
 でも、二人とも真っ赤な顔をして泣いていた。双子なので通常より七割くらい体重が軽いというが、なあに、小さく生まれたってこれから大きくなればいいんだ。心なしか男の子の方が少しだけ大きく見えた。足に名前をマジックで書かれていた。「早乙女ベビー」だなんて、少しくすぐったい気分になった。
 早速傍らで親父達が「どっちに似て可愛い問答」ってのを始めた。とかく孫は自分達に似ていて欲しいものらしい…。俺から言わせれば、おれやあかね、おふくろやあかねの母さんに似ているなら良しとするが、親父達にだけは性格も容姿も似て欲しくは無い。正直な感想だ。

「で、あかねは、母親の方はどうでしょうか?」
 俺は一番の懸念を看護婦さんに尋ねていた。
「母子共に健康ですよ。少し時間がかかった分、お疲れになってらっしゃいますが…。あと三十分もしたら面会できますよ…。」
 と言って笑った。

…良かった…。

 心からそう思った。

「赤ん坊も見たし…。私たちはこれで帰りますから、後は乱馬に任せたわよ…。」
 おふくろがそう言うと、名残惜しそうな親父達を連れて帰って行った。

 時計は十時を指していた。

 おふくろ達が帰ったあと俺はずっと一人佇んで待っていた。
 あかねと会える時を…
 扉が開け放たれ導かれ、俺は前へと進む。



 目の前のあかねはぐったりと身体をベットに打ち付けていた。
 起き上がる元気もないらしい。
 俺の気配を感じ取ると、微かに微笑んだ。
 その笑みは、天使いや聖母の微笑だ。そう思った。
 母となった者の笑顔は麗しい。子を産むという大仕事をやり遂げたあかね。少しやつれても見えたが、満たされた顔をしていた。

 今までに見たことがないくらい美しい…。
 あかねが眩しく輝いて見えた。

「ありがとう…。あかね。疲れたろう?」
 俺はそう言って精一杯微笑んだ。
「うん…。でも、私頑張った…。」
 傍らに目を落とすと、彼女が産んだ二人の子供たちが小さなベットに横たわる。
「何度見ても見飽きないくらい可愛いよな…。こいつらの人生は今日始まったんだな…。」
 俺はそっちへ目を落として言った。白い産着に包まれて、真っ赤な顔をした俺達の分身たちは確かに息づいている。
「初乳を二人で五〇CCペロリって平らげたそうよ…。男の子の方は足らないって泣いたんですって。食いしん坊くんねえ。いったい誰に似たのかしら…。」
 あかねは嬉しそうに笑った。
「まだ、母乳は出ないのか?」
 俺は率直な疑問を投げてみた。
「ええ、初めてのお産だから急にはでないのよ。これから乳房が張ってくるんですって…。明日から搾乳して子供らに与えるんですって…。」
「じゃあ、休養をたっぷりと取らなきゃな…。これからが大変だろうけど。」
 母体は神秘に溢れている。
 後で彼女から聞いたが、おっぱいをたっぷり出すための努力も結構大変なのだそうだ。子供に吸い付く力がなかったり、乳房の形が陥没したりしていて悪かったりすると、出るものも出なくなることもあるそうだ。
 また、ちゃんと飲ませた後も処理しないと、熱を持って「乳腺炎」になってしまうという。おっぱいが張る時は胸が熱くなるのだそうだ…。奥が深いらしい。
「暫くは父さんのものじゃなくなるのよね…。おっぱいは。」
 そう言ってあかねは笑った。
「仕方ねえさ…。断乳まではこいつらに貸しておくさ。」
「あのね…。これはもともと子供達の為にあるのよ…。乱馬のためにあるんじゃないからね。」
 あかねはそう言ってくすくす笑った。
「馬鹿…。」
 思わず口を吐く憎まれ口。でもあかねは笑って俺を見詰め返した。満たされた笑顔だった。
「少し眠れよ…。暫くここにこうして居るから…。」
 俺はゆっくりとあかねの傍に腰かけるとそっと手を取った。まだ、血管確保の為に点滴をつけたまま。少しだけ痛々しく見えたがあかねは気にしているふうもない。
「ありがとう・・・優しいのね…。お父さんは…。」
「俺はいつだって優しいさ…。知らなかったか?」
「嘘ばっかり…。」
「嘘じゃねえさ…。」
 俺はそう言うと、微笑を返した。きっと俺の顔も至福の笑みに満たされていたに違いない。
 
子供を産んだ後のあかね。頬がピンク色に染まって美しい。ますます愛しくなった。満ちてくる愛情。言葉で上手く表現できないが、こんな感情が沸くのは生まれて初めてだった。今までとは少し違う母となったあかねの強さやその魅力にまた俺は翻弄されるのだろう。

「ねえ、乱馬…。」
「ん?」
「これで私たちも親になっちゃったね…。」
「ああ…。こうなるとますます責任重大だな。でも、二人で頑張ればなんとかなるさ。そうだろ?」
「そうね。これからはこの子達の未来まで背負わなきゃならないものね…。」
「大丈夫…。二人なら…。二人で成長しながらお前と子供らを俺がしっかり守ってやる。だから今はゆっくり安め…。」
 そう言うと俺は手を軽く握り締めた。あかねの手は柔らかい。この先手荒れして悩む事もあるのかもしれないが、俺が支えてやる。言葉にはしなかったが手のぬくもりでそう伝えた。

 あかねは俺の声をもう、夢の中で聴いていたようだ。軽く微笑んで頷きながら目を閉じると、眠りの淵へと静かに落ちていった。

 俺は微笑みながら、自分の愛しい半身とその身を分けた分身たちを見守った。父になれた喜びを心に噛みしめながら。
 夜の帳はゆっくりと下りてくる。新しい生命の誕生とそれを生み出した偉大な母の上に。
 そして、俺は目を閉じたあかねの唇にそっと自分の唇を重ねた。
 
 暑い夏はもうすぐそこに…。






(c)2003 Ichinose Keiko