生誕(BIRTH)


 一
 その日は朝から気持ちが良いくらいに晴れていた。抜けるような青さの空は白い雲をぽっかりと浮かべて輝いていた。
 暑かった夏は過ぎ去り、ようよう涼しくなり始めた「秋晴れ」の日だった。

「もうぼちぼちね…。そのお腹も大分下のほうへ下がってきたから。」
 乱馬の母ののどかが微笑みながらあかねに折りたたんだ白い物を差し出した。今では珍しくなっている長いさらしの腹帯。中ほどに安産祈願の文字が書かれている。
「大丈夫か?なんか、大分と、まいってねえか?」
 夫が傍らで心配げに妻を見下ろす。
「平気よ…。こんなに大きくなったから、ちょっと流石に動くのが大儀だけど。」
 あかねは笑って見せた。
 差し出された腹帯を丁寧にタンスへしまいながら答える。
「この夏は暑かったからなあ…。じゃあ…。俺は行くけど。くれぐれも無理すんなよ…。」
 後ろ髪を引かれる思いなのだろうか。
 乱馬は玄関先で躊躇して止まった。
「オフクロ、後は頼んだぜ。」
 あかねと一緒に見送りに出てきたのどかに振り返って声をかける。
「任せておいて、あなたは自分の仕事を全うしていらっしゃい。もうすぐ父親になるんですもの。しっかり日銭は稼いでくるのよ。」
「早乙女先生、頑張ってね…。」
 のどかとあかねがそう言いながら乱馬を送り出す。

 結婚して一年が過ぎようとしていた。
 いろいろ紆余曲折はあったが、結局収まるべきところへ鞘は収まり、乱馬とあかねは夫婦になった。そして現在も尚、天道道場へ仲良く住んでいる。
 高校生のころと変わったところといえば、乱馬が変身体質を解いたこと。そしてあかねが天道姓ではなく早乙女姓を名乗ったこと。そして、結婚してから乱馬が優しくなったこと。
 現在の天道家の住人は、天道早雲と天道なびき。早乙女親子二代夫婦と八宝斎の七名であった。かすみはあかねが結婚する少し前、小乃東風先生のところへと嫁いでいった。なびきは独身貴族のきままな生活を続けていた。独自に事業を起こした彼女は、九能帯刀をパートナーに着々とその生まれつきの経営手腕を余すところなく発揮している若きオフィスウーマンだった。
 乱馬は若き武道家としてその名を馳せ始めていた。美しい肉体を武器になびきのアドバイスを受けながら、道場経営をし始め、順調に外弟子を増やしはじめていた。
 子供のお稽古事的武道をはじめ、若い学生やOLたちにも護身術として人気が高く、最近では主婦や老人相手にも昼間の出張教授まで勤めるような繁盛振りだった。
 もちろん、合間を縫って己の鍛錬や修行も続けている。現在では名実共に立派な天道道場の若き獅子であった。

 なんとなく朝起きた時から予感めいたものが乱馬にもあかねにもあったのだろうか。
 十月十日の予定日はもう目前にと迫っていた。
 この前の検診ではいつでもお産にかかれるようにと産婆さんに言われていた。
 あかねは、この家で産む決意を固めていた。
 いろいろ悩んだ末に、設備の整った病院でなく、自宅出産を選んだのである。
 頼んだ産婆さん。それは、ここの三姉妹を取り上げた凄腕の産婆さん。助産婦であったが、同時に医師免許までもっているというウルトラ婆さんだった。
 普段どおり身支度を整えると、洗濯をして、掃除機をかけて。何の変哲もない主婦業をマイペースでこなす。もともと器用な方ではないあかねだが、だんだんとこの家の主婦の貫禄を備え始めていた。前の主婦のかすみの如く、すいすいとはいかないまでも、乱馬の母、のどかに後押ししてもらいながらも、なんとか大家族の台所と道場をやりくりしていた。
「なせばなるもんだなあ…。」
 口の悪い乱馬は笑いながらもそんなあかねに目を細める。
 実際この天邪鬼なカップルは、お互いの意志を確認しあうまでかなりの紆余曲折があった。
 「好きだ。」というこの明快な一言を言い出せないために巻き込まれた厄介ごとは数知れず。しかし、結局は互いを深く信頼し、心の奥では愛し合っていた仲。己に責任を持てる年頃になると、周りの心配など要らぬ心配だった。当然のように夫婦の契りを結んだ。

 勿論、あの痴話喧嘩な日々は今でも時々繰り返される。
 ただ、あの頃とは違って、乱馬は随分我慢強くなったし、大人になっていた。我侭なあかねを包み込める強さを持っていた。売られた喧嘩は相変わらず買ってはいるものの、乱馬のほうが精神的にも一歩上の高みにいた。 
 出会って十年。年月が二人を成長させていた。


 二
 その痛みを最初に自覚したのは昼ご飯の洗い物をしている時だったろうか。
 あかねは下腹部に鈍い痛みを感じた。
 女性の日。そう、生理痛に似た鈍痛であった。
「どうしたの?あかねちゃん…。」
 いつもより寡黙になって片付けものをするあかねの異変に気がついたのはのどかだった。
「ちょっと、なんとなく身体がだるくって…。」
 あかねは心配させまいと微笑んで答えた。
「もしかして、下腹部に鈍痛があるんじゃないの?」
 のどかは水道を止めてエプロンで濡れた手を拭いながらあかねを見た。
「ええ…。でも大丈夫です。気のせいだったみたい…。」
 あかねはほっと顔を緩めて答えた。
「あかねちゃん…。いよいよね。」
 のどかは微笑んだ。
「え?」
「お産の痛みはね、急激にはこないのよ…。徐々に潮が満ちてくるように強くなるの。今はまだ小さな痛みかもしれないけれど…。」
「でも、今はおさまってますよ。」
「ふふ…。役所の母親教室でも言ってたでしょ?陣痛は最初緩やかに来て、だんだん間隔が狭くなるって…。」
「あ…。そういえば…。つっ!」
 あかねは下腹部を抑えた。また鈍痛が走ったのだ。
「ほらほら…。用意しておかなくちゃね…。忙しくなるわね。」
 昼ご飯の後、男連中はみんな出払っていた。
 乱馬は出張稽古へ、近所の幼稚園まで出かけていた。園児たち相手に軽く体操程度の型を教えに行っている。早雲と玄馬は共に修行と称する八宝斎の私用に付き合わされて一緒に出かけてしまった。
 今残っているのはあかねとのどかだけであった。
「産婆さんの手配をしてくるわね…。あかねちゃんはこれから先が長いから、ゆっくりと身体を安めておきなさい。」
 のどかは納戸へとあかねを連れてゆくと、さっと蒲団を敷いてあかねを寝かせた。

 のどかが言っていたように、確かに身体がどことなく気だるい。腹痛もあるのかないのかの瀬戸際のような鈍い痛みだったが、確かに定期的にきているような気がした。
「いよいよ…か…。」
 あかねは腹帯の中に入れていた安産のお守りをそっと取り出した。
 それは妊娠がわかったときに、乱馬がはにかみながら差し出したものだった。
「霊験あらたかなお守りだそうだ…。無事に生まれることを願って…。ほら、その…。」
 真っ赤になって口ごもりながら差し出した彼の表情を思い出しながらあかねはぎゅっとそれを握り締めた。
 乱馬と自分の子供を身篭ったと知った日はそんなに実感はわかなかった。
「おめでとうございます。」
 と医者に告げられても、己のお腹に新しい生命が息づいていることなど俄かには信じられなかった。
 当然だろう。
 つわりなどの自覚症状はあったものの、それだけだ。時々、詰まったように吐き気がくるだけで、それ以上の異常はなかった。あるとすれば、食べ物の好みが若干変わったくらいだ。それまで見向きもしなかった柑橘類がいきなり食べたくなったり、逆にカレーの煮込んだ匂いにうっとなって食欲が少し減退したりしたくらいだ。
 つわりは連れ添う男性の優しさに比例して起こるなどと口さがない連中が言ったものだから
『乱馬は優しくないから、つわりも軽いのよ…。』
 などとあかねはすまし顔で言ったほどだ。
『何いってやがんでーっ!俺ほど優しい男はいねえだろうが…。』
 乱馬は口先を尖らせて反発した。
 傍の乱馬は子供ができたと知った途端、前にも増してあかねを構うようになった。過保護とは彼のことを言うのだろうか。
「おめえはドン臭いから…。」
 口悪く罵りながらも、何かとかいがいしく世話をしたがる。他の誰よりも優しかった。
 最初は何も感じなかった母親としての自覚も、五ヶ月を過ぎた頃、胎動を感じはじめて少しずつ変わった。ピクン、ピクンと思い出したように動く元気なお腹の生命。
 乱馬を巻き込んでそれは大騒ぎになった。
 生命の躍動を感じようと乱馬は不思議そうに膨らんでゆくあかねのお腹に手を当てる。

 畳に敷かれた蒲団に身体を横たわらせると、昼の日中からこんなところに横になるのがなんとなく悪いような気がした。
 お天道様(てんとうさま)はまだ高い。
 身体を横たえると、天井を見上げた。しんとした我が家。
 自分もここで生まれたのかと思うとなんだか不思議な気がした。
「お母さんはどんな思いで私たちを生んだんだろう…。」
 隣の部屋は父が使っている仏壇のある部屋だ。そっと襖を開けると母の遺影が見えた。
 父は母の亡くなった後も夫婦の寝室として使っていたその部屋へ仏壇を置いていた。いつまでも母と共に居たいという切なる父の願いなのかもしれない。
 父は毎日、母への線香だけは欠かさなかった。毎日のように母の遺影へと日々の出来事を話し掛ける。早くに亡くなってしまった母だったが、大切に父に今でも愛されているのだと思うと、寂しさもなかった。
 生命の連繋。それは母から子へと受け継がれる想いにも似ている。母から授かった生の中に、またもう一人の新しい命がここにいる。あかねはそっと膨らんだお腹に手を当ててみた。
 そのとき、あかねはふっと母を感じた。
『しっかりなさい…。新しいお母さん。』
 遠い母の声が響いてきたような気がした。
「そうね…。早乙女あかね…。しっかりしなくちゃね…。」
 
 お腹に息づく新しい命をこの世へ授けるのは自分の役目だ。
 そう思うと力が溢れてきた。
 乱馬と共に生み出した命へ息吹を吹き込むのは母親としての最初の仕事。そう思った。

「あかねちゃん…。産婆さんが見えたわよ…。」
 玄関でのどかの声が高く響いた。


 三
 確かに子供を生むということは並大抵の出来事ではない。生半可なことではないのだ。
 あかねはだんだんと強くなる陣痛に耐えながらそう思った。
 陣痛を感じ始めてからどのくらい過ぎただろうか。
 夕刻になって帰ってきた男たちはすっかり動揺してうろたえている。
「あかねえ…。大丈夫かねえ…。」
 早雲などは初孫の誕生にすっかりと舞い上がっている。玄馬はまだパンダ体質を引きずっており、耐えられなくなったのか行水をしてすっかりパンダになって早雲と一緒にうろたえている。
「全く、しょうがない奴らじゃのう…。」
 産婆さんだけがどっしりと構えていて、茶の間で暢気にお茶などをすすっている。
「初産じゃから、道がつくまで時間がかかるんだっ!そうウロウロおろおろされたら母親が不安がるぞ…。男はもっとどっしりと構えんかいっ!!」
 流石に何人もの赤ん坊を取り上げてきた貫禄。そわそわしている男たちに渇を入れる。
「初産はまる一日かかることだってあるからのう…。そう急いては身体がもたんぞっ!」
「そうですわね…。ぼちぼちお夕飯の支度してきますわ…。」
 のどかも流石に経産婦。どうに入ったものだ。
「それにしても乱馬の奴…。あかねくんの一大事に、何やっとるんじゃっ!」
 八宝斎がわめき散らす。
 乱馬は昼過ぎに出たまま帰らない。
 柱時計は五時を回っていた。チックタックとゆっくりと時を刻む。

 はあーっ!!

 何とも言えぬ溜息をみんなで吐き出した。

 あかねは一人、納戸で陣痛と闘っていた。
 予め予想はしていたものの、陣痛はやはり痛い。全くの未知の世界であるために、付きまとう不安もある。
「どうらどら…。」
 産婆があかねの様子を見にやってきた。
「まだまだじゃな…。この分だと夜中ごろになるかのう…。」
 産婆はにこっと笑ってあかねを見た。
「不安かね?」
 あかねはこくんと頷いた。
「陣痛は母親になるものの特権なんじゃよ。陣痛があるからこれからの子育てに耐えられるんじゃ。子供を一人育てるということは並大抵のことではない。一つの人格をきちんと育てなければならないのじゃから…。陣痛を耐えることによって、母親としての自覚が生まれるんじゃよ。もう何万年前からも繰り返す、母の痛みじゃからな…。」
 まだ間隔は十分くらいだが、それでも定期的に来る激しい痛み。自分の身体がどうにかなってしまいそうだった。が、あかねは脂汗を額に浮かべながらも耐えた。
「そう、陣痛はあかねちゃんだけに来るものではないからのう…。母となるもの皆が絶えなければならない試練じゃから…。」
 産婆はそう言うとまた部屋を出て行った。
 
 あかねの元へ夕飯が運ばれてきた。
 少しでも口へ含んでおかないと、というのだが、さすがにたくさん食べる気力はなかった。
「無理はしないでいいわ。何か欲しいものある?」
 のどかに聞かれたがあかねは首を横へ振った。
 時々襲う身悶えるほどの痛み。だんだん間隔が短くなり、延々と続くようなそんな気がした。
(頑張らないと…。あたしは乱馬との子供を生むんですもの…。乱馬…。)
 絶え絶えになる意識の下であかねは最愛の人の名をうわ言のように呼んでいた。


 四
 当の乱馬はというと、帰ってきた家の様子がいつもと違うのにすっかりと狼狽していた。
「あかねが産気付いたって?」
「こらっ!男はこれ以上ダメじゃっ!母親の気が散るでな…っ!!」
 産婆に渇を入れられて目を白黒する。いくら強くても、こんな時、何の役にも立たなかった。
「乱馬っ!落ち着きなさいっ!あかねちゃんなら産婆さんに任せておけば大丈夫よ。あなたは父親になるのでしょう?」
 のどかが息子を叱咤する。
「男らしくないわよっ!!」
 愛用の日本刀が飛んできそうな剣幕だった。
 早雲も玄馬も八宝斎も、乱馬以上にそわそわしていて、天道家の茶の間は悶々とした時に刻まれていた。

 日没と共に、何時の間にかギャラリーも集まり始める。
 最初に来たのは九能だった。なびきに引っ張られるように来たのだ。
「あかねくんが産気付いたって?おお…。」
 何だか良くわからないが一人で感動に耽っていた。
「ほほほほほ…。面白くありませんわっ!乱馬さまっ!!」
 続いて小太刀が佐助を伴って現れた。
「乱ちゃん!差し入れやでっ!!」
 右京がお好み焼きを持って現れる。右京の横には小夏と紅つばさが侍っていた。
「乱馬、いつでもあかねと離婚して私と結婚するね…。と思ていたのに…。父親になるか…。残念ね!」
 と言いながら中華料理をテーブルに並べ出すシャンプー。
「いい加減、乱馬は諦めてオラと結婚するだっ!!」
「誰がおぬしと結婚するんじゃ?」
 ムースとコロンまでやってくる。
「いったいここは何処なんだーっ!!」
 地下からの侵入者は良牙。
「良牙さまっ!」
 勝錦に乗った雲竜あかりまで現れる始末。
「あらあらみなさん、集まってくださって、賑やかねえ…。ご馳走たくさんつくらなないと…。早乙女のおばさま、お手伝いしますわ。」
 今にも踊りだしそうな東風を伴って天道家の元主婦、かすみも里帰りしてきた。
 そう、天道家は賑やかになった。賑やかになればドンちゃん騒ぎが始まり出す。それがこの家のしきたり。
 あかねのそのときを皆で待ち詫びる。


 五
 周りの喧騒を離れて、乱馬だけは一人静かだった。
 一緒に騒ぎながらその場にいるのが居た堪れなかったわけではない。が、彼はそっとその場を抜け出した。勿論、頑張っているあかねのところへ行くわけではない。産婆には入室禁止を言い付かっている。
 だが、想いは一つだった。
 無事に生まれてくること。そして、あかねも健やかにあること…。
 お産は病気ではないけれど、やはりリスクを負うイベントに違いない。母親は身体を張って新しい命をこの世へ送り出すのだ。
 乱馬は自然と道場へ足を向けていた。

 あかねと出会って最初に手合わせをした場所。
 振り上げてくる脚やおろしてくる拳の激しさ。長い髪を靡かせていた気の強い思い出の中の少女。
 最初は強く反発した。
 こんな気の強い奴が許婚だなんてとんでもないと思った。
 だけど、あかねの強気の下に隠された優しさや弱さを見るうちに、守ってやりたいと思い始めた。気がつくと、他の誰にも渡したくないと思うくらい愛していた。
 結婚してからも想いは後退しない。愛しい己の半身。傍らに居なければならない存在。それがあかねだった。
 素直でなかった分、結婚してから暫くはお互いの想いをぶつけるように激しく愛し合った。
 身も心も壊れるのではないかというほど求め合った。貪るように彼女の身体を求め、また、彼女も彼の身体を求めた。
 子供がお腹に入ってからは慈しむように愛し始めた。二人の分身を身篭れる唯一の存在。愛しかった。
 
 その彼女が今、二人の分身を産み落とそうとしているのだ。

 道着を着用したままの彼は、裸足でその板の間に足を下ろした。
 とっくに日は暮れていて、道場の中は暗かった。電灯はつけなかった。自然体で居たかった。
 だが、月の光がさやかに床を照らし出していた。

 はあっ!!

 乱馬は丹田に気合を込めると、ぐんっと床を蹴った。
 そして身体を激しく動かし始めた。

 やあっ!たあっ!!とうっ!!

 彼は根っから武道家だった。こうやって身体を動かすことが今の己を静める唯一の手立てだと知っていた。
 空を拳が舞い、足が唸った。
 流れる汗が額から飛び散った。
 不思議とこうしていると気持ちが落ち着いてきた。
 産みの苦しみの渦中にいるあかねと一体になれるような気がした。
 彼女も闘っている。新しい生命を産み落とすために…。それは己があかねに吹き込んだ命の輝き。精神だけでもこの神聖な道場で、その瞬間を彼女と共にあろうとした乱馬の深い愛情だった。


 あかねは迫り来る痛みに耐えながら、必死で生命を送り出すために力を込めていた。
「さあ、もう少しっ!あんたが産まなければこの子はここに出て来ないっ!いきんでっ!緩めてっ!」
 額に浮かぶ汗。
「もっと下半身に力を入れてっ!さあっ!」
 はあはあと息を上げながらも、懸命にいきみ続ける。
 最早、痛みは何も感じなかった。ただ、生命を送ることだけに集中する意識。この苦しみから逃れるためには産み落とすしかなかった。生命を送り出す母親の修羅場がそこにあった。

「乱馬っ!!乱馬ーっ!!」
 心で叫んだのか口から漏れたのか…。あかねはその瞬間、愛する夫の名前を呼んでいた。
 
 床を蹴って空に跳んだとき、乱馬は耳元であかねの声が聞こえた気がした。空耳だったのだろうか。
「あかねっ?」

 着地した時、赤ん坊の大きな泣き声が母屋から空いっぱいに響いてきた。

 それは確かに新しい命が産み落とされた瞬間だった。


 六
「ほうら…。元気な男の子だよ…。」
 嬉しそうに取り上げて産湯につけたばかりの赤子を産婆は抱き上げて頑張った母に差し出していた。
「おぎゃー、おぎゃー!」
 力強く泣く赤ん坊。
「ほら、もうひと頑張り。胎盤を産み落としてしまおうね…。」
 産婆は優しく声をかけた。

 三十分ほど経って、後産も終わり、一息ついたとき、雪崩れ込むように天道家の人々が部屋へ溢れた。口々に思い思いの事を叫ぶ。
「おめでとう!あかねっ!」
「良くがんばったね…!」
「男の子だって?」
 見る顔見る顔が祝福を新しい生命へと手向けた。

「ありがとう…。みんな…。」

 一仕事終えたあかねが微笑む。至福の瞬間だった。
「さあさあ…。あまり産婦さんを疲れさせちゃいかんよ…。」
 一通り祝福が終わると、産婆さんは慣れた手つきで乱馬以外の興奮したギャラリーを部屋から追い立てた。
 産婆の声を合図に人々は口々に歓声を挙げた。
「さあ、祝いの宴会だっ!早乙女家と天道家の初孫誕生の宴だっ!!」
「ぱふぉぱふぉぱふぉふぉ…(目出度い、目出度いっ!!)」
「今日は無礼講ね!」
「シャンプーも早くオラと所帯を持って子供を産むだっ!」
「誰がシャンプーじゃ?誰が…。」
「一人当たりのお祝儀はこのくらいかな…。」
「天道あかねーっ!好きだーっ!」
「あらあら、今は早乙女あかねよ…。」

 声が廊下を渡って遠ざかってゆく。
 きっと今晩はずっと宴会だろう。

「ちぇっ!皆、好き勝手言いやがって…。」
 乱馬は苦笑しながらも嬉しそうだった。
「さあさあ…。お父さんは、ほら、ここへ来て。」
 産婆は皆が去った後、乱馬を手招いた。そうして、産湯につかったばかりの小さな新しい命を乱馬に託した。
「後は夫婦の時間だよ。」
 産婆はそう言うと、そっと襖を閉めた。
 
 乱馬は怖々と産み落とされたばかりの命をその手に抱いた。突き抜けるような感動が心に満ちてゆく。
 今は泣き止んで手の中に収まる新しい命。さっきまであかねのお腹の中に居た小さな命。精一杯生きていることを誇示しようとしているのか、全身で息をしている。胸やお腹で空気を吸っている。
 乱馬は目を細めて、腕の中の命を見つめた。
 赤ん坊の体温が腕を通して乱馬へと伝わってきた。暖かい。
 そう、この子はあかねが産んだ二人の宝物だ。か弱さの中にも懸命に生きようとする新しい命の輝き。なんと逞しく、眩しいのだろう。
 
「ありがとう…。あかね…。」

 乱馬は静かに象った。
 その目には蒼い雫が溢れそうになっていた。
 あかねは返事の代わりに輝くような笑顔を乱馬に手向けた。
 聖母の微笑み。大きな仕事を遣り遂げた後の至福の笑顔だった。
「乱馬…。あたしたちの新しい命…。精一杯、生きているその子を大切に育てようね…。」
「ああ、言われるまでもねえさ…。この子は俺たちの希望だから…。大きく育てよ。身体だけじゃなく、人間的にも…。」
 乱馬は赤ん坊にそう囁きかけるとあかねの隣に敷かれた小さなベビー蒲団へ寝かせた。
 赤ん坊は父親に呼応するように、くんと手を握ったまま大きく伸びたように見えた。
 あかねは満面に笑みを浮かべて、その小さな身体を見つめた。そしてふと乱馬を見上げた。黒い大きな瞳には満足そうな深淵な光が宿る。
「乱馬…。もう少し、ここに居て…。あたし…。少し眠るわ…。」
 あかねは乱馬の手を握ると力なく掴んだ。甘えたいという意識がどこかで働いたのだろうか。
 心から可愛いと思った。いや、美しいと思った。
「ああ…。俺はずっとおまえの傍にいる…。だから、安心しておやすみ…。あかね。」
 微笑み返すと乱馬はあかねに手を重ねた。握るその温もりで愛を伝えた。そして唇をあかねの頬へ寄せる。

 傍らに在る新しい命。
 あかねの身体に己を注ぎ、受精させた生命。
 この子の中に確かに息づく二人の血の躍動。
 二人の明日を次代へ担って生まれた新しい命。
 それを育みこの世へ導いた大いなる母の輝き。
 
 眠る二人を互いに見比べながら幸せを噛み締める。
 
 乱馬は深い眠りに落ちてゆくあかねの手を握り返すと、目を閉じた。
 微笑む柔らかな口にそっと想いをこめるために…。
 息づく小さな命を傍に、二つの影が一つに重なって夜に溶け出す。想いは一つ。

 この子の明日に幸あれ…。栄えあれと…。
 





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