◆幸せの形



 ふと真夜中に目が覚めた。
 がらんとした家の中。虫の声が染み入るように響き渡る夜更け。
 障子越しに射し込む月明かりをぼんやりと眺めながら、あかねは深い溜息を吐く。暗闇に浮かぶ天井はこんなにも高かったのだろうか。
 隣に無造作に敷かれた蒲団の主(あるじ)は「身体を鍛えてくる」と言い残して家を飛び出したまま帰って来ない。昔からそうだったが、妻の心配なぞ気にも留めない淡白な性分の夫は、もう一週間にもなろうというのに、何一つ音沙汰を知らせてこないのであった。
 何処まで出掛けて、どんな修行を積んでいることやら。

 …乱馬のバカ…

 まだ、許婚だった頃から吐き続けてきた台詞があかねの口から漏れる。

 乱馬。父親同志が勝手に決めて宛がわれた結婚相手には違いなかったが、雪水が溶け出すようにゆっくりと育んだ愛情は、何にも変え難い大地の恵みになってとうとうとあかねの心に流れていた。
 「おまえは誰にも渡さねえ…未来永劫離さないで愛し続けてやるから俺の傍に居ろ…ずっと…。」
 命令口調のそんな不器用なプロポーズの言葉。乱馬の求婚を受け入れたのは一年前のこと。乱馬とあかねが二十歳になってからのことだ。
 乱馬が天道家に現れて五年という月日が流れていた。
 天道家も様替りしており、長姉のかすみは先頃、東風先生に嫁いだ。今では嫁ぎ先の小乃接骨院を立派に切り盛りしている。次姉のなびきは大学で経済学を学びながら、九能帯刀をパートナーに事業を起こして、やり手の学生ビジネスウーマンをバリバリとこなしていた。まだ籍こそ入れていなかったが、彼女が九能姓を名乗るのもそう遠いことではないだろう。
 天道道場はあかねとの婚姻を結んで以来、乱馬が継ぐという形をとっていた。但し、あかねは天道姓ではなく、早乙女姓を名乗っていた。夫婦で若き道場主として道場経営を始めていた。最近では、サラリーマンやOLを対象にした出張格闘教室をあかねと交代で開いていたし、子供達や主婦相手の稽古もつけ始めていて、閑古鳥が鳴いていた道場も見違えるように盛況となっていた。
 早雲と玄馬は隠居という形はとっていたが、乱馬の右腕、左腕として、無差別格闘流流布のために、若夫婦への協力を惜しまなかった。
 八宝斎も老いてますます盛んで、女体を追い回していたが、乱馬とあかねの道場事業を壊すところまでは至らなかったのが救いだろうか。時々暴走する師匠の尻ぬぐいに手を焼くことはあるにはあったようだが…。

 …今頃何処で何をしているんだろう?…乱馬。
 あかねはぼんやりと天井を眺めながら夫のことを考える。一緒に修行に出掛けたかったが、今回は辞めておいた。乱馬もたまには一人になって、真剣に身体を鍛えたいだろうとあかねなりに我慢をしたのだ。それに、何だか最近身体が妙に重くなっている。乱馬の足を引っ張るのは忍びなかったのが、留守番の本当の理由だったかもしれない。
 今、天道家は乱馬の他にも、早雲も姉のなびきも玄馬も八宝斎ものどかも皆、所用で留守だった。昨晩からあかね一人が広い家の中に残されていた。
 …ウチってこんなに静かだったのね…
 がらんとした空間にあかねは何となく不安を感じていた。というのも、先頃からけだるさが身体の奥へと浸透して行くのを五感で感じていたからだ。
 今年の夏は特別に暑かったので、バテてしまったのだろうか。食欲も減退気味で、口当たりのいいものしか咽喉元を通らないのであった。一人なら尚更で、ついつい簡単に済ましてしまう。
 乱馬が修行に出掛けた辺りから、なんとなく熱っぽい身体を抱えてしまっている。体温計を取り出して測ってみると、大概メモリは37度前後の微熱を指している。たいした高熱ではないので、ついつい無理をしてしまう。根からの勝気な性分は、家族たちには絶対に弱みを見せたがらないのだ。無理して頑張ってしまう。すると、夕方には疲れ果ててしまう。ここ数日間はそんな悪循環の繰り返しだった。
 
 誰もが出掛けてしまった後で、ホッとしたのか、気力がそげてしまうと、もう、起きているのも大儀なような気がした。
 人間、一人になると、ことさら気弱になるものだ。ここに乱馬が居さえしてくれれば…。会えない、そして何処にいるか分らないそういった不安が自分の身体をますます蝕んでゆくように感じた。
 何も考えずに、ただ、彼の柔らかな腕の中で眠りたい…
 秋の虫たちの歌声を遠くに聞きながら、乱馬の温もりを思い出しながら浅い眠りに身を任せる。
 
 夜明け。
 どうにかなってしまうのではないかと思うくらい、気だるい身体を引き摺りながら、蒲団から這いずり出した。一人だから起き上がらなくても居いのではないかと思ったが、今日はシャンとしていたかった。
 結婚記念日。乱馬と愛を誓ってから一年。
 乱馬が帰ってくるかもしれないと淡い期待があかねに去来していた。果たして何事に対しても淡白な彼がそんな些細なことを覚えているのか自信はなかった。が、案外ケロリと帰ってくるかもしれない。疲れて帰宅する夫をせめて笑顔で迎えたいと思うのが妻の心情だった。
 そう思うと、うかうか蒲団の中にジッとしていられない。もう少し横になりたいという願望を払いのけて、蒲団を上げた。
 簡単に身支度を整える。鏡の中に映る自分はどことなく生気がない。
 化粧もあまり濃くしない。乱馬は香水の匂いなど好まないので、できるだけナチュラルでいることにしていた。彼はマニュキアさえも、ナンだか気持ち悪くてイヤだと言う。だから、光沢を少しつけるくらいのものしか愛用していない。「飾らない素顔のままのあかねの笑顔が一番好きだから…」と照れ臭そうにいつも囁く。

 でも、今日くらいは…いいよね…

 あかねはいつもより鮮やかなルージュをひいた。
 それにしても、今朝は昨日よりもずっと気だるい。

 秋晴れの空は眩しく、あかねを見下ろしていた。
 食欲も無く、支配する倦怠感。どうにかなってしまうのではないかと思う身体。
 そのまま、畳の上に身体を投げ出してうずくまってしまった。



 
「あかねちゃん、どうしたの?あかねちゃんっ!あかねっ!」

 ふと見上げると、心配げに覗きこむかすみの顔がそこにあった。
「あかねが一人だからって心配して来てみたら…。どうしたの!」
「あ、お姉ちゃん。来てたの。」
 あかねは力無く微笑む。
 かすみは妹の異変にいち早く気付き、蒲団を敷きなおしてあかねを寝かせた。
「大丈夫?風邪でもひいちゃったのかしら?東風さんを呼びましょうか?」
 かずみは心配そうにあかねを覗き込んだ。
「東風先生は内科のお医者さんじゃないでしょ?いいよ、大丈夫。」
「ダメよ…風邪だからと言って舐めてかかっちゃあ…とにかく、私と一緒に行きましょう?歩けるわね。」

 半ば強引とも言える姉の導きで、あかねはかすみの嫁ぎ先の小乃接骨院へ連れて行かれることになってしまった。
 もちろん、家はそのまま不在となる。留守番のはずのあかねが消えることになるのだ。
「体調が悪いあかねは私が連れていきますから〜かすみより」
 かすみが気を回して置手紙を残した。
 ところがである、メモ帳を破る時、うっかり「かすみより」というところを破いてしまった。冷静沈着のかすみとしてはあり得ない失敗だったが、あかねを連れて行くことだけに神経が集中してしまい、そのままテーブルに千切れたメモを置いて出かけたものだから、天道家は上を下への大騒ぎになってしまったのである。

 始めにそのメモ書きを見つけたのが八宝斎だったから話は余計にややこしくなった。
「なになに、『悪いあかねは私が連れていきます』?なんだ、この置手紙は…。」
 そこだけ取り出してみると、誰か見知らぬ輩があかねを連れ出したように見えた。
「あかねちゃん?あかねちゃん?」
 八宝斎が呼んでみても返事はなかった。
「すわ、大変じゃあ〜あかねちゃんが誘拐された…!!」
 何故か話はあらぬ方向性を帯び始めた。
 そこへ、早雲と玄馬が表から帰って来た。
「どうされましたかな?お師匠さま。」
 八宝斎が取り乱していたので早雲も玄馬も不思議そうに尋ねた。
「おお、早雲、玄馬よ…。いいところへ帰って来たのう。ほら、これを見てみいっ!」
 そう言って、かすみのメモを差し出した。八宝斎の動転で、メモはすっかりグチャグチャになっており、ますます判別が付きにくくなっていた。早雲さえもかすみの筆跡と読み取れぬほどになっていたのがまた、騒動を大きくした要因かもしれなかった。
「あかねが誘拐?誰に?何故に?」
 早雲はすっかり動転してしまい、玄馬ともども右往左往し始める。
「あかねぇ〜、戻ってきておくれえ…。」
「天道くん、とにかく、探そう…」
 三人の取り違えから、すっかりあかねは連れ去られたことに成り下がってしまった。しかし、情けないことに、八宝斎も早雲も玄馬もオロオロするばかりで、何も起動しないのがまた常であった…。

 早雲、玄馬、八宝斎がオロオロしているところへのどかとなびきが帰宅した。
「どうなさったの?」
 のどかは要領を得ない顔つきで男連中の騒々しさを見守った。
「あかねが、あかねが…これを残して…。」
 その先は言葉にならない早雲。その脇で、玄馬が何時の間にかパンダに変身して同じようにオロオロしている。
「もう、お二人とももっとシャンとなさいな…男らしくない。」
 のどかは置手紙を受け取るとなびきに譲渡する。
「どれどれ…。」
 なびきが手紙を手に取って熱心に読み始める。そして、端まで終えると一つ溜息を吐き、ふふっと笑った。
「もう、ホントにウチの男共ときたら…頼りないんだから。」
 なびきはのどかに耳打ちすると、徐に携帯電話を取ってボタンを押し始めた。
 女性陣はちゃんと手紙の主が分ったようだった。

 そこへ丁度、玄関が大きく開いて乱馬が帰って来た。




「ただいま…今、帰ったぞっ!!」
 修行の旅の果てに疲れた身体を引き摺りながら辿りついた彼は、玄関先で大声をあげる。
 「おい、帰ったぞ…あかね…。あかね?」
 真っ先に嬉しそうにあかねが飛び出してくると思っていた。あかねの元へ帰りつく安堵感。乱馬が一番好きな瞬間かもしれなかった。それはささやかな乱馬の幸せの形のひとつだった、ところが思い描いていたあかねがちっとも目の前に現れない。業を煮やした彼は玄関をズカズカと上がって居間に入って来た。
「ただいまあ…。あかね?…あん?みんな何やってんだ?」
 居間に入ると乱馬はそう声をかけた。真っ先に目に入る愛妻の顔がないことにいささか不信感を抱いた乱馬は
「あかねは?」
と、その一言先に問い返していた。
「あかねちゃんは、誘拐されたんじゃあっ!おーいおいおい…。」
 八宝斎が乱馬に向かって泣きじゃくりながら話しかける。
「そうだよ…乱馬くん。あかねがあ…。」 
 涙目になりながら早雲がしがみ付く。
「おいっ。誘拐だあ?穏やかじゃあねえなあ…あんなバカ力の奴をさらって行く物好きがいるかあ?」
 乱馬は鼻先で笑いながら早雲や八宝斎の話しを聞き流した。
「ばふぉっ!」
『このうつけものっ!あかねくんがおらんのは本当じゃっ!』
 玄馬に頭をこずかれた。
「いってえなあ…何すんでいっ!このクソ親父。」
 乱馬は頭を撫でながら答える。永年にわたって構築された親子関係の状態は五年前と左程様変わりもしていない。乱馬は変身体質を解いていたが、玄馬は未だ水をかぶるとパンダに変身する体質を引きずったまま生きていた。本人もそれが気に入っているらしく、一日中パンダのままの容体でいることも珍しくなかった。
「あ、乱馬くん、お帰りなさい…。」
 なびきが携帯を切りながら笑顔で迎えた。
「なあ、あかねがいなくなったって本当か?」
 乱馬は父親たちの様子が尋常ではないので、なびきに詰め寄って尋ねてみた。なびきならあかねのいきさつを知っていそうな気がしたからだ。頼りない男たちより、ずっと芯がしっかりしているこの義理の姉。彼女に尋ねるのが一番いいと思ったからだ。
「もう、乱馬くんまでお父さんたちのペースに巻き込まれるんだから。」
 なびきが言った。
「でも、乱馬、あかねちゃんがいないのは本当のことよ。知りたい?」
 のどかが笑いながら言った。
「何処へ行ったんだ?」
「じゃあ、はいっ。」
 そう言ってなびきはおもむろに右手を差し出す。情報料を請求しているらしかった。乱馬は「チッ。」と舌打ちしながらコイン数枚をその手に握らせる。結婚して義姉となっても、そのあたりのがめつさは変化がなかった。いやむしろ、事業を起こしてから、ますますなびきのお金への執着心には磨きがかかってきたかもしれない。
「東風先生の所にいるらしいわ…。」
 なびきはせしめたコインの数を勘定しながらすらりと答えた。
「東風先生のところ?あかねの奴、怪我でもしたのか?」
 乱馬の表情が険しくなった。
「さあねえ…気になるんだったら行ってみれば?乱馬くん…。」
 なびきは完全にからかい口調になっていたが、乱馬は東風先生の所にいるという言葉を聞いただけですっかり気が動転していた。だからなびきの口元が緩んでいるのを見抜けなかった。
「おっし、東風先生の接骨医院だな?行って来るよ!!」
 なびきの問い掛けに応じるように、乱馬は一目散に外へと飛び出してしまった。
「あらあら、ホントにあかねのこととなったら、自制心失っちゃうんだから…乱馬くん…毎度あり。」
 なびきは乱馬の後ろ姿を見送りながらくくくと楽しそうに笑った。
「それだけ、愛しているっていうことよ…。人前には絶対感情を表に出さないくせにね。ほっておいてもいいかしら?」
 のどかも楽しそうに笑う。
「いいんじゃない?たまには夫婦水入らずっていうのも…。」
「そうね…。長い間、可愛い妻をほったらかしてた罰も受けるべきね。」
 なびきとのどかがそんな会話を交わしている傍で、早雲、玄馬、八宝斎がまだオロオロしていた。
「ねえ、こっちはどうする?おばさま。」
「暫らくこのままにしておきましょう…下手にホントのことを伝えたら、折角の夫婦水入らずも台無しになるわ。」
 そう言ってのどかは人差指を出して口元を押さえた。
「おばさまも悪人ねえ…。」
「息子想いなだけよ…。」
 なびきとのどかは顔を見合わせて愉快そうに笑い合った。



 あかねの急を聞いて飛び出した乱馬は、わき目も振らずに一直線に小乃接骨医院へ向かっていた。
 …たくう…また、何かドジでもやらかしたのかよう…一人にしとくとこれだからなあ…あいつは…。
 長い間、音沙汰もせずに家を開けていたことは棚に上げて走り続ける。胸に込み上げる不安を押さえながら乱馬は夕暮れの道をひた走った。

「東風先生っ!!」
 乱馬は門を駆け抜けて、診察室になだれ込んだ。
「ああ。乱馬くん、待ってたよ。」
 東風は少し思わせぶりに乱馬を迎え入れた。
 息を切らせながら乱馬はまくしたてる。
「先生っ、あかねがここに来たってホントか?怪我したのか?大丈夫か?」
 乱馬の血相はすっかり変わっていて、顔を紅潮させながら真剣そのものに捲くし立てる。
「落ちついて…乱馬くん。別に怪我してどうこうって言う訳じゃあないんだから…。」
 余りの勢いに後ずさりしながらも、東風はにこやかに乱馬を取成す。
「じゃあ、なんで、ここに…。」
「乱馬くん、ダメだよ、そんなに騒いだら。ここは一応病院なんだから…。」 
「でも…。」
「ホントにしょうがない男だな…静かにせんかっ!」
 東風の後ろから見知らぬ婆さんが湯のみを飲みながら乱馬を一喝した。
「おたおた慌てても、しょうがないだろうが。男ならもっと自分を見据えてどっしりなさいっ!そうでないと、大物にはなれんぞっ!」
 乱馬は変な婆さんだなと一瞥したが、張り合ってもしようがねえとそれ以上相手にはならなかった。
「とにかく、詳しいことは、あかねちゃんの口から聞きなさい。それが一番いいよ。僕等がとやかく言うよりその方が…あかねちゃんは2階の病室に寝かせてあるから…そっと行くんだよ…。わかった?」
 言葉が終わるか終わらないかのうちに乱馬はもう、その場を立ち去っていた。
「やれやれ、先が思いやられる旦那さまよなあ…。若い若い。」
 婆さんの言葉に同調して、東風はしょうがないなあというような表情で義弟を見送った。

 接骨医院の2階は病室になっていて、東風先生の患者が時々厄介になっている。木造の階段を一気に駆け上がると、灯かりが付いた病室に目が行く。乱馬はその前で一度立ち止まった。
 乱馬は心配の余りに、やもすると血の気が引いて行きそうなのを感じていたが、ドアの前で一つ深呼吸をすると、意を決したようにドアをそっと開いた。

「あかね…。」
 病室では静かにあかねが横たわっていた。
 そっと名前を呼び掛ける乱馬の声に、あかねは目を開いた。
「乱馬?」
 ドアから覗く懐かしい夫の姿にホッとした表情を浮かべて、返事の代わりに笑顔を返した。
「なんだよ…どうしたんだ?台所でヘマでもやったのか?階段ですッ転んで足でもくじいたのか?おまえはホントにドジなんだから…。」
 乱馬は早口で問い掛ける。
「違うわよ…ちょっと体調が悪くて家でうずくまっていたら、かすみお姉ちゃんに引っ張って来られただけよ…。」
 あかねはゆっくりと乱馬を見据えながら答えた。
「風邪でもひいたのか?」
 あかねの額にそっと手をやりながら乱馬は心配そうに覗きこむ。
「一応、心配してくれるんだね…。」
 あかねはふっと言いながら笑った。
「バカっ!あたりめえだろ…。妻の身体を心配しねえ夫が何処にいるんだよ…。」
 語尾は少しテレが入っていたのか、小声になって聞き取り辛かった。
「留守中、音信一つくれなかったくせに…。」
 恨めしそうな不平の言葉があかねの口を流れ始める。
「こうやって帰って来たんだからごちゃごちゃ文句言うなよ…。」
 あかねにそう言われると身も蓋もない乱馬だった。
「ちょっと熱っぽいな…過労か?何か俺の留守中に悪いもんでも食ったか?それとも無理したのか?」
「ううん…全然。」
 素っ気無くあかねは答える。
「なら、人騒がせなことするなよな…ウチでは父さんたちが大騒ぎしてたぞ。」
 乱馬は少し怒ったように顔を叛けた。安堵した顔をあかねに見られるのが少し気恥ずかしかったからだ。
「少しはいたわってくれたっていいじゃないの…乱馬のバカ…。」
 口を尖らせたあかねの言葉には返答しないで、
「ほら、これ…。」
と、乱馬は懐からキレイな紙に包まれた物をあかねにさっと差し出した。淡いピンク色のリボンがそれらしくかけられている。
「何?これ…。」
「開けてみな…。」
 あかねは乱馬に促がされて、そっとリボンを解くとゆっくりと包みを開いた。
「アルバム?」
 そこには小さなアルバムが一つ入っていた。
「今日が何の日かよもや忘れた訳じゃああるまいな?」
 乱馬は鼻先を突付きながらあかねに問い掛ける。
「忘れるわけないでしょ…。その言葉そっくりあんたに返してあげる…。ずっと今日までほっておかれたんだから、私…。」
 あかねは少し膨れっ面になった。抗議の一つでも言わないと収まりがつかなくなっていた。
「じゃあ、今日は?なんの日だよ…わかるか?」
「結婚記念日…。」
「おー、ちゃんと覚えてたかあ。」
 乱馬は楽しそうに笑いかける。
「もう、茶化さないでよ!ばかあっ!!」
 雲行きが少々あやしくなって来た。
「茶化してないって…からかっただけだよ…。」
「それって、一緒の意味じゃない…もう。でも、ありがとう。ちゃんと覚えていてくれて。」
「バーカ。忘れるかよ…。それよか、一年目の結婚記念日ってなんて呼ぶか知ってるか?」
「え?」
「その分じゃあ知らねえだろ…。『紙婚式』って言うんだってよ。」
「『紙婚式』?…」
「そう、『Paper Wedding』って呼ぶんだってよ…。」
「なんであんたがそんなこと知ってるのよ?誰かに教えてもらったわけ?」
「…いいじゃねえか…別にかすみさんに訊いたって。」
 …なんだ、かすみおねえちゃんか…
 そうやって、頭を掻きながら答える乱馬の様子がおかしくて、ついつい噴出してしまいそうになるあかねだった。かすみから、前もって何やら簡単な入れ知恵でもされたのだろう。
「『紙婚式』だから紙で作ったもの…おまえと結ばれて一年目だから…これを…おまえに…。」
 途切れ途切れにここまで言うと、乱馬は真っ赤になって俯いた。どうやら精一杯のプレゼントだったらしい。
「乱馬…。ありがとう。」
 あかねは不器用な優しさに包まれて、心がや和んでいくのを感じていた。こんな優しさを目の当りにされたら、尋常ではいられない。涙腺も弛んでゆく。
「何泣いてるんだよ…こら。」
 乱馬は不思議そうにそんなあかねの顔を覗きこむ。口先では相変わらず「可愛くねえ」を連発してはいるものの、ホントは他の誰よりも、何よりも大切にしたいと思っていた。目の前で泣かれたら、どうしていいものやら、結婚した今でも困惑して狼狽してしまう。



「ねえ…乱馬。あたしからもプレゼントがあるんだけど。」
 あかねは一息吐くと、涙を拭いながら話し掛けた。そして、乱馬の右手をそっと自分の手に重ねた。
「あのネ…」
 あかねは頬を染めながら、こそっと乱馬に囁いた。
「ヘっ?」
 乱馬の表情が戸惑いから驚愕へと変化する。
「おまえ…今、なんて言った?」
「だから…乱馬とあたしの子供が、ここに宿ったって言ったのよ。」
 あかねは握った乱馬の手を自分のお腹の上にそっとのせて囁いた。
 柔らかな沈黙が二人を包む。幸せが二人の上を躍動し始める。
 乱馬は飛びあがりそうになる衝動を押さえながら、小さな命が宿ったというあかねのお腹をそっと上から撫でてみた。 
「おまえ、ひょっとして、体調の不調の原因って…これだったのか?」
 乱馬の言葉にあかねはコクンと首を垂れた。
「うん。つわりだったみたい…さっき、お姉ちゃん達や私を取り上げてくれた産婆さんに診察してもらったの…。子供が出きると風邪に似た症状を引き起こすことがあるんだって。微熱が続いていたのもそのせいだって…」
 乱馬はさっき診察室に東風と一緒にいた、変な婆さんを思い出した。
 …そっか…あの婆さん、産婆さんだったのか…
 今頃、妙に納得してみるのだった。
「なあ、あかね、おまえずっと微熱を抱えて我慢してたのか?ひょっとして、俺が修行に旅立つ前から我慢してたとか…。」
「うん、心配かけたくなかったし…。」
「バカっ!大概にしろよ…」
「ゴメンね…。」
 そう言いながら乱馬を見詰めるあかねの微笑みは、母の輝きを解き放ち始めていた。そんな笑顔が乱馬には眩しく神々しく見えた。と同時に愛しさが込み上げてくる。
「ここには、俺とおまえの幸せの結晶が宿っているんだな…」 
「ん…幸せが一粒…ね。このアルバム、これから役に立つわね…。」
 あかねは嬉しそうに微笑んだ。
「おまえ一人の身体じゃないんだから、ここに宿った俺たちの命のためにも、これからは身の回りに気をつけろよ。」
「そんなに心配なら、あたしをこんなに長い間一人にしないでよ…。ね。」
「わかったよ。…相変わらずシツコイなあ…。おまえは。」
 乱馬はそう言うと、そっと抱き寄せ、両手であかねをすっぽり包んだ。
 留守中、ずっと恋焦がれていた、乱馬の暖かな温もりの中で、あかねは長い安堵の溜息を吐いた。そして、そっと息を吸い込むと、乱馬の優しい匂いが心地よく薫る。
 ずっとそのまま抱きしめられていたい…そう思った。
 あかねの幸せは、乱馬の胸の中に溢れている。
「ねえ、ずっと傍にいてくれる…?」
 胸から少し顔を上げるとイタズラっぽくあかねは乱馬を見上げた。
「バカ…離さねえってずっと前から言ってるだろ…。」
 
  静かに目を閉じて誓いの唇を重ねようとした瞬間…

「乱馬っ!あかねっ!おめでとうっ!!!」
と怒声が飛び交う。

 病室のドアが開け放たれ、天道早雲、パンダ、八宝斎、なびき、のどか、かすみ、東風と天道家の縁者が次々と病室へなだれ込む。爆竹が勢いよく鳴り響き、紙吹雪までひらめく。
 二人は身を寄せ合いながら、もみくちゃにされる…祝福の嵐が荒れ狂い始める。
 …折角、良いところだったのに…
 …まっ、いいか…
 二人の愛の高まりは、溜息と歓声とともに消え果てて、喧騒の中に飲み込まれ同化してゆく。

 あかねは体内の小さな命が、もみくちゃにされながら、乱馬とともに一瞬躍動したように思った。
 乱馬とあかね。二人の幸せの形は、その喧騒を子守唄がわりに母の泉の中で生まれ出づる日を待ち侘びるのだろう。
 二人の結びし契りの記憶の炎をその遺伝子の中に深く揺らめかせながら…。愛しきものと何処かで回り逢い、恋いに悩み、心を焦がし、いつか結ぶ幸せを夢みて。








一之瀬的戯言
 恵理さんへのHP開設のお祝いに・・
 リクエストは「7年後の二人」だったのですが、「5年後の二人」のストーリーに落ちつきました。「Paper Weddinng」をテーマにストーリーを描いてみたかったので…。
ところが、プロットの不備がわかり、「呪泉洞」独立とともにチェックしたプロットで6年後に変更します…。(いい加減なんだから)

 「紙婚式」とは結婚一年目のメモリアルのことです。この後、「綿婚式」「革婚式」「花婚式」「木婚式」…と続いて行きます。有名なのは25年目の「銀婚式」と50年目の「金婚式」かな?
 命が宿った時、母親は一時期、体温が高くなり、風邪に似た症状をあらわすことが知られています。丁度そのころ「つわり」が起こります。
 「つわり」は通常、5ヶ月ごろの安定期に入ると引いてしまいますが、稀に生まれるまで続くことも…旦那さまが優しければ優しいほど、つわりがキツいとかいうジンクスもあるそうですが、真意の程は不明です…。精神的な素養が影響していると一般的には言われています。
 「つわり」は生まれてくる子供によっても程度や状態が違います。私も上と下の子供では全然違いました。
 また、妊娠中は、何故か、思わぬ物が食べたくなったり逆に受けつけなくなったりします。私の場合、ひろ兄のときは「いよ柑」が、よっちゃんのとき「納豆」がお気に入りでよく食べてました。「納豆」については、それまでは苦手で全然食べられなかったんですけどね。以後、全然平気に食べられるようになったという摩訶不思議。
 また、つわりの時期には、コマーシャル見ているだけで「うっ!」となっていたこともあります。歯磨き粉やご飯炊ける匂いが全面的にダメだったこともあります…今もって何故かは謎のままです…

 この後、私の組んだプロットでは、二人には男の子と女の子の双子が生まれることになっています。


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