◆PURENESS LOVE
一、
夏の残り火が揺らめく夕暮れ時、青年は後ろを振り返りながら一息を吐いた。
「この辺でいいか…。」
そう言いながら背負ってきた大きなリュックを無造作に下ろした。
早乙女乱馬。二十七歳。
額から滴り落ちる汗を拭う手は、鍛え抜かれた筋肉で盛りあがる。後ろに垂れるおさげは相変わらずであったが、体つきはますます精悍になり、声も幾分、野太くなっていた。
後ろを振り返ると、彼の愛妻と子供たちがほっとした表情でこちらを見上げる。
「そうね、ちょうど、涌き水もあるし、泊まるにはもってこいの場所かもしれないわね。」
すぐ後ろを歩いていたあかねも、彼の声に同調して答えた。
早乙女あかね。27歳。
ショートへヤーはそのままに、夫と出会った頃と左程変わりない雰囲気を保っていた。
『俺は絶対、短い方が好…きだ…。』
遠い過去に乱馬に言われた言葉通り、あかねはずっと短い髪のまま過ごしていた。心なしか、乱馬と過ごした月日の分だけ、性格は丸みを帯びてきていたものの、相変わらず犬ころも食わないような痴話喧嘩を仕掛けてしまう。気の強さは大人になった今も変わっていない。
でも、乱馬はそんなあかねを心から愛し、大切にしているのは一目瞭然だった。
「ねえ、今日はここでお泊まりするの?」
「テントの中で寝るの?」
あかねの傍らには幼い兄と妹。好奇心の塊となって、目を輝かせながら無邪気に話し掛けてくる。
早乙女龍馬(りゅうま)と早乙女未来(みく)。
乱馬とあかねの「愛の結晶」、男の子と女の子の双子であった。
双子と言っても、二卵性双生児である。顔つきはそれぞれ、男の子は乱馬に、女の子はあかねに何処となく似通っていた。現在4歳である。
当然のことながら、一人でも大変な子育ては、いっぺんに二人分。人並み以上に不器用だったあかねには、目まぐるしい、息吐く暇もない子育てだったことは想像に難くない。その上。天道家は元よりの大家族。父、義父母、八宝斎の八人家族。義母、のどかの助けがなかったら、到底子育ても満足ままならぬ状態だったかもしれない。
やっと、二人が幼稚園に上がった。現在年少組。この春あたりからあかねの子育てにも少し余裕が出だしたところであった。
『ここいらで、山にでも篭って、本格的に、この三代目達の修行を始めようか…』こんな乱馬の提案に乗じて、夏休み終わり間近の八月の終わりに家族で山へ入ったのだった。
「さあ、日が暮れないうちに、やっちまおうぜ。」
乱馬の指示に、あかねと子供たちも慣れない手つきでテントを広げ、夕食の準備に取りかかった。乱馬は定期的に身体を鍛えると言っては山へ篭るので、野宿も平気であったが、妻子がいるとなると勝手は少し違ってくる。戸惑いや面倒臭さもあったが、それはそれで楽しい空間には違いがなかった。
子供たちも始めての体験に、疲れることを忘れて、夢中で手伝いをする。
そんな様子を見て、微笑みながらあかねはご飯の準備にかかる。
あかねは乱馬と結婚してから、料理の腕を上げていた。正確には「子供たちを身篭ったころから」と表現した方が妥当かもしれない。相変わらず、包丁さばきなど、手つきは不器用で、見てくれは必ずしも良いとは評価できなかったが、味の方は普通になっていた。あの、脅威的な味オンチは形(なり)を潜めた。子供を身篭った頃の、そう、つわりの影響がよい方に転んだらしく、味覚がマトモに作用しはじめたのである。子供を産んで、味覚が変わることは、時々ある事例らしい。夫の乱馬にとってはありがたい「出産の副産物」であった。
食事が終わると、テントに入る。
テレビも電灯もないナチュラルな空間は、子供たちにとって、少し不安をかきたてるらしく、とくに戸籍上では「兄」の龍馬は、母親の手を離そうとしなかった。
「もう、龍馬は意気地がないんだから…。」
あかねは苦笑しながらぼやいてみた。
先にぐっすりと一人寝入ってしまった「妹」の未来と比較して、時々不安になることがある。心配性な母親だった。
「大丈夫だよ…。多少、親離れが悪くても、俺の血を引いてるんだから…。」
あかねはぎゅっと握られていた龍馬の手をそっと離した。
「同じように生まれたのに、未来の方が、ずっとしっかりしているのよねえ。」
と困惑したように溜息を吐く。
「女の子は男親に、男の子は女親に似るって昔から言うもんなあ…。おまえの泣き虫なところが龍馬に出ちまったのかもよ…。」
乱馬はそう言いながら笑った。
「何よ…ばか…。」
あかねは少し拗ねてみた。
「冗談だよ…。なあに心配するなって。男の子の方が、女の子より情緒的にも精神的にも成長が少し遅いんだよ…。もう少し時が経てば龍馬も逞しくなるさ。」
「でも…。」
「とにかく、男なんていうものは、守りたい者が出来たとき、それまで以上に強く成長するんだよ。俺だって、おまえと出会ってからぐんぐん強くなったじゃねえか…。」
乱馬は身を投げ出して、あかねの傍にゴロンと横になった。
「乱馬にとって、私は『守りたい者』だったワケ?」
あかねが乱馬を覗き込みながら尋ねる。
「バカ…ったりめえだろ…。」
そう言いながら太い腕が伸びてきて、あかねは身体ごと引き寄せられた。
「とにかく心配ねえよ…。あんまり心配性だと老けるのも早いぞ…。」
そう言いながら、乱馬は抱き寄せたあかねの額に軽くキスをした。
二、
翌朝から子供たちへの特訓が始まった。
龍馬も未来もおしめが取れた頃から、ひととおり武道は始めていた。今では一角の武道家として地位を築き始めていた父親の乱馬と、乱馬にはかなわないまでも、これまた強さでは並ではない母親のあかね。そして、彼らの父親たちとその師匠。五人もの武道家に囲まれて育った家の子らだ。無差別格闘流の大事な三代目たち。基本はしっかりと叩き込まれていた。
「それ、腰をもっと落せっ!小手先で拳を打ってちゃダメだ。」
「そらっ、もっと強く突き出せっ。空気を切るような気持ちで。」
乱馬は大声で子供たちを牽制する。小さな身体に着込んだ道着。二人とも父と同じように「おさげ」を後ろに垂らしていた。
乱馬は子供たちから見ても、信頼の置ける頼もしい父親だった。年月の流れは乱馬を武道家の厳しさと優しさを併せ持った父親に成長させていた。幼い頃実母と引き離され、父親の玄馬と二人で修行三昧を重ねた日々。16歳で再会を果たすまで、母親の温もりを知らずに来た。そんな経緯も影響したのだろうか。彼は自らの父親と同じ道、父子で荒修行の旅に寝起きするという生活、は選び取らなかった。同じく、無差別格闘流の後継者の一人でもあったあかねと、二人三脚で子供たちを育てることに徹したのだ。
「ほらっ!ダメだダメだっ!もっと思い切り良く身体を動かせっ!…そうだ、やればできるじゃあねえか。」
乱馬は叱咤激励する。そんな夫と子供たちを見て、微笑みながら食卓の準備をするあかねだった。
朝稽古を終えると朝ご飯。そして、朝ご飯の後は、修行も兼ねて、食料の調達に入る。山での修行の食料は現地調達が基本だからと、乱馬は子供たちに知恵を教える。
乱馬はまず、近くのせせらぎへと子供たちを連れていった。
「見ておけよ…。」
昨夜のうちに沈めておいたペットボトルの仕掛けを引き上げに掛かる。
「わあ…お魚、お魚っ!」
「お父さん、すごいすごいっ。」
龍馬も未来も仕掛けに入っていた魚を見てはしゃいだ。
「なあ、山ん中は自然の恵みでいっぱいだろ?魚も植物も一所懸命に生きているんだ。そのおこぼれを俺たちはいただくんだ。しっかりと味わって感謝しながら食べなきゃだめだぞ。」
魚を引き上げながら乱馬は子供たちを諭してゆく。
魚の捕まえ方、木の実の採り方、燃料にする枯れ枝の選び方。火をおこすことすらも知らなかった幼い子供たちにとって、初めての山での修行は小さな驚きと感動の連続であった。そして、それらを難なくこなす父親に、ますます尊敬の念を抱くのであった。
幸せそうな時間が山の親子に流れていた。
しかし、それから間も無く、思いがけないことがこの親子の上に襲いかかったのだった。
少し油断した隙に、龍馬が見えなくなってしまったのだ。
「お父さん、お兄ちゃんが居なくなったよ…。」
木の実を拾っていた乱馬の元へ、未来が心配そうに報告に来た。
「ん?」
「さっきね、あっちの方へ行ったきり、戻ってこないの…どうしよう…。」
そう言いながら未来は森の奥のほうを指差した。
「りゅうま…りゅうーまぁーっ!!」
大声で呼んでみたが返答はなかった。
「おまえまで迷子になると行けないから、いったんお母さんのところへ戻ろう。」
乱馬は冷静に判断すると、未来の手を引いて、テントのところに戻った。
「どうしたの?血相変えて…。」
あかねが怪訝に問い返すと、
「どうやら、龍馬が迷っちまったらしい…。」
「えっ!!」
あかねは包丁を落し掛ける。包丁はすんでのところであかねの足には当たらずに地面にカランと音をたてながら転げ落ちた。
「あ、こら、気をつけろよ…。」
目を白黒させながら乱馬が答えた。
「大丈夫。ちゃんと俺が探し出して来てやるから心配すんなっ!」
「もうじき日暮よ…こんな森の中で迷ったらあの子…。」
あかねはオロオロし始めた。
「猛獣が居る山中じゃあなし…大丈夫だよ。それよか、しっかり未来を見てやってくれよ。二人も迷子になられたんじゃあ、たまんねえからな。いいな。後は俺に任せとけ。」
そう言って乱馬は未来が指差した方角に向かって走り始めた。
「お兄ちゃん大丈夫かなあ…。」
未来が心配そうに呟くのを見て、自分がしっかりしなければと思い、あかねは
「大丈夫。お父さんに任せておけば…すぐにでも帰ってくるわ。」
しかしながら龍馬はなかなか見つからなかったのである…。
一方、迷ってしまった龍馬。
彼は、未来と木の実を取るうちに、女の子のすすり泣く声を耳にして、つい、そっちの方へと足を向けてしまったのだった。迷子事件の発端はここにあった。
…泣いているのは誰だろう…
恐怖心よりも好奇心が勝った龍馬は、珍しく物怖じせずに、すすり泣く声がする方に向かって歩き出したのである。
「ねえ、お兄ちゃん、勝手にそっちへ行ったら迷子になるよ…ねえ…」
妹の未来が後ろで叫んだが、龍馬はそれを無視して、すすり泣きの流れる方へと歩み寄った。
生い茂る木の枝をなぎ払い、茂みを抜けると、そこには自分と同じくらいの年恰好の女の子が一人、ベソをかきながらうずくまっていた。
「ねえ、どうしたの?」
龍馬は女の子に向かって声をかけた。
女の子はビクッとした表情で、龍馬を見上げた。
「お、お父さんと、は、はぐれちゃったの…。」
女の子は声を掛けてきたのが自分と同じくらいの男の子だと知ると、少しホッとした様子で、しゃくりあげながらもしっかりとした口調で答えた。
「お父さんとここまで来たの?」
「うん…お父さんとお母さんの三人でここまできたのに…お父さんたら何処かへ行っちゃって…若菜ひとりきりになったの…。」
そう言い終わると、また少女は目を擦りながら泣き始めた。
少女は長い髪を後ろに垂れ、頭に黄色い縞模様のバンダナを巻いていた。ズボンをはいて、紺色のブタの絵が入ったシャツを着ている。
少し離れたところで不思議な生き物を見つめるように、龍馬はしばらく立ち尽くしていたが、少女が一向に泣き止まないので、傍まで歩み寄った。
「泣いてたってしょうがねえよ…。なあ、泣き止みなよ…。なんなら俺も一緒におまえの父ちゃん探してやるからさあ…。」
そう言ってなだめ透かしにかかった。
「ホント?若菜のお父さん、探してくれるの?」
少女は涙目を擦りながら、龍馬の方を見やった。
うん…だからさあ、元気出しなって…。」
後ろから覗き込んだ龍馬に少女はニッコリと微笑んだ。
…か、かわいい…
幼心に、龍馬は一瞬、心を時めかせた。
三、
「さあ、父ちゃん、探そうか…。一体どこではぐれたんだ?」
「多分、あっち…。」
適当に指差された方角へ、龍馬は共に歩き始めた。
「ねえ、あなた、なんていう名前なの?」
泣き止んだ女の子は、恥ずかしげに問いかけてきた。
「龍馬(りゅうま)、早乙女龍馬って言うんだよ…。おめえは、若菜だったよな?」
「うん。若菜(わかな)、響若菜。」
「ひびきわかな…か、いい名前だな…。」
龍馬はそう言って顔を火照らせた。
こうして、当人達の思惑とは裏腹に、龍馬と若菜はどんどん森の中を迷ってしまうことになったのだった。
「りゅうまあー、どこへ行ったんだぁ?龍馬ぁーっ。」
叫びながら乱馬は龍馬を探して森をさ迷ったが、一向に気配すら汲み取ることが出来なかった
…ひょっとして、全然見当違いの方向へ行っちまったかな…空模様も怪しいし…一回、あかねのところに戻ろう…
そう思いなおすと、乱馬は元来た道を辿り始めた。
乱馬の危惧するとおリ、空はもくもくと入道雲をたたえ始め、半時間も経てば、雷雨が襲ってくるに違いないと思ったのだ。
足早に駆け抜けていると、突然足元の地面が割れた。
「わっ!!」
咄嗟に乱馬は後ろに跳ね除け、地面の崩落から身を守った。地面はみるみる盛りあがり、一人の男が目前に現れた。
「わ、わかなぁーっ!!何処へ行ったんだあっ?若菜ぁーっ!!」
聞き覚えのある声と見覚えのあるバンダナを頭に巻いた男。
「りょ、良牙じゃねえか?」
乱馬はおそるおそる背後から男に声を掛けた。
「その声は…乱馬。乱馬か?」
「やっぱり…おめえ、良牙じゃあねえか…久しぶりだな…。」
「お、俺は、俺って奴は、迷って練馬近くにまで来てしまったのか?」
良牙は頭を抱えながら地面に這い付くばった。
「違うよ…俺たちは山に来たんだ。まあ、こんなところでおめえと会うなんて思わなかったけどな…何やってんだ?こんなところで。わかな…とか言ってたな…新しい彼女か?」
「馬鹿ッ!俺の子だっ!」
良牙はすっくと立ち上がって乱馬を見返した。
「子供?ってことは、おめえも結婚したんだな…相手は誰だ?」
「ああ。おまえが要領かましてあわ良くあかねさんを己の物にしてからな…あかりさんと結婚したんだよ…。」
「何が、要領かましてあわ良く…だ。俺たちは元々許婚だったんだから、ちゃんとした鞘におさまっただけだよ。おめえにとやかく言われる筋合いはねえ…。」
乱馬はぷんと言い放った。
「なあ、そんなことより、四歳くらいの女の子見なかったか?髪が長い俺に似たかわいい女の子だよ。」
「見てねえなあ…実は俺も自分の子供を捜してんだよ。こっちは男の子だ。見掛けなかったか?」
「知らん…会ってねえ…。」
そこへ、ポツリと雨が来た。
「おっと降り出しやがった。こうしちゃあいられねえ…。」
乱馬が顔を上げたとき、良牙は豚に変身を遂げていた。
「おめえ、まだ変身体質ひきずったまんまかよ…。とにかくそのまま居るわけにもいかねえだろ。一緒に来いっ!」
乱馬は良牙の洋服とリュックをつかむとPちゃんになった良牙を抱えて走り出した。
本降りになる前に、なんとかテントに辿りつく。
「乱馬。見つかった?」
あかねは心配げに出てきた。
「いいや…雨が上がったらもう一回探す。それよか、湯あるか?」
「今、沸したのがあるけど…。」
「ちょっと貰うぜっ。」
そう言ってやかんを取ると、テントの裏手に言ってPちゃんにかけた。みるみる男に戻る良牙。
「まあ、まずはテントに入れよ。また、豚になるのもイヤだろ?」
そう言って半ば強引に乱馬は良牙をテントにつれ込んだ。
「良牙くん…。」
突然現れた良牙にあかねは驚いた。一体、何年ぶりだろう。
「このおじさん、だあれ?」
未来があかねの裾を引っ張りながら良牙を見詰めた。
「お父さんの親友よ…。」
あかねはそう言って未来に微笑みかけた。
良牙の話しに寄れば、あかりとペットの勝錦とで、家族旅行がてらに、この山へ入って来て、親子離れ離れになったそうだ。あかりと勝錦は一緒にいるので左程心配はしていないが、娘は…
良牙は話しながらオロオロしていた。
「良牙くんも大変ねえ…実はウチの息子も迷ってるみたいなの…」
あかねはお茶を勧めながら良牙に話しかけた。
「ねえ、ひょっとしたら、お兄ちゃん、オジちゃんの子供と一緒にいるかもしれないよ…。」
未来が呟くように言った。
「それ、どういう意味だ?未来。」
「あのね、お兄ちゃんが迷ったのは、女の子の泣き声に誘われたからなの。お兄ちゃん泣き声の方へ近寄って行って見えなくなっちゃったの…。」
「な、なにぃーっ!!それは本当かっ!」
良牙が乗り出す。
「オジちゃん、こ、怖い…。」
「くぉら、良牙、未来を脅かすなよ。怖がってんじゃあねえか。」
「す、すまん。そうか、乱馬んとこの息子と一緒なら、ますます不安だ…。」
「おい、それ、どういう意味だよ…。龍馬と一緒なら、少しは安心出来るんじゃあねえか。一人より二人の方がこの雨を凌ぐのも知恵を出し合うだろうし…。」
「だって、おまえの、女垂らしのおまえの息子だろ…今頃若菜は…。」
乱馬は軽いドツキを良牙に食らわした。
「人聞きの悪いこと言うなよっ!誰が女垂らしだ。誰が…。」
乱馬が良牙に苦情を言おうとすると、未来が不思議に思ったのか、返す口であかねに意味を問い掛ける。
「ねえ、お母さん、女垂らしって何?」
「そんな言葉、未来はまだ知らなくってもいいの…。」
あかねは苦笑しながら未来の好奇心を押し込めた。
「とにかく、雨が上がったら一緒に探しに出よう…。いいな?」
乱馬は良牙をなだめた。雨はバラバラとテントの上を流れてゆく。じりじりしながら親たちは我が子の身を案じながら、落ち着かぬ時を過ごした。
四、
その頃、龍馬と若菜は。
通り雨と落雷を避けるために、丁度いい具合に見つけた洞穴の中に入っていた。こういう、修行にうってつけの山中には、昔から修験者が居たらしく、小さな祠のような洞穴が鬱蒼とした中に佇んでいた。中は二メートルくらいの小さな空洞だったが雨風を凌ぐのにはうってつけの場所だった。注連縄が張られ、それとなく近寄りがたい雰囲気があって、最初その中に身を入れるのは躊躇されたが、雷の轟音には勝てずに、二人で並んでちょこんと入っていった。
まだ、四歳やそこらの子供には、雷が聞こえてくるだけでも大変だったが、小さな肩を寄せ合いながら、じっと耐えていた。
それでも、若菜は怖いらしく、雷光が走る度に、身を固く縮める。
「大丈夫だよ…そんなに怖がらなくても…。」
怖いのを我慢しながら、龍馬が話し掛ける。いつもの彼なら、母の胸の中に飛び込んで、真っ先に泣き喚いているところだが、今日は若菜という女の子と一緒なのでぐっと歯を食いしばっていた。彼なりに、若菜を怖がらせてはいけないと一所懸命だったのだ。傍にいるのが妹の未来ならば、こんなに無理することもなかったろう。
「龍馬くん、怖くないの?」
若菜は小さな目をしばたかせて、訊いてくる。
「怖くなんかねえよ…。」
龍馬は精一杯の虚勢を張って答えた。この辺りは父親の乱馬譲りだろう。しかし不思議なもので、あんなに怖かった雷が若菜の存在のおかげで本当に怖くなくなりつつあった。
子供心にも、若菜を守ってやろうという気持ちが働いてきたのだ。
…俺がしっかりしなきゃあ…
歯を食いしばって恐怖でドキドキ波打つ心臓を耐え凌いだ。
何時の間にか雨は上がった。
「もう大丈夫だよ…。平気だったろ?」
龍馬はまだ身体を固くして寄りかかっている若菜に優しく声をかけた。
「うん…でも、お父さん見つかるかなぁ?」
若菜は心細さに満ちた目をしていた。
「ねえ。ひょっとしてお腹減ってる?」
唐突に龍馬は若菜に問い返す。
「朝から、何も食べてない…。」
若菜は力なく返事をする。
「なら…。」
そう言うと、龍馬は辺りを見まわした。
いい塩梅に木苺がたわわにぶら下がっている小枝を見つけた。
「ちょっと待ってな。」
そう言うと、ひょいひょいと茂みに分け入って、木苺を摘み始めた。
「ほらっ。食ってみなよ…うめえぞ。」
龍馬はそう言って、若菜に差し出した。始めはもじもじしていた若菜だったが、龍馬が美味しそうに頬張るのを見て、自分も一つ口に含んだ。
「おいしい…。」
若菜から笑顔が零れ落ちる。
「なあ。お腹減ってるとどんどん考えが暗くなるんだって。前に父ちゃんが言ってた。だから、そんな時は少しでもお腹に食べ物を入れておいた方がいいんだって。山は自然の恵みがいっぱいだから、それを食べるといいんだよ。」
そう言いながらニッコリ笑った。
「わたし、こんなの初めてよ…。おいしいね。」
若菜は頬張りながら言葉を返した。
「待ってな。もっと取ってやるから。」
そう言って龍馬は木苺をたくさん摘み始めた。若菜は下で待ちながらしきりに龍馬を見上げていた。
「あっ!」
バランスを崩して、少し高いところから龍馬が落下した。
ドスン…
「龍馬くん…。」
若菜は悲鳴を上げながら駈け寄ってきた。
「大丈夫?」
「いててて…ドジっちゃった。でも、大丈夫。ホラ平気。」
そう言って龍馬はにっと笑った。
「でも、腕から血が…。」
「大丈夫だって…このくらい…。」
これもいつのも龍馬なら、泣きじゃくって母親の元へ駆けこんで大騒ぎになるのだが、女の子の手前、無様なところは見せられないと、じっと伝わってくる痛みを耐えた。
「ちゃんと手当てしとかなくっちゃ…。」
若菜は頭のバンダナをするりと取ると、龍馬の腕に包帯替りに巻きつけた。
「いいよ…汚れちまうよ…。」
龍馬はそれを制しにかかったが、若菜は
「ダメよ。ばい菌が入っちゃう…。バンダナならいいの。お父さん、たくさん持ってるから…。」
そう言って、お構いなしに腕に結わえ付けた。
「ありがと…。」
龍馬はドキドキしながら、若菜の方をちらりと見やった。
…やっぱり、こいつ、かわいいや…。
若菜の方も、龍馬を意識していた。この同じ年の割りにはしっかりした男の子に、頼り甲斐みたいなものを感じ始めていた。
お互い、こんな気持ちは初めてだった。これが「恋」だということを知るには、二人はまだ幼すぎた。
結び終わったら、落した木苺を拾い集めて、並んで座って一緒に食べた。
食べたら俄然、元気が涌いてきた。
「なあ、まだ歩けるか?疲れてないか?」
龍馬がそう問いかけると、
「うん、大丈夫。」
そう言って若菜はにっこり笑った。
「きっと父さん心配してるなあ…。」
ガザガザガザ…
と、傍の茂みが鳴った。
「いやんっ!」
若菜は何時の間にか、すっかり龍馬を頼りきっており、今度は何の躊躇もなくしっかりとその腕にしがみ付いていた。
五、
「おうっ!居た居たっ。良牙っ!二人一緒にいたぜっ!!」
茂みからにゅっと乱馬が顔を出した。
「と、父ちゃんっ!!」
龍馬は懐かしい父親の顔を見つけると、ぱあっと顔が明るくなった。
「わかなーっ!無事だったかっ!!若菜ぁっ!!」
乱馬の後ろから良牙が顔を出した。
「お父さんっ!!」
若菜は龍馬の傍を離れると一目散に、父親の腕に飛び込んだ。そして、緊張が弛んだのだろう。息せき切ってわあわあ泣き始めた。
「わかなぁ…こいつぅー心配したんだぞ…。」
良牙までおいおい泣いていた。
「あーあ、昔とちっとも変わっとらんなあ…こいつは…。」
腕を後ろに組みながら乱馬は苦笑した。そして、我が子の方へと目を落した。
「どうだった?森の中は?」
乱馬の問いに
「全然…平気だったよ。」
龍馬はキュッと口を結んで、父親の問い掛けに答えた。
いつもなら、開口一番、泣きながらしがみ付いてくる息子が至って平穏を装おうとするのを乱馬は微笑みながら覗きこむ。
「ん?どうしたんだ?その腕。」
バンダナが不器用に巻かれた腕を見つけて乱馬が問うと
「なんでもないよ…ちょっと血が出たからってあの子が巻いてくれただけだよ…。」
そう言って、龍馬はぷいと横を向いてしまった。
…ははーん…
乱馬は息子の反応が面白くて、つい、笑みがこぼれそうになったが、息子の手前ぐっと堪えた。
「龍馬くん…ありがとう。」
落ちついたのか、若菜はそう言って、礼を述べた。
「一件落着かあ…さあ、テントまで戻ろうぜ。母さんが心配してるぞ。」
そう言いながら、乱馬は先を立って歩き出した。
「ホントに良かったわね。二人とも無事で。」
あかねは笑顔でそう言いながら、四人を出迎えた。
「あなた達が探しに行っている間に、あかりちゃんと勝錦が心配して迎えに来たのよ。」
あかりが勝錦の上からコクリと頭を垂れた。
「久しぶりだなあ…あかりちゃん。良牙の奴、相変わらず方向音痴が治ってねえから、心配が付きねえな。」
「うるせーっ!」
「幸せそうで何よりだぜ。でも、どうやってここがわかったんだ?」
乱馬の問いに
「勝錦は最近、鼻が利くんです…。」
あかりは小さく答えた。
「あ…。匂いを辿って来たワケね。」
あかねと乱馬は首を並べて納得した。
「久しぶりに会ったんだ。ゆっくりして行けよ。おめえもテントくらい持ってるんだろ?」
良牙の家族と一緒に一晩、夜営を張ることになった。
子供たちは三人ですっかり打ち解けたようで、仲良く石けりなどをして遊んでいた。
「若菜ちゃん…だっけ、どっちかというと母さんのあかりちゃんに似てるかなあ?でも、良く見ると良牙にも似てるなあ…。八重歯がある…。」
乱馬は感心したように目を細めた。
「おまえの息子も乱馬、おまえそっくりだな。もう、人の子に唾つけてやがる。」
良牙は少しむくれたように返事を返す。
「はは。まあ、そう言うなって。おまえの娘だって龍馬のこと気に入ってるみたいじゃん。」
「だからって、許婚にはせんぞ…。」
「アホ…。何言ってんだよこいつ…。」
「絶対、嫁にはやらんからな…。」
「おまえ、娘に首っ丈だな…先が思いやられるぜ…。」
そんな会話を交わしながら旧友と杯を重ねてゆく。
幸せな家庭が二つ。星空の下、火を囲んで、笑い声がこだましながら更けてゆく。
六、
「ねえ、乱馬、ちょっとだけ龍馬、変わったわね…。」
良牙夫婦も別のテントに寝静まった夜更け、あかねはふっと傍らの乱馬に話しかけた。
久々に友と語り合って重ねた杯に酔いしれて、乱馬は少し赤らんだ顔をあかねに向けてくる。
「おまえにも分ったか?」
少し酒混じりの甘い息を吐きかけながら、乱馬はあかねに言葉を返した。
「ん…。なんとなくね…。」
「逞しくなったろ?違うか?」
「そうね…。どうして?」
「少しだけ、龍馬が成長したんだよ。あいつも、男っだてワケさ。」
乱馬は愉快そうに笑った。
「何よそれ…。」
あかねが半身を起こして怪訝な顔で問い掛ける。
「守りたいって思ったんだよ。龍馬の奴。」
乱馬は肘に頭を乗せたままニッと微笑んだ。
「守りたいって?誰を?」
「おまえ相変わらず鈍いなあ…。その、良牙んちの若菜ちゃんだよ…。」
乱馬はあかねの鼻っ柱を正面から突いてみた。
「えっ…。まさか…。」
あかねは乱馬の口走った言葉に少し驚いて見せた。
「おいおい、マザコンを出しちゃあいけないよ。あかねちゃん。」
乱馬は少しいたぶったようにあかねに言い放った。
「もう、乱馬ったら何を…。」
確かにショックだったかもしれない。でもそんなあからさまに言うなんて…あかねは少し反撃に出た。
「山ん中ぐるぐると、若菜ちゃんと一緒に迷っているうちに、守ってやらなきゃってあいつなりに真剣に思ったんだろうな。」
くくくっと乱馬は愉快そうに笑った。
「まだ四歳よ。龍馬は。」
あかねは軽く言い放った。
「だから、言ったろ?男は守りたいって思える奴に出会ったら強くなるんだよ…。年齢には関係ねえよ。」
「龍馬も?」
「ああ…。小さな恋ってやつだよ。この恋の行き先は当人たちにしかわからねえだろうけど…さ。」
「恋ねえ…。まだ早いわよ。」
あまりに真顔に乱馬が言うのであかねはくすっと笑った。
「まだ早いか…だけど…この恋がこれからどう変わっていくかは、あいつ次第だな…。」
乱馬は身体を起こしてあかねに向き直って座った。
「まあ、龍馬当人は恋なんててんで意識してねえだろうけどな…。」
「それだけ、ピュアネスな恋なのかしらね…。」
あかねが目の前で微笑む。
「ピュアネス…そうかもな。見なよ、龍馬の奴、若菜ちゃんのバンダナ、怪我した腕からほどこうとしねえもんな…。」
乱馬は傍で眠る龍馬を指差しながら笑った。
「ホント…。幸せそうに微笑んじゃって…龍馬ったら。」
あかねもつられて覗き込んだ。未来が寝返りを打って、あかねの傍に来た。その寝顔を覗いて感慨深げにあかねが呟く。
「ねえ、未来もいつかは恋するのね。」
「ああ、未来だっていつかは恋をするだろうな。そうして大人になってゆくんだよ。俺たちみたいに。」
「初恋は実らないって言うけどね…。」
あかねは溜息を吐きながら付け加えた。
「そんなことねえよ…。」
乱馬はすぐさまあかねを否定しにかかった。
乱馬の声が一際甲高かったので、あかねはハッとして乱馬を見詰め返した。すると、乱馬の腕がまっすぐに伸びてきて、あかねの肩に掛かった。驚いたあかねが言葉を返す間も無く、乱馬は端正な顔をあかねに近づける。
そして、
「俺の初恋はちゃんと叶ったからな…。」
耳元でそう囁くと、あかねを抱きしめた。
「ねえ、乱馬の初恋って、私だったの?」
あかねはくすっと乱馬の腕の中で悪戯っぽく笑った。
「ああ、今でも存分に初恋中さ。悪いかっ!」
勢い良くそう言い切ると、乱馬は静かにあかねと唇を重ねた。
乱馬とあかね。
PURENESS LOVE。
いつまでも、どこまでも…。何年過ぎようとも…。
完
一之瀬的戯言
この小説に出てきた、乱馬とあかねの子供たちの名前「龍馬(りゅうま)」と「未来(みく)」そして、良牙とあかりの子供の名前「若菜(わかな)」はいわきりえさんの命名です。投稿に際してわざわざお願いしてつけていただいた名前です。
以後、未来編を綴る時は、折に触れ、この三人の名前を使わせていただいております。
何作かあるうちの未来編。その最初に位置付けられる創作物として印象が深い一作です。
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