◇眠れない夜(乱馬編)


 どこからともなく差し込んで来る隙間風が、本格的な冬の到来を予感させる晩秋の闇夜。健やかな眠りを揺るがす気の乱れに俺はふと目覚めた。
 …ちぇっ!今日もかよ…
 俺は不機嫌に薄目を開いた。
 隣に横たわるあかねが深い溜息をついて、枕元のスタンドのスイッチを入れた。薄ぼんやりと広がるオレンジ色の光の輪。
 彼女は今夜も目覚めたようだ。己の中に何かを持て余し、思い悩んでいる有様は明確だった。人に弱みを絶対に見せたがらない性質のあかね。彼女は心に何かを貯め込むと、逆に、それが糸を引いて、頑として本音を明かさない。
 ここ、一ヶ月ほどの環境の変化は、彼女の肉体だけでなく、心までも絞めつけているのだろうか。
 彼女の身体の中には、新しい生命の息吹が宿っている。それがわかって一ヶ月ばかり。
 待望の子供の誕生とあって、父親の俺はともかく、親父やオフクロたちのはしゃぎ様は尋常ではない。まだまだ、産み月はずっと先の来春だというのに、やれ名前はどうの、やれ服の支度はどうの、と周りはとても口さがしい。その上、あかねには腫れ物に触るように気を遣う。そんな家族たちのお節介にあかね自身も辟易としているらしく、彼女の困惑気味が傍目の俺にはありありとわかるのだ。
 おまけに、この前、久々に高校の同級生達と寄りあったことが、あかねを更に物思いに耽らせる原因になったようだ。
 あいつのことだ。きっと、友人達の豹変ぶりやしっかりした考え方に、自分を重ねて思い悩んでしまったのだろう。
 俺は身体が半分女だったこともあったが、心まで女になり下がっていた訳ではない。だから、微妙な女心はわからない。が、最近のあかねを見ていると、「何か」に追いたてられて苦しんでいるのだけは良くわかる。あかねの不眠症はきっとそんなところに起因しているに違いない。
 …俺が傍らに居るのに…おまえは、決して、中途半端じゃないのに…。
 俺の存在すら忘れてしまったかのように、夜毎繰り返される溜息の連続。
 下手に気を遣わせるのも嫌だから、俺は素知らぬ振りをして、狸寝入りを決め込んでいる。だが、その実、俺の神経はあかね以上に研ぎ澄まされている。自分の半身が苦しんいるような感触が、安穏とした眠りに落ちるのを拒むのである。
 俺までもがこうして、不眠に悩まされている事実を彼女は気付いていないだろう。
 最近、まともに寝ていないから、頑強な俺だって昼間辛いことがある。眠気が襲ってきて、道場で汗をかいていても、動きに精細さがない。俺がこんな調子だから、お腹に子供を抱えているあかねは尚更辛いだろう。つわりだって日毎に激しくなって、ご飯一つまともに食べていない様子だから。
 彼女のガラスの心は、いつまで悲鳴を上げ続けるのだろうか?
 散々考えた揚句、俺はある結論に達した。
 …そう、このままじゃいけない。
 …はからずしも俺は彼女の夫だ。
 俺は意を決すると、瞑っていた目を開けた。
 
 あかねは眠れぬ身体を持て余しているらしく、何度も何度も寝返りを打つ。
 上を向いていたあかねの身体が、何度目かに反対側に回ったとき、俺は息を潜めたまま、静かにあかねの方へ目を向けた。
 じっと見詰めるあかねの背中は蒲団に包まれていても、どこか寂しげで苦しげだった。気の乱れがそのまま俺に差し迫ってくる。
 …独りで何をそんなに持て余しているんだよ、あかね…
 孤独な背中に向かって、言葉を投げかけてみる。
 俺はじっとあかねの背中を蒲団越しに眺めた。
 また、溜息が小さく洩れて、彼女がこちらへ寝返ったとき、視線が鉢合わせになった。彼女は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐさま視線を反らせた。
「ごめん…起しちゃった?」
 彼女は、俯いて、すまなさそうに呟いた。
 その時の俺は、きっと苦虫を噛み潰したような険しい表情を浮かべていたに違いない。彼女は身を竦めて、また溜息を吐いた。
「おまえなあ…ちゃんと寝ないと、そのうち身体壊しちまうぜ…。ここんところ、ずっと夜中に目覚めては、まともに眠れてないだろ…?」
 終ぞ俺は、彼女の不眠について咎めた。
「え…?」
 あかねは意外そうに声を出した。
「たく…。夜毎、おまえが目を覚ましてしてんの、俺が知らねえとでも思ってんのか?」
「で、でも…。」
 躊躇するあかねに俺は更に畳み掛ける。
「これでも俺は格闘家の端くれだぜ。気の乱れでそれくらいわからあ。」
 そう言いながら俺はあかねをじっと覗き込んだ。
「何一人で考え込んでるんだよ…。この前、大介たちと会ってからおかしいぜ、溜息ばっかり吐きやがって。俺がいつでも傍に居るのによ…。」
 責めるつもりはなかったが、俺の口調はきつくなる。
 見詰めるあかねの目から涙の雫が流れそうになった。
 それを見られまいと思ったのだろう。あかねは慌てて寝返ろうとした。逃げに入った彼女を逃すまじと俺は力ずくで抑えこんだ。
 ここで彼女を逃してしまったら、もっと悩んで俺に絶対心を開こうとはしなくなるだろう。彼女との長い付き合いの中で、その性分は見極めているつもりだ。
 抑えた肩をそのままぐいっと自分の方へ引き寄せた。
「泣くことねえだろ…バカ…。」
 俺は溜まらずに言葉を吐いて、そっと人差指で頬を伝う涙をなぞってみた。
 居た堪れなくなったのか、彼女は卑下しながら弱音を吐き出した。
「そうよ…どうせあたしはバカよ!」
 耳元で彼女の弱音が鳴り響く。強がっているつもりでも、どこか果かなげで寂しげで…。強気の言葉とは裏腹な、彼女の心の奥を覗いたような気がした。
 …あかね。
 次の瞬間、心の底から、どうしようもないほどの愛しさが込み上げてきた。
 あかねは構わず卑下した言葉を羅列させる。

「どうせあたしは乱馬が言うように…バカで不器用で寸胴でおっちょこちょいでがさつで可愛くなくて…。」

 次の瞬間、俺は、夢中で彼女の柔らかなピンクの唇に自分の唇を押し当てていた。

   わかってるんだ、そんなこと。
   だからほっておけねえんだよ。
   おまえの口から吐き出される弱音はそれ以上聞きたくない。
   もっと素直に甘えろよ…。
   弱気に挫けるおまえも、俺は、堪らなく愛しいんだ。
   その繊細な心の痛みをもっと俺にぶつけたらいい。
   バカ…。

 激情が瞬時に俺の身体を駆け抜けてゆく。
 これが、恋焦がれるというものなのだろうか…。
 いつまでも、自分のところに留めておきたい愛しさ。愛らしさ。
 長い接吻の後、あかねは借りてきた猫のように、大人しくなった。
「おまえはそのくらいで丁度いいんだよ…。そんなに卑屈になるなよ…足りない部分は、俺が補ってやるから…。」
 俺はとうとうと彼女に語り掛けた。
「いいじゃねえか…。俺が足りないところはおまえが補ってくれればいい。おまえが足りないところは俺が補ってやる…。一人一人なら不完全な男と女でも、二人になれば変われるんだぜ…。それが夫婦っていうもんだろ?違うか?」
「人はそれぞれ自分の領分を持ってるんだ。おまえにはちゃんとこれから大切な命を育んでいくという大切な役割があるんだぜ…。人間は一人で生まれてきて一人で死んでゆくんだ…。でも、その間に自分の半身を探して見つけて、ちゃんと後世に二人で育んだ愛の記憶を残すっていう大事な役目がある。俺たちが死に絶えた後でも、その記憶は子孫達の遺伝子の中に残されて行くんだぜ…。」
「おまえは俺の大切な半身だからな…。おまえの悩みも苦しみも俺のそれに等しいんだ…。だから、独りで悩むなよ…バカ…。」
 静かに俺の長い言葉に耳を傾けていたあかねは、身を屈めて身体を寄せてきた。
 柔らかいあかねの髪が、頬に触れる。身体の温もりが心地良く、広がる。
 俺はそっと二の腕であかねの身体を包み込むように引き寄せた。本当は思いきり抱きしめてやりたかったけど、壊してしまいそうだから、やめた。駄々っ子をあやすように、柔らかく胸に抱きながら、ゆっくりと背中を撫でる。
 あかねは安心したのだろう。俺の腕の中で、深い眠りに落ちてゆく。
 やがて、穏やかな寝息が規則的に響き始める。
「ホントにしょうのねえ奴だな…。バカ…。いつだって俺はおまえの傍にいるんだから…。もう独りで悩むんじゃあねえぞ…。」
 俺は寝入ってしまったあかねにそっと語り掛ける。
「俺の胸の中で安心しておやすみ…。俺の大切なあかね…。おバカさん・・。」
 そう呟いて、寝入ってしまったあかねの額にそっとキスをした。

   この温もりは、ずっと離さない。
   いつだって傍にいるからな…。

俺は息を吐き出すと、ゆっくりと目を閉じた。
そして、あかねを腕に抱いたまま、緩やかに降りてきた眠りの淵に身を任せた。








一之瀬的戯言
事実は小説より悲惨也…

風邪気味だった霜月某日。
夜中にトイレに立った私は、冷えた身体を持て余し、隣に寝ていた旦那の蒲団に潜り込んだ。
血行が悪い私は、足が一度冷えると、なかなか寝つけない。そんな時は、隣の旦那の蒲団に足を突っ込んで暖をとる。
その日も、足を入れたが、それでも眠れない。
寝返ってきた旦那がそんな私を腕枕してくれた。身を寄せてみると、身体中がほこほこと旦那の体温で暖かい。
したり…と私はそこで安眠を貪る。
心地良い温もりは、冷えた身体には最適だった。
しかし…。
ぬくぬくとした幸せは、突然、終焉を迎えた。
明け方、旦那の肘鉄が、思いっきり私の額に入ったのだ。至近距離から打ち出された肘鉄の痛さは想像に堅くないだろう。
私は余りの痛さに飛び上がった。
横で私が狼狽するのを発見した旦那は寝ぼけていて、ことの仔細が飲み込めていないらしく、傍に私がいるのを不思議そうに一瞥すると、「まだ、朝ちゃうやろ…おやすみ。」と言い残し、またぞろ眠りに落ちて行った。
取り残された私は、寂しく旦那の蒲団からはみ出し、また、一人、自分の蒲団へと帰っていた。一人身の蒲団は冷たいので、仕方なく、足だけ旦那の蒲団に突っ込んではいたが…。情けない心情に駆られたのは言うまでもない。
おでこは肘鉄のせいで物凄く痛かった。次の日見たら、少しはれていたが、幸い誰にも気付かれなかった。

やっぱり、夜中に旦那の寝床へ潜り込むのは止めにしよう…!
そう心に誓った。


(c)Copyright 2000-2005 Ichinose Keiko All rights reserved.
全ての画像、文献の無断転出転載は禁止いたします。