◇眠れない夜(あかね編)


 夜半に目覚めた。

 辺りは暗闇…。
 光一つない夜の闇。不安に苛まれて、私は手元のスタンドに手を伸ばした。
 スイッチを何度か切り替えると、ナイトランプの不安げな光が点灯する。
 少しだけホッとして、また蒲団を手繰って潜り込む。
 秋の夜の帳はどことなく寂しげで物悲しい。
 
 許婚だった乱馬と結ばれて一年と少しが過ぎた。
 この間、私は夢中で過ごしてきたような気がする。最愛の人の為に頑張って家事をこなす。もともと器用な性質ではないので今でも失敗ばかりやらかしている。そんな私を乱馬もその母親ののどかさんも私を暖かく見守ってくれている。
 この前、クラスメイト数人に会ってこの方、ちょっと考え込んでしまうことが多くなった。
 ゆかもさゆりもミオも自立した女性になっている。一緒に進学した短大を出てから就職を選んだゆかはアパレル関係の会社でバリバリと働いている。さゆりは4年制の大学へ編入しなおした。現在3回生。ミオは占いを極める為にと大学へ進学して占いの研究に没頭しているらしい。大介とひろしも大学生だ。
 私はというと…短大を出て、腰掛けで一年間だけ社会の水に馴染んだだけだ。途中、修行と称して放浪していた許婚の乱馬が帰って来て結婚した。会社を家庭に入るという理由で円満退社してからは、ずっと、オサンドンに明け暮れる生活。
 今の平穏な生活に別段、不平や不満がある訳ではない。
 でも、何の変哲もなく繰り返される単調な生活の繰り返し…。

 …このまま一生終わるのかな…

 そう、そんな憔悴が各方面で活躍する友人達を見ているうちに私の上に急に覆い被さってきた。
 主婦の生活ほど気楽なものはないと世間では言うけれども、なかなかどうして。家庭に奥深く入り込んでしまうと、世の中の流れから取り残されたような寂しさが込み上げてくる。

 …母さんもこんなこと考えてたのかしら…

 天上を静かに見上げながら、亡くなった母親への想いを募らせてみる。

 私を不安に陥れるもの正体…それは多分「マタニティーブルー」。
 小さな命の炎が、身体の奥に燃え始め、私はその責任感の重圧に息苦しくなっているのかもしれない。精神的に不安定な日々が続いている。
 こんなふうに中途半端で母親として通用するのだろうか。「妻」という役割だけでも重圧な私なのに。
 掃除機ひとつ、包丁ひとつ握る手が覚束(おぼつか)ない。
 唯一気が晴れる時間は、道場で組み手をする時や庭先で瓦を思い切り叩き割ることだった。
 自信のあった格闘も、子供を身篭って以来、許可してもらえない。安定期に入るまでは自重しろと周りはいつも腫れ物を触るように私を扱う。それはそれで気に掛けてもらえるだけ有り難いとは思うのだけれど…。私には逆に圧力となって迫ってくる。
 道場脇からいつも見詰める乱馬の動き。だんだん私から掛け離れてゆくほど俊敏で力強い。変身体質が解けてからでも、女だった時の身体の記憶がどこかに染み付いているのだろうか。彼の動きは女性のしなやかさが何処かに如実に現れている。惚れ惚れするような肉体の躍動。そして、流れるような拳。一流の武道家として活躍する彼の自信に満ち溢れるパワーとスピード…。もう、どこから取っ組み合っても彼には勝つことなど叶わないだろう。
 …それに比べて私は、結局何をやっても中途半端で…。
 そうやって自問自答を夜毎繰り返す。

 ナイトランプの明かりは薄ぼんやリと暗く、余計に孤独をかき立てる。不安げな橙色の灯下の中に感じる真っ暗な闇。静まり返った部屋。
 私はぼんやりと天井の板目を数えながら、ほっと溜息を吐いてみた。
 傍らでは、乱馬の健やかな寝息。
 私は乱馬の方を振り返らずに、反対側へ寝返りを打った。
 眠ろうと試みて頭からすっぽりと掛け蒲団を被り目を閉じる。
 身体は吐かれている筈なのに、神経だけは研ぎ澄まされたように昂ぶっている。昨日はそのまま夜明けを向かえた…。
 じっと蒲団の中に横たわり目を閉じているだけで身体の七割方は休まっているのだと言う。でも、眠れないで悶々と過ごす時間は思った以上に辛いものだ。
 
 眠りの淵がいつまでたっても降りて来ないので思い余った私は、再び寝返りを打って驚いた。寝返った先で、私をつぶさに見詰める二つの瞳にぶつかったからだ。

「ごめん…起しちゃった…?」
 私はバツが悪そうに話し掛けた。
 私がそう話し掛けると、彼は一瞬、眉間に皺を寄せた。
 少し間を置いてからゆっくりと答えが返ってきた。
「おまえなあ…ちゃんと寝ないと、そのうち身体壊しちまうぜ…・。ここんところ、ずっと夜中に目覚めては、まともに眠れてないんだろ…?」 
「え…?」
 私は乱馬の答えに驚きの声を発した。
 まるで私がいつもこのくらいの時間に目覚めることを知っているような口ぶりだったからだ。
「たく…。夜毎、おまえが目を覚ましてしてんの、俺が知らねえとでも思ってんのか?」
「で、でも…。」
 「これでも俺は格闘家の端くれだぜ。気の乱れでそれくらいわからあ。」
 憮然とした表情を見せて、彼は私をじっと見据えた。
「何一人で考え込んでるんだよ…。この前、大介たちと会ってからおかしいぜ、溜息ばっかり吐きやがって。俺がいつでも傍に居るのによ…。」
 彼はちゃんと知っていたらしい。私の不眠症。
 私は参ってしまった。そんふうに声を掛けられたら、自分が保てなくなる。
 身を乗り出してきた乱馬の顔をじっと見詰め返したら、思わず涙が溢れてきた。
 弱気の自分を見られたくない。慌てて寝返ろうとした途端、力強い右手で肩をくいっと抑えつけられた。
 それ以上身体を動かすことが出来なくなってうろたえる。
 乱馬は構わずに動きが止まった私をそのままぐいっと自分の方へ引き寄せた。
「泣くことねえだろ…バカ…。」
 彼はそう呟くように吐き捨てると、私の瞳から零れ落ちた涙の雫をそっと指で拭う。
 その優しさが堪らなくなった私は天邪鬼(あまのじゃく)になる。本当は甘えたいくせに…素直になれない意固地なところは昔のまま。
「そうよ…どうせあたしはバカよ!」
 これ見よがしに私は駄々っ子になって、ずっと昔に彼が私に向かって言い放っていた悪態を一気に吐き出してみた…。
 どうせあたしは乱馬が言うように…バカで不器用で寸胴でおっちょこちょいでがさつで可愛くなくて…。」
 その時だった。無理矢理彼の柔らかい唇で口を塞がれた。
 母屋の外を木枯らしが通り過ぎたのか、窓ガラスがカタカタと揺れる音が耳元で響いた。
 長い沈黙が二人を支配した後、彼はゆっくりと唇を離した。
「おまえはそのくらいで丁度いいんだよ…。そんなに卑屈になるなよ…足りない部分は、俺が補ってやるから…。」
 私は静かに語り掛けてくる乱馬をじっと見詰めた。
「いいじゃねえか…。俺が足りないところはおまえが補ってくれればいい。おまえが足りないところは俺が補ってやる…。一人一人なら不完全な男と女でも、二人になれば変われるんだぜ…。それが夫婦っていうもんだろ?違うか?」 
 乱馬は真剣な表情で私を見据えた。乱馬が哲学めいたことを口にするのは珍しいことだ。私は身じろきもせずに彼の言葉に聞き入った。
「人はそれぞれ自分の領分を持ってるんだ。おまえにはちゃんとこれから大切な命を育んでいくという大切な役割があるんだぜ…。人間は一人で生まれてきて一人で死んでゆくんだ…。でも、その間に自分の半身を探して見つけて、ちゃんと後世に二人で育んだ愛の記憶を残すっていう大事な役目がある。俺たちが死に絶えた後でも、その記憶は子孫達の遺伝子の中に残されて行くんだぜ…。」
 確かに彼の言うとおりなのだろう。英語に「BETTER HALF」という表現がある。彼の半身が私なら、私の半身は乱馬なのだろう…。
 「古事記」の国産みの神話にも「あが身は成り成るて成り合はざる処(ところ)一処(ひとところ)あり」と女神イザナミが言い放つ言葉に反応して、男神イザナギが「あが身は、成り成りて成り余れる処一処あり。」と迎合して、みとのまぐはひするという下りがあることを私はふと思い出した。このような神話にも描かれた男女の生業(なりわい)。
 きっと私に流れる血の中にも古代から脈々と波打った男女の愛の営みの記憶が連なっているのだろう。父や母から受け継がれた遺伝子の中に…。

「おまえは俺の大切な半身だからな…。おまえの悩みも苦しみも俺のそれに等しいんだ…。だから、独りで悩むなよ…バカ…。」
 乱馬はバカを連呼するけれど、その中に溢れるほどの優しさがこめられていることを私は知っている。だから、彼の広い腕の中は私の安息の地だ。私は大切な半身もある彼にそのまま全身全霊を預けた。彼の鼓動は母の腕に包まれるより、深く柔らかく心地良かった。寄せては引いてゆく波のように穏やかで温かい。
 身を竦めて身体を寄せると、それに応えるように乱馬は私をそっと抱きしめてくれた。
 私は彼の腕にしっかりと抱(いだ)かれながら、穏和な眠りの淵へと落ちていった。
「安心しておやすみ…。俺の大切なおバカさん…。」
 乱馬の優しい声が、耳元へ響いてきたような気がした。

 次の日から私はピッタリと「不眠症」に悩まされることはなくなった。
 時々、乱馬の腕の温もりが心地良過ぎて寝坊してしまうのが悩みの種になってしまったが…。








一之瀬的戯言
みとのまぐはひ(みとの交わい)=現代語に直訳すると「成婚」かな…。

…はっきり言って、自分のことを描いている部分があったりして…。


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