◆雨に歌えば・・・


 さっきまで射していた薄日がいつの間にか雲間に消えた。どんどん暗くなって生温かい風が渡ってゆく。
 雨が嫌いになったのは呪泉郷で娘溺泉に溺れてからだ。
 濡れちまうと有無も云わずに女になっちまう。この不都合な身体を引きずるようになってから俺は雨が嫌いだ。

 低い雨雲が垂れ込んでくると、思わず溜息が出ちまう。雨音を想像すると、それだけで身体が縮んだような気になる。
 縁側で修行の後の火照った身体を玩ばせながら、ふと目を投じる。滴り落ちる汗は額を流れる。
 かすみさんが天気が陰ってきたのを受けて、大慌てで干していた蒲団を叩き出す音がした。

 パンパンパンパン・・・。
 
 暫くして、軒先で蛙が一匹鳴き出した。

 ケロケロケロ・・・。

 まるでかすみさんの蒲団叩きの音に反応しているみたいに、一所懸命鳴いている。
 俺は身を乗り出して声の方を探ると、いたいた。一匹のアマガエル。
 
 かすみさんのパンパンと蛙のケロケロ。
 まるで競争しているみたいだ。
 この蛙、勝気なんだな・・・。
 「勝気」という言葉を頭に描いてふと思い出した。ふくれた横顔、挑発的な大きな瞳。

・・・あかね・・・。

 つんと鼻につく雨の匂い。乾いた土を雨垂れが湿らせ始める。

・・・遂に降ってきやがった・・・

 瞬く間に本降りになる。
 そう激しい雨ではなかったが、しとしと後を絶たずに水は落ちてくる。
 かすみさんはどうやら間に合ったようだ。もうパンパンは聞こえない。
 でも。勝気な蛙は嬉しそうに空を見上げてケロケロを続ける。彼の前に、もう一匹。恋でも囁いているのか、それとも喧嘩を売っているのか。

 そういえば・・・。あかね。友達と寄り道しているんだっけ・・・。クラスメイトと帰りがけに買い物してくるって言ってたな。学校の帰り道の商店街。
 あいつの事だから、ぐしょ濡れになるだろう。

・・・ちぇっ!だから傘持ってけって言ったのに。変な意地張るから・・・。

 あかねは下校のとき、雨が降るかもしれねえって忠告した俺を無視して、行っちまいやがった。俺の傘じゃあ嫌だっていうのはわかるんだが、あからさまに「いいよ。」って断りやがった。
 まあ、あのとき、周りにはたくさんの同級生達がいたから素直になれなかったんだろうけれど。
 今頃はきっと困ってるんだろうな・・・。

 俺は舌打ちして縁側から身体を起こした。タオルでもう一度丁寧に汗を拭うと、傍に畳んであった服に袖を通す。
 そして、玄関へ立つ。

「どっか行くの?」
 なびきが二階の踊り場からひょいと覗き込んで声をかけてきた。
「ちょっとな・・・。」
 俺が答えると
「ふーん。雨の中、わざわざ何処へ行くのかな?」
 と含み笑いをして問いかけてくる。
 ほっといてくれって言いたかったが、俺は無視した。なびきには下手に絡むと何を言われるかわかったもんじゃねえ。
 傘立てから二本取ろうとして、止めた。
 なびきの好奇の目が俺を追っているような気がしたから。
 俺はわざと一本のちょっと大き目の蝙蝠傘を手に取ると、引き戸を開けて外へと抜け出た。
「いってきまーす。」
 気のない素振りで言葉を投げ捨てると、ポンっと傘を開いた。

 パラパラと傘に雨が当って弾ける音がする。
 道行く人も車もずぶ濡れに濡れていて、世界が違って見えてくる。
 俺は足を急がせながら、商店街の方へと歩いた。緑が雨に打たれて輝いている。

・・・前は雨だって嫌いじゃなかったのに・・・

 俺は無限に落ちてくる水滴に向ってほうっと息を吐き出した。
 傍を塾通いの小学生たちがわっと走り抜ける。水しぶきを避けながら俺はそれを遥かに見送る。
 変身さえしなければ、雨に打たれて歩くのも悪くはないのに・・・。
 
 商店街の外れで、俺は見覚えのある影を見つける。俺は急いでいた歩みを緩める。
 彼女は軒の外れで雨宿りしながら佇んでいた。
 雨が途切れる時を待っているのだろうか。じっと空を見詰めている。彼女の溜息を傍で聴いたような錯覚を覚えた。友人達とはとっくに別れたのだろう。今は一人だった。
 このまま俺が来なければ、半時間も待てずに、雨に打たれてずぶ濡れで帰ってくるに違いない。
 雨の糸の向こうのあかね。
 頼りなさげな顔を上に向けている。

 ふと彼女の視線が俺を捕らえた。
 びっくりしたような顔を向ける。その顔が愛しくて、俺は思わず微笑んじまった。
 緊張していた彼女の顔もとろけるように和らいだ。
「乱馬・・・。」
 遥かに名前を呼んで微笑む。
 その曇りなき瞳に胸の鼓動は高まりはじめる。熱くなる心と身体。
 雨の向こうのあかねの笑顔。俺の大事な宝物。
「帰るぞ・・・。」
 その笑顔を傍に引き寄せたくて、俺はあかねに傘を差しかけた。

 やっぱり雨は嫌いだけれど、こういうのも悪くはない。
 そっとあかねの顔を見下ろしながら、二人で一本の傘に身を寄せて歩き出す。
 静かな囁きとあかねの微笑みと。
 雨は傘の上を弾けながら歌い出す。ささやかな恋の歌を。








TOP小説六月編の没バージョン。
珍しく散文的かもしれません・・・


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